こころ、ふたつ


 リンハルトは、自分が異性と同性に対して性的な魅力を感じる質であることを理解していた。
 性愛に対して他国ほど制限がない帝国では、そういった人たちともしばしば関わることがある。だからそれをおかしいだとか、隠しておくべきだとかは思ったことはない。
 とはいえ、いずれにせよ好みの傾向はあるし、特に同性に対しては異性ほどその手の魅力を感じないことが多かった。
 リンハルトが惹かれた相手がその好意に応えられる可能性も低く、結果として周囲には異性にしか興味がないと判断されているのだろう。
 そして、カスパルは自分が性的に好む範疇ではないと、リンハルトは思っていた。
 好みであるとかないとかの以前に、家族のように育った幼なじみにそのような気持ちを抱くわけがないという思い込みがあったのだろう。
 カスパルのことを、子供だと思っていたからというのもある。
 リンハルトとカスパルは同い年であるし、カスパルのほうが数節早く生まれていることは知っているが、カスパルは体も小さく、精神面にも未熟な部分が多かったから。
 リンハルトの身長が伸びてきて、関節の痛みに悩まされるようになった頃も、カスパルのつむじはリンハルトが見下ろすような位置にあった。
 リンハルトの手が大きくなって、筋が浮かんで骨ばってきたときも、カスパルの手はまだふにふにとやわらかくて、しっとりと湿っていた。
 リンハルトが異性に興味を持つようになって、逢い引きをするようになったときも、カスパルは鍛錬にしか興味がなくて――そんなところも未熟で子供のようだと感じていた。
 そんなカスパルを「そういう目」で見ているのだという自覚を得たのは、五年ぶりにカスパルと再会した日の夜だった。
 ガルグ=マクの戦いのあとベルグリーズ家と絶縁したカスパルは、どこかに消えたあと連絡のひとつもよこさなかった。彼の家族ですら彼がいまどこでなにをしているのか、生きているのか死んでいるのかもわからないという状態だったのだ。
 約束の地で五年ぶりに再会したカスパルは、別人のように精悍な青年へと成長していた。リンハルトよりいくぶんか下にあった目線もずいぶんと近くなったし、細かった体は厚い筋肉に覆われていた。
 大人に、なったのだと思った。
 夜になり、平服を脱いで薄着になったカスパルを見たときのことだ。
 その喉仏だとか、逞しい腕だとか――そういったものが、リンハルトには妙に艶めかしく映ってしまったのである。
 リンハルトはそんな自分に動揺した。
 五年の歳月が、自分とカスパルを「他人」にしてしまったのだろうか。「他人」になったから「そういう目」で見てしまうようになったのだろうか。リンハルトにはわからなかった。
 ただ、カスパルのことを性的に意識するようになったことだけは事実で――それはひどく憂鬱な出来事だった。
 カスパルはなにも知らない。リンハルトが抱いている劣情も、胸の内に渦巻く暗い感情もなにひとつ知らないまま、五年越しに再会した幼なじみとの再会を無邪気に喜んでいる。
 リンハルトは、カスパルとは親友でありたかった。だからこの想いは口にせず胸の奥へとしまい込み、そのうち風化するのを待つべきだと思った。
 ……それができるほど自分の気持ちが穏やかな感情でないことを理解したのは、再会してから数日後のことだった。

「……あれ」
 リンハルトに旅先での武勇伝を語り聞かせていたカスパルが、なにかに気づいたようにふいに言葉を止めた。
「それ、まだ使ってたのか」
 訝しみながら首を傾けるリンハルトの後頭部をカスパルが指で示す。
 その先にあるものが自分の髪紐であることに気がついたリンハルトは、まるで心を見透かされたような気がして息を呑んだ。
「……ああ、うん。使い慣れてるから」
 カスパルの視線から逃れるようにリンハルトは目を伏せる。
 それは幼い頃にカスパルから貰った髪紐だった。
 貰った、と言ってもきちんとした贈り物として貰ったわけではなく、カスパルが適当に結いつけていったものをそのまま使い続けているだけだ。
「懐かしいな」
 カスパルは目を細めて懐かしそうに笑う。
 眩しいものを眺めるようなカスパルのその笑顔に、リンハルトはまた胸がざわめくのを感じた。
「うん……そうだね」
 リンハルトはそんな心情を表情には出さずに頷く。
 カスパルの笑顔に、リンハルトはとても弱かった。彼に笑顔を向けられるとなんでも許してしまいそうになるし、自分の悩みだとか葛藤だとかが、ひどくちっぽけなものに思えてしまうからだ。
「君こそまだ持ってたんだね。そのお守り」
 これ以上この話題を長引かせないように、リンハルトは強引に話を逸らした。
 リンハルトの言葉が示すものが何か察したカスパルは「ん?」と曖昧な返事をしつつ、腰から下げているお守りに触れる。
 それはずっと昔に、リンハルトがカスパルにあげた雷避けのお守りだった。雷を怖がるカスパルのために、自分の魔力を少し込めて作った特製品だ。
 カスパルは昔から雷が苦手で、子供の頃はよくリンハルトの寝台に潜り込んできたものだった。ひとつの寝台でぎゅうぎゅうに身を寄せ合い、雷鳴が聞こえるたびにカスパルは怯えてリンハルトの腕にしがみついていた。
「ああ、なんかもったいなくってな」
 カスパルはからからと笑いながらお守りを指先で軽く撫でる。
 その笑顔にまた胸の奥がざわめいて、リンハルトは法衣の胸元を握りしめた。
「一人で旅してるときもさ、これを持ってるとお前のことを思い出せるからな。親父や兄貴とは絶縁しちまったし、オレにはもう帰るところなんてねえけど……リンハルトは相変わらずなんだろうなって思ったら、なんか安心するんだよな」
 滔々と語るカスパルを前に、リンハルトは自分の中に灯った小さな火が熱を持つのを感じていた。
 ――自分の気持ちを知ってほしい。そのうえで受け入れてほしい。
 今まで自分の中にはなかったひどく傲慢な想いが、腹の底から込み上げてくるのをリンハルトは感じていた。自分の中に生まれたこの気持ちを、無かったことにはしたくないと思ったのだ。
「カスパル」
 リンハルトはことさら明瞭にカスパルの名を呼ぶ。
 その空気の変化に気づいたのか、カスパルは神妙な面持ちを浮かべた。
「僕、男の人が好きなんだよね」
 突然の告白に、カスパルはやや驚いたように目を瞬かせる。言葉の内容そのものよりも、いまその話を切り出すことに対して驚いているのかもしれない。
「ああ……それは、なんとなくわかってた」
 しばし思案するような表情で沈黙したのちに、カスパルはぽつりと呟いた。
 隠していたわけではないが、わざわざ公表することでもないと考えて、リンハルトは自分の性的指向を同性の交際相手以外には話したことがなかった。
 それゆえに親ですらリンハルトの性的指向に気づいているのかは怪しいが、妙に目敏いところがあるカスパルは気づいていたらしい。
「わかってて僕といてくれてたんだ」
「そりゃあ、避ける理由ないからな」
 リンハルトの問いかけをカスパルはこともなげに返す。
 カスパルは幼い頃から自分の感情をはっきりと口にする性格だったから、リンハルトと距離を取りたいと思えば素直にそうしていただろう。
 それがなかったことを嬉しく思うと同時に、そうであったならいまこうして悩むこともなかったのかもしれないと恨めしくもなった。
「それを踏まえた上で言うんだけど……僕、カスパルのことが好きみたいだ」
 その言葉を口にするのに、リンハルトはひどく緊張していた。口の中がからからに乾いていくような感覚を覚えながら、カスパルの返事をじっと待つ。
「……そうなのか」
 その短い答えにどんな意味が込められているのかは、リンハルトにはわからなかった。カスパルは困ったように眉根を寄せて、少し俯いて言葉を続ける。
「……悪ぃ」
 拒絶とも取れるカスパルの返事に、リンハルトの胸の奥がずきりと痛んだ。息苦しささえ覚えてしまい、目の前の景色が霞みそうになる。
 自分の抱えている想いとカスパルの想いが違うであろうことも、カスパルがそういった感情に応えることが苦手な性質であることも、リンハルトは理解していた。
 カスパルに想いを拒絶されたとしても、それはリンハルトが嫌われたのではなく、ただそういう性質なだけなのだ。そのことも充分に理解しているつもりだった。
 そうであっても、リンハルトは一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。
「……そっか」
 なにか言わなければと思うのに、唇からはなんの言葉も出てこない。
 ただ俯くだけのリンハルトの前で、カスパルはゆっくりと顔を上げた。その表情はひどく思い詰めた色を浮かべていて、リンハルトは思わず息を呑む。
「……オレさ、よくわかんねえんだよな」
「わからない?」
 カスパルはリンハルトから視線を逸らすと、また少し考え込むように沈黙する。
 そんな幼なじみの表情を見たことがなかったリンハルトは、ただただ目を丸くして言葉の続きを待った。
「お前の気持ちに応えてやりたいって思うんだけどさ……なんか、違う気がするんだよな」
 カスパルの言う「違う」がなにを指すのか、リンハルトにはわからなかった。ただなんとなくではあるが、自分とカスパルの気持ちにずれのようなものがあることだけは察することができた。
「……違うって?」
 そのずれがなんなのか知りたくて、リンハルトはカスパルの言葉の先を促す。
「それがわかんねえって言うか……リンハルトのことは確かに好きだけど、お前と同じ意味の『好き』じゃないかもしれねえ」
 リンハルトの問いかけに、カスパルはひどく困った様子で眉尻を下げた。
「オレはたぶん、お前みたいな気持ちになったことがなくて……だから、お前がどういう意味でオレに『好き』って言ったのかわかってやれない気がするんだ」
 カスパルはそう言葉を絞り出すと、ひどく申し訳なさそうに眉根を下げて俯く。
 カスパルの表情を見れば、それが拒絶の言葉を緩和させるための社交辞令ではなく、本心からの言葉であることはリンハルトにも理解できた。
「わからねえのに、いいとか駄目とか答えるわけにはいかねえだろ? だから、答えが出せなくて悪ぃなって思ったんだ」
 カスパルは顔を上げ、まっすぐにリンハルトを見つめた。その真摯な瞳には、ただ申し訳なさと戸惑いの色が滲んでいた。
 カスパルの言葉には裏も表もない。あるのは、リンハルトに対する誠実な気持ちだけだ。
 その思い遣りを痛いほど感じながら、リンハルトは空色の瞳を見返す。
「……そっか。じゃあ、答えがわかったらそのときにまた教えてくれないかな。時間がかかっても構わない。いつまでも待ってるよ」
 リンハルトの言葉に、カスパルは安堵したように息を吐く。
 リンハルトとカスパルの「違い」が生来のものであるとするなら、この先カスパルがリンハルトの言葉の意味を自分の感情として理解する日は来ないのかもしれない。
 それでも、リンハルトは待つことにした。
 カスパルの誠実さに応えたいと思ったのだ。
 カスパルがリンハルトの気持ちを理解することがあったとして、その相手が自分であったなら――リンハルトはそんな希望を抱きながら、まだあどけなさの残る幼なじみの笑顔を眺めていた。



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