形のないもの


「カスパル、僕と結婚しない?」
「へっ?」
 リンハルトの唐突な提案に、カスパルは肉料理を食べていた手を止める。
 周囲に座っていた生徒の一部が何かを期待して二人のほうへと振り向くが、声の主がリンハルトとカスパルであることに気がつくと、あからさまに落胆した様子で視線を戻した。
 おそらくは男女の甘いやりとりを期待して振り向いたのだろうが、「いつも不可解なことを言っているリンハルト」と「いつも騒いでいるカスパル」という組み合わせにその期待は儚く散ったようだ。
「いきなりなんだよ?」
「いやさ、このあいだ目安箱に匿名で悩みを投函したんだよね。『家を継ぎたくない、どうすればいいですか』って。そしたら、先生から『嫡子ではないカスパルを養子にすればいい』って返事が来たんだよ」
「それもう、投函したやつがお前だって気づいてるだろ先生」
 カスパルは再び肉にかぶりつきながら答える。
 リンハルトは「どうだろう」と肩をすくめて、皿に盛られた料理を口に運んだ。
「うちの親は養子を取る気はないみたいだから、カスパルを養子にするためには僕と結婚するしかないかなって」
「いや、オレを養子にする手段を考えるより、まずオレがヘヴリング家を継ぐ人間にふさわしいかを考えろよ。オレは嫡子としての教育も受けてないし、紋章もないし……どう考えてもふさわしくないだろ」
「教育はいまからでも受ければいいよ。僕もあまり真面目には受けてないし。それに、紋章は近い将来、重要ではなくなると思う」
 エーデルガルトが皇帝に即位すれば、貴族や紋章に関わる制度には大幅な改革が加えられるだろう。
 貴族制度自体が廃止されるのであれば、リンハルトが養子を探す必要もなくなるわけだが――現状、高度な教育を受けられる層が貴族や富豪に限定されている以上、エーデルガルトの代だけで完全に貴族と政治を切り離すのは不可能だと予測できた。
「それはそれとして、とりあえず結婚しない?」
「いや、なんでだよ」
 なおも食い下がるリンハルトに対して、カスパルは心底理解できないという顔をしている。
 リンハルトも「なんで」という質問の返答が見つからず首を捻った。
 確かに、なぜ自分はカスパルと結婚したいのだろう。ヘヴリング家の後継者が必要なのは確かだが、カスパルの言う通り、カスパルより適切な人物はいるはずだ。
「……なんでだろう?」
「知らねえよ! オレが訊いてるんだろ」
 とぼけた返答にカスパルは呆れた様子を浮かべた。
 リンハルトが食器を皿の上に置き、カスパルも食事を終える。料理が盛り付けられていた皿はすべて空になっており、調味料だけがわずかに残されていた。
「とりあえず、食べ終わったし出ようか」
「そうだな」
 席を立ち、空になった食器を返却口へと運ぶ。厨房で料理を作っていた料理人に礼を言ってから、二人は食堂を後にした。
「……うーん?」
 リンハルトは歩きながら首を捻った。
 食堂から出たからには解散だ。今日はもう授業がないし、カスパルとは部屋のある階層が違うため、これ以上一緒にいる理由はない。
 だが、このまま別れるのはどうにも惜しい気がした。
「そうか、わかったよ」
 リンハルトは足を止め、カスパルへと向き直る。
「僕はカスパルと離れたくないらしい」
 リンハルトの言葉にカスパルは面食らったような表情を浮かべた。
「だから結婚しようか?」
「いや、だからなんで結婚になるんだよ」
「だって君と結婚すれば、いつでも一緒にいられるじゃないか」
 カスパルは少しのあいだ逡巡し、何かを言いたげに唇を開いて閉じるを繰り返したあと、今度ははっきりと口を開いた。
「オレ、まだそういうの考えたことねえし……とりあえず今は駄目だ」
「そっか。じゃあ仕方ないね」
 リンハルトはあっさりと引き下がる。カスパルが恋愛ごとに対していい反応をするとは最初から思っていなかった。
「つうか、別に結婚しなくても一緒にいられるだろ? 今までだってそうだったんだしよ」
「でも、カスパルはそのうちどこかに行ってしまうんだよね?」
「まあ、家を継ぐのは兄貴だからな。学校を卒業したら、旅をしながら傭兵の真似事をして暮らすのも悪くねえ」
「……そっか」
 リンハルトは瞼を伏せて視線を落とす。
 カスパルがどこかに行ってしまうのは、嫌だと思った。できることなら一緒についていきたい。けれど、嫡子である自分にそれができないこともわかっていた。
「やっぱり、両親にがんばってもらってきょうだいを産んでもらわないと……もしくは養子を取るか……」
「けっきょくそこに戻るのかよ」
 カスパルは呆れ顔でため息をつく。
 しかし、ぶつぶつと呟きながら思案するリンハルトに思うところがあったのか、しばらくすると遠慮がちに口を開いた。
「……リンハルトも、オレのこと楽でいいって思うのか? 次男は家を継がなくていいよなって、思ったことあるのか? それとも、エーデルガルトみたいに哀れんでるのか?」
「うーん……」
 リンハルトは少し下の位置にあるカスパルの顔をじっと見詰める。
 同窓生と並ぶと異質に見えるほど幼い容姿や小柄な体躯は、彼に課せられた生来の枷が次男という立場や紋章だけでないことを物語っていた。
 リンハルトは、そんなカスパルが自分の将来のためにどれだけの努力を積んできたかを知っている。
 それと同時に、カスパルのようにはなれず自分の境遇を嘆き、その理不尽さを他者への怒りに変えて生きてきた者のことも知っていた。
「別に、羨ましくはないかな。それはそれでめんどうだろうし。かわいそうだとも思わないけど」
 それはリンハルトの素直な気持ちだった。
 家督を継げないことや、紋章がないことを哀れんでいるつもりもない。むしろ、それはひどく高慢な感情であるとすら感じていた。
 ただ、家を継げないために受けるであろう不当な扱いも想像できたし、カスパルの努力が相応の評価をされるべきだと考えるエーデルガルトの気持ちがわからないわけでもない。
 カスパルはリンハルトの言葉に「そうか」とだけ言って頷いた。
「僕はカスパルのそういう、自分の境遇を嘆くことなくひたむきに努力するところが好きだから……次男だとか、紋章を持ってないだとかの部分も含めて好きってことになるのかもしれないね」
「お、おう……なんか、お前に改まってそういうことを言われるとむずがゆいな」
 カスパルは照れたような、困ったような笑みを浮かべる。
 リンハルトはまっすぐにカスパルの目を見てもう一度「うん、やっぱり好きみたいだ」と繰り返した。
「たぶん、僕が言いたかった言葉はこれなんだと思う」
「……それが結婚したがった理由ってことか?」
「うん、そうなるね」
 リンハルトはこくりと頷く。
「結婚なんてしなくても一緒にいられるならそれでもいいけど……僕は家を継がなきゃならない。そして、継いだ後は世継ぎを残すために結婚しろって言われるんだ。その次は子供だ。紋章持ちの子供を作れって言われるんだよ。おまけに、僕がそうしている間にカスパルはどこかに行ってしまうんだ」
「そりゃ、まあ……仕方ねえよな。オレは次男だし、お前は嫡子なんだからさ」
 カスパルは眉尻を下げ、少し悲しそうな顔を浮かべる。次男だから、嫡子だからと割り切れてしまうカスパルの諦めのよさは、リンハルトとは正反対な部分だった。
「僕はそれがすごく嫌なんだよ」
 リンハルトはカスパルの手を取って握り締める。
 斧や籠手を扱うカスパルの掌は少し硬かったが、リンハルトの手よりまだひと回り小さい。記憶の中にあるふにふにとした子供の手とは違う感触に、リンハルトは一抹の寂しさを覚えた。
「家のことなんか何も考えずに、ずっとカスパルと一緒にいられたらいいのにって思う」
 カスパルは困った顔をしながらもリンハルトの手を握り返す。
 そんな顔をさせてしまったことが申し訳なくなり、リンハルトは慌てて「なんてね」と付け足してそれを冗談にする。
「ひとつのところに留まってるなんて君らしくないもんね。縛り付けたりしたら萎れちゃいそうだ」
「なんだよ、それ」
 カスパルはやっといつもの調子で笑ってくれた。
 カスパルを縛ることによってこの笑顔が見られなくなるなら、それはリンハルトの望むところではない。そんな自分の気持ちにたったいま気が付いた。
 カスパルはどこへだって行けるし、どこにいたっていいのだ。その中で、自分の隣という場所がカスパルにとって少しでも居心地がいいのなら嬉しいと思う。
 二人はそれからしばらく手を繋いだままとりとめのない話をしていたが、ふと話題が途切れた瞬間にどちらからともなく手を離した。
 名残惜しい気もしたが、特にこれ以上交わす言葉もない。別れの挨拶代わりに片手を上げながらそれぞれの部屋へと戻った。

 そんな出来事があったのが七年ほど前のことだ。
「リンハルト!」
 ぱたぱたと旅衣を閃かせながら、カスパルは馬の手綱を引いていたリンハルトに駆け寄る。
「あっちの宿なら部屋が空いてるってよ。一人部屋らしいから狭いかもしれねえけど、野宿よりはいいよな?」
 軍務卿の打診を蹴ったカスパルが旅に出ると言い出し、それにリンハルトが着いてゆくと決めてから数ヶ月が経過していた。
 戦後の混乱もあり旅はすべてが順調とは言えなかったが、カスパルの腕力やリンハルトの知恵を駆使してどうにか旅を続けている。
 帝都から遠く離れたこの町には帝国兵が駐留している様子もなく、辺りは長閑な農村の風景が広がっている。遠くに見える山々にはうっすらと雪が積もり、木々には白い化粧が施されていた。
「うん、構わないよ。久しぶりに寝台で眠れるね。あと、ご飯も」
「そうだな! やっとまともな飯にありつけるぜ」
 カスパルは屈託のない笑顔を浮かべながら市街のほうへと足を向ける。
「宿屋のおっさんに聞いたんだけどよ、町を抜けた先に小さい湖があるんだってさ。見晴らしが良くて、夕方になればすげえ綺麗な夕焼けが見えるらしいぜ。あとで見に行かねえか?」
「へえ、それは見てみたいね」
 リンハルトは相槌を打ちながらカスパルの後を追う。
 カスパルはいろいろなものに興味を示した。食べ物や風景、人の営みや生活。本を読むだけでは得られないさまざまな発見を、カスパルはいくつも教えてくれる。
 それはリンハルトに新鮮な驚きを与え、同時に自分の世界が広がっていくかのような楽しさを感じさせてくれた。
「カスパルといると飽きないね」
「そうか?」
「うん、ずっと見ていたくなる」
「がっはっは! なら、好きなだけ見てろよ!」
 リンハルトの悪戯心を込めた言葉も、カスパルは快活に笑ってかわしてしまう。
 カスパルのそういうところは昔から変わらないな――などと少し残念に思ながらも、変わらないことを喜ばしく感じているのも確かだった。

 宿屋に到着して部屋へと向かう。小さな宿の狭い一室に男二人が入り込むとさすがに窮屈だった。とはいえ、野宿に比べればかなり快適な空間と言えるだろう。
「寝台がひとつしかないけど、どうしようか? 僕は一緒に寝るのでも構わないけど……ああ、でも寝てるカスパルに蹴飛ばされたら嫌だなあ」
 リンハルトは狭い室内を見回してからカスパルへと視線を向ける。カスパルは心外だとばかりに唇を尖らせた。
「別に蹴飛ばしたりしねえよ。まあ、仕方ねえよな。せっかく寝台があるのに片方だけ床ってのも公平じゃねえし。一緒にくっついて寝るしかねえか」
「うん、それがいいね」
 カスパルの返事にリンハルトも頷き、荷物を下ろして休息の準備に入る。
 夕方には二人で湖に赴き、美しい景色を堪能した。夜には宿屋で温かい食事をたいらげ、湯も貰って旅の汚れを洗い流した。
「あー、腹いっぱいだ。リンハルトは相変わらず食が細いよな」
「カスパルほど食べるのは無理だよ」
 食事のあと、二人は部屋へ戻り寝台に寝転がった。
 古びた寝台は少し硬かったが、それでも野宿よりは格段に寝心地が良い。二人で入るとやはりかなり狭く感じたものの、身を寄せ合えばなんとかなった。
「なんだか子供の頃を思い出すね」
「そうだな。昔はよく一緒の寝台で寝てたっけか」
 カスパルは懐かしそうに目を細める。
 お互いの邸に遊びに行ったときはよく寝台を共にしたものだ。雷が怖くて眠れないとぐずるカスパルをなだめながら、彼が眠りにつくまで側にいてやった記憶がある。
 なぜ自分の兄の部屋に行かないのか――と当時のリンハルトは疑問に思っていたのだが、兄よりも自分を頼ってくれるのだと思うと嬉しかったのも事実だった。カスパルと兄の仲があまり良好でないことを知ったのは、もう少し成長してからのことだ。
「お前、あんときは蹴飛ばされそうで嫌とか言わなかったじゃねえか」
「え? うーん、ほら、あの頃はカスパルも小さかったし、蹴飛ばされたところで大したことないかなって」
 カスパルに指摘されたリンハルトは適当な言い訳で取り繕った。
 リンハルトにはひとつ、黙っていたことがある。
 雷が鳴るような夜は月が出ていないため、おばけが出そうという理由からリンハルトも苦手としていた。だから、カスパルのほうから寝台に潜り込んできてくれるのはありがたかったのだ。
「あの頃は可愛かったのになあ」
「なんだよ、いまのオレじゃ不満か?」
「なに、いまも可愛いよって言ってほしいの?」
「そういうんじゃねえけど」
 軽口を叩き合いながら二人は目を閉じる。隣から伝わってくる体温と鼓動は心地よく、眠気はすぐに訪れた。
 互いの呼吸音を子守唄に、眠りに落ちかけたそのとき――宿屋の家屋が揺れるほどの雷鳴が轟いた。
「うわっ!?」
 カスパルは悲鳴を上げて飛び起き、リンハルトも驚いて目を開ける。
「すごい雷だね」
 不安げに窓の外を覗くカスパルを尻目に、リンハルトはのんびりとした口調で返す。
「夏ってわけでもねえのに」
「雪颪ってやつかもね。山頂のほうにはもう雪が積もってたし、上空に寒気が流れ込んでるんだ。たぶん、明日は雪が降るよ」
 リンハルトはのそりと寝台から立ち上がり、窓を開けて外の様子を確認した。窓の外では大粒の雨が地面を激しく叩いており、ときおり稲光も走っている。きっと、この雨はそのうち雪へと変わるのだろう。
「これはしばらく続くかもね。野宿にならなくて本当によかった」
「そうだな……」
 カスパルは窓を閉めて大仰なため息を漏らす。そして、再び寝台に転がると頭まで毛布を被ってしまった。
「そんなに雷、怖いの?」
「しょ、しょうがねえだろ」
 リンハルトの問いかけに、カスパルは毛布の中から顔の半分だけを覗かせた。その声はわずかに上ずっており、いつもの快活さや覇気がない。
 リンハルトは小さく苦笑して寝台へと戻り、片手をカスパルに差し出す。
「ほら」
「なんだよ」
「手、握っててあげるよ」
 抵抗があるのか、カスパルはすぐには反応を示さなかった。
 リンハルトは気にせずに手を伸ばしたままじっと待ち続ける。
 やがて根負けしたのか諦めたのか、カスパルは少し恥ずかしそうに手を差し出しながら呟いた。
「頼むわ」
「うん」
 リンハルトの手が握られると同時に再び稲光が走る。そして轟音。
「ひゃっ!」
 カスパルは悲鳴を上げてリンハルトの手を握り締める。
 リンハルトはその手を握り返しながら、そっと身体をカスパルのほうへと寄せた。
 少し高めの体温と、分厚い掌の感触を確かめるように指を絡ませる。それは記憶の中にある小さな少年の手ではなく、硬い胼胝に覆われた青年の手だった。
「雷がおさまるまでこうしてようか」
「おう……」
 カスパルは照れくさそうに頷く。その表情は子供の頃と変わらない。リンハルトの記憶の中にあるものと、なにひとつ変わりはしなかった。
 あのときカスパルの身体の成長を寂しく感じたのは、きっと成長を離別の兆候だと思い込んでいたからなのだろう。だが、カスパルはいまも自分の側にいる。
 あの頃の自分が胸に抱いた感情を、いまの自分はどんな言葉に置き換えることができるのだろうか?
 そんなことを考えながらリンハルトはゆっくりと目を閉じ、もう一度眠りに落ちていった。

「リンハルト、起きろ」
 朝の光が瞼の裏を白く焼く。
 カスパルの声が頭の中に響き、リンハルトはゆっくりと目を開けた。
「ん……おはよう、カスパル」
 リンハルトは欠伸をしながら身を起こす。
 カスパルは寝台から離れて窓の外を眺めていたようだ。窓からは白い光が差し込み、室内を明るく照らしている。もうすっかり日が登る時間らしい。
「ほら、見てみろよ。すげえ綺麗だぜ?」
 カスパルは興奮気味に窓の外を指差した。
 促されるままリンハルトも窓の外を覗く。
 そこには一面の銀世界が広がっていた。朝日を受けてきらきらと輝く雪景色が、幻想的な美しさを醸し出している。
「本当だ……」
「だろ? 雷っておっかねえけどよ、こんな綺麗なものを連れてきてくれることもあるんだな」
 カスパルは気持ちよさそうに伸びをしてからそそくさと衣服を着替え始めた。
「もう出立するの?」
 外套を羽織って深靴を履くカスパルを眺めながら、リンハルトはまだ重たい瞼を擦る。
「違えよ、朝一番じゃねえと雪が踏み潰されてぐちゃぐちゃになっちまうだろ。その前に近くで見てこようぜ」
 カスパルは鞄を担ぎながら意気揚々と答えた。
 なるほど、とリンハルトは小さく笑う。降雪にはしゃぐカスパルはまるで犬のようで、いつまでも変わらないその無邪気さが微笑ましかった。
「お前も早く準備しろよな」
「わかったよ」
 カスパルに急かされ、リンハルトも寝台から下りて身支度を始める。
 窓の外の銀世界は朝陽を浴びて輝きを増していた。この美しい景色を満喫しないまま雪が泥まみれになってしまうのは、確かにもったいないような気がする。
 カスパルが先に宿から出て、リンハルトも外套と深靴を身につけてからその後に続いた。宿の外も一面の銀世界で、凍り付いた雪が光を反射して煌めいている。
「うわ……こりゃあすげえな」
 カスパルは目を丸くして感嘆の声を漏らした。靴底で雪の感触を確かめるように一歩ずつ踏み締めていくと、その度にさくさくと小気味いい音が響く。
「ほら、リンハルトも行こうぜ」
 カスパルが手袋をはめた手をリンハルトへと差し出す。その手を取りながら、リンハルトはふといつかのやりとりを思い出した。
『僕と結婚しない?』
 カスパルと離れたくないあまり口走ったあの言葉。きっと、カスパルはもう覚えてはいないだろう。
 あれは子供の戯言だ。けれど、その思い出がリンハルトの心をこのうえなく甘く疼かせることもあった。
 それは恋だったのかもしれないし、別の感情だったのかもしれない。ただ、それは未だに胸の奥に潜んでいて、ときおりリンハルトを内側からくすぐってくる。
「リンハルト?」
 リンハルトの視線に気付いたカスパルがきょとんとした表情を浮かべた。
「なんでもないよ」
「なんだよ、気になるだろ」
 カスパルは不満そうに目を眇めてリンハルトをじろじろと眺める。
 リンハルトはカスパルの問いに答えないまま、繋いだ手に少しだけ力を込めた。
 カスパルは少し驚いたような顔をしたが、すぐに破顔して力強く握り返してくる。
「まあ、いいか。行こうぜ、リンハルト」
「うん」
 リンハルトは手を引かれるままに歩き出す。
 変わらないこの温もりが、未だ己の手の中にある。それだけでリンハルトの胸は温かいもので満たされ、世界を鮮やかに彩ってくれた。



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