メリセウス要塞にて


 鎧の靴底が石造りの地面を蹴る音を聞きながら、リンハルトは大股で歩くカスパルの後ろについていく。
 敵軍の次なる侵攻先はこのメリセウス要塞だろう。本来の主将であるベルグリーズ伯が遠征に赴いているいま、代理の主将として任命されたのは彼の次男であるカスパルだった。
 メリセウス要塞の城壁の中には町がまるごとひとつ入っており、二人が子供の頃に世話になった住人たちが生活をしている。そういった人々への挨拶も兼ねて、カスパルは直々に要塞内の哨戒を行っていた。
「あら、そっちはリンくん? 大きくなったわねえ。二人とも男前になっちゃってまあ」
 カスパルの数歩後ろを歩きながら欠伸を零していたリンハルトは、記憶よりいくらか皺の増えた修道士に話しかけられて「どうも」と軽く会釈をする。
 いつの間にか、ほとんどの知り合いを見下ろすほど身長が伸びていたようだ。カスパルと一緒に挨拶をして回っているうちに、リンハルトは今さらその事実に気がついた。
「メリセウス要塞が戦場になるなんてなあ」
「まあ、要塞だからね。本来はそういう用途の場所だよ」
 近道として使っている裏路地を並んで歩きながら、二人はとりとめもない会話を交わす。
「しっかし、意外だったぜ。お前がこんな激戦区の戦闘に参加するなんてな」
「……敵軍が帝都まで侵攻してきたら、どちらにせよ僕も戦うことになるだろうしね。遅いか早いかの違いだよ」
 こうやって二人で散歩や雑談をできるのも、これが最後かもしれない。
 子供の頃に見つけた道を歩いているせいかどうにも感傷的になってしまい、リンハルトは隣に並ぶ幼なじみの横顔に視線を向けた。
「ねえ、口付けしようか」
「はあ?」
 ふいに足を止めて提案すると、カスパルは間の抜けた返事をする。
「嫌なの?」
「嫌じゃねえけど」
 嫌じゃないんだ……とは思ったものの、リンハルトはつっこまなかった。
「そういうのは戦が終わったあとにしろよ。いまだとなんか……死ぬ前にやっとこうみたいな感じになるじゃねえか」
 ――そのつもりだったんだけど。
 リンハルトは言いかけたその言葉を飲み込んだ。
 この先も二人で一緒に生きていけるならそれが一番いいとは思う。でも、きっとそれは叶わない。そう断言できる程度には、リンハルトはカスパルの性格を理解していた。
 だから、せめて最期のときくらいは君と同じ時間を過ごしたかったんだ。
 ……そんなことは口に出せるはずもなく、ただ黙って微笑むことしかできなかった。
「わかったよ、じゃあこの戦いが終わってからやろう」
「ああ。首洗って待ってろよ」
「それはこういうときに使う言葉じゃないと思うけど」
 リンハルトは呆れながらもまた笑い、それから再び歩みを進める。
 敵軍の旗印が南の空に見えたのは、それから数日後のことだった。





 カスパルの看病をするリンハルト



 エーデルガルトに引き摺られるようにして教室に足を踏み入れたリンハルトは、見慣れた水色の髪が見当たらないことに気づいて首を傾げた。
 時間を厳守するカスパルが、寝坊常習犯のリンハルトよりも遅く来ることはまずないと言える。となれば、なんらかの理由で欠席をしたのだろう。
「……カスパルは来てないんだ? 珍しいね」
「体調が悪いので今日は休むと言っていましたね。朝一番に私の部屋を訪れたので何かと思えば……」
 誰にともなくつぶやいたその言葉に反応を示したのは、隣席に座っているヒューベルトだった。
 普段であれば、カスパルがヒューベルトに個人的な用事をもちかけることはほばないが、今回は隣室だったために伝言役を頼んだのだろう。
 カスパルがいない教室は少し静かだった。カスパルがいなくともフェルディナントやベルナデッタが騒がしいので、騒がしいことには変わりないのだが――まあ多少は静かと言える。
 午前の授業を終えて昼食を済ませたリンハルトは、食堂でシチューを貰ってからカスパルの部屋に向かった。学生寮には調理設備などないし、おそらくは何も食べていないのだろう。
「カスパル、入るよ」
 学生寮の二階へと赴き、声をかけてから扉を開ける。
 リンハルトの予想通りカスパルは寝台に横になっていたが、眠ってはいなかったようですぐに体を起こした。
「なんだ、リンハルトか」
「なんだじゃないでしょ。昼食は食べたの?」
「まだ食ってねえ。熱があるのに食堂に行くわけにもいかねえし……」
 リンハルトは寝台の傍の椅子に座ると、持ってきたシチューを机に置いてカスパルの額に手を当てる。カスパルはもともと体温が高いほうなのだが、確かに普段よりも熱いように感じた。
「君が熱を出すなんて珍しいね」
「ああ、しくじったぜ……オレの体調管理がなってなかったせいだ。くそ、このぶんじゃ今日の鍛錬はできねえよな」
「そうだろうね。まあ、数日休んで体調を整えたらまたすればいいよ」
 リンハルトの言葉にカスパルはあからさまに落胆した表情を見せる。
 ベルグリーズ流の鍛錬は、訓練を積んでいる兵士でも音を上げるほどの厳しさで有名だ。リンハルトからすればあれを毎日やるほうがよっぽどつらいが、カスパルはそうではないらしい。
「君の場合、むしろ休むのにいい機会なんじゃない? どれだけ体を鍛えたって、体調を崩したら本末転倒でしょ」
「それはそうだけどよ……」
「ああ、そうだ。これ食堂で貰ってきたんだ。食欲があるなら食べるといいよ」
 リンハルトは持ってきたシチューを匙で掬ってカスパルの口元へと運んだ。カスパルは「自分で食べられるって」と拒もうとしたが、リンハルトが匙を離す気がないのを見ると観念して口を開ける。
「……うめえ」
「そう。よかったね」
 多少なりとも食欲はあるようで、カスパルはリンハルトから与えられるシチューを大人しく嚥下していく。
 カスパルに自分で食べさせれば、おそらくは流し込むようにして食べるのだろう。だが、いまは胃腸に負担をかけないためにゆっくり時間をかけて食べさせる必要があった。
「ごちそうさま」
「どういたしまして……っと」
 リンハルトは匙を置いて立ち上がり、カスパルの寝台に潜り込む。二人で眠るには狭い寝台だが、カスパルが小柄なのをいいことに強引に割り込んだ。
「おい、リンハルト?」
「僕も一緒に寝ようかなって」
「いや、駄目だろ。午後の授業受けてこいって」
 当然のような顔をするリンハルトにカスパルは困惑するが、リンハルトは気にせず毛布を引き寄せて自身の体をくるむ。
「休むよ。君が寝付くまでここにいる。授業の内容は学級の誰かに帳面だけ見せてもらえばわかるし」
「それだと相手に迷惑だろ」
「いいから寝るよ。おやすみ」
 カスパルの言葉を遮って目を閉じると、しばらくしてから小さなため息が聞こえた。どうやら諦めてくれたらしい。
 カスパル一人では室内で軽運動でも始めかねないが、こうして見張っている人間がいれば大人しく横になっていてくれるだろう。
 それからほどなくして、カスパルは寝息を立て始めた。リンハルトは眠る幼なじみの横顔を眺めながら、規則正しい寝息に耳を澄ませる。
 ただそれだけのことにひどく安堵してしまう自分の過保護さに呆れながら、リンハルトもまたまどろみの淵に落ちていった。





 釣りをするカスパルとリンハルト



 水面に浮かんだ浮きが、僅かな波に揺られてぷかぷかと揺蕩う。
 ガルグ=マク大聖堂の釣り堀に糸を垂らしていたリンハルトは、何度目かわからない欠伸をこぼした。
 魚を待つ時間は嫌いではなかった。釣果など期待していないが、釣れても釣れなくても、ぼんやり過ごす時間というのは心地がいいものだ。
 ……そう感じるのはリンハルトだけらしく、横で暇を持て余していたカスパルは早々に音を上げて屈伸運動を始めてしまったが。
「……もう、カスパルが動くから魚が逃げちゃったじゃないか」
 蜘蛛の子を散らすように去って行った魚たちを眺めながらリンハルトは嘆息する。
 多動傾向にあるカスパルはじっとしていることが極端に苦手だ。授業中は義務だと思って我慢しているのだろうが、趣味の場となると耐え難いらしい。
「んなこと言ってもよ、何もせずぼーっとしてて何が楽しいんだ? ただ待ってるだけならそのあいだに鍛錬でもしたほうがよっぽど実になるだろ」
「ただぼーっとしてるわけじゃないよ。魚との駆け引きを楽しんでいるんだ」
「駆け引きだあ?」
「そう。女の子と同じだね」
 言いながら、リンハルトは釣り竿を軽く揺らした。魚が餌に食いついた気配があったのだが、どうやら針ごと持っていかれたらしい。
「例えがわかんねえよ。女を魚だと思ったこともねえし……」
「まあ、君はどっちかと言うと魚のほうだよね。動き続けてないと死んでしまう種類の」
 リンハルトは針を付け直してふたたび水面に糸を垂らした。撒き餌につられた魚を誘うように小刻みに竿を揺らすと、水面が波打って小さな水飛沫が上がる。
「釣りって、魚との駆け引きなんだよね。この魚は何を考えてるのとか、糸を緩めたらどういう反応をするのかとか、糸の先からそういう細かい情報が伝わってくるんだよ」
「へえ……要するに、魚の気持ちを読み取るってことか?」
「そういうことかな。この魚はお腹が減ってるとか、警戒してるのかとか、今日は機嫌が良さそうだとかね」
「ふーん……そういうもんなのか」
 カスパルは手持ち無沙汰に自分の釣り竿を揺らしてみたが、当然ながら魚が食いつく気配はない。
「ほら、僕の餌につられて魚が寄ってきたでしょ」
「おおっ、本当じゃねえか!」
 カスパルは目を丸くしてリンハルトが掲げた竿の先を眺めた。水面で銀色の鱗がひらめき、飛沫が上がって水紋が幾重にも広がる。
「ここでがっついたら駄目だから、慎重にね」
 リンハルトは竿を揺らしながら、緩急をつけて糸を巻き上げる。やがて魚影が大きくなったかと思うと、水面から魚が姿を現した。
「おお! 釣れたぜ!」
 カスパルの歓声に呼応するように、糸の先では大きな魚がびちびちと身を躍らせている。
「まずは一匹目。やっぱり釣れると嬉しいね」
 リンハルトは魚を釣り上げて地面に落とすと、手早く針から魚を引き離した。
「よくわかんねえけど、なんかすげえな! やっぱリンハルトはすげえよ!」
「そんなにすごいものでもないけど……」
 魚を籠に放り込むリンハルトを見て、カスパルは興奮気味に身を乗り出す。
「いや、すげえって! オレ魚が餌に食いついたことすらねえし……あんなに警戒心が強いやつらを釣れるなんてすげえよ!」
「それは君が騒ぐから……ああ、ほら。また逃げちゃった」
 再び桟橋から離れていく魚を見ながらリンハルトは嘆息する。
「まあいいか、今日は天気もいいし……このままのんびり昼寝するのも悪くないかもね」
 リンハルトは竿を無造作に地面に放り、欠伸をひとつして横になった。
「おい、こんなところで寝るなリンハルト!」
「少し寝たら起きるから、カスパルも自由にしてていいよ」
「いや、寝るなら部屋に戻れよ!」
 カスパルはリンハルトの袖を引いて起き上がらせようとしたが、リンハルトは頑なに寝転んで動かない。
「ふあ……眠くてもう一歩も歩けないや。おやすみ」
「ったく、しょうがねえな……」
 カスパルはしぶしぶ諦めたように肩を竦めた。
 瞼を閉じたリンハルトはすぐに寝息を立て始める。
 カスパルはリンハルトの隣に腰を下ろし、釣り針を適当に垂らしながら水面を眺めた。しばらく待っていても水紋が輪のように広がるばかりで、魚が食いつく様子はない。
 ――さて、どうするか。
 釣りをしていた本人が眠ってしまっため、取り残されたカスパルはどうすべきか少し考え込んだ。
 このまま釣りを続けても釣果が上がるとは思えないし、だからといってリンハルトを放置して鍛錬に勤しむのもなんだか悪い気がする。
 リンハルトの部屋は釣り堀からそう離れていない場所にあるため、そこまで運んでやる手もあった。だが、自分より十八センチも身の丈がある相手を担いで運ぶのはさすがに骨が折れる。
 そんなことを考えているうちに太陽の位置は高くなり、水面の眩しさが増すにつれてカスパルの目蓋も重くなってきた。
 ――まあいいか。
 だんだん考えること自体がめんどうになってきたカスパルは欠伸をしてリンハルトの横に寝転ぶと、自分も目を閉じて眠りに落ちた。



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