丸谷(屋)城(まるやじょう)

 場所  広島県呉市下蒲刈下島
 標高  49m
 比高  49m
 城主  蒲刈多賀谷氏 
 別名  丸屋城

 (余湖さんのHPから引用)



丸谷城の全景

  

看板があるのですぐ分かりました           城跡は緑地環境保全地域になっています

  

細長い半島で尾根づたいに先端までいけます 途中このような場所もありました(土橋か?)

  

井戸跡もあり                        岬の先端からみた風景 潮の流れが速いため航行には技術が必要であった

  

土塁らしきものもありました               丸谷城の矢竹です

  

近くには福島雁木といって 福島正則が造った雁木がいまでもあります


概要
城の遺構は、深く入り込んだ大きな入江に突き出した半島状の丘陵になる。丘陵背後の南側は掘り切って独立させ、そのすぐ北上の
ピークに郭を配置している。
1郭は10m×27mの三角形をしており、中央に観音堂が建っている。2郭は1郭より1m低く、1郭を囲んでいる。
3郭はこれらの東・北・西を取り囲んでおり、最大の規模を持つ。
そこから北東に突き出した尾根上には3本の堀切と2条ずつの竪堀を備える、城主は蒲刈多賀谷氏である。

広島県教育委員会『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』1993より引用


蒲刈多賀谷氏(かまがりたがや し)

 室町・戦国期、安芸国蒲刈島を本拠に活動した海賊衆。 大内氏直属水軍・三ヶ島衆の一角を担った。

 多賀谷氏は元来、武蔵国埼玉郡多賀谷を本貫地とする東国武士であったが、鎌倉期・承久の乱後に支族が伊予国周敷郡北条郷に移る。さらに南北朝期、この多賀谷氏が南朝方に追われる格好で安芸国の蒲刈島、倉橋島に本拠を移したことで、海賊衆・蒲刈多賀谷氏、および倉橋多賀谷氏が成立した。

  蒲刈多賀谷氏は以後、同族の倉橋多賀谷氏や伊予衆の重見氏らとの連携を維持しつつ、大内氏に属する水軍として海上活動を展開した。しかし、戦国期に勢力は衰退し、天文年間には本拠・蒲刈に竹原小早川氏の支配が及ぶようになる。

 大内氏滅亡後は、毛利氏、小早川氏の水軍としてその一翼を担った。

戦国日本の津々浦々より



家系図


多賀谷武重・・・・・・・・・・・春貞・・・・・・・・・元重・・・・・武真
          ・                  ・
          ・                  ・・・女子
          ・                     ・
          ・                     ・・・・・・・・・・・・・・女子・・・・・・貞景(武真の養子となる)
          ・                     ・
          ・・・・・・・武通・・・・・・・・・・・・・・・・・・武貞 


海の海賊として誇った多賀谷水軍も時代の波には逆らえず、豊臣秀吉の海賊禁止により没落していった
更に関ヶ原の戦いにより毛利家が萩に行ったときには
1毛利家に従って長州藩士となった家
2蒲刈に残って農民となり、元禄年間から広村(呉市広)に移住して庄屋を務めた家
3更に広村移住のときに蒲刈に残った家
など主に3つの流れがあったとされている



本家である多賀谷元重は関ヶ原以降長府より萩に呼び戻され、その子孫は萩藩士となって毛利氏に仕えた


山城でなく海城(海賊の拠点)
多賀谷氏は本貫地は武蔵国玉郡騎西庄多賀谷郷であるが承久の乱で一族が伊予国北条に所領を得た
 時代が下り南北朝時代に北条から北の安芸国蒲刈や倉橋に移動していき蒲刈多賀谷氏や倉橋多賀谷氏になった
海賊なので平時は島を往来する船から通行料をとったり、水先案内人を務めていた、戦時には水軍として活躍する
尼子の兵が出雲からこの蒲刈島へ攻めて来た事もあり(1523年の西条鏡山城攻略の際に)当主の嫡男が亡くなるということもあった


歴史
南北朝時代 多賀谷景茂によって築城
1389年 足利義満が厳島参詣の折りに通る
1420年 朝鮮の使節が立ち寄る
1506年 倉橋多賀谷氏と厳島神領衆との争いの時に倉橋多賀谷氏に味方したが暴風雨に合い多数死亡する
1523年 尼子経久が西条鏡山城を攻める時この丸屋城も攻められる
後に毛利氏に従う


感想
・本丸付近がどこから入るか分からずにいけなかったのが残念(今回は半島部分のみです)
・海の砦感満載です(ただ大軍団で攻められたらすぐに陥落します)
・今はのどから島ですが中世、近世はは九州、などからの物資の運搬や人々の往来で活気づきまた江戸時代は朝鮮通信使の宿泊地として
 参勤交代の宿泊地として栄えておりました。


詳しいHP