亀山城(かめやまじょう)

 場所  広島県庄原市東城町小奴可
 標高  590m
 比高  70m
 城主  奴可氏 小奴可宮氏
 別名  亀割城 亀石城 森次城







(余湖さんのHPから引用




山城賛歌から引用

   大きな看板もあります

 
地元の方が整備しており山肌が少し出ています   登り口もきれいで◎

 急峻な斜面で当時は登りにくかったと思います
                               地元の方が整備されております

      

二の丸跡 広さは一番広い

      

本丸跡 

 本丸からの風景 とてものどかな田園風景でした

 
     本丸裏の土塁                 土塁を麓から望む (竹が邪魔でした)

 
堀切 4〜5個の堀切がありました          石積みの跡も発見!!


概要
最高所の1郭南東側に土塁があり、さらに南東下には空堀が迷路のように設けられている
1郭の北から西下に最大規模の2郭があり、その北に堀北がある。
2郭の西下の郭は居館跡と伝えられ、北西隅には県天然記念物の「要害桜」が立つ。

広島県教育委員会『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用


明治31年、備後の奴可・三上・恵蘇の三郡は合併して比婆郡と呼ばれるようになった。
亀山城のある小奴可盆地はそれまで奴可群に属し、「郡内第一の広き郷にて、昔、郡庁のありし地なるべし」と「芸藩通志」は記している。
北方や西方を中国山地の山々に囲まれて、現在はのどかな山村の風情をみせるこのあたりも、往時は伯耆・備中との境を接し、
枢要の地を占めたと思われる。
亀山城主であったといわれる奴可入道西寂は、治承4年、伊予の住人河野通清が反乱を起こして、道前・道後の境にある高縄城に籠ったため
平氏の命により鞆の浦から兵船をととのえて押し寄せ、これを討ちとったという、しかし、その後通清の子息四郎通信は遊宴中の西寂を襲い、
父の墓前で引きまわしのうえ、首をはねたという(源平盛衰記、陰徳太平記)
この城は戦国時代には宮氏の一族である小奴可氏が本拠を置いた。小奴可隆盛は天文22年(1553年)尼子晴久に味方し備後国江田の旗返で
毛利勢と戦い戦死するが、家督を継いだ小奴可盛常は大叔父で郡山城内の興隆寺の住職策雲竹英の奔走によって毛利元就・隆元の許しを得て
毛利氏の家臣となった。
城は国鉄芸備線小奴可駅の約500m南にある小高い丘の上に築かれており、この東側直下を国道314号線が南北に走っている。
本丸は丘陵頂部を39m×26mに削平し、背面の南東部分は高さ1.5m幅2m余に地山を削り残して土塁としている。
本丸の北側はこれをとりまく形で二の丸をつくり、東側に二段の小郭を設けている
二の丸の北側には岩盤をくり抜いた空堀を設け、さらに丘陵の先端に向かって二段の郭を設けている。
本丸の背後には空堀や土塁で区切られたかなりの空間があるが、後世のタタラ製鉄による砂鉄採掘壙(鉄穴溝)で区切られており、
複雑な地形を呈している。
また本丸の西側の谷に面して居館があったという30m×50mの台地があり、その一角には要害桜(県天然記念物)が影を落としている。


日本城郭大系より


庄原市史跡 亀山城跡

 丘陵を利用して築かれた山城で、亀石城とも呼ばれ、本丸以下段状に郭が八ヶ所築かれ、いたるところに堀切や土塁がめぐらされている。西方のふもとが居館跡と伝えられ、一角に要害桜が名残りをとどめている。
 この城に関する正確な資料は現存しないが、近世の文献によると、平安時代末期には奴可入道西寂の居城であったとされ、その後奴可四郎奴可源吾・平四郎・飯田新助・亀井武蔵守茲経らが居城したというが明らかではない。

 戦国時代の永正年間から慶長年間までは、宮氏の一族である下野守・同隆盛・同盛常・同盛慶らのいわゆる小奴可宮氏が居城していた、このうち隆盛は尼子氏に味方し毛利勢とたたかい戦死するが、その子盛常は許しをえて毛利氏の家臣となった。

          平成19年3月 庄原市教育委員会

看板より

奴可入道西寂
治承4年(1180)伊予国高縄城で反旗をひるかえした河野通清を討ちとったが、鞆浦で遊女と戯れている途中に息子の河野通信に隙を突かれて
殺された。殺された時には生捕りにされて高縄城へ引き帰り、そこでノコギリで首を切った。西寂も去る者で河野の墓の上で放尿する
是より河野家に墓を築く事をしなくなった。

奴可四郎  鎌倉殿より奴可郡司に補せられ、後、摂州に移る。
元弘三年(1333)、京都の敵を退治の為、北條の催促によって足利殿上洛ありて赤松に向う。
時に六波羅より目代として奴可四郎、中吉十郎を添られる。足利殿官軍に属し山崎に軍立せず、随将士卒を引具して大江山を越る。
奴可、中吉、謀叛を察し、両勢引別れ六波羅に帰りつく。
六波羅没落し関東へ落行、路、江州番場にて越後守仲時自害の時、殉死せり。

注:元弘三年(元弘の変)
  越後守仲時=北條仲時
  江州番場=江州番場峠(現在の滋賀県米原市)

太平記に詳しく記載



奴可源吾
観応元年(1350)石州の三隅入道、足利直冬朝臣に従い三隅城に籠城す。
足利将軍尊氏卿より退治すべしと、高越後守師泰を大将として中国の勢 師泰が令に従うべき旨命せられる。
師泰、石州に発向して中国の勢を招き、先、佐波善四郎が青杉、丸屋、鼓が崎の三城を攻む。
時に三吉一揆の選兵二十七人を以って鼓が崎の城を落とす。その一人なり。

注:観応元年(観応の擾乱)
  石州=石見国(島根県)
  三隅入道=三隅氏
  三隅氏について
  足利直冬(足利尊氏の庶子で叔父の足利直義の養子となる)
  佐波善四郎(佐波顕連) 南朝の臣 高師泰に攻められ死亡 
  佐波氏について


奴可平四郎
明徳二年(1392)山名陸奥守氏清、謀叛の時、大内介義弘に従い、山名が家長、小林修理亮の軍を破る、その一人なり 

注:明徳二年(明徳の乱)


飯田新助
一本古城記。小奴可村 後のこの辺りの城主

亀井武蔵守慈経=亀井武蔵守茲矩

亀井武蔵守茲矩

治承年間(1177年〜1181年)奴可入道西寂によって築かれたと云われる。奴可入道西寂は治承4年伊予高縄城に籠った河野通清を討ち取ったがその後通清の子通信によって殺されたと云う。戦国時代には西城宮氏の一族小奴可氏の居城で天文22年(1553年)尼子氏に従い毛利氏と戦うが討死し以後毛利氏に属した。城は本丸背後の地山として削り残し土塁としており他にも随所に土塁が残っている。居館跡と云われるところには要害桜(天然記念物)がある。

『吾妻鏡』・『平家物語』・『源平盛衰記』によれば、備後国に奴可入道西寂という武士がいて、源頼朝の挙兵に応じて高縄城に籠城した伊予の住人河野通清を、平氏の命により攻めて殺したという記述があります。この奴可入道西寂は、平氏関係の荘園であった奴可郡一帯を支配していた武士と考えられ、江戸時代の文献には小奴可の亀山城が西寂の居城であったとの伝えを載せています。平安後期に奴可入道西寂の居城であったとされる小奴可の亀山城は、元弘年間(1331〜34)には奴可源吾が、明徳年間(1390〜1394)には奴可平四郎が居城したと伝えられますが、戦国時代には久代宮氏の一族の小奴可氏が本拠を置いたと言われています。

(東城町HPより)

小奴可盆に存在する亀山城は低地から比高30mの独立丘陵上に築かれている。
盆地の南側の出入口部にあたる所であり、戦略的な要地を占めている山頂部の郭を主郭とし、それを取りまくように七つの郭がめぐらされている、主郭の東側には地山を削り出して作った土塁がめぐっている。郭の北は深い堀切で画され、その北には土塁を挟んで二つの郭がある。
主郭の東南下手には小さな堀切た土塁、郭がみられ、西麓には居館跡が残っている、
各郭の造作は丁寧で、郭や堀切部の切岸は鋭い削平面をもっている。
小規模ながら郭や堀切、土塁などの防御施設が整っており、麓には居館跡が残るなど典型的な山城といえる。
本城の築城年代、歴史などを明らかにする史料はないが、『備後古城記』や『備陽六郡志』、『西備名区』などによると、平安時代末期のころに平氏の家人とされる奴可入道西寂が居城し、その後、戦国時代には尼子氏の家臣が居城したとされている。
平安末に奴可氏により築城されたとの伝承は確かめられないが、遅くとも室町期には小奴可盆地を基礎とした国人、土豪層が地域支配の拠点として居城していたとおもわれる。構造をみると城域を郭で囲み、郭が地形にそって段状に配され、堀切、切岸の発達など戦国期の特徴をもっているが、盆地の要の場所に立地し、低い独立丘陵を利用し居館が隣接するなど古い様相も残っている。
おそらくは、室町時代前半ごろに西麓の居館や山頂部の郭がまず最初につくられ、その後、戦国期になって主郭の拡張、整備や堀切、土塁、切岸などの施設が整備されたものであろう。

(東城町史より)

小奴可宮氏
永正18年(1521)春、小奴可宮氏は備南宮氏に従い品治郡柏村(芦品郡新市町下安井)の合戦に出陣した
小奴可宮氏が備南宮氏の威勢を背にして備北に根をはっていたようすがみられる。「譜録」では小奴可宮氏の系図は天文3年(1534)に死去した定実(又次郎、下野守)から始まり「従是以前之世代不詳」とし「始宮 後 小奴可」とある
また、備南の宮氏と同じく「姓ハ藤原華族小野宮末裔」としているからその一族であろう小奴可氏家系図(小奴可宮氏)後に小奴可氏から宮氏に戻る

家系図

 ・・・・小奴可定実・・・・・小奴可隆盛・・・・・宮盛常・・・・・宮盛慶・・・・・宮元常
 ・   1534年死去  ・ 1553年戦死    1536〜  ・
 ・            ・                  ・・元策(興龍寺4世)
 ・            ・
 ・・・・竹英      ・・・小奴可房忠・・・・宮良次・・・・・宮忠理
    (興龍寺2世)

1591年頃の宮氏の所領
宮仁左衛門 997 久代宮氏の宮広尚と推測される
宮十兵衛 253 小奴可定実の曾孫にあたる宮忠理と推測される
宮瀬兵衛 1032 宮広尚の祖父である宮景盛か?
宮彦七 30 宮元常 小奴可宮氏である宮元常
宮刑部丞 56 不明

宮瀬兵衛」は、毛利家文書の益田元詳書状に那賀郡の給人として「久代瀬兵衛」とあり、宮景盛の事と思われる。
1032石は景盛の隠居分として与えられた可能性が高いのではないか?とすると久代宮家に与えられた知行は宮景盛1032石、広尚
997石、及び日野宮家である宮景幸1000石計3000石となり、宮氏としては他の豪族と遜色がなかったと思われる
因みに敵対関係にあった山内家は7000石弱であったので、その点から考えるとやはり負けているが



本家である久代宮氏は山内氏との抗戦のため毛利に接近していったが、小奴可宮氏、永正(1504〜21)頃には大内氏の配下であったというが大永(1521〜28)以降は尼子氏に従ったので
天文(1532〜55)初期、大内方の毛利氏に攻撃され、宮定実(小奴可定実)は小奴可亀山城に籠城中、天文3年(1534年)に病死したという
その後小奴可宮氏も毛利元就に近づき天文6年(1537年)元就が長男隆元を人質として大内義隆に差し出した際に従者として小奴可定実の弟が加えられている、定実の弟は名僧として知られ興龍寺2世であった、興龍寺は元就以前から吉田郡山城内にあった臨済宗の大寺で元就は厚く崇敬していた。
しかし天文22年に尼子氏は山内氏や旗返城の江田氏と結び南下して口和町竹地谷川を挟んで毛利軍と尼子軍が激戦をした戦い(泉合戦)で江田方として戦った小奴可宮隆盛は戦死した、
そして小奴可宮氏の「本領之内、久代之地」が大内氏の「預かり」となってしまった。表向きは隆盛の子供の盛常が「若年」のための処置であったというがこのとき盛常は元服を終えすでに17歳であったから宮氏は「久代之地」の返還を求め嘆願を繰り返すようになる。

(東城町史より)

小奴可定実(?〜1534)通称 又次郎
下野守始め大内方についていたが大永(1521〜28)年間以降に尼子に従ったため1534年頃大内方の毛利氏に攻められ籠城中に病没

竹英(?〜1567)小奴可定実の弟天文6年(1537)毛利元就の長男隆元を人質として大内義隆に差し出した際、従者として加えられている興禅寺龍東堂、策雲、竹英、玄龍などど号し興禅寺二世であった、興禅寺は元就以前から吉田郡山城内にあった臨済宗の大寺で、元就は厚く崇敬していた。

小奴可隆盛(?〜1553)通称 下野守 定実の嫡男 天文年中の初期には大内氏に従っていたが、後半には再度尼子氏に寝返った。天文22年(1553)の旗返城の戦いにて討死「本領之内、久代之地」は大内氏の「預かり」になってしまう。

宮盛常(1536〜1573)通称 民部太夫 下野守隆盛の嫡男 天文22年(1553)の旗返城の戦いにて父親の隆盛討死 「本領之内、久代之地」は大内氏の「預かり」になってしまう、理由はいまだ「若年」のための処置であったというが、この時盛常は元服をおえ、すでに17歳であったから、小奴可宮氏は「久代之地」返還を求めて嘆願を繰り返すようになる

宮盛慶(1558〜1599)通称 中務少輔 下野守盛常の嫡男 豊臣秀吉の検地によって毛利氏も天正16年から秀吉の命に従い八カ国で検地を実施したこの検地の完了で毛利氏は譜代、外様層のみならず国衆有力家臣の本拠地にいたるまで実態把握が可能になり、家臣の知行かえを行う条件は整ったそこで念願の久代之地の返還を行うことになった
1591年2月1日には穂田元清を通じて小早川隆景へ愁訴しまた11月8日には安国寺恵瓊、堅田元慶を通じて小寺鎮賢へ12月4日には国司就信をつうじて小寺鎮賢へ愁訴したが結局は小奴可宮氏には返還されず毛利氏の倉入地になったと思われる。



エピソード

亀山城のこと
亀山城は、亀石城、亀割城とも呼ばれる。此処に亀によく似た大石があり、夜な夜な光を発していた。その石を割って、30間四方に築き上げ天満宮を勧請した。よって、亀割城と呼ぶようになったという言い伝えがある。小奴可公民館編(1980)「ふるさと小奴可(第1部 歴史と民話)」
須村家と松 
亀山城が尼子氏の軍勢に不意に攻められ、落城したときのことである。
討ち死にする者、逃げる者でごった返す中、亀山城の家老をしていた須村氏は、敵と渡り合っている最中、庭の松の枝に鎧の袖を引っかけて、よろめいたところを敵に踏み込まれて、討ち死にしてしまった。 須村氏の子孫は、それ以来、先祖の霊を慰めるため、現在でも決して庭に松の木を植えないのだという。



歴史
平安末期 奴可入道西寂が築城(当時はこの場所ではなかったかもしれない)
1333年年頃  奴可四郎が奴可郡司に任じられる
1350年年頃  奴可源吾が居城
1392年年頃  奴可平四郎が居城
戦国時代 小奴可宮氏が居城 ただし落城の為 城主が何人か変わる(飯田氏、亀井氏)
初めは大内氏についていたがその後大永年間初めに尼子氏に寝返る
1521年 小奴可定実が備南宮氏に従い品治郡柏村の合戦に参加 宮政盛と親忠の親子から感状を賜る
1534年 毛利元就に攻められて籠城中に小奴可定実が病没(再度大内方へつく)
1553年 旗返の戦いにて尼子氏につき当主小奴可隆盛が討死
1591年 宮盛慶が毛利氏に久代地を返還を求めるも結局返還されず
1600年 関が原の戦いの後に萩に移動

感想
・平安時代からある山城 屋敷跡も城の麓にあります 昔はそこまで大きな山城ではなく戦国時代に郭や切岸も拡張されたのでしょう。
・どこまでが遺構がよくわかりません 城の南にも植林された場所がありますが、岩や溝などもあり人工的な香りがします
・地元の方は自治振興会で保存整備をされており山肌が見えます(数年前は草木で視界は悪かった)
・井戸跡がどこにあるのか不明
・道を挟んだ向こうにも小さな丘陵があり 昔はそちらに城があったという言い伝えもある


ここからは更に詳しく続きます(マニアック過ぎます)



小奴可宮氏について

小奴可宮氏は萩藩諸家系譜では
姓 藤原 小野宮之末裔 故ニ複氏以別称宮ト 備後国住小奴可村依中比在名以小奴可可為称号雖然子孫複ス宮ニ
とあり 小奴可村の在地名をとって小奴可氏を称していたが宮氏に復している
(旗返城の戦に負けてからか?)
惣領家は備南宮氏の宮盛重系であり直接惣領家の備南宮氏から派生したものか久代宮氏から派生したものかは不明(後者の可能性が高い)

宮盛重の系をひく下野守家が惣領家で、新市の亀寿山城を拠点とし、備北へも早くから勢力を伸ばしていた「東城町史378P,広島県史516P」  
傍証)                         
宮師盛は「東条之内宇計原村」(東城町受原)を中興寺に寄進(1355年)
宮政盛は1457年菅の徳雲寺を建立する      
などからかなり以前から奴可郡一帯をすでに勢力圏にしていた                  
その中で庶流である久代宮氏や小奴可宮氏が統治していた           

小奴可宮氏が最初の文献に出てくるのは                                           
永正18年(1521)4月10日付感状である            「萩藩閥閲録」         
永正18年(1521)年春、小奴可宮氏は惣領家である備南宮氏に従い品治郡柏村(芦品郡新市町下安井)の合戦に出陣した、小奴可宮氏が備南宮氏の威勢を背景を背にして備北に根をはっていた様子がうかがわれる                    「東城町史401P」   

萩藩閥閲録より
 文章番号17 永正18(1521)年4月10日付
 宮政盛→小奴哥亦次郎(小奴可定実)
これは、いわゆる「感状」と言われるもの
永正18年4月9日に柏村で合戦があり、その際。「小奴哥亦次郎」が活躍、
武功を立てて宮政盛からお褒め頂いたということだと思われる。

【原文】

四月九日於柏村固口被及合戦、太刀打之條高名之段無比類候、

弥可被抽戦功者也、仍状如件

永正十八四月十日   政盛

小怒哥亦次郎殿

 

【書き下し文】

 四月九日 柏村固口に於いて合戦に及ばれ、太刀打ちの条 高名の段比類無く候、弥々(いよいよ)戦功を抽(ぬき)んぜらるべきものなり。仍て(よって)状 件の如し(くだんのごとし)

【現代語訳】

 四月九日 柏村固口(虎口=城郭の出入口のことか)において合戦に及ばれ、太刀をもって打ち合われたことは、高名(武功) 比類なきものである。いよいよ戦功を立てるよう励むべきである。よってこのように書状をしたためるものである。

 文章番号16 永正18(1521)年4月10日付

  宮親忠→小奴哥亦次郎

前項と同じ、政盛の息子「親忠」からも同様、お褒め頂いている
この「感状」は武士にとっては、とても名誉な事であった。

【原文】
昨日四月九日於柏村表合戦、被打太刀之条粉骨無比類候、弥被抽忠節者可為神妙者也、仍状如件

永正十八四月十日   親忠

小怒哥亦次郎殿  進之候

【書き下し文】

 昨日九日 柏村表の合戦に於いて、太刀を打たるるの条 粉骨比類無く候、弥々(いよいよ)忠節を抽(ぬき)んぜらるれば 神妙たるべきものなり。仍て(よって)状 件の如し(くだんのごとし)

 ※宛名の後にある「進之候」は、「之を進らせ候(これをまいらせそうろう)」と読みます。

【現代語訳】

 昨日九日 柏村表の合戦において、太刀をもって打ち合われたことは、粉骨比類ないものである。いよいよ忠節を尽くされれば神妙である。よってこのように書状をしたためるものである。

しかし         

永正(1504〜1521)年ころは大内氏の配下であったというが、大永(1521〜28)以降は尼子氏に従ったので天文(1532〜55)初期、大内方の毛利氏に攻撃され、宮定実は小奴可亀山城に籠城中、天文3年(1534)に病死したという     
「東城町史404P」       
                                                                             
ただ、この天文3年(1534)籠城中に病死したというくだりは信憑性に欠ける

以下は

安西軍策の天文3年の記述

天文3(1534)2月上旬、元就朝臣は備後の宮下野入道の城を攻めようと、熊谷信直、天野隆重、香川光景、同元忠以下二千余騎で出発なさった。 入道は激しく防戦したが、意外にも病死してしまった。子息の若狭守はまだ若年であったが、家の子の丹下一族は志をひとつにして、城を固く守り、なかなか落ちそうにも見えなかった。

7月、毛利軍は城下へ押し寄せ、民家に放火して引き返されると、丹下与兵衛五百ばかりで跡を追い駆けてきた。香川兄弟がしんがりを勤めていたが、弟の元忠が引き返し、丹下と渡り合うのを見て、兄光景も引き戻ったので、熊谷も馬を返し、両者は何度も戦ったが、丹下はかなわなくなり、引き退くと、味方も追わず に引き退いた。そののち丹下が出動すれば、二百三百で度々出向いていって戦った。

この丹下は有名な力のある強い武士で、敵で近づくものはいない。そこで丹下はある時は傷を負ったまねをし、ある時は死んだふりをして敵を近づけ、起き上がっては切り伏せていたが、ある時矢傷を深く負ったけれども、その仲間はまた例の通りの計略だと思って助けなかったので、安芸の毛利軍の兵共十騎ばかりで 落ち合って、丹下を討ち取ったところ、城は堪えがたくなり、まもなく降参して城を明け渡した。これによって元就は芸州へ帰られたのである。

相より



この閥閲録が出来たのは享保5年(1720年)に着手、享保101725年から翌年にかけて成立しており、安西軍策を参考にしてねつ造したことも十分に考えられる
しかし
その反論もあり、事実としてはこの亀山城を攻めた事が安西軍策では惣領家である備南宮家を攻めた事と混ぜられている事も否定できない

その反証

疑問1 天文3年という時期に毛利がなぜ備後福山地方の宮氏を征伐しないといけないのか?その必要性が感じられない

疑問2 この当時仮に尼子氏側の宮氏を征伐しようとしてもその前に立ちはだかる豪族もいらのでは?というかほとんどが尼子勢力だと思われる(平賀等)ということはすべてを征伐しないといけなくなり不可能では?

疑問3 この安西軍策というのは軍記物なのでどこかで筆者の勘違いがあるのは?

推測  この備後の宮下野入道 亀寿山城の征伐とか筆者の間違いで実は 備後の小奴可宮氏 が居城の亀山城という可能性はないか?


理由1 安西軍策では備後のどこの城を攻めたかの記載がない 城の名前や地域ではなく宮下野入道の城を攻めたとだけある(ちなみに当時の当主は小奴可下野守定実)

理由2 小奴可宮氏の当主である 小奴可下野守定実も家系図にて天文3年に死去している(しかも山口県文書館の譜録に記載) 官位名も下野守

理由3 天文4年には多賀山氏の居城であるシトミ山城を攻めており前年に小奴可宮氏を攻めていてもおかしくはない

このような理由から毛利元就が攻めたのは亀寿山城の宮氏ではなく亀山城の小奴可宮氏を攻める事も可能性を否定できない。

ともかく多くの疑問があるが天文3年に亀山城を攻めたという事実があったと仮定して

ではなぜ毛利元就は亀山城へ侵攻したのか?

これは1521年に尼子氏が石見に侵入し、1523年には西条の鏡山城攻撃、1524年には伯耆国へ侵入と尼子経久が積極的に進行することにより備北の大半の国人は尼子に寝返ったのではないか?                                                           

しかし                                                                         

大永6年(1526年)、伯耆・備後守護職であった山名氏が反尼子方であることを鮮明とし、尼子氏は大内氏・山名氏に包囲される形で窮地に立たされる。                 
大永7年(1527年)、経久は自ら備後へと兵を出兵させるも陶興房に敗走し、尼子方であった備後国人の大半が大内氏へと寝返った。                                 
これにより大半の国人が再度大内に寝返ったが小奴可宮氏は親尼子、反大内であったので天文3年(1534)前後に攻められ、降伏して再度大内派となる                     
1536年には毛利元就の長男隆元を人質として大内義隆へ差し出した際、従者として小奴可定実の弟(策雲、別名竹英)を加えている 
しかし
1525年には小奴可神社の前身である妙見社を久代宮氏家臣の鳥羽氏が勧請した事実から小奴可盆地全てを統括していた訳ではなくまた、一族である久代宮氏の影響を多分に受けていたのかもしれない                                                           


久代宮氏の勢力拡大と小奴可宮氏の没落
ところで「大舘常興日記」には天文10年(1541)8月4日条に大舘晴光が光興に宮下野守家(惣領家)は断絶したので一族の宮彦次郎(宮景盛)が下野守跡の所領を切り取って大内方の味方となり、宮惣領職の安堵を求めている
この断絶した下野守家とは、これまでみてきたことからすれば盛重系宮氏と考えるのが自然であるが、盛重系宮氏は永正14年(1513)の親忠を最後にその活動を知り得ないから、こののち間もなく衰退したものだと考えられる
そうすると、天文10年頃(1541)断絶したという下野守は氏信系の可能性もあって、いずれも決める事が出来ない 
「広島県史518P」

しかし1547年〜48年頃 山内氏はこれを認めず備後の旧守護家山名氏に「宮跡職」の領有を認めさせ、毛利氏もこれを承認させた
「油木町史408P」

広島県史(65P)の塩治綱副状「山内首藤文書213号」の中に     
一 宮跡職事、是又被加 御袖判候間 可被得其意候
とある  (1547〜1548年頃)             

またこのころには一族の小奴可宮氏の所領を押領しており、西隣の山内氏と領土を争って勢力拡大につとめている     
「広島県史517p」   

このころ宮景盛が積極的に領土拡大していた時期と思われ、小奴可宮氏の勢力も大幅に削減されていたのでと思われる

同じ一族内でも久代宮氏も領土拡大のため一族の小奴可宮氏の領土を積極的に侵食しており、同族による所領を乗っ取られる危機にあった


1553年10月 旗返城の戦い                                          

毛利氏が大内氏の命令により、大内氏の配下から、尼子氏配下に転じた旗返城主、江田入道氏を討つため、四千余騎をもって出陣したと聞いた尼子晴久は、この機に毛利氏を倒そうと二万の軍を率いて富田を出発し、仁田郡より王貫峠を越えて口和町に入って来ました。当時、口和町大字湯木の釜峰城主、湯木氏は大内氏に背き、尼子氏に味方していました。また、口和町大字大月には黒岩城を居城とする毛利氏方の泉(和泉)氏がありました。毛利氏はまず尼子氏に寝返った湯木氏を討つために釜峰城に向かいました。尼子氏はこれを聞き、天文22年(1553)5月20日に五千余騎を、向泉の萩の瀬に陣を張らせました。                                                 

一方、毛利氏は二千余騎を大合戦橋を挟み対陣させ、自らは、小早川隆景と共に二千余騎で二陣の構えとして後方の小高い丘(大月)に陣を布きました。このような勢力配備のもとで泉合戦は、萩の大合戦橋を中心に数回繰り広げられましたが、なかなか決着せず、そのうち雨がしきりに降り、川は増水し双方戦いを挑むことが出来ず、互いに状況の偵察を繰り返すうちに、尼子軍は萩の瀬を去って恵蘇群山内(庄原市)へ移動して行きました。これによって毛利氏は一帯を手中におさめることが出来ました。さらに、尼子氏の配下にあった地方の小領主たちも、毛利氏に追随するものが増えてきました。この戦いの後、江田氏も討ち、毛利元就は備北地方での勢力を確立したのです
岩城址(毛利元就縁の地)より



この旗返の戦いで小奴可宮氏の宮隆盛が討死            

 

 文章番号1  天文22(1553)年11月1日付

  毛利元就→策雲

久代当主宮景盛に懇望し久代には一万二千貫を返納させて、

千二百貫ばかりにして貰いたいとの申し入れに、元就より異議なしとの返事を貰っている

 

【原文】

尚々いたはり干今少も不止候、書状なとも忘却之躰候

就民太(宮盛常)御進退之儀蒙仰候、誠尤至極無余偽候、久代なと

如此之刻不紛事候、然處無其儀候間、於我等者一圓御言もなく候までにて候

就其只今被仰聞之旨無余儀候 於心中聊無疎儀候、陣中にも被仰起候

度々御存分無余儀事候 猶委細勝(渡辺)可申上候 恐惶謹言

 

(天文22年)霜月一日

(興禅寺策雲竹英)策雲 尊答      

      元就 判  

 

【盛常の孫・元常の注記】

此御書者久代(宮景盛)御當家様へ御懇望仕度と申由及承、

左様御座候は御約束之本領壱萬弐千貫ヲ返被下、久代には久代(備後)之本地

千二百貫計被遣被下候様こと申上候時被仰下御書也

 

 

【書き下し文】

 (尚々書=追伸)尚々 いたはり今に少しも止まず候、書状なども忘却の躰(てい)に候(くりかえし)

 民太御進退の儀に就いて仰せを蒙り候、誠に尤(もっと)も至極 余儀無く候、久代など此(か)くの如きの刻(とき)紛れざる事に候、然る処(しかるところ)其の儀無く候間、我等に於いては一円御言もなく候までにて候、其れに就いて只今仰せ聞かさるるの旨 余儀無く候(くりかえし)、心中に於いて聊(いささ)疎儀無く候、陣中にも仰せ越され候、度々御存分 余儀無き事に候(くりかえし)、猶 委細 勝申し上ぐべく候、恐惶謹言

 

【盛常の孫・元常の注記】

 此の御書は久代御当家様え(へ)御懇望仕(つかまつ)り度きと申す由 承り及ぶ、左様御座候はば御約束の本領壱万弐千貫を返し下され、久代には久代の本地千二百貫計り遣され下され候様にと申し上げ候時 仰せ下さるる御書なり

 

【現代語訳】

 尚々(追伸) 痛み(?)が今もって少しもやまず、書状なども忘れていたほどです

 民太(宮盛常)の御処遇のことについて(策雲の)仰せを承りました。誠にもっとも至極でやむを得ないことです。久代などはこのような時に紛れもないことです(この部分意味不明)。しかし、そういったことがなかったので、我らにおいては全く申し上げなかったまでのことです。そのことについて、只今(策雲から)仰せ聞かされたことは全くもっともなことです。心中においていささかも疎略に思ってはおりません。陣中にも仰せ越され、度々御存分をお聞きしましたが、もっともなことです。なお、委細は(渡辺)勝から申し上げます。恐惶謹言。

 

(注記)

 この御書は、久代御当家(宮景盛)へ懇望したいと申した時のものと聞いている。そうすれば、御約束の本領12,000貫をお返し下され、久代には久代の本地1,200貫ばかりを遣わしてほしいと申し上げた時に、(元就から)仰せ下された御書である。

 

 

 

疑問1

そもそも久代の地は久代宮氏の所領であって小奴可宮氏の所領ではないはず?

どうして小奴可宮氏の所領でないのに返してほしいと懇望するのか?

 

久代宮氏が小奴可宮氏の所領を押領したことからも、実は小奴可宮氏も久代宮氏の所領に

浸食していたのかもしれない、久代の地全てでは無いにしても一部は所領として持っていた可能性はある

             

 

疑問2

仮に久代の地が小奴可宮氏の所領としてなぜ一万二千貫を返納して千二百貫にして貰いたいと宮盛常がいうのか?

自分の所領を1/10に減らしてほしいというのか?

 

不明、本家である久代宮氏と何かしらの事があったのか?

 

 

疑問3

仮に宮盛常自信が1200貫に減らしてほしいとの懇望に元就が異議なしと返事を貰っているのにも関わらず今後何十年も久代の地を返してほしいというのか?

 

→小奴可宮氏が返してほしいと要求しているのは(「久代の本地」以外の)12,000貫の本領であり、久代宮氏には「久代の本地」の1,200貫だけを与えればよいと言っているのだと思います(減らしてほしいと言っているのではありません)。

 

疑問4

なぜ宮盛常の父、小奴哥隆盛が、泉合戦(旗返しの戦い)で尼子に味方をして戦死したのが?大内軍(大内氏、毛利氏)VS尼子軍(尼子氏、山内氏、江田氏、小奴可氏)の構図であると思われるが、前の年までは大内の旗下にいたのに何故?翌年には尼子についているのか不明?

 

これは

江田氏が大内から尼子に寝返った事と同じと思われる

天文22年(1553)になるといよいよ尼子氏と大内・毛利氏の本格的な対立がはじまる。その契機となったのが和智氏の一族で美波羅(ミハラ)川(三次市)沿い一帯に勢力を張る江田氏の行動である。「陰徳太平記」は「備後国江田の旗返の城主江田の入道(玄蕃助隆連)は大内氏の幕下に属していたが、たちまち志を翻し尼子へ一味した。

その原因を尋ねるに、山内大和守(少輔四郎隆通)が江田氏を誘ったとのことである。

それは、山内首藤氏の語らいで、大内家の武威はいまだ盛んであるが、この機会に尼子氏に味方すれば志深きに似て御辺(江田氏)の為によろしからんと申されば、江田氏は理に屈して尼子氏に属した」と述べている。 「口和町史 97〜98P」

 

これらから同様の事が山内氏から小奴可宮氏にもあったのではと推測される

 

 

 

 文章番号21 天文22(1553)年12月23日付

  大内晴英→宮盛常(17歳)

宮盛常が大内晴英(大内家当主)に、家督のお祝いとして太刀を送り、そのお返しとして

同様に太刀を遣わすとの内容。

晴英は、青景隆著を使者に遣わしているみたいです

晴英はこの文章の翌月、将軍足利義輝から「義」の字をもらい、大内義長と改名しているようです。

大内義隆を討った、陶晴賢の傀儡といわれていました

 

 

【原文】

為家督之儀、太刀一腰到来喜悦候、仍同一腰進之候、猶青景越後守可申候 恐々謹言

(天文二十二)十二月二十三日

宮民部(盛常)大輔殿      

                 (大内義長)

                     晴英判

【書き下し文】

 家督の儀として、太刀一腰到来 喜悦候、仍て(よって)同じく一腰 之を進(まい)らせ候、猶(なお)青景越後守申すべく候、恐々謹言

 

【現代語訳】

 家督の祝儀として、太刀一腰が到来し、まことに喜ばしく思っている。よって同じく太刀一腰を進呈する。なお(詳しくは)青景越後守が申すであろう。恐々謹言。

 

 

 文章番号22 天文22(1553)年12月23日付

  陶晴賢→宮盛常

宮盛常が、陶晴賢に嘆願したことについての返事

山口(周防)へは伝えたが、詳しくは、興禅寺策雲竹英から説明させよということだと思います。

何を嘆願したのか?「本領の内、久代の地のことか?」

 

【原文】

預御音問候、令被閲候、仍御愁訴之趣、至山口令被露、

委細直被申候、巨細猶西堂(興禅寺策雲竹英)可有御演説候、次太刀一腰送給候

誠畏入候、何様自是可申述之条、先省略候、恐々謹言

 

(天文二十二)十二月二十三日

宮民部大輔殿 後返報 

             (陶)晴賢 判

 

【書き下し文】

 御音問(ごいんもん)に預かり候。披閲せしめ候。仍て(よって)御愁訴の趣、山口に至り披露せしめ、委細直ちに申され候、巨細(こさい)猶(なお)西堂御演説有るべく候、次に太刀一腰送り給い候、誠に畏れ入り候、何様(いかよう)是より申し述ぶるべきの条、先ず省略候、恐々謹言

 

【現代語訳】   

 お手紙をいただき、拝見しました。よって、御愁訴の趣旨を山口に披露したところ、(大内氏から)直ちに詳しい指示がありました。詳細については西堂(興禅寺策雲竹英)がお話になるでしょう。また、太刀一腰をお送りいただき、誠に畏れ入ります。詳しいことはこれから申し述べますので、(この手紙では)まず省略します。恐々謹言。

 

 文章番号24 天文23(1554)年カ2月26日付

  河屋隆通→宮盛常

年初の挨拶(年賀状)と先代からの佐東表(安芸)の土地については策雲に申し入れよと言っている。

河屋隆通(かわや たかみち)

大内家臣。大内家滅亡後、大庭賢兼・波多野(吉見)興滋・仁保隆慰らと共に、山口奉行の補佐を務める。

【原文】

誠今年之嘉祝雖事旧様候、迫日珍重々々、不可有休期候

次就於佐東(安芸)表先代被成御合力候代所之儀、當時無便宜之在所候

連々策雲(興禅寺)可申談之由隆著(青景)被申事候

於某亦不可存余儀候、委細西堂可被仰入候条

不及紙上候、仍五明令排受之候、毎々御懇意畏入候

諸慶期後音候間令省略候、恐々謹言

 

(天文二十三)二月二六日

宮民部(宮盛常) 参 貴報

              (河屋)隆通 判 

 

【書き下し文】

 誠に今年の嘉祝 事(こと)旧様に候と雖(いえど)も、追日(ついじつ)珍重々々、休期(きゅうご)有るべからず候、次に佐東表に於いて先代御合力成され候代所の儀に就いて、当時便宜の在所無く候、連々策雲申し談ずるべきの由 隆著申さるる事に候、某(それがし)に於いても亦(また)余儀に存ずべからず候、委細 西堂仰せ入らるべく候条、紙上に及ばず候、仍て(よって)五明(ごみょう)之(これ)を拝受せしめ候、毎々御懇意 畏れ入り候、諸慶 後音(こういん)を期し候間、省略せしめ候、恐々謹言

 

【現代語訳】

 まことに今年(年頭)のお祝いは、古い様式ではあるけれども、日増しにめでたいことで、やむことがないものです。さて、佐東表において先代(宮隆盛)がお力添えいただいた(恩賞の)代所のことについて、現在はちょうどいい在所がないので、引き続いて策雲に相談するようにと、(青景)隆著が申されたということです。私においてもまた、もっともなことだと思っています。委細は、西堂(策雲)が仰せになるのでこの紙面には記しません。また、五明(結構なもの?)を拝受しました。いつも御懇意をいただき畏れ入ります。その他諸々のことはまたの手紙にしたいと思いますので省略します。恐々謹言。 

 文章番号23 天文23(1554)年3月8日付

  陶晴賢→宮盛常(17歳)

陶晴賢に太刀を送り、お返しとして、祝いとして太刀を頂いている。

願い事は、なおざりにはしない、詳しくは策雲に相談せよ。

このことは、とても利のあることだ。

 

【原文】

為當年之儀、太刀一腰送給候、欣悦候、同一振進候、表祝儀計候

仍御愁訴次第連々可申談候、盡身更不可有御等閑候、委細興禅寺(策雲)

可有演説候、就中此表事大利に候、可御心安候、恐々謹言

 

(天文二十三年)三月八日  

 宮民部大輔殿(宮盛常) 御報

                           (陶)晴賢 判

【書き下し文】

 当年の儀として、太刀一腰送り給い候、欣悦候、同じく一振進(まい)らせ候、祝儀を表す計りに候、仍て(よって)御愁訴の次第 連々申し談ずべく候、身を尽くし更に御等閑有るべからず候、委細 興禅寺演説有るべく候、就中(なかんづく)此の表の事 大利に候、御心安かるべく候、恐々謹言

 

※この史料も、天文22年ではなく、天文23年のものではないかと推測します。

※史料後半は、「(宮盛常が)訴えていることについては引き続き相談したいと思っている。(盛常が陶氏のために)身を尽くし、更になおざりなことがあってはならない。詳しいことは、興禅寺から話があるだろう。特にこの表(陶氏がいる場所)の事は、(陶氏に)有利な状況であるので、安心してほしい」という意味だと思います。

 

【現代語訳】   

 当年の祝儀として、太刀一腰をお送りいただき、喜んでいる。同じく(太刀)一振を進呈する。これは祝儀を表すばかりのものである。さて、御愁訴の次第は、引き続き相談しよう。身を尽くし更になおざりなことがあってはならない。委細は、興禅寺から話があるだとう。特にこの表の事は有利な状況であるので、安心してほしい。恐々謹言。

 

 

 

 

 

 文章番号3  天文23(1554)年5月12日付

  毛利隆元→策雲

毛利隆元が、下野守隆盛討ち死にに際し、失った土地はそのうち返されるもので安心しなさいと、宮盛常の叔父策雲に伝えている。

 

【原文】

尊書令拝見候、誠先日は御登城恐悦候、其以後我等こそ無沙汰申候

出張之内何とそ得閑暇候はば卒度可令参上候、条々御懇意乍不始本望候

随って久代(備後)表之儀如仰懇望之儀共候つる

雖然山内(隆通)へ種々存分共候間相滞候、可有御推量候、

就其民太(宮盛常)御進退之事蒙仰候、是亦令承知候、

愚父申談不可存疎意候、猶自是可令啓候間不能詳候  恐惶頓首

 

(天文二十三年)五月十二日

策雲 足下 喜報          

                隆元 御判

 

 

【盛常の孫・元常の注記】

此御書は尼子伊予守(晴久)備後表切入、江田(隆連)の旗返迄取詰申時

宮下野守(隆盛)亀奇山之台にて切死仕御用ニ立、

倅家を失申候ニ付時節を待候へ、何も御切返被成、本領返可被下之由、祖父民部

大輔(盛常)ニ仰下御書也

 

 

【書き下し文】

 尊書拝見せしめ候、誠に先日は御登城 恐悦に候、其れ以後我等こそ無沙汰申し候、出張の内 何とぞ閑暇を得(え)候はば、卒度(そっと)参上せしむべく候、条々御懇意 始めならず乍(なが)ら本望に候、随って久代表の儀、仰せの如く懇望の儀ども候いつる、然りと雖(いえど)も山内え(へ)種々存分ども候間 相滞(あいとどこお)り候、御推量有るべく候、其れに就いて民太御進退の事 仰せを蒙(こうむ)り候、是亦(これまた)承知せしめ候、愚父申し談じ 疎意に存ずべからず候、猶 是より啓せしめ候間 詳らか能(あた)わず候、恐惶頓首

 

※この史料は、天文23年のものと推測します。

 

【盛常の孫・元常の注記】

 宮下野守 亀奇山の台にて切り死に仕(つかまつ)り 御用に立ち、悴家(かせいえ)を失い申し候に付き 時節を待ち候へ、何も御切り返し成され、本領返し下さるべきの由、祖父民部大輔に仰せ下さる御書なり

 

                       

【現代語訳】

 尊書を拝見しました。誠に先日は御登城いただき、 恐悦に思っています。それ以後、我等こそ無沙汰を申しています。出張の間、どうにか暇が得られたら、そっと参上するつもりです。いろいろと御懇意をいただき、いつものことながら本望に思っています。さて、久代表のことは、仰せの如く(宮氏から)懇望のことなどがあります。しかし山内氏にいろいろと存分などがあるので、滞っています。御推量ください。そのことに関して、民太(宮盛常)の御進退についての仰せを承りました。これもまた承知しました。愚父(元就)と相談し、疎略にはしないつもりです。なお、この使者から申し上げさせますので、詳しくは書きません。恐惶頓首

 

(注記)

 この御書は、尼子伊予守(晴久)が備後表より切り入り、江田氏の旗返城まで攻め込んできた時、宮下野守(隆盛)が亀奇山の台で切り死にして御役に立ち、わが家を失ったので、時節を待ちなさい、いずれ切り返して本領を返し下さるということを、祖父民部大輔(盛常)に仰せくだされた御書である。

 

 

 

      

推論                                                                   

それまでに久代宮氏や山内氏からの浸食があり、家運が衰退していた(小奴可定実も毛利に攻められ病没)                                                               

このままでは消滅するとの危機感からあえて尼子氏について家運の隆盛につとめたのではないか?(山内氏の勧めもあり)                                                                   

また                                                                   

天文年中に尼子家臣である亀井氏が亀山城を居城としていた「西備名区」             

このことから1553年頃に尼子が攻めてきて強制的に小奴可宮氏を尼子の配下にしたのかもしれない                                                           

このころ後の辺城に飯田新助と亀井能登守永綱(秀綱か?)が居住                  

亀井氏=元雲州須佐の城主 目代としてこれに住す 尼子晴久の一族にして飯田新助の後主なり                                           「西備名区」

                                                                                                               

飯田新助=小奴可新助で久代宮氏の家臣であった                          

久代宮氏が出雲国神門郡塩治に移った時に一緒に行く       

「新山勝男氏所蔵文書の久代宮家之侍衆中」        元禄4年(1692)当時の文章                                                         




となると小奴可の所領は細かく分断されており小奴可宮氏の小奴可領内における所領はかなり少なかったのではないか?                                                   

亀山城自体も尼子家臣の亀井氏が居城していた時もあれば、久代宮氏の家臣の飯田氏が居城していた時もあり、実質的に小奴可宮氏自身が居城していた時期は短いかもしれない

 

 

小奴可隆盛討死のあとますます家運が衰退してしまう          


 

@小奴可宮氏の「本領之内 久代之地」が大内家の「預かり」とされてしまった       

宮隆盛の子盛常が、いまだ「若年」のための処置であったというが、この時盛常は元服を終え、すでに17歳であった                                「東城町史406P」   

                                                                               

Aこの年山内氏も毛利に臣従することとなるが、山内隆通の服従条件として、当時山内氏が支配していた小奴可、久代内の領地は元就からの扶持として知行が承認された                                                   「東城町史406P」           

 

六五 山内隆通条書并毛利元就等連署返書「山内首藤文書216号」                                                                                 

一 宮家并東分小怒可 其外久代 当時知行之偽、 一所茂不残 元就以御扶持可致知行事 乍去備中八鳥山之儀者、無申分候事     

 

それらの事実から小奴可宮氏が嘆願してもなかなか所領の回復が出来ないものと考えられる

 

 

9 文章番号2  天文22(1553)年12月26日付

  毛利元就、隆元→策雲

元就、隆元親子から、そのうち本領安堵になるであろうとの沙汰

 

【原文】

就民武(宮盛常)大輔殿御進退之儀、以此者蒙仰候、度々如申候

於我等父子雖不存御等閑候、弓矢之姿候条御分別候様可被仰候

何様以時分可申沙汰候、其内便宜之地御尋、合力可申候

不可有油断候、猶口上申候、恐惶謹言

(天文二十三年)十二月二十六日  

                         隆元 判

                         元就 判

 策雲 参 足下

(注記)

此御書は倅家之本領多分久代致所持、御當家様に御敵仕候時

隆元様は備後之御調ニ被成御在陣候時、祖父民部書状を上候其時被下御書也

 

【書き下し文】

 民部大輔殿御進退の儀に就いて、此の者を以て仰せを蒙(こうむ)り候、度々申し候如く、我等父子に於いて御等閑に存ぜず候と雖(いえど)も、弓矢の姿に候条 御分別候様 仰せらるべく候、何様(いかよう)時分を以て沙汰申すべく候、其の内便宜の地 御尋ね、合力申すべく候、油断有るべからず候、猶口上にて申し候、恐惶謹言

 

【盛常の孫・元常の注記】

 此の御書は悴家(かせいえ)の本領 多分久代所持致し、御当家様え御敵仕り候時 隆元様は備後の御調に御在陣成され候時、祖父民部書状を上げ候 其の時下さるる御書なり

 

【現代語訳】

 民部大輔殿(宮盛常)の御進退のことについて、この使者をもって仰せを承りました。度々申しているように、我ら父子においてはなおざりには思っていませんが、戦のさなかなので御分別されるように、おっしゃってください。いずれ時を待って沙汰するつもりです。そのうち、便宜の地を探して力添えをするつもりなので、油断ないようにしてください。なお、(使者から)口上にて申し上げます。恐惶謹言

 

(注記)

 この御書は、わが家の本領をおそらく久代宮氏が所持いたし、御当家様(毛利家)に敵対した時、隆元様は備後の御調に御在陣されていた時、祖父民部が書状を差し上げ、その時に下された御書である。

 

10 文章番号4 天文23(1554)年6月4日付 

  毛利隆元→宮盛常(18歳)

  国司就信から沙汰する

【原文】

御状祝着候、此表之儀敵城数ヶ所落去候、即至温井(安芸)陣取候

不日可有一途候間可御心安候、随って久代方於自然懇望は御進退之事蒙仰候

愚父令相談不可有余儀候、尚国雅(国司就信)可申候、恐々謹言

(天文二十三年)六月四日

                       隆元 御判

民部(宮盛常)大輔殿 御返報

【書き下し文】

 御状祝着に候、此の表の儀 敵城数ヶ所落去(らっきょ)候、則ち温井に至り陣取り候、不日一途有るべく候間 御心安かるべく候、随って久代方自然懇望に於いては 御進退の事仰せを蒙り候、愚父相談せしめ余儀有るべからず候、尚 国雅申すべく候、恐々謹言

 

【現代語訳】

 御書状をいただき、祝着です。この表の状況は、敵城数ヶ所が落ち、温井に陣を取りました。すぐに決着が着くでしょうから御安心ください。したがって、久代方の懇望においては、(貴殿の)御進退の事について仰せを承りました。愚父と相談し、なおざりにしないようにします。なお、(詳細は)国雅(国司就信)が申すでしょう。恐々謹言。

 

1558年:宮盛慶が生まれる

 

11 文章番号18 永禄3(1560)年2月20日付

   足利義輝→宮盛常(24歳)

足利義輝より下野守授けられる。

   上野信孝が伝える

 

 

【原文】

受領可任下野守儀可然候、為其染筆候、猶信孝(上野)可申候也

(永禄三年)二月二十日

                      (足利)義輝公 御判

宮民部(盛常)大輔とのへ

 

【書き下し文】

 受領 下野守に任ずべき儀 然るべく候、其の為 筆を染め候、猶 信孝申すべく候なり

 

【現代語訳】

 受領名 下野守に任ずることは、然るべきである。そのため、一筆をしたためる。なお、上野信孝が申すであろう。

 

疑問                                                                 

この「下野守」は小奴可定実の時代からの官途名ではあるが、そもそも将軍足利義輝から下野守を直接叙任されるという事は格式が高い家柄なのか?                       

「下野守」は惣領家である備南宮家の官途名であり、軽々しく「下野守」を名乗ることは許されない(ちなみに久代宮氏は上総介)                                      

地方の弱小豪族に直接将軍家からの使者が来るのか?                        

これは宮氏が幕府奉公衆の一員であり、長年幕府との関係が深い為ではないか?                                                                          

 ●宮氏一族の分流       前記のように宮氏にはいくつかの流れがあったようで、幕府奉公衆の番編成などから三つの系統に分かれていたことが知られる。                                                                                             

一つは左衛門大夫を名乗る宮氏、                                                 

二つは上野介を名乗る宮氏、                                                     

三つめが、官途下野守をもつ下野守家である。(備南の宮家)        

               

となると小奴可宮氏は久代宮氏からでは無く、惣領家の備南宮家からの派生であり、勢力は小さかったが格式は高かったのではないか?                                       

1540年前後に惣領家である備南宮家が滅亡したので、近い小奴可宮氏が官途名として使用した(本家の名乗りをした)とも考えれる                                       

もし、遠い庶流や格式が低い場合はわざわざ将軍より叙任されないと思われる         

また                                                                           

「大舘常興日記」には天文10年(1541)8月4日条に大舘晴光が光興に宮下野守家(惣領家)は断絶したので一族の宮彦次郎(宮高盛か息子の興盛)が下野守跡(備南宮家)の所領を切り取って大内方の味方となり、宮惣領職の安堵を求めている                                                                  「広島県史518P」   

この頃久代宮氏が積極的に小奴可宮氏の領土を押領していることから、下野守由来の家を積極的に侵攻していることが窺われないか?       「広島県史517p」       

(小奴可宮氏が久代宮氏の庶流では無く備南宮家からの庶流であり、その為、所領の押領が発生したとも考えられるが、萩藩閥閲録では毛利氏から久代御當家とあり本家かもしれない)

 

 

12 文章番号19 永禄3(1560)年8月8日付

   上野信孝→宮盛常(24歳)

   前項御礼として、太刀一振り、銭百疋を差し出したことについての御礼

 

【原文】

為御受領之御礼、御太刀一腰・鷲眼百疋御進上之旨、即令披露候

被喜思召之由候、仍被成御内書候、尤御面目之至候

猶得其意可申之旨被仰出候、恐々謹言

(永禄三年)八月八日

                      (上野)信孝 判

宮下野守(盛常)殿

 

【書き下し文】

 御受領の御礼として、御太刀一腰・鵞眼百疋御進上の旨、則ち披露せしめ候、喜び思し召さるるの由に候、仍て(よって)御内書を成され候、尤(もっと)も御面目の至りに候、猶 其の意を得申すべきの旨仰せ出だされ候、恐々謹言

 

【現代語訳】

 御受領の御礼として、御太刀一腰、銭百疋を御進上される旨を、ただちに(将軍義輝に)披露しました。喜んでおられるということです。よって、御内書をしたためられました。もっとも御面目の至りです。なお、その意を汲み取るようにと仰せ出だされました。恐々謹言。

 

13 文章番号20 永禄3(1560)8月8日付

   上野信孝→宮盛常(24歳)

   信孝へも百疋差し上げたことへの御礼

   国清寺恵心から話があると思う(なんの話?)

【原文】

就御受領之儀、被成御内書候、誠御眉目之至目出存候、仍為御礼

御太刀一腰百疋御進上之旨令披露候、珍重候次仕え百疋送給候、御懇音祝着至候

京都相應之儀承更不可有疎意候、猶立雪斎(国清寺恵心)可有御演説候、恐々謹言

(永禄三年)八月八日

                      (上野)信孝 判

宮下野守(盛常)殿

 

【書き下し文】

 御受領の儀に就いて、御内書を成され候、誠に御眉目の至り 目出存じ候、仍て御礼として、御太刀一腰百疋御進上の旨 披露せしめ候、珍重に候、次いで私え百疋送り給い候、御懇音(こんいん)祝着の至りに候、京都相応の儀承り 更に疎意有るべからず候、猶 立雪斎 御演説有るべく候、恐々謹言

【現代語訳】

 御受領のことについて、御内書をしたためられました。誠に御名誉の至りで、目出たく存じます。よって御礼として、御太刀一腰、銭百疋を進上される旨を、披露しました。珍重なことです。また、私にも銭百疋をお送りいただきました。御懇意をいただき、祝着の至りです。京都(将軍家)に従うということを承り、更に疎略なことがないようにしてください。なお、立雪斎からお話があるでしょう。恐々謹言。

 

1567年:策雲が死亡する(永禄101010日)

 

上野 信孝(うえの のぶたか、生没年不詳)は、戦国時代の武将。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の流れを汲む足利氏の傍流 上野氏。室町幕府の幕臣。備中国鬼邑山城主。父は上野尚長。子は上野清信、上野頼久。官位は民部大輔従五位下。

上野氏は足利氏の支流で足利将軍家の近臣たる家柄。祖先の中には守護を務めた武将もいるが、世襲に至らず京都にあって将軍の側近として幕政を支えていた。信孝は11代将軍足利義稙が従弟 足利義澄に将軍職を追われて、西国に落ち延びると、動向した近臣 上野信孝をして備中国鬼邑山城に封じたのをはじめ、二階堂政行、伊勢貞信もその近隣の諸城に封じて西国における義稙方勢力の形成にあたらせた。 永正年間に、信孝は鬼邑山城を一門の上野高直を入れて城主となし、子の上野頼久をして備中松山城主に封じ自らは帰洛し再び幕府に近侍した。

 

1573年:宮盛常死亡

 

14 文章番号5 年号不明10月3日付け

   毛利輝元→国司元蔵、児玉元良

宇今無承引之由」→「今に無承引のよし」(未だに承諾がない)

有地正信(福山の有地か?)

 

【原文】

宮中務(盛慶)抱上役之儀、二三ヶ年有地(正信)方押望候、

先度雖申候于今無承引之由候条、兎角如前々可相調之由、従両人所能々可申候、謹言

十月三日

                     輝元 御判

 

国助(国司元蔵)

児 三右(児玉元良)            輝元

 

【書き下し文】

 宮中務 抱上役(?)の儀、二三ヶ年有地方押望候、先度申し候如く今に承引無きの由に候条、兎角前々の如く相調(ととの)うべきの由、両人の所より能々(よくよく)申すべく候、謹言

 

【現代語訳】

 宮中務(盛慶)の抱上役(意味不明・何らかの役の代償として与えられている土地)を、この二三ヶ年の間、有地(正信)が横領している。先度(宮氏に返すようにと)申し付けたが、いまだに(有地氏が)承知しないので、前々の如く復するよう、両人(国司元蔵・児玉元良)からよくよく(有地氏に)申し付けるようにしてほしい。

 

1580年:宮元常が生まれる

15 文章番号11 天正16(1588)年12月26日

   毛利輝元→宮盛慶(31歳)

藩主毛利輝元より「下野守」伝達されています 

【原文】

受領 下野守

天正十六年十二月二十六日  輝元 判

宮中務少輔殿

 

【書き下し文】

 受領 下野守(下野守を受領せしむ)

 

【現代語訳】

 下野守を受領させる。 

 

16 文章番号6 天正19(1591)年10月21日付

   毛利隆元弟の穂田元清→興禅寺元策

 

【原文】

興禅寺(元索)   冶部(穂田)元清

尚々各様之御書五封返進申候、慥可被成御請取候 以上

 

先日は御出本望存候、取紛然々不申談候、我等社以参可得御意之處、

依不得隙無音背本意候、随って十兵衛(宮忠理)殿御愁訴之儀

前々之御一通など掛御目、昨日具申上候、委被聞合候、隆景様御出之時分可被成御談合之由御意にて候条、被成其御心得、隆景様え御申尤候、尚期面拝之時候 怖々謹言

(天正十九年)十月二十一日             元清 判

 

【書き下し文】

 (尚々書=追伸)尚々 各様の御書五封返し進(まい)らせ申し候、慥(たし)かに御請け取り成さるべく候(くりかえし)、以上

  先日は御出で本望に存じ候、取り紛れ然々申し談ぜず候、我等社以参(※この部分不明)御意を得(う)べきの処(ところ)、隙を得ざるに依って無音 本意に背き候、随って十兵衛殿御愁訴の儀、前々の御一通など御目に掛け、昨日具(つぶさ)に申し上げ候、委(くわ)しく聞き合わされ候、隆景様御出での時分 御談合成さるべきの由 御意にて候条、其の御心得を成され、隆景様え御申し尤もに候、尚 面拝の時を期し候、恐々謹言

 

【現代語訳】

 尚々(追伸)それぞれの御書状五通をお返しします。確かにお受け取りください。

 先日はお出でいただき、本望に存じます。取り紛れて全くお話しができませんでした。われらの方から伺ってお聞きしなければならない所、隙を見つけられずに御無沙汰していることは本意に背くことです。さて、十兵衛殿の御愁訴のことは、前々の御一通(書状)などを(隆景に)お目にかけ、昨日詳しく申し上げたところ、詳しくお聞きになりました。隆景様がお出でになった時分に御談合なされるということなので、そのように心得られて、隆景様へお申し出になるのがよいと思います。なお、お会いした時にお話ししましょう。恐々謹言。

 

17 文章番号10 天正19(1591)10月26日付

   小方兵部丞元信→興禅寺

興禅寺四世元策西堂へ、本領の件については、検地が終わってから沙汰がある旨の文章

【原文】

御使札致拝見候、小怒哥之儀、御先祖御本領ニ付いて被成御愁訴

御検地之上を以可被仰出之旨候、安国寺御奉書致拝見候

吾等検地仕候所、備後、備中右之辻、一両日中ニ至大坂申上候

勿論小怒哥御公領當御倉納之辻申上候、早々大坂え可被仰上事肝要存候

委細御使者え得御意候 恐惶謹言

(天正十九年)十月二十六日 

                 小方兵部丞

                 元信 判

 興禅寺

【書き下し文】

 御使札拝見致し候、小怒哥の儀、御先祖御本領に付いて御愁訴成され、御検地の上を以て仰せ出ださるべきの旨に候、安国寺御奉書拝見致し候、吾等検地仕(つかまつ)り候所、備後・備中右の辻、一両日中に大坂に至り申し上げ候、勿論怒哥御公領 当御倉納の辻申し上げ候、早々大坂え仰せ上げらるべき事肝要に存じ候、委細御使僧え御意を得候、恐惶謹言

 

【現代語訳】

 御使者が持って来られた書状を拝見しました。小奴可のことは、御先祖の御本領ということで御愁訴なされていますが、検地をした上で(毛利輝元から)沙汰が仰せ出だされるとのことで、そのことについての安国寺の御奉書を拝見しました。われらが検地を行い、備後・備中の(検地の)結果を一両日中に大坂へ申し上げます。もちろん小奴可御公領の御倉納(小奴可直轄領の米の収納高)の結果も申し上げます。早々に大坂へ仰せになることが肝要と存じます。委細は御使僧へ申し上げました。恐惶謹言。

 

18 文章番号8 天正19(1591)年11月8日付

   左衛門佐隆景(小早川隆景)→安国寺恵瓊、堅田元慶

   小早川隆景が安国寺恵瓊と堅田元慶に対して

 

【原文】

小怒哥之儀、去春興禅(元索)・宮十兵(忠理)被得御意之通申上候、

以御検地之上可被出之由候つる、然間此刻被遂御案内候、

誠累年頼被存祇候之筋目候条、可被加御憐愍事尤存候、

猶安國寺(恵瓊)・堅兵(堅田元慶)可有御披露候、恐惶謹言

(天正十九年)十一月八日

                         左衛門佐

                         隆景 御判

安國寺

堅 兵 御申之

 

【書き下し文】

 小怒哥の儀に就いて、去春興禅・宮十兵御意を得らるるの通り申し上げ候、御検地の上を以て仰せ出ださるべきの由に候いつる、然る間此の刻(とき)御案内を遂げられ候、誠に累年頼み存られ祗候の筋目に候条、御憐愍を加えらるべき事 尤(もっと)もに存じ候、 猶 安国寺・堅兵御披露有るべく候、恐惶謹言

 

【現代語訳】

 小奴可のことについて、去る春に興禅寺と宮十兵衛の考えを(輝元に)申し上げた。御検地の上で沙汰を仰せ出だされるということなので、この時にご案内してほしい。誠に累年にわたって懇望されていることなので、御憐愍(あわれみ)を加えられることがもっともである。なお、安国寺と堅兵(堅田元慶)から御披露してほしい。恐惶謹言。

 

 

19 文章番号7 天正19(1591)年11月8日付

   小寺鎮賢→宮忠理

【原文】

一紙之躰御免〜

両度被仰聞候題目、昨日以國雅(国司就信)被成御尋候条具申上候

就夫奉書被相調候、殊外御懇候、御内儀之通就信物語被申候

委細彼可被申候、尤以参加申上候得共、只今罷上候間捧一書候 恐惶謹言

(天正一九年)十二月四日 

                      (小寺)鎮賢 判

「(宮)忠理 人々御中               小佐 鎮賢」

 

【書き下し文】

 一紙の躰(てい) 御免(くりかえし)

両度仰せ聞かされ候題目、昨日国雅を以て御尋ね成され候条 具(つぶさ)に申し上げ候夫(それ)に就き奉書相調えられ候、殊(こと)の外 御懇(ねんごろ)に候、御内儀の通り 就信物語申され候、委細彼申さるべく候、尤も参るを以て申し上ぐべく候得共(そうらえども)、只今罷(まか)り上り候間 一書を捧(ささ)げ候、恐々謹言

 

【現代語訳】

 一紙の体裁で御免

 (貴殿から)再度仰せ聞かされていた題目(小奴可の件)について、昨日国雅(国司就信)を使者として(輝元が)お尋ねになったので、詳しく申し上げました。そのことについて、奉書を整えられました。ことのほか、懇ろなことだと思います。(輝元の)御内意について、就信が話をされました。委細は彼から申されるでしょう。もっとも私が参上して申し上げるべきことですが、只今罷り上っているので(大坂かどこかに上っているので)、一書を差し上げます。恐々謹言。

 

 

 

20 文章番号9 天正20(1592)年3月27日付

左衛門佐隆景(小早川隆景)→堅田元慶

 

【原文】

宮十兵衛(忠理)被申分之儀、安國寺紙面之辻を以、先度申入通定可為御披露候、

然らば此節高麗(朝鮮)御人数遣ニ付いて、只今之御配之内にて候へ共、

西堂(興禅寺元索)下向迄之儀、旁為御心得、先被浮置候様御心得可為肝要候

恐惶謹言

(文録元年)三月二七日 

                             左衛門

                           隆景御判

堅 兵少 申給へ

【書き下し文】

 宮十兵衛申し分けらるるの儀、安国寺紙面の辻を以て、先度申し入るる通り 定めて御披露を為すべく候、然らば此の節高麗御人数遣わすに付いて、諸家の所領等御差し引き之(これ)有るべく候、彼(か)の十兵本領の儀は、只今の御配りの内にて候へ共、西堂下向迄の儀、旁(かたがた)御心得を為し、先ず浮き置かれ候様 御心得肝要たるべく候、恐々謹言

 

【現代語訳】

 宮十兵衛の申し分について、安国寺の書状の結果を受けて先に申し入れた通り、(輝元に)御披露してほしい。その際、この節は高麗に人数を派遣するために(の費用にあてるために)諸家の所領等を差し引いており、かの十兵衛の本領も只今の割り当ての内に入っているが、西堂が下向するまでの間は皆々で配慮して、その本領を(割り当てから)除外しておくように心得られることが肝要である。恐々謹言。

 

21 文章番号12 慶長2(1597)年12月28日付

   藩主輝元→宮彦七(元常)

   藩主輝元より「与左衛門尉」を許されたということでしょうか?

 

【原文】

任 与左衛門尉

慶長弐年拾二月二十八日 御判(輝元公)

宮彦七(元常)どのへ

 

 

【書き下し文】

 与左衛門尉に任ず

 

【現代語訳】

 与左衛門尉に任ず。

 

1599年宮盛慶が死亡

 

 

1591年                                                     

2月1日には穂田元清を通じて小早川隆景へ愁訴                           

11月8日には安国寺恵瓊、堅田元慶を通じて小寺鎮賢へ                           

12月4日には国司就信をつうじて小寺鎮賢へ愁訴したがダメだった 

「萩藩閥閲録巻149」

                       

 

愁訴しても駄目だったのは山内家が小奴可、久代内にて所領があり、また、旗返の戦い以降に山内氏が臣従する条件として                                                                           

当時山内氏が支配していた、小奴可、久代内の領地は元就からの扶持として知行が承認された                                                      「東城町史406P]   

とあり、山内氏の知行のかかわりあいのなかで山内氏から相当な応酬があった事は想像に難くない                                                                       

参考文献                                                                       

東城町史中世史料編65P                                                       

六五 山内隆通条書并毛利元就等連署返書「山内首藤文書216号」                                                                                 

一 宮家并東分小怒可 其外久代 当時知行之偽、 一所茂不残 元就以御扶持可致知行事 乍去備中八鳥山之儀者、無申分候事                                        

 

山内隆通は毛利氏に臣従する条件の1番として上記の条件を提案してされた

 

「宮家(おそらく久代宮氏)の旧領ならびにその東側の小奴可,その他久代」は1つ残らず欲しい しかも元就殿から承認された扶持として欲しい しかしながら備中の八鳥山の所領に関しては放棄する

久代宮氏の所領やその東側に位置する小奴可宮氏の所領もしくは久代の一部の土地も山内氏のの所領として承認された                    

 

当然この当時宮氏の所領に関して久代宮氏が管轄しており毛利氏が勝手に承したことになるがこれが後に篠津原合戦の遠因となる


1591年頃の宮氏の所領

宮仁左衛門 997 久代宮氏の宮広尚と推測される
宮十兵衛 253 小奴可定実の曾孫にあたる宮忠理と推測される
宮瀬兵衛 1032 宮広尚の祖父である宮景盛か?
宮彦七 30 宮元常 小奴可宮氏である宮元常
宮刑部丞 56 不明




毛利氏八箇国御時代分限帳より

 

しかしこれをみると

傍系である宮十兵衛の方が所領が多い事になる

なぜなのか?

 

1600年                                     

小奴可宮氏は毛利の萩移動に伴い小奴可の地から移る                               

ちなみに久代宮氏は1591年に出雲国神門郡塩治に大幅削減で移動したのちに萩には行かなかった                                     

小奴可宮氏は萩へ移動した後は無給通として15石を給する                       


時系列

永正年間(1504〜1521)大内氏の支配下であった

1521年:小奴可定実が柏村の戦いにおいて宮政盛から感状を賜る

大永年間(1521〜1528)以降は尼子氏に従う

1525年:久代宮氏家臣の鳥羽氏が亀山城にあった神社を奴可部移転して妙見宮と

      名前を変える

      この当時本家の久代宮氏が影響力を持っていたと考えられる

 

1534年:大内氏の配下であった毛利元就に亀山城を攻められる中小奴可定実病没

      再び大内氏の支配下にはいる

1536年:毛利隆元を人質として大内へ差し出す時に小奴可の一族である竹英も加える

1540年頃:本家の久代宮氏(宮景盛)が所領を拡大して小奴可宮氏の領土も積極的に

      押領し始める

天文年間(1532〜1555)天文年間に尼子家臣の亀井氏が亀山城に居城する

1552年:宮盛常が大内晴英に太刀を送る(このころは大内支配下)

1553年10月:小奴可隆盛討死(旗返しの戦い) 所領を大幅に削られる

      この頃山内氏も毛利氏に臣従するがその条件として、小奴可、久代の土地   

      の安堵を求めて毛利氏もこれを認める

1557年:宮盛慶が生まれる(父盛常22歳)

1560年:足利義輝より「下野守」を授けられる、上野信孝が伝える(2月20日)

(お礼として宮盛常から足利家へ太刀一振りと銭100疋、上野信孝に銭100疋を贈る)

1567年:宮盛常の大叔父である竹英が亡くなる

1578年:小奴可の宮元常が生まれる(父盛慶22歳)

1586年:毛利輝元より宮盛慶へ「下野守」が伝達される

1591年2月1日:穂田元清を通じて小早川隆景へ愁訴                           

11月8日:安国寺恵瓊、堅田元慶を通じて小寺鎮賢へ                             12月4日には国司就信をつうじて小寺鎮賢へ愁訴

 と今まで過去幾度となく30年以上にわたり旧領の回復を愁訴したが結局受け入れられず、結局は毛利の所領となった

1599年:宮盛慶死去

1600年:関ヶ原の戦いに於いて毛利氏萩に移動(小奴可宮氏も従う)

 

小奴可宮氏

初代、小奴可定実より以前はよくわかっていない、小奴可地方を治めていたとなると一番有名なのは奴可入道西寂であるが、西寂は源平の合戦で捕えられて亡くなった

しかし断片的に奴可を苗字とした人物もおり、これらの系統を継ぐ者が戦国の世に宮氏と婚姻関係を結ぶことにより、小奴可宮氏として成立したものと考えられる

 

鎌倉、南北朝の小奴可地方の豪族

 

奴可入道西寂

治承4年(1180)伊予国高縄城で反旗をひるかえした河野通清を討ちとったが、鞆浦で遊女と戯れている途中に息子の河野通信に隙を突かれて殺された。殺された時には生捕りにされて高縄城へ引き帰り、そこでノコギリで首を切った。西寂も去る者で河野の墓の上で放尿する是より河野家に墓を築く事をしなくなった。

 

 

奴可四郎 

鎌倉殿より奴可郡司に補せられ、後、摂州に移る。

元弘三年(1333)、京都の敵を退治の為、北條の催促によって足利殿上洛ありて赤松に向う。時に六波羅より目代として奴可四郎、中吉十郎を添られる。足利殿官軍に属し山崎に軍立せず、随将士卒を引具して大江山を越る。奴可、中吉、謀叛を察し、両勢引別れ六波羅に帰りつく。六波羅没落し関東へ落行、路、江州番場にて越後守仲時自害の時、殉死せり。

 

注:元弘三年(元弘の変)

  越後守仲時=北條仲時

  江州番場=江州番場峠(現在の滋賀県米原市)

太平記に詳しく記載

 

 

奴可源吾

観応元年(1350)石州の三隅入道、足利直冬朝臣に従い三隅城に籠城す。

足利将軍尊氏卿より退治すべしと、高越後守師泰を大将として中国の勢 師泰が令に従うべき旨命せられる。師泰、石州に発向して中国の勢を招き、先、佐波善四郎が青杉、丸屋、鼓が崎の三城を攻む。

時に三吉一揆の選兵二十七人を以って鼓が崎の城を落とす。その一人なり。

 

注:観応元年(観応の擾乱)

  石州=石見国(島根県)

  三隅入道=三隅氏

  足利直冬(足利尊氏の庶子で叔父の足利直義の養子となる)

  佐波善四郎(佐波顕連) 南朝の臣 高師泰に攻められ死亡 

 

奴可平四郎

明徳二年(1392)山名陸奥守氏清、謀叛の時、大内介義弘に従い、山名が家長、小林修理亮の軍を破る、その一人なり 

注:明徳二年(明徳の乱)

 

 

これらの人物が小奴可地域を支配していた小豪族や地頭クラスであったと推測される

 

では戦国時代に颯爽と登場した小奴可宮家を見てみようと思う

 

小奴可宮氏初代〜5代

 

初代    小奴可定実     

官途名  下野守

通称  亦次郎

生没年  萩藩諸家系譜 天文3年(1532年)   

来歴  これより以前は不詳、本家は久代宮氏と伝えられるが詳しい事は分からない

    地方の小豪族が婚姻関係で久代宮氏の一族に連なるようになったのが事の真実か   

    もしれない

 

初代弟 竹英

別名  策雲玄龍、(竹英東堂とも)

生没年 萩藩諸家系譜 永禄10年(1567年)   

来歴  小奴可定実の弟で、安芸国吉田の興禅寺の2世である

       天文6年(1537)毛利元就の長男隆元を人質として大内義隆に差し出した際、 

       従者として加えられている興禅寺龍東堂、策雲、竹英、玄龍などど号し興禅寺二

       世であった、興禅寺は元就以前から吉田郡山城内にあった臨済宗の大寺で、元就

       は厚く崇敬していた。また、1553年の旗返の戦いでは甥の宮隆盛が討死した

       事から、その息子盛常の進退や所領を安堵する為に奔走した。

       

       疑問としては備北の小奴可にいる人物が何故安芸国の吉田にある興禅寺の2世に

       なっているのかが分からない、しかし、寺に僧侶として入り、尚且つ2世となる   

       のであれば、それ相応の身分と勢力があったと思われ、小奴可宮氏が備南宮氏や

       久代宮氏の一族に連なる人物であったと想像できる。

       広島市東区明星院の記載で前南禅とあり南禅寺で修業をしたと思われるので

       宗派は南禅寺派かもしれない

 

       元就が詠んだ詠草(和歌、俳句等の草稿)に

       興禅寺にて竹英東堂花をみせられしに

      「かくはかり情けあるしの宿なれハ

                  花の色香をなににたたへん」   と詠んでいる

 

       永禄3年〜4年の芸雲和議では竺雲和尚とともに交渉にあたる

 

   2代目 宮隆盛

   官途名 下野守

   生没年 不詳であるが旗返の戦いで討死とあるので1553年で亡くなっている

       譜録に35歳で亡くなったとあるので1519年生まれか?

   来歴  小奴可定実の嫡男 天文年中の初期には大内氏に従っていたが、父、定実が尼子

         氏に寝返って大内に臣従、しかし天文22年(1553)尼子氏に寝返り旗返城の

         戦いにおいて討死「本領之内、久代之地は大内氏の「預かり」になってしまう。

       しかし、1553年当時はすでに家督を息子の盛常に譲っており不可解な行動を

       とっている、それ以前に本家久代宮氏の小奴可押領なのでかなり勢力を削減され

       ており、また山内家が江田氏に尼子氏に寝返るように催促したように、小奴可宮

       氏にも催促したのかもしれない、また天文年中には一時期尼子氏が侵攻して居城

       である、亀山城が尼子家臣である亀井氏が城代として入っていたことから強制的

       に尼子の支配下になっていたのかもしれない、ともかく、重要な局面において、

       毛利氏に敗れ、その勢力はさらに削減された。

 

   3代目 宮盛常

   官途名 民部太夫 下野守

      没年  萩藩諸家系譜    天正元年2月15日死亡 享年37歳    1536~1573

来歴  宮下野守隆盛の嫡男 天文22年(1553)の旗返城の戦いにて父親の隆盛討死

    「本領之内、久代之地」は大内氏の「預かり」になってしまう、理由はいまだ「若

    年」のための処置であったというが、この時盛常は元服をおえ、すでに17歳であ

    ったから、しかも天文21(1552)年12月23日付 には 「萩藩閥閲録

    巻149」      により大内晴英→宮盛常(16歳)

    宮盛常が大内晴英(大内家当主)に、家督のお祝いとして太刀を送り、そのお返

    しとして同様に太刀を遣わすとの内容の書類が残っており当時すでに家督相続を

    していたことは確かである。ともあれ小奴可宮氏は「久代之地」返還を求めて嘆

    願を繰り返すようになる

 

4代目 宮盛慶

   官途名 中務少輔 下野守

   没年  萩藩諸家系譜         慶長4年9月17日死亡 享年42歳  1557~1599

   来歴  宮下野守盛常の嫡男 豊臣秀吉の検地によって毛利氏も天正16年から秀吉の命に

       従い八カ国で検地を実施したこの検地の完了で毛利氏は譜代、外様層のみならず

       国衆有力家臣の本拠地にいたるまで実態把握が可能になり、家臣の知行かえを行

       う条件は整ったそこで念願の久代之地の返還を行うことになった

          1591年2月1日には穂田元清を通じて小早川隆景へ愁訴しまた11月8日に

          は安国寺恵瓊、堅田元慶を通じて小寺鎮賢へ12月4日には国司就信をつうじて

          小寺鎮賢へ愁訴したが結局は小奴可宮氏には返還されず毛利氏の倉入地になった

          と思われる。     

 

5代目 宮元常

   官途名 但馬守

   通称  彦七 與左衛門

   没年  萩藩諸家系譜         正保2年5月29日死亡 享年66歳  1578~1645

   来歴  宮下野守盛慶の嫡男 1591年の所領として宮彦七30石とある1591年

       当時元常はまだ14歳なのでひょっとしたら父親である盛慶の通称かもしれない

       が、とにかく小奴可宮氏の本家は石高が30石であったことは間違い無い。

       父親が1599年に亡くなると当主となったと思われるが、翌年の関ヶ原の戦い    

       において、主君である毛利輝元を一緒に萩に移り、ここに小奴可宮氏は終焉する

    慶長2(1597)年12月28日付「萩藩閥閲録巻149」 

    藩主輝元より「左衛門尉」を許された。

 

 

   元慶弟 元策

   別名  西堂

   生没年 萩藩諸家系譜 寛永21年(1644)9月30日没    

来歴  4代宮元慶の弟で、安芸国吉田の興禅寺の4世である

       興禅寺2世が初代小奴可定実の弟であり(曾祖父の弟)ゆかりが深い

    天正19(1591)10月26日付「萩藩閥閲録巻149」で

              興禅寺四世元策西堂へ、本領の件については、検地が終わってから沙汰がある

                  旨の文章があり、この元策も実家の所領回復の為に奔走していたことが読み取                              

       れる天文14年(1586)に2世明叔元揚死去により妙寿寺の3世となる

       萩に移動になってからは防州山口妙寿寺の住職となる

       

広島市東区明星院の記載で前南禅とあり南禅寺で修業をしたと思われるので

       宗派は南禅寺派かもしれない

   

 南禅寺 (なんぜんじ)は、京都市左京区南禅寺福地町にある、臨済宗南禅寺派大本山の寺院である。山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)である。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門(大明国師)。日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつ。

 

 

 

   傍系  宮忠理 

   通称  十兵衛

   生没年 不明   

来歴  小奴可定実の曾孫である

    定実・・・房忠・・・良次・・・忠理 となる

    1591年の所領として宮十兵衛 253石とある 主家である宮彦七の家録が

    30石に対して、宮十兵衛(忠理)の家録が253石というのは疑問が残るが

    槍働きで勲功があったのかもしれない

    十兵衛も主家の所領回復に奔走した事が窺われる

    天正19(1591)年12月4日付「萩藩閥閲録巻149」で小寺鎮賢から

    宮忠理へ何かしらの嘆願(所領回復か?)をした返事がある

    嫡男がおらず宮盛常の三男(少輔五郎)を養子に迎えるが正保年中に暇を願い出

    て断絶する、その後は不明



小奴可宮氏ゆかりの石塔について

亀山城から北東に宝篋印塔や五輪塔のある墓所がある、墓の形や大きさからこの地を治めていた豪族の墓と考えられる


H22.6.6 018.jpgNO1

2基の石塔とも、笠と塔身だけが宝篋印塔のもので、相輪のところには、五輪塔の空・風輪が載り、基礎の部分ははっきりしないが、別物が積まれている。笠を観ると、右は隅飾(突起)が直立に近く、左の笠の隅飾は少し反っている。
しかし、だいぶ風化しているが、強いて時代の判定をすると、右の笠が室町前期、左が室町後期とみたいと思う。
ただ、注目すべきは、右の五輪塔の空・風輪は、空輪が幅の広いお椀のような風輪に食い込み、形がよいので、南北朝に近い室町前期とみてもよいと思う。
塔身には仏像が刻まれているが、これは地域の特徴だと思われる。
もっとも、宝篋印塔の時代判定の大きな決め手になる基礎に格狭間があれば、さらに時代がはっきりするが残念。



H22.6.6 071.jpg
NO2

この石塔は空輪、風輪、火輪は五輪塔のものであるが、下の2石は宝篋印塔のものだろうか?。
火輪は前の五輪塔と同じで室町前期とみたいのですが、空輪は先が尖り、時代が下がる形をしています。江戸時代に近い室町後期だろうか?この空・風輪が時代を下げるので、世代を重ねた墓地と考えらる。


まず、形態史料で、時代を押さえ、文献史料と合わせると、(NO1)の2基の宝篋印塔の笠、塔身の写真を見ると、16世紀は動かないのではないか?16世紀、戦国時代は社会が荒れすさんでいたので、石造物の造りが一般によくない。したがって、風化が進む。それにしても、梵字は比較的彫りが深く、よく残っている。ただ、石材はすべて花崗岩でしょうか。五輪塔の空・風輪が少し白っぽく観えますので、石灰岩かなとも思うが? 五輪塔は空・風輪の形から少し遡り、15世紀の可能性もある。 
16世紀の宝篋印塔ということになりますと、亀山城主でありました小奴可定実(?〜天文3年、1534)、小奴可竹英(?〜永禄10年、1567)、小奴可隆盛(?〜天文22年、1553)、宮盛常(天文5年、1536〜天正元年、1573)、宮盛慶(永禄元年、1558、〜慶長4年、1599)が考えられる。
宮盛慶は慶長初期の没ですから、ここまでは、形態上、下がらないから、天文3年没の定実から天正元年没の盛常までが該当する可能性がある。
いずれにしても、亀山城に対峙した場所にあり、丑寅の方向の八幡宮の位置からみて、小奴可宮氏の天文から天正にかけての城主一族(石高 1000石)の墓所と考えられる。

 なお、この墓所の上方にある五輪塔(NO2)は、形がよく、少し時代が遡るかもしれないが。ただ、宝篋印塔の相輪は刻みが浅く、16世紀頃のものではないか?


墓の世代が鎌倉末期から南北朝を始まりとして戦国末期を終わりとするこの小奴可宮氏の墓石群の結果から1500年代初期から始まる小奴可宮氏よりもさらに200年弱遡る事となる、つまりそれは平家物語にでてくる奴可入道西寂が鞆の浦で殺されてもなおこの地方に小豪族が連綿と続き鎌倉末期や南北朝には太平記にも記載されている人物を経て、16世紀初頭の小奴可宮氏につながった事を示唆すると思われる
なぜなら、同一の墓所から300年にまたがった墓石が見つかったことから、この墓の一族は同族である可能性が高い(全く違う一族であれば墓の場所も違うはずなので)
このように、小奴可地方の小豪族が段々と力をつけていき、15世紀末期から16世紀初頭に小奴可定実が久代宮氏もしくは備南宮氏と婚姻を結び、晴れて小奴可宮氏を名乗ったものと考えられる、それは、小奴可定実の息子から隆盛、盛常、盛慶など盛の通字があり、
「盛」が備南宮氏の惣領家の通字であるため(久代宮氏も盛の通字が使用されている)
小奴可定実が宮氏の娘を娶り正式に小奴可宮氏と名乗ったものと推測出来る。


以上は推測であるが、地域の小豪族がその地方の大豪族と婚姻関係を結び一族の仲間入りをするのは珍しくはない


まとめ&雑感

小奴可宮氏は地方の土豪だったものが徐々に力をつけていき、戦国時代に宮氏と姻戚関係をもつことにより宮氏の庶派となったと考えられる
16世紀前半までにはある程度の勢力を誇っていたが、毛利氏に攻められ、小奴可定実病没や息子の宮隆盛の旗返城の戦いでの討死など不運が重なり、また主家、久代宮氏にも所領を押領されるということで家運を落ちていったと思われる、しかし、足利将軍家からの官途を受領するなど格式は高かった。宮隆盛の旧領の回復を嘆願するものの、山内氏の邪魔などで、なかなか進展せず結局1591年の検地により本領は毛利家の領地となる、関ヶ原で敗れ萩に移り武士階級としては最下層にあたる無給通(むきゅうどおり)となり15石の家録になったが宮家を後世に残した家となる(備南宮氏は16世紀中ごろに毛利氏に攻められ滅亡、また久代宮氏も11代広尚の石高虚偽申告により当主の毛利輝元の怒りを買い出雲の塩冶に左遷となる)

山口には明治初期には宮家があったそうであるが、現在では電話帳にも記載されておらず子孫を発見することは出来ない。
16世紀の前半に突如として現れ1599年4代目の宮盛慶や亡くなったことで小奴可における小奴可宮氏の歴史も幕を閉じる事になる