鍋谷城(なべたにじょう)

 場所  広島県広島市安佐北区白木町井原
 標高  317m
 比高  150m
 城主  井原氏 
 別名  鍋谷山城


 (余湖さんのHPより引用)

ひろしま昔探検ネットより

まずは全景

  
麓に車を置くスペースがあります            茶屋屋敷跡って?

  

迎賓館みたいなものですね

  

中世の小豪族の居城跡  いまでは全くの他人が住んでいます

  

この石垣が小豪族でも経済規模が違うことを    館あとからみた田園風景
物語っています

  いよいよ突入していきます

  

  馬場跡(広くはない)

  

 畝数およそ三畝程あとある 広さはこの城で一番広い 出陣の時の場所か?

  

  どのようなところか不明です

  

  

涼み堂の由来(滝があり夏に涼みに来た)     ここは歴代当主の墓があった場所(昔はこのような石の囲いが墓であった)
                              墓石は無かった その代りに木を植えていた(毛利元就も吉川元春も同様の墓です)


ここからが城の郭群
  

                                上の方まで竪堀が続いています

  

第一郭三の段   第一郭をさらに3つに区切っている

  ため池:水の確保する為にため池を作った(復元してほしい)

  

第一郭一の段   一番山頂部

  

矢竹もしっかりあります                 土塁もある(土盛りしたものではない)山を削ったもの
(わざわざ植えた)

  第一郭の三段を囲むようにあり

 看板まであり整備されております(地元の方の整備)

  

第二郭                           ふんばり岩といい井原元尚が弓の武芸に励んだ岩

  山頂から見た井原の田園風景(このあたりは支城が点在してます)

  

第二郭から下の第三郭を望む             第三郭 (広くはない)

  

第四郭 (井戸郭)                     井戸の場所は敵からの攻撃を防ぐために郭としている(水の手郭)

  

水は枯れていました                   石組のきれいな井戸跡です(現在5,5mまで埋まっているが当時は11mあった)
                               今は水がないが当時は2mくらい水があった、1770年頃もまだ水はあった
  
   第四郭からみた第一郭
 

概要
L字型の1郭から西に向けて大小四つの郭を階段に並べている。郭の随所に石垣がみられるほか、石組による井戸跡
建物を築いたと考えられる巨石群もある、また、搦め手も当たる1郭の東側には、二か所の小郭と三条の堀切を配置している
なお、「国郡志下調高田郡辻書出帳」に本城の縄張りについての記載があるのは注目される。
城主は、井原小四郎元尚と伝えられる。

広島県教育委員会『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用



国郡志下調高田郡辻書出帳(文政3年1820年)芸藩通誌編纂のための下書き帳

鍋谷城
城主井原小四郎殿と申し伝え候。毛利元就公吉田に御在城の砌(みぎり)と御座候哉や、御滅亡の御代(長州転勤)
相知れ申さず、小四郎殿は強弓を引かれ候その弓は厳島に納め申し候の由、申し伝え御座候。

井1つ(井戸) 深さは当時6間1尺(約11m)水たまり7、8尺(2,1〜2,4m)差渡(井戸の直系)5尺(1,5m)
         井側(井戸の側)焼き物と存ぜられ候

躍之段(躍の段)   畝数おおよそ3畝程

馬稽古場(馬場跡) 長さおおよそ40間(72m)

休息所(涼み堂)  畝数おおよそ1反
右城の麓に寺通りと申す所に城主の墓御座候 おおよそ50年以前(1770年頃)萩より御参詣御座候、 
御道勢30〜40人のよし老人共うわさつかまつり候、また、墓所おくに田数々御座候
その内一町肥いれず(肥いれずの田)に作りつかまつり候、今にこの田へは肥入れず申さず候

井原(いばら)
三篠川上流の河谷に位置する。
地名の由来は、もと三田郷井村の内とし、「後分かちて、終に古名を訛て井原とよびにや」とする。(芸藩通志) また、鍋谷城に居住した井原小四郎にちなむとも。(国郡志書出帳) 井原村は、平安期からの村名で、安芸国高田郡三田郷のうち。もと厳島社領であった。江戸期からは広島藩領。明治9年に、村内にあった古屋村・市川村の飛地を編入。昭和24年に市川村大寺地区を編入、昭和31年に白木町となる。

井原氏
藤原氏を祖とする。足利尊氏よりこの地(井原の庄)を賜り、それ以降井原氏を名乗る。
6代元師は毛利元就の妹を室とした。また、10代元尚は輝元の命で広島城築城にたずさわる。関が原敗戦後、毛利家長州移封に従い、長州の三丘(三尾)に移る。
高氏が足利尊氏の命を受けて、井原に来住したのが建武3年(1334)の頃と思われる彼らが井原に鍋谷城を築いて、何代かは井原高を名乗ったがその後は高をとり井原とした、来住の年月日ははっきりとはしないが彼の二従兄弟の国司氏が吉田町国司に来住した年月日がはっきりしているので建武3年とした。
以来10代凡そ250年間城主として井原を支配してきた。その最後の当主が井原小四郎元尚で、毛利の配下の武将として各地を特に毛利氏が四国に遠征した際、賀島で強弓の誉れ高く、敵味方にその名を轟かせた。この時に使用した弓は厳島神社に奉納されているという。



家系図

       (初代)
高師重・・・井原高氏教・・・井原高重宗・・・井原高在教・・・井原高光高・・・井原高豊有・・・井原高元造・・・井原高元師
                                                                  ・
                                                                  ・・・・・・・・・・井原高元造
                                                                  ・
                                                             ・・・・・・竹子
                                                             ・
                                                   毛利弘元・・・・・・・・毛利元就
 

井原高元造・・・・・・井原元良・・・・・井原元尚(弓の名人)
                    ・
                    ・・井原元以

井原元良?〜1602
小六 弾正忠 彦右衛門
妻 口羽通良女  後妻 末兼隆忠女

井原元尚小四郎 
刑部大輔 
四郎兵衛毛利家が萩に移動したときに一緒に行き防州三尾を賜る 以来在地名を取って三尾と名乗る
安芸の毛利家の家臣。高田郡井原村の国人であったが、祖父の元造から毛利氏に従うようになった。
城番などをつとめた後、天正時代には周防国に2千3百石を与えられている。二宮辰就と一緒に広島城の普請をする(壕普請担当)弓矢の名手

井原元以
小六 大学 四郎右衛門 加賀守 弾正忠始めは元茂 又は元智
寛永19年(1642年)亡くなる

天正19年(1591年)時点の井原家の知行高 

井原元良 332.839 総石高
208.184 周防 熊毛
100.075 石見 邑知
16.08 安芸 高田
8.5 安芸 山県
井原元尚 2235.883 総石高
1915.867 周防 熊毛
320.016 長門 美祢
井原元以 905.028 総石高
704.835 備後 世良
100.016 備後 恵蘇
100.17 石見 邑知

萩に移ってからの知行高

萩(長州)藩家臣 (数字の単位は石高)
萩藩主 萩毛利氏 369411
末家 長府毛利氏 83011 22.5% 一門 宍戸氏 11329 3.1% 准一門 益田氏 12063 3.3%
徳山毛利氏 40010 10.8% 天野(右田毛利)氏 16023 4.3% 福原氏 11314 3.1%
清末毛利氏 10000 2.7% 末次(厚狭毛利)氏 8371 2.3% 合計 23377 6.3%
岩国吉川氏 60001 16.2% 吉敷毛利氏 10855 2.9%
一族合計 193022 52.3% 繁沢(阿川毛利)氏 7391 2.0%
吉見(大野毛利)氏 8618 2.3%
一門合計 62587 16.9%
寄組
1 堅田氏 6126 1.7% 29 益田氏 1067 0.3% 57 村上氏 327 0.1%
2 国司氏 5600 1.5% 30 福原氏 1065 0.3% 58 毛利氏 300 0.1%
3 粟屋氏 4915 1.3% 31 宍戸氏 1063 0.3% 59 草刈氏 269 0.1%
4 山内氏 4905 1.3% 32 高須氏 1019 0.3% 60 飯田氏 250 0.1%
5 益田氏 4906 1.3% 33 口羽氏 1018 0.3% 上級家臣合計 74681 20.2%
6 佐世氏 3997 1.1% 34 椙杜氏 1013 0.3%
7 清水氏 3710 1.0% 35 山内氏 1004 0.3%
8 梨羽氏 3218 0.9% 36 尼子(佐々木)氏 1003 0.3%
9 児玉氏 3084 0.8% 37 熊谷氏 1000 0.3%
10 志道氏、 3000 0.8% 38 和智氏 845 0.2%
11 柳沢氏 2803 0.8% 39 山田氏 829 0.2%
12 浦氏 2721 0.7% 40 井原氏 786 0.2%
13 桂氏 2584 0.7% 41 口羽氏 720 0.2%
14 児玉氏 2243 0.6% 42 粟屋氏 691 0.2%
15 宅間(榎本)氏 2234 0.6% 43 児玉氏 683 0.2%
16 国司氏 2115 0.6% 44 宍戸氏 680 0.2%
17 井原氏 2102 0.6% 45 土屋氏 663 0.2%
18 宍道氏 1976 0.5% 46 志道氏 660 0.2%
19 根来氏 1591 0.4% 47 宍戸氏 627 0.2%
20 内藤氏 1477 0.4% 48 日野氏 621 0.2%
21 内藤氏 1332 0.4% 49 乃美氏 590 0.2%
22 桂氏 1229 0.3% 50 粟屋氏 546 0.1%
23 赤川氏 1228 0.3% 51 篠川氏 518 0.1%
24 乃美氏 1155 0.3% 52 李家氏 500 0.1%
25 渡辺氏 1154 0.3% 53 口羽氏 500 0.1%
26 宍戸氏 1096 0.3% 54 阿曽沼氏 475 0.1%
27 繁沢氏 1094 0.3% 55 椋梨氏 448 0.1%
28 益田氏 1086 0.3% 56 渡辺氏 383 0.1%



感想
・地元の郷土史会の方がしっかりと整備しているので遺構が保存されています(自治振興会で市から補助金がでる)
・3つのスペースにわかれています
1つ目は 城主の館兼茶屋など生活空間スペース
2つ目は 馬場跡や躍の段など兵を溜めておく場所 歴代当主の墓所 滝がある涼み堂
3つ目は 城域で実際に戦になった時に立て籠もる場所 
・城の規模は大きく 中世小領主の規模を越えている(毛利家の一族に連なることによって知行拡大、城の規模も拡大していったのか)
・比高は150mと約1時間で到着できる(尚山林道が整備されて車で城域の麓までいけれる)
・遺構がきれいに残っており、土塁、切岸、石垣 井戸がきれいに残っており見ごたえは十分
・しかし堀切の部分は草木でよく分からなかった(ここも整備したらさらに◎)
・頂上からみる井原の風景はとてもきれいであった(苦労してのぼった甲斐があった)