喧嘩屋は靡かない


 ヒルダがカスパルと共に旅に出てから数節が経っていた。
 カスパルは行く先々の町や村で騒動に首をつっこんでは、なぜか最終的に喧嘩相手と仲良くなるなど相変わらずの騒がしさである。ヒルダはそんなカスパルを止めることなく、自由な彼の姿を眺めてはその様子を楽しんでいた。
 生命力に溢れたカスパルの姿はヒルダに活力を与えてくれたし、旅先でのさまざまな発見は知見を広げてくれた。
 それはとても楽しい旅ではあったのだが――ヒルダにはひとつだけ不満があった。ときめきが足りないのだ。
 この旅にヒルダが期待していたもののひとつが、カスパルとの甘く濃密な時間である。
 男女が二人で旅をするのだから、何かあってもいいのではないか。そう期待してしまうのが乙女心というものだ――というのがヒルダの弁だ。
 しかし、旅が始まってからこれまでカスパルがヒルダに手を出したことは一度たりともなかった。カスパルは、相変わらずヒルダの思い通りには動いてくれないのである。
 ヒルダはカスパルのそんな自由なところに惹かれたのだから、それはもちろん好ましいことなのだが――それでも、甘美な出来事のひとつやふたつはあってもいいのではないかと期待してしまうのだ。

 旅先の宿で沐浴を済ませたヒルダは、市場で購入した新品の下着を清潔な体に身につけていく。
 白を基調として繊細な装飾があしらわれた意匠のその下着は、可愛らしくありながらも色気を感じさる。この下着を着て迫れば鈍感なカスパルとて「ヒルダっ……オレもう我慢できねえ……!」などと言いながら熱い抱擁のひとつもしてくるだろう。
 そしてあの無骨な手で体中をまさぐられ、愛撫を受けたならどれほど気持ちいいだろうか。あるいは強引に組み敷かれ、これまで経験したこともないような快楽に導かれてしまうかもしれない。
 そんな想像をすると自然と鼓動が高鳴り、ヒルダは激しい夜への期待に胸を膨らませるのだった。
「ね~え、カスパルく~ん?」
 ヒルダは宿泊していた部屋に戻り、寝台で荷物を整理していたカスパルを覗き込む。
 外套や上着を脱いだカスパルは肌着と下衣だけの姿になっており、鍛え抜かれた筋肉が薄い布地に浮かび上がっていた。その逞しい肢体にヒルダの期待はますます高まり、体の芯はどんどん熱を帯びてゆく。
「この下着どうかなあ? 市場で見かけてね、かわいいなって思って買ってみたんだけど……」
 胸を覆う下着を指で少しだけずらしながら、ヒルダはカスパルの反応を窺った。
 ヒルダが前屈みになれば、カスパルの位置からはちょうど胸の谷間が覗き込めるだろう。そして、大事な部分を見えそで見えない按配でちらつかせれば、悩殺されない男はいないはずだった。
 いないはずなのだが――
「おう、いいんじゃねえか?」
 カスパルは顔を上げてヒルダを一瞥したあと、すぐに視線を荷物へと戻してしまった。
「……カスパルくん? あたしの下着姿に、なにか感想とかないの?」
「ん? 別に変なところはねえぞ?」
 ヒルダが落胆を隠さず言い募っても、カスパルはずれた返答をするだけである。
「そうじゃなくて、もっとこう、あるでしょ~。かわいいとか、色っぽいとかあ……」
「あ……? ああ!」
 再び顔を上げたカスパルはヒルダの下肢に視線を移す。そして、何かを思い出したように感嘆の声を上げるとヒルダの秘所を覆う薄い下着を指で示した。
 ――やっとカスパルがヒルダの体に興味を示してくれたのである。
 それを感じ取ったヒルダは内腿をもじもじと擦り合わせた。
 このままこの指先が下着の中に忍び込み、甘い期待に疼くそこを刺激してくれるなら。そんな想像をするだけで、ヒルダは体の奥が熱くなっていくのを感じていた。
「それ、下着だったのか!」
 しかし、カスパルはヒルダの期待とはまったく別の感想を述べ、納得したように爽やかな笑みを浮かべる。
 下着に対して「下着だったのか」などという頓痴気な感想を告げられたヒルダはただ疑問符を浮かべるしかない。
「前に学校に落ちてたのを拾ってさ、変な形の布だなと思ってたんだけどよ……そういう形の下着があるんだな」
 ヒルダが穿いていたそれは、いわゆる紐パンというやつだ。面積の少ない生地で秘所を覆い、両端を紐で括って固定する形状の下着である。
 確かに、男性の下着にこの形状のものは少ないだろう。特にカスパルは利便性を重視した衣服を好むだろうから、こういった見栄えを優先した下着には馴染みがないのかもしれない。
 それはまあわかる。わかるのだが――別にそこには反応を求めていないのである。
「すっきりしたよ。ありがとな、ヒルダ!」
 カスパルは笑顔で礼を言う。その表情には、ヒルダが期待したような興奮や劣情はまるで感じられない。ヒルダ渾身の勝負下着も、カスパルにとってはただの布切れにすぎなかったらしい。
「も~う……カスパルくんのバカ!」
 ヒルダは不満を露にして頬を膨らませ、カスパルへ背を向けて自分の寝台に潜り込む。
 鈍感なカスパルのことだ。こちらの誘いに気づかない可能性は視野に入れていたが、下着の形状に着目するという斜め上の反応をされるとは予想外だった。
 おかげですっかりと体の火照りが治まったヒルダは、困惑するカスパルの視線を背中に受けながら就寝することとなったのである。

「ね~え、カスパルくんってどうやったらその気になってくれるの?」
「……なんでそれを僕に訊くのかな?」
 ヒルダの向かいの席に座ったリンハルトは、ハーブティーを口に運びながら首を傾げる。
 あれから十数日後、カスパルに連れられて帝都を訪れたヒルダは、これは好機とばかりにカスパルの級友たちに彼について訊ねることにしたのだ。
 カスパルに詳しい人物となれば、幼なじみの彼だろう――ヒルダが真っ先に白羽の矢を立てたのは、帝都で紋章の研究に勤しんでいるリンハルトだった。
 出不精なリンハルトを連れ出すのは困難だ。そう判断したヒルダはカスパルの連れという形でヘヴリング邸を訪れ、彼の好むハーブティーを土産にして話の場を設けてもらったというわけである。
「僕、カスパルと交際してたとでも思われてるの? それならそれで僕に訊くのはどうかと思うけど」
「そういうわけじゃないけど……リンハルトくんはカスパルくんと長い付き合いだし、カスパルくんの好みも知ってそうかな~って」
「カスパルの好み……ねえ。つまり、どうすればカスパルが君に劣情を覚えるかって話だよね?」
 リンハルトは茶器を受け皿に戻すと、顎に手を当てて思案するように俯いた。それから少し間を置いてゆっくりと口を開く。
「僕にもわからないな。カスパルと猥談なんてしたことがないし……僕の知っている範囲では、カスパルは誰かと交際していたこともないね。たぶん、童貞なんじゃないかな。まあ、あいつが一人で旅をしていた五年間のことは僕も口伝でしか知らないけど……」
「え、嘘? カスパルくんって童貞なの? けっこうもてそうだけどなあ。意外ねえ」
 リンハルトの言葉にヒルダは目を丸くして驚く。
 カスパルのあの性格からして、恋愛経験が豊富なほうではないだろうとは思っていた。
 とはいえ、努力家で容姿も整っており運動能力も高く、おまけに名門貴族の直系ときているのだから、言い寄ってくる者の二、三人はいただろうと踏んでいたのだが。
 いや――もしかしたら、カスパルに言い寄ったところで「おう! オレも好きだぜ!」と軽く流されるなどして、それ以上の関係には発展しなかったのかもしれない。
「っていうか、男の子同士でずっとつるんでて猥談しないことってあるんだ……」
「そりゃあ、まあね。女の子同士だって必ずしも恋愛話をするわけじゃないでしょ」
「うーん、そうなのかなあ?」
 リンハルトの断定的な意見にヒルダは首を傾げる。
 恋愛や恋愛話を好むヒルダにとって、親しい友人とそういった会話をしないというのは想像し難いことだった。
 誰が素敵であるとか、どういった恋愛が理想であるとか――そういった話題は交流において重要な対話手段のひとつであり、それに対してまったく関心がないというのは考え辛いのだ。
「カスパルはもともとそういう話題に興味を持たない質なんだろうけど、もしかしたらベルグリーズ家の揉め事も起因しているのかもしれないね。尾びれ背びれのついた悪辣な噂話なんかも、カスパルは子供の頃から耳にしていたと思うよ。だからなのかな、直属の部下たちもカスパルにその手の話題は振っていなかったみたいだ。触れちゃいけないと思っていたのかもしれないね」
 ヒルダは相槌を打ちながらリンハルトの言葉に耳を傾ける。
 カスパルの家庭の事情から部下たちの話まで、リンハルトは実に様々なことを把握しているようだった。それは幼なじみだからというだけの理由ではないだろう。リンハルトがカスパルを気にかけているからこそ、その周辺にまで視野を向けられるのだ。
「……リンハルトくんって、カスパルくんのことすご~く見てるのねえ。あたしの知らないカスパルくんのこと、たくさん知ってるんだ。なんだか妬けちゃうな」
「まあ、長い付き合いだからね」
「もう、なに~? その、勝ったみたいな顔~?」
 ヒルダが率直な感想を述べると、リンハルトは満更でもなさそうな表情を浮かべる。
 リンハルトのこういった表情はヒルダにとっては珍しく、それが見られたことがなんだか嬉しくてつい笑顔になってしまった。
「まあ、それはともかく……ヒルダはどうしてそこまでしてカスパルと関係を深めたいのかな? 別に今のままでも問題ないと僕は思うけど。君たちは嫡子ではないんだし、仲がいい相手と必ずしも性的な関係を持たなきゃならないわけでもないでしょ」
「だって~……せっかくの二人旅なんだし、もっとこう……いろいろしたいっていうかあ……」
「いろいろって?」
「も~、言わせないでよ!」
 ヒルダは誤魔化すように茶菓子を口に運ぶ。
 リンハルトはヒルダの言わんとすることを理解しているはずだが、それをあえて口にさせようとするのだから意地が悪い。
「まあ……カスパルの恋人になるなら、ヒルダみたいに積極的な人じゃないと難しいかもしれないね。受動的にしていたところで、向こうから恋愛的な行動を起こしてくれるようなやつじゃないから」
「そうよね~……けっこう大胆に迫ってるつもりなんだけど……」
 ヒルダは組んだ指先を見つめて溜め息を吐く。
 カスパルを籠絡するためならあらゆる策を弄する覚悟ではいるものの、あの鈍感男にはどんな手を使っても効果がないのではないか? そんな不安が頭をもたげてくる。
 そもそも、金鹿に咲く一輪の花ことヒルダ=ヴァレンティン=ゴネリルとひとつの部屋で寝泊まりをしているというのに、何もしてこないのがおかしいのである。おかしいはずだ。
 そういえば、前にこんなこともあった。
 ヒルダは旅先でカスパルに「宿屋の部屋ひとつしか空いてないらしいけどいいよな?」と訊ねられたことがあったのだ。
 これは確実に「お誘い」である――ヒルダはそう期待し、そのうえで提案を承諾した。だというのに、カスパルときたら朝まで熟睡していたのである。本当にただ部屋の空きがなかったらしい。
 しかし、しかしだ。
 部屋の空きがなく、なおかつその気もないのであれば、「何もしないから安心してくれ」など下心がないことを伝える言葉を添えたりするものではないだろうか? このヒルダちゃんが隣で寝てるんですが? ……とヒルダは思わざるを得ない。
 以前のヒルダであれば、カスパルのこの鈍感さは「カスパルだから仕方ない」と許容できていた。だが、いまはもう二人で旅をしているのである。男女が二人で旅をしているのである。つまり、何も起こらないはずがないのだ。
 ……実際は、何も起こっていないのだが。
「……もしかして、カスパルくんって交合を知らないってことはないよねえ?」
 ヒルダはふと脳裏に過ぎった可能性を口にした。
 いくらなんでもそれはないと思いたいが、そうである可能性がまったくないわけではない。なにせ、カスパルは女性用の下着をそれと認識できないような男なのだ。
「知識としては知っていると思うよ。貴族としての教育の過程で教わっているはずだから。ただ、カスパルの場合は交合という行為が愛情表現と結びついていないのかもね」
「え~? そんなことあるの~?」
「そういう人もいるってことさ。政略的な事情で婚姻関係を結ぶ人や、性風俗を利用する人のように、愛情がない相手と肉体関係を持てる人はいるでしょ? 肉体関係を持てるからと言って相手への愛情があるとは限らないように、相手への愛情があるからといってそれが肉欲に直結するとも限らないってことだよ」
「うーん……つまりカスパルくんがまだお子様で、性的に未熟ってこと?」
 物心ついたころから恋愛という行為を好んでいるヒルダにとって、リンハルトの弁は不可解極まりないものだった。
 だが、ほかならぬカスパルとの関係を進展させるための助言である。不可解なりに脳内で意味を咀嚼をし、改めて訊ねてみた。
「さあ……それはわからない。性的に未熟なだけかもしれないし、根本的にそういった欲求がないのかもしれない。それは他人が判断できることではないし、本人だって判断するのは難しいと思うよ」
「自分でもわからないの?」
「うーん……そうだねえ」
 疑問符を浮かべるヒルダに対してリンハルトは若干めんどくさそうに眉を寄せる。それでもカスパルに関する事柄というのもあってか、「もういいや」と説明を諦めることはしなかった。
「例えば、君は異性に恋をするのが好きなようだけど、これから先の人生で同性を好きになる可能性だってないとは言いきれないだろう? いままで自分好みの同性に会ったことがないだけかもしれない。だから『自分は異性だけが好き』だなんて断言できないはずだよ」
「それを言ったらなんでもありになっちゃうんじゃない? 動物が好きなのかもしれないし、魚が好きなのかもしれないってことよねえ」
「うん。そういうことだと僕は思うよ。人が好きになる相手は異性とは限らないし、同性とも限らない。両方が好きな人もいるだろうし、両方を好まない人だっている。あるいは、その二種類に限らないかもしれない。なんなら相手が人間でない可能性だってあるわけだ。だから、自分がそれと決めない限りはどれとは断定できないし、別に断定しなくてもいいんだよ」
「そっかあ……ん? なんの話してたんだっけ?」
「カスパルがなぜ君に劣情を抱かないのかって話だよ」
 話の趣旨を忘れかけたヒルダの問いにリンハルトは淡々と答える。
「……あっ、さっきも言ってたけど、カスパルくんのお家って男女関係でごたごたがあったのよね? もしかして、それで女の人が嫌いになっちゃったのかしら?」
 ヒルダは机に身を乗り出して小声でリンハルトに訊ねる。
「まあ、その可能性がまったくないとは断言できないし、それが原因でその手の話題を避けてるんじゃないかとは僕が言ったことだけど……女性そのものが嫌というわけではないんじゃないかな。級友たちとも親しくしているし、君と二人で旅もしているしね」
「じゃあ、男性機能がないとか……」
「いや、それはあるよ。詳細は省くけど男性機能がないわけじゃない。というか、なんでそこまで外的要因を疑うの? 性欲の希薄さは必ずしも外的要因のせいではないからね?」
 長々と説明してもなお食い下がるヒルダに、リンハルトはうんざりした様子で訊き返す。
 それでもめんどくさがりなリンハルトがこれだけ付き合ってくれているのだから、感謝しなければ……とは、ヒルダとて思っているのだが。
「だってえ……カスパルくん、あたしと二人で旅をしてるのにムラムラしないのよ~?」
「僕は君のその絶対的な自信のほうに驚くよ」
 ヒルダの理屈にもなっていない理屈にリンハルトは呆れを隠さずため息をつく。
「まあ、自信もあるんだけど~……二人で旅をするってそういうことじゃないの?」
「二人旅をする仲だと絶対に交合するものなの? じゃあ、僕とカスパルが旅をしてたら、君は僕たちが交合してないとおかしいと思うのかい?」
「リンハルトくんとカスパルくんは男の子同士なんだから事情が違うでしょ~?」
「男同士なら交合しないのに、男女だと交合するのが当たり前なの?」
「もちろん、誰とでも見境なくって意味じゃ……あっ、そうか。リンハルトくんみたいな人もいるものね」
 ヒルダはそこまで口にしたあと、リンハルトの伴侶が誰であったかを思い出した。
 戦後、リンハルトはかつて担任の教師であった『彼』に求婚し、その後めでたく結婚したのである。それを思うと同性であっても親しい相手と恋愛関係になることはあるし、異性であってもならないこともある――ということなのだろう。
「僕が言いたかったこととはちょっと主旨が違うけど……まあ、そういう観点も大事だよね。見えないものを認識するのは難しいことだから、見えるものから認識していくのもひとつの手だ」
 後半の言葉はほぼ独り言だったのかもしれない。リンハルトの言葉の意味をヒルダが正確に理解するのはまだ難しいようだが、ひとまずはそれでよしと判断してくれたようだ。
「とにかく、遠回しな誘い方をしてもカスパルは気づかないよ。行為そのものが目的なのであれば、率直に『子供を作りたい』って言えば応じてはくれるかもしれないけど。もちろん、カスパルがそれを是と判断すればの話だけどね」
「うーん……でも、あたしは子作りがしたいわけじゃなくて、カスパルくんと触れ合って仲良くしたいのよねえ。その誘い方だと目的が伝わらない気がするっていうか……」
「それなら、その通りに伝えてみたらどうかな? カスパルに触れたい、あるいは触れられたいって、具体的に伝えてみたらどうだろう? 身体的な接触が愛情表現であるという認識はカスパルにもあると思うし、そこから少しずつ触れる範囲を広げてみたらいいんじゃないかな」
「なんだかすご~く気長な話ねえ」
 リンハルトの提案を脳内で吟味しながらヒルダは首を捻る。
 リンハルトの意見は名案のように思えるが、それで本当に上手くいくのだろうか? なにしろ相手はあのカスパルである。接触の度合いを少しずつ上げていったとしても、ヒルダが満足するような成果が得られるまで何年かかるかわからない。いまだって腕を組む程度の接触はしているが、それでいてこうなのだから。
「とはいえ、それでカスパルが君に劣情を抱くとは保証できないけれど……根本的にそういう欲求がないのであれば、他人が何をやってもその気になることはないと思うよ」
 そんなヒルダの杞憂を見越したようにリンハルトは説明を付け加える。
「例えば、世の中には『仲のいい男女は恋愛関係になるのが当たり前であり、やがて交合するのが当たり前である』という認識を持っている人がいる。そういった人の場合、『口付けや抱擁ができるなら慣れればその先もできるだろう』と思うかもしれない。でも、性的な欲求が根本的にない人にとっては、口付けや抱擁といった触れ合いと交合は地続きの行為ではないからね。さっきの僕の案はその辺で誤解を与えそうだったから付け加えさせてもらうけど……」
 リンハルトは『そういった人』に該当するのがヒルダである――とは断定せずに説明を続ける。
 それらの細やかな言葉選びから、リンハルトがきちんと対話しようとしていることはヒルダにも感じ取ることができた。
 リンハルトは自分の意見を押し付けたいわけではなく、ヒルダに理解を求めているのだろう。それはリンハルトへの理解ではなく、カスパルへの理解である。
「リンハルトくんがカスパルくんのことをすご~く心配してることはわかったわ」
「……うん、まあ、それは否定できないね」
 つまり、リンハルトはヒルダがカスパルに無体を働かないかを心配しているのだ。
 むしろ、無体を働いて欲しいのはヒルダのほうなのだが――そういった欲求がある以上は、リンハルトの気持ちを無下にすることもできない。
「心配しなくても、うまくいかなくたってあたしはカスパルくんを嫌いになったりはしないわよ? カスパルくんにその気がないのなら残念ではあるけど、あたしはカスパルくんのそういう……あたしの思い通りに動いてくれないところが好きになったんだからね」
「そっか。それならいいんだけど」
 ヒルダの言葉に多少は安心してくれたのか、言葉を紡ぎ続けていたリンハルトの唇が数分ぶりに茶器に触れる。
「ふふ、でも優しいねリンハルトくん。そんなにカスパルくんのことが心配なのに、あたしに助言してくれるんだ?」
「君と一緒にいることを選んだのはカスパルの意思だからね。それを自体を否定することは僕にはできないよ」
 ヒルダが自由なカスパルに惹かれ、彼にそのままであってほしいと願ったように、リンハルトもまた彼には自由であってほしいのだろう。
 リンハルトはカスパルに対して伴侶という関係こそ求めはしていないが、それは彼にとってカスパルが大切でないということではない。リンハルトの言葉の端々からそれが感じられて、ヒルダはなぜか無性に嬉しくなってしまった。
「あいつも戦争で父親や叔父を亡くしているし……ほかの親族とも数年前に絶縁しているようだから、少しは、ね。心配もするさ。あいつは一人でも生きていける人間だけど、家族との交流は好んでいたから。家族とまでは行かなくとも、君があいつにとって『親しい相手』の一人になってくれるなら僕も安心できるよ。……まあ、あいつにとってはお節介なのかもしれないけどね」
 ガルグ=マクの戦いのあとカスパルが一族と絶縁したこと、そして、カスパルの父親が帝国の将兵の身の安全と引き換えに自ら首を差し出して処刑されたこと――それらの話はもちろんヒルダも聞き及んでいる。
 それに対してカスパル自身はさして気に病んだ様子を見せなかったし、そればかりか「親父はすごい」と言って笑顔すら浮かべていたが、だからこそ慰めることすらできなかったのはリンハルトも同じなのかもしれない。
 悲しくないわけではないのだろう。学生の頃、カスパルの父親がカスパルに寄越したのであろう大量の手紙は、戦時中であってもカスパルの部屋に大切に保管されていたのだから。
「……おっ、ここにいたのか。話はもう終わったのか?」
 話がひと段落したころ、二人を捜していたらしいカスパルが客室に姿を現した。
 カスパルは空いていたヒルダの隣の椅子に腰を下ろし、見慣れない組み合わせを不思議そうに眺めつつ茶菓子をひとつ摘み上げる。
「二人でなんの話してたんだよ? ……あっ、紋章についてとかか? 確かにそれなら、オレじゃ相談役にはなれねえよな」
 ヒルダとリンハルトの共通点がそれくらいしか見つけられなかったらしく、カスパルは一人で納得してうんうんとうなずく。
「違うよ、カスパルの話さ」
「ちょっと~リンハルトくん!?」
 リンハルトがあっさりと密談の内容を伝えると、カスパルはきょとんと目を丸くする。慌てたのはヒルダのほうであった。
「なんだよ、オレの話って?」
「ヒルダがカスパルの好みを知りたいって言うから教えてたんだ」
「オレの好み? そんなもん訊いてどうするんだ?」
 カスパルはますます困惑の色を強めて首を傾げ、ヒルダとリンハルトを交互に見つめる。
 そんなカスパルを見てリンハルトは微笑み、ヒルダは誤魔化すように紅茶を啜った。
「人を好きになると、相手が何を好むのかがとても気になるものなんだよ。カスパルだって心当たりあるだろう?」
「……あっ。そうだ、そうだったな!」
 リンハルトに言われて何かを思い出したらしい。カスパルは外套の懐に手を潜り込ませると、そこから掌に収まる大きさの箱を取り出した。
「どうしたの、カスパルくん?」
 カスパルの唐突な行動に驚いたヒルダは手にしていた茶器を皿に戻しながら訊ねる。
 すると、カスパルは少し照れた様子で頬を掻きながら質問に答えた。
「いや……その……お前にやろうと思ってよ」
「あたしに?」
 箱を手渡されたヒルダは不思議に思いながらも包装を解いて箱を開ける。中に入っていたのは、白い造花で編んだ可愛らしい髪飾りだった。
「これ……」
「お前と旅してると楽しいからさ、なにか礼をしたくってよ。でも、女に何をあげたら喜ぶかなんてわからねえから、リンハルトに相談したんだ。そしたら、髪飾りならいつでも身につけていられるから喜んでくれるだろうって。オレ、洒落たものには詳しくねえから、こういうのでいいのかわからねえんだけど……」
 カスパルは少し照れたように鼻を擦って笑みを浮かべる。
 ヒルダは呆然として髪飾りを見つめていたが、やがて箱の中のそれを大事に手に取って胸に抱いた。
「嬉しい……すっごく嬉しいよカスパルくん! ありがと!」
「そ、そんなにか? 別に大したもんじゃねえぞ?」
 感極まったヒルダはそのままの勢いでカスパルに抱きつく。
 カスパルは驚きながらも、ヒルダの背中に腕を回して抱き返した。
「も~……カスパルくんって、本当にずるいよねえ。まあいっか、って思っちゃうじゃない?」
「? なんの話だ?」
「いいの、こっちの話」
 ヒルダはカスパルの肩口に顔を埋めながら満面の笑みを浮かべる。
 カスパルに対する不満も抱いていたものの、そんなものはこの不器用な愛情表現を前にすればどうでもよくなってしまう。
 そんなヒルダの気持ちを知ってから知らずか、カスパルは不可解そうに瞬きを繰り返していた。
「まあ、その……なんだ、これからもよろしくな」
「うん!」
 ヒルダが顔を上げたとき、そこにはカスパルの照れたような笑顔があった。ヒルダは背伸びをしてカスパルに顔を寄せ、赤らんだ頬に唇を近付ける。
「……仲がいいのはいいことなんだけどね。うちも新婚なんだからちょっとは気を遣ってほしいなあ」
「あっ」
「あっ」
 呆れたようなリンハルトの声で我に返った二人は、ここがヘヴリング邸であることを思い出し慌てて体を離した。
「ご、ごめんねリンハルトくん! あたしったら……」
「悪い、いつもと同じ気分で上がり込んじまった」
「……まあ、別にいいんだけど」
 リンハルトは謝罪する二人を尻目にして茶器に残ったハーブティーを飲み干す。
 ちょうどそんなやりとりをしていたとき、「リンハルト様、カスパル様、失礼いたします」と断りの声が聞こえ、ヘヴリング邸の使用人が客室へと入ってきた。
「なに?」
「先ほどベルグリーズ邸の使者から届け物がありまして……どうやら、カスパル様宛ての緊急の報せのようです」
 リンハルトの簡潔な問いに使用人はうやうやしく答える。
 本来であればカスパル宛の封書がヘヴリング邸にまで転送されるのはおかしな話なのだが、もはやそれを気にする者はヘヴリング邸にはいなかった。
「オレ宛て? しかも緊急って……」
 カスパルは訝しみながらも封書を受け取り、渡された小刀を使って慣れた手付きで封を開ける。中から取り出した書簡を読みながらもカスパルはしばらく怪訝そうな表情を浮かべていたが、途中からその表情は剣呑なものへと変わっていった。
「……すまねえリンハルト、急用ができた! この埋め合わせは必ずするからよ! ヒルダ、行こうぜ!」
「えっ、ええ~? どうしたの急に?」
 カスパルは書簡を読み終えるなり血相を変えて立ち上がり、ヒルダの手を引いて駆け出していく。廊下でカスパルとすれ違った警備兵が「わっ! ……なんだ、またカスパル様か」などとつぶやいていたのは、リンハルトの耳にもしっかりと届いていた。
「……相変わらず騒がしいねえ、カスパルは」
 後に残されたリンハルトは慣れた様子でひとつ欠伸をする。
 このときカスパルが受け取った封書はゴネリル家からの書簡であったらしい。それをリンハルトが知ったのは、ゴネリル家お抱えの騎士となったカスパルと、その主となったヒルダとの婚姻の報せがヘヴリング邸に届いたときのことだった。



 作品一覧に戻る