守門村は新潟県魚沼地方東北端に位置し、東は北魚沼郡広神村と接している。又この地域は11月中旬から翌年の4月下旬まで、
毎年3m以上の積雪があり、豪雪地帯として全国に有名である。守門村は古くから会津と越後を結ぶ(六十里越え)交通の要衝と
して発展してきた地域でもある。昭和31年に須原村と上条村が合併して生れた守門村、雄大な守門岳のもと、その文化を培ってき
ました。寛政9年(1794年)からの古き歴史をもち、今なおごうそうな佇まいを残す「目黒邸」は国の重要文化財であり、村のシンボル
として歴史ある守門の風景に息づいています。
目黒家住宅は寛政九年(1797)に十1代五郎助がたてた割元庄屋(大庄屋職)の役宅をかねた豪農住宅である。豪雪地帯の農家の
特徴を備え、近世村役人層の典型的な居宅として貴重な遺構である。表の旧合図街道に沿って野面石で塀を築き、冠木門を設け
るなど、中世武士の館を思わせる屋敷構えである。主屋は萱葺、寄棟造、桁行十六間、梁間六間。正面の表中門は入母家造で、懸
魚のつく千鳥破風の屋根は役宅に威厳を添えている。隣接する。銅板葺、寄棟造の建物は、目黒家最盛期の明治三十四年(1901)
に建てられた「離れ座敷」である。邸内には現存する中蔵、新蔵、の他、かっては籾蔵、米蔵、みそ蔵、酒蔵、醤油蔵などがあり、今も
その跡をとどめている。
目黒家は戦国大名の会津廬名氏に仕え、伊達政宗との戦の後、天正十八年(1590)この越後国北魚沼の広瀬谷の地で帰農したと伝
えられている。中世武士の系譜をひく豪農である。目黒家の初代善右衛門は、江戸時代初期の慶長年間(1610年)に上条郷十五ヶ村
の肝煎役を勤めている。尾瀬に源をもつ只見川の上流で、寛永十八年(1641)銀山が発見された。これに端を発した会津と越後の国境
争論では、正保二年(1645)ニ代彦兵衛は越後の代表として江戸に赴き、大老酒井忠勝ら幕府評定所の幕閣に早期裁断を訴える等大
庄屋に並ぶ働きをしている。
魚沼地方が天領であった元禄年間(1690年代)目黒家は、堀之内組のうち上条郷二十五ヶ村の庄屋の惣代、中庄屋になっている。「獄
下幽谷」の魚沼領はたびたび凶作、飢餓に見舞われたが、目黒家はその時々に救済策を行い、郷中の窮状を救っている。
江戸時代中期の宝暦五年(1755)糸魚川藩領須原村の庄屋であった八代五郎助は割元役を命ぜられた。以後代々割元屋となり。苗字
帯刀を許された、扶持を受け、近郷の割元庄屋とともに糸魚川藩魚沼領二十三ケ村の大庄屋職を勤め、明冶初年に至っている。
目黒家の記録によれば、安永年間(1770年代)所持高百四十石余、造酒二百石・奉公人二十人を数えたという。この地方も幕末の七品
運上品替反対の一揆、戊辰戦争など激動の時を経て近代を迎えた。十五代徳松は明治十三年(1880)草創期の新潟県議会の議員に
選ばれ、国会開設運動や政党結成に参画し、明治二十五年(1892)には帝国議会の衆議院議員に選出されている。十六代孝平も明治
四十五年(1912)衆議院議員に当選、大正政変期の中央政界で活躍した。
豪農目黒家の経営規模は、大正九年(1920)ニ郡六ケ村に及び、農地百六十五町歩、小作人総数三百二十五人である。目黒氏は地方
「近代化」の推進者として、産業や教育、文化の振興、道路の整備、鉄道の敷設、水力発電所の建設に尽力するなど、多くの功績をのこ
している。
佐藤家住宅は今から焼く二百五十年前の元文三年(1738)に建てられた農家です。新潟県中越地方の豪雪地に分布する中門造りの
形式を持っ民家の初期の遺例として、またその時代の特性を示す価値が認められて昭和五十二年一月国の重要文化財の指定を受
け、昭和五十四年、解体修理を行い、建築当初の姿に復元されましたこの住宅の特徴は広間型三間取りの本屋に「茶の間」を中心に
「でい」(座敷)、「にわ」(土間)からなり、中門を取り付けた形式となっています。中門造りの形式は新潟、秋田の日本海に面した地方
に多く分布し、岩手県の曲り家とは異なった形式をもっています。建物は冬期間三〜四mの豪雪にも耐えうるように、柱は太く、大きな
差し物入れ、貫を多く用い、また周囲には基壇を築き消雪池を配する等の工夫をこらしています。座敷まわりの等の柱はカンナ仕上げ
とし、天井を張っていることより見て、建築当時はこの地方の庄屋格を持った家柄であったと推察されます。また幕末から明治の初期
にかけて寺子屋風の教育の場とした時期があり「でい」を教室、「ちゃのま」を運動場、「へやの二階」を教務室として使用されたといわ
れています。
佐藤家は寛永年間(1630年頃)大倉村の住人となり、ここに居を構えました。初代由左衛門(延宝三年没)から由左衛門を 名乗る人
が五代続き、この四代目由左衛門の時代(元文三年旧二月)に現在の佐藤家が建築されます。十二代忠の時代(明冶三十五年)に佐
藤勘右衛門の次男、佐藤勘左衛門(現佐藤家の初代)が買い受け、平成五年守門村が譲り受け現在に至ります。
須原スキー場山頂(標高555m)に位置する星の家は、周囲を国定公園の越後三山、守門岳などの名峰に囲まれた自然環境の中
にあります。400mm反射式望遠鏡があり、壮大な星空を眺めることができます。
豪雪地帯ならではの、雪を利用した天然の冷蔵庫として、年間を通じて大吟醸を低温で貯蔵できる(ゆきくら)をはじめ、300余年の
歴史と伝統を活かした酒造りの様子が見学できます。
須原そばよしみや 守門村の民家
越後のそばはつなぎにフノリを使っているのでコシがある 豪雪地帯の民家雪に対する工夫が伺えます
昼飯に天ざるを食べてきました。
新潟県選定保存技術「茅葺技術」
かって農村に多くみられた茅葺き屋根は、近年生活様式の変化によりその姿を消していきました。豪雪地帯の魚沼では、春先、雪で傷ん
だ屋根の修理のため民家を廻る茅葺職人(当地方では「やのひき」という)の姿が、春の風物詩となっていました。魚沼地方の茅葺技術は、
三メートルの豪雪に耐えうるよう、固く、丁寧に葺かれるのが特徴です。守門村では、重要文化財目黒邸、佐藤家の保存のため、村内の茅
葺職人により守門村茅葺屋根職人組合が結成され、文化財の保存、技術の伝承に努めています。平成十二年、組合員七名が新潟県選定
保存技術(茅葺)保存者に認定されました。
守門神楽
明治から大正、昭和の初期にかけて雪に閉ざされる魚沼地方では、地芝居とともに神楽が唯一の娯楽として人々に親しまれ人気がありま
した。守門村でも各集落に神楽衆が構成され、冬から春先きにかけての農閑期には「神楽舞」が行われ、賑やかでした。この神楽も戦後は
急激に姿を消していったが、細野地区に伝えられていた神楽を「守門神楽」として残すことになり、昭和四十九年むらの文化財に指定されま
した。
広大寺
守門村に伝わる民謡踊り「広大寺」は、新保広大寺の流れをくむといわれます。最も古い原形は栃木県の足利地方に発生した踊りが、
群馬県に伝わり、ここで「八木節」と分かれて越後に入り、また長野県を通って越後の妻有郷へ入ってきたという記録があります。
一世紀以上にわたって広大寺踊りは、地域の人々の心の寄りどころとして踊り継がれてきたものです。
松づくし
明治の末期、柏崎の「金五郎神楽」から大倉沢に伝えられ、時代時代に引き継がれて今日まで残されているものです