白昼夢も仕方がない


 冬が明けたばかりの帝都はまだ少し肌寒かったが、それもまた季節の移ろいを感じさせてくれた。
 戦争が始まってからというもの季節もなにもない生活を送っていたリンハルトは、そんな些細な変化を感じられるくらいには心が休まっている自分に気がつき安堵する。
「ああ、ここだここ。焼き菓子が美味しいって評判の店」
 リンハルトは漂ってきた甘く香ばしい香りに誘われて足を止めた。
 帝都の若者たちに人気だというこの焼き菓子店は、貴族が利用するような豪奢な店構えではないものの、素朴で温かみのある雰囲気が人々に好まれているのだという。
「こういうとこ、男一人じゃ入りにくいからさ。カスパルが来てくれて助かるよ」
「そんなもんなのか? 飯食うだけなんだから人数なんて関係ねえだろ」
 こういった店と縁のないカスパルにリンハルトの心情は理解しがたいらしく、空色の目を丸くして不思議そうに首を傾げる。
 正直に言えば、リンハルトも人目を気にするような性格ではないのだが――カスパルを焼き菓子店に誘う理由として、その言い訳はちょうどよかったのだ。
 焼きたての菓子の香りに包まれながら、リンハルトとカスパルは店内の席に着いた。素朴な内装の店内は燈が放つやわらかな光に包まれており、華やかではないものの居心地がいい。
「僕はこれを注文するけど、カスパルはどうする?」
「……なに頼めばいいのかわからねえ」
 小洒落た焼き菓子の名称がなにを表しているのかわからないらしく、カスパルは献立表を見ながら疑問符を浮かべている。
「そっか、じゃあ僕がカスパルのぶんも選んじゃってもいい?」
「おう、頼んだぜ」
 カスパルが頷いたので、リンハルトは店員を呼び寄せて二人ぶんの注文を済ませた。
 厨房の奥からは甘味料の匂いや焼き釜の中で食材が焼ける音などが漂ってくる。味だけでなく匂いや音すらも楽しめるのが、この店の持つ魅力のひとつなのだろう。
「……うまい!」
 ほどなくして運ばれてきた焼きたての菓子を頬張るなりカスパルは目を輝かせた。木の実と果物が入った焼き菓子は砂糖を使わず甘みを出しているため、甘いものを好まないカスパルにも食べやすいはずだ。
「リンハルトもほら、食ってみろよ」
 カスパルは次々と焼き菓子を頬張りながら嬉しそうに顔をほころばせる。その食べっぷりを見ているとこちらまで幸せな気分になるから不思議なものだ。
 カスパルの笑顔に促されてリンハルトも焼き菓子を口に運ぶ。焼いたばかり菓子は温かかった。噛むたびに果物の甘味がじわりと染み出し、木の実の風味が舌の上で優しく溶けていく。
「うん、おいしいね」
「だろ!」
 カスパルはまるで自分のことのように誇らしげに胸を張る。
 ここならカスパルも楽しめるだろうと思ってこの店を選んだのだが、想像していたよりずっと幸せそうに菓子を頬張るものだから、リンハルトも自然と頬がゆるんでしまう。
「なんだよ、じろじろこっち見て」
「カスパルの食べっぷりを見てるの、楽しいなと思って」
「そんなにおもしろいもんでもねえだろ?」
 カスパルは眉を顰めてむくれるが、本気で怒っているわけでないことはリンハルトにもわかった。
「それに、君はいつもろくに噛まないで食べるからね。見てない間に喉に詰まらせたら大変だ」
 図星を指されたカスパルはぐっと言葉を詰まらせる。それでも菓子を食べる手は止めないのだから、本当に気に入ったのだなとリンハルトは胸を撫で下ろした。
「……こうやって君とゆっくり過ごすのは久しぶりだね。最近は戦いばかりでそれぞれの時間を持てなかったから」
 焼き菓子の甘さに目を細めながらリンハルトは呟く。
 向かいの席に座ってもぐもぐと菓子を咀嚼していたカスパルは、ごくんと焼き菓子を飲み込んだのちに挑戦的な笑みを浮かべた。
「さてはお前、オレがいなくて寂しかったんだな?」
「まあね」
「……そ、そうかよ」
 リンハルトがあっさり肯定するとカスパルの方が照れて顔を背ける。
 各地を転戦しているカスパルはリンハルトとすれ違いになることも多く、顔を合わすことすらままならない日が続いていた。やっと帰還した帝都での貴重な時間を、カスパルはリンハルトのために割いてくれているのだ。
「君と一緒にいられるのは嬉しいな。……昔はそれが当たり前すぎて、そんなこと考えもしなかったけど」
 カスパルと過ごす時間はいつも賑やかで、騒がしいけれど決して不快ではない。カスパルの隣はリンハルトにとって心地よく、心が安らぐ場所といえた。
「ずっと戦い詰めでゆっくり休む暇もなかったからね。カスパルもたまには息抜きしないと」
「言われなくてもそのつもりだぜ。まあ、休暇中も鍛錬はするけどな」
 カスパルは笑って拳と拳を胸の前で打ち鳴らす。
「カスパルらしいね。でも、休むのも仕事の内だからほどほどにね」
「わかってるよ」
 好きな味と、好きな人と一緒に過ごす時間。そのふたつが揃ったいま、これ以上の至福はないように思えた。
 カスパルと過ごす時間がリンハルトにとってかけがえのないものになったのはいつからだろう。
 カスパルはリンハルトのほかにも友人が沢山いるのだから、わざわざ自分などと一緒に過ごさなくてもいいのに――最初はそう思っていたのだが。
 リンハルトを見かけるとカスパルは決まって駆け寄ってくるものだから、いつの間にか自分もそれを心待ちにするようになっていた。
 カスパルと過ごす時間は居心地がいい。彼の笑顔を見ているだけで、リンハルトは胸が温かくなる。
 戦いに生きるカスパルにとって、リンハルトと過ごす時間が息抜きになるのかはわからないが――それでも、カスパルはこうしてリンハルトのもとへ帰ってきてくれる。
 それはリンハルトにとって、とても幸せなことに思えたのだ。

 幸せな気持ちに浸りながら焼き菓子を口に運んでいると、いつの間にか皿の上は空っぽになっていた。二人は会計を済ませて礼を告げてから焼き菓子店を後にする。
 特に用事はないのだが、このまま帰るのも味気なくてリンハルトはカスパルに手を差し出す。カスパルは首を傾げながらもそれに応じ、リンハルトの手を握り返した。
 悪くない雰囲気だ、とリンハルトは思う。
 カスパルとはこうして手を繋いだり、ときおり口づけたりもする間柄だったが、お互い多忙なのもありなかなかそれ以上の関係に踏み込むきっかけがなかった。
 ただ、今日は戦い続きの日々から解放されてカスパルも気を抜いているだろうし、少しくらい甘えてもいいのではないだろうか。
 そう考えたリンハルトは足を止めてカスパルのほうに振り返った。
「ねえ、カスパル」
「なんだ?」
 リンハルトはつられて立ち止まったカスパルに微笑みかける。そして繋いでいた手を強く握り直し、人気のない路地へ引っ張り込んだ。
「お、おい、リンハルト」
 カスパルの戸惑った声を無視してリンハルトはカスパルの唇に自分の唇を重ねる。
「ん……!」
 突然の口づけにカスパルは目を見開かせたが、やがてリンハルトの腰に腕を回して強く抱き締めてきた。リンハルトもそれに応えるように、カスパルの首に腕を回す。
 啄むような口づけから始まったそれは、徐々に互いの舌を絡め合う激しい口づけへ変わっていく。息継ぎすら惜しむように二人は互いの唇を貪り合い、体を密着させて体温を分け合った。
「リンハルト……」
 カスパルは名残惜しそうに唇を離したのちに、熱っぽい眼差しでリンハルトを見つめる。いつもより低い幼なじみの声にリンハルトの奥がずくりと疼き、体の深い部分がじわじわと熱を帯びてゆく。
「……やっぱり、ゆっくり休むなんて性に合わねえや」
 カスパルはそう自嘲気味に呟き、リンハルトを壁に押しつけて再び唇を重ねてきた。口づけを交わしながらもカスパルの手はリンハルトの体のあちこちを這い回り、衣服を捲りあげて素肌の上を滑り始める。
「んん……っ」
 カスパルの指が胸の突起に触れた途端、痺れるような快感がリンハルトの背筋を駆け抜けた。指先で摘むようにそこ弄ばれると、リンハルトの口からは堪えきれなかった声が溢れ出す。
「やっ……そこばっかり、やめ……」
「気持ちいいんだろ?」
 カスパルは意地悪く笑いながら、突起を指先で弾いたり軽く摘まんだりしてリンハルトを攻め立てる。激しく執拗な刺激にリンハルトは身悶え、体が次第に熱を帯びていくのを感じた。
「あ……っ!」
 カスパルの指先が胸から離れたかと思うと、今度は膝で股の間をぐりぐりと押してくる。そこは既に熱を持ち始めており、衣服越しでもわかるほど張り詰めていた。
「こっちも触って欲しいんじゃねえか?」
 耳元で囁かれる甘い声を拒むことなどできなかった。
 甘美な誘いに抗えぬまま頷くと、カスパルはリンハルトの革帯に手をかける。そして下衣ごと一気に引き下ろし、昂ったそれをリンハルトのそこに――

「あ……♡ 駄目だよカスパル、こんなところで……♡」
「なにが駄目なんだ?」
 ひとりごとを零すリンハルトにカスパルが首をかしげる。
 我に返ったリンハルトは繋いだままのカスパルと自分の手を交互に見た。カスパルとの情事を脳内で空想していたのだが――どうやら無意識のうちに声が出てしまっていたらしい。
「ああ、なんでもないよ」
「なんだよ。気になるじゃねえか」
 曖昧にごまかすリンハルトの態度にカスパルは不満げに口を尖らせる。
「いや、久しぶりの逢い引きなのに、もう終わりだなんて寂しいなって思ってね」
 ごまかすために口にしたその言葉は、リンハルトの素直な気持ちだった。
 ずっと戦い詰めだったこともあり、カスパルと過ごす時間は貴重なひとときだ。もう少し一緒にいたいと願うのはわがままではないと思いたい。
「確かに、それもそうだな。オレもまだ物足りねえと思ってたところだ」
 カスパルも同じことを思っていたのだろう。リンハルトの言葉にふっと微笑むと、繋いだ手をきゅっと握り締めてきた。
「そうだ、オレの部屋に来ねえか?」
「えっ?」
 思いもよらない誘いにリンハルトは目を丸くする。
「いい酒を貰ったんだよな。せっかくだから、お前と一緒に飲みてえと思ってさ」
 カスパルはにっと笑い、リンハルトの手を引いたまま歩き出す。
 カスパルと一緒にいられる時間が増えるのは嬉しいし、いい酒も付いているとなれば断る理由もない。
 リンハルトは「いいね」と返して頷き、カスパルに導かれるまま彼の自室へと向かうことにした。

 私室にリンハルトを招いたカスパルは、卓上に置かれた二つの盃に葡萄酒を注いでいく。透き通った液体からは芳醇な香りが立ち上り、それだけで酔いしれてしまいそうになるほどだった。
 リンハルトはカスパルと向かい合う形で席に着き、盃を手に取って乾杯する。まずは香りと味を確かめるように一口飲み下すと、濃厚な甘みが口内に広がって胃にじんわりと染み渡った。
「うん、おいしいね」
「だろ? オレにはちょっと甘すぎるけど、お前にはちょうどいいんじゃねえか」
 カスパルはつまみの干し肉を口に含みながら葡萄酒を呷る。
 糖度の高い葡萄酒はリンハルトにとってはなかなかの品だった。それもカスパルには甘すぎるらしく、ちびちびと舐めるように飲んでいる。
 そんな様子が微笑ましくて口元を緩めていると、ふと葡萄酒の水面が微かに揺れた気がした。
「……?」
 顔を上げた瞬間、リンハルトの心臓がどくんと跳ねる。それから鼓動が次第に早くなっていき、全身の血が沸き立つような感覚に襲われた。
「カスパル、これって……」
 下腹部に熱が集まるのを感じ、リンハルトは戸惑いながらカスパルの様子を窺う。
「おっ、あの話ほんとだったみたいだな」
 カスパルは平然とした様子で干し肉を齧っている。その様子がますますリンハルトを困惑させた。
「どういうこと……?」
「この酒、精力剤として使われることもあるんだってよ。オレも最初は半信半疑だったけど、けっこう効くもんだな」
「えっ?」
 カスパルの言葉の意味を理解するまでに時間がかかった。
 精力剤としての効果を持つ酒をリンハルトに飲ませたということはつまり――そういうことなのだろうか?
「お前とゆっくり過ごしたくてさ。あとはまあ、ちょっとだけ悪戯心が芽生えたっつうか……」
 カスパルは力の抜けたリンハルトの体をひょいと抱え上げて寝台の上に横たえさせる。そして、リンハルトの腰帯に手をかけると手早く脱がせてしまった。
「ちょっと待って、まだ心の準備が……!」
「そんなこと言って、お前も期待してたんだろ?」
 カスパルはリンハルトに覆い被さり、耳朶を前歯で甘噛みする。それだけで体の奥底から痺れるような快感が走り抜け、リンハルトは体をびくびくと震わせた。
「ん……っ」
 耳への愛撫を繰り返しながら、カスパルの手はリンハルトの衣服を剥がして露になった体をまさぐっていく。期待に膨らんだ胸の突起を摘まれると、リンハルトの口からは思わず甘い吐息が漏れた。
「あ……カスパルっ……!」
 リンハルトは抗議するようにカスパルの二の腕を掴むが、カスパルは手を止めることなくリンハルトを責め立て続ける。
「可愛い声出すじゃねえか」
 カスパルに耳元で囁かれるだけで、リンハルトは頭の芯が蕩けそうになってしまう。
 もっと触ってほしい。もっと気持ちよくなりたい。そんな欲求が心の奥底から湧き上がり、リンハルトは強請るようにカスパルの背中に腕を回した。
「カスパル……」
 リンハルトは潤んだ瞳でカスパルに微笑みかける。
 そんなリンハルトの気持ちに応えるように、カスパルはリンハルトの脚を開かせてその間に自身の体を割り込ませた。

「……なーんてことになるわけがないよねえ、カスパルだもん」
 リンハルトは深いため息をつきながら、机に上体を預けて寝息を立てるカスパルの頬を軽くつついた。
 もともと酒に強くないカスパルは少量の葡萄酒で酔い潰れてしまい、今やすっかりと夢の中だ。
 自室に招かれるということはもしや……という、リンハルトの淡い期待はあっさりと裏切られてしまったというわけである。
「まあ、カスパルがそんな手段を使うわけないよね」
 リンハルトは苦笑を浮かべ、カスパルの頬を摘みながら独りごちた。
 カスパルはいつだって直球勝負で、卑怯な手を使うような人間ではない。それは誰よりわかっているはずなのに、心のどこかで期待を抱いていた自分にリンハルトは苦笑した。
「ん……」
 カスパルの瞼が微かに動いたため、リンハルトは驚いて指を引っ込める。しかし、すぐにまた規則正しい寝息が聞こえてきた。
「そろそろ起きなよ。こんなところで寝てたら風邪を引くよ」
 リンハルトが軽く肩を揺さぶると、カスパルは眉を寄せて不機嫌そうに唸る。
 気持ちよさそうに寝息を立てるカスパルを起こすのは忍びなかったが、だからといってここで寝ていては体を痛めてしまうだろう。
「ん……あれ、リンハルト……?」
 やがてうっすらと瞼が開かれ、ぼんやりとした瞳がリンハルトを捉えた。
 まだ寝惚けているのだろう、カスパルはどこか舌足らずな声で名前を呼んでくる。そんな彼のあどけなさが愛おしくなり、リンハルトは知らず笑みを零してしていた。
「ほら、寝るならちゃんと寝台で寝なよ」
「ん……ああ……」
 カスパルは返事とも呻き声ともつかない声を上げると、ゆっくりと体を起こしてあくびをする。くあ、と大きく口を開けて犬歯を剥き出しにする姿が可愛らしくて、リンハルトの口元がますます緩んでゆく。
「……まあ、君はこういうところがいいんだもんねえ」
 邪気のないカスパルの言動はいつだってリンハルトの心を温かくしてくれる。こんな無防備な姿を見せてくれるのが自分だけであるという事実も、リンハルトにとっては大切な宝物だった。
「んあ? なんか言ったか?」
 寝ぼけまなこのカスパルがぼんやりとした顔のままリンハルトに問いかけてくる。
「なんでもないよ」
 リンハルトは微笑みを返すと、カスパルの手を引いて寝台まで導いた。そして横になったカスパルに毛布をかけ、自分も隣に横になってそっと抱き締める。
 酒が回ったカスパルの体は普段にもまして熱く、リンハルトはこのまま温もりを分かち合いたい衝動に駆られた。
 だが、そんなリンハルトの気持ちなど知らないカスパルは、瞼を閉じるとあっという間に寝息を立て始める。
「ふふ、仕方ないなあ」
 リンハルトは目の前で眠る幼なじみの頭を慰撫するようにそっと撫でた。
 期待していたような激しい夜にならなかったのは残念ではあるが、こうして朝まで彼の温もりに包まれているのも悪くない。
 そう結論付けたリンハルトは瞼を閉じ、愛しい人の鼓動に耳を傾けながら微睡みの中へと落ちていった。



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