大永元年(1521)今川氏親が現在の二の丸位置に名古屋城の前身である「那古野城」を築城。天文元年
(1532)になって織田信長の父、信秀が入城した。信長が清洲に移った後は廃城となっていた。
名古屋城は、関が原の合戦後江戸幕府を開いた徳川家康が、慶長14年(1609)江戸幕府の東海道の要所として、また、大坂(現大阪)方への備え
として、清須(現清洲町)から名古屋へ遷府を決定、加藤清正・福島正則・前田利光等北国・西国の諸大名20名に普請(土木工事)を命じ、天守閣や
諸櫓の作事(建築工事)は、慶長17年(1612)にほぼ完成した代表的な平城です。その後明治維新をむかえるまで名古屋城は、徳川御三家の筆
頭尾張家の居城として栄えました。第2次世界大戦の空襲により天守閣や本丸御殿などを焼失したが、三つの櫓三つの門は、現存し国の重要文化
財に指定
正門 西南隅櫓から東南隅櫓
西南隅櫓(重用文化財) 東南隅櫓(重用文化財)
末申櫓ともいわれ、屋根二層・内部三階の櫓。西、南 辰巳櫓ともいわれ、その規模、構造は西南隅櫓と同
両面には、軍事用の「石落し」を張り出して屋根を付 じですが「落狭間」の破風の形を異にしています。こ
けています。濃尾大地震で石垣と共に崩壊しましたが の櫓は創建当時の姿を伝えるもので、鬼瓦などに葵の
宮内省によって修理復旧され、鬼瓦などに菊花紋が、 紋がみられます。
みられます。
剣 塀 不明門
軒桁に30cm余りの槍の穂先を並べ、忍返しとしてつかわれたもので、名古屋城では、天守閣と小天守閣とを連絡する橋台の西面や、不明門北面に
みられます。
清正公石曳きの像 清正石
天守閣の石塁構築を命じられた加藤清正は、巨石の運搬に際し、自ら音頭をとって、木遣(きやり) を歌わせ民衆の老若を問わず引綱をとって運んだと
伝えられていますが、この石塁の施工大名は、黒田長政なので単なる説話と思われます。
金色さん然たる金の鯱を城頭に頂き、名古屋のシンボルとして親しまれてきた名古屋城が灰じんに帰してから10有余年、昭和34年10月、天守閣が再建
されました。
天守閣の金鯱
名古屋城にあってもっとも名高いのは金鯱です。城の大棟に鯱を掲げることは室町時代の前期、城郭形態の完成した頃から始まったと言われてい
ます。当時は火除けの呪いであったものが後には城主の権威の象徴として大棟に飾られました。金鯱は尾張名古屋のシンボルとして昭和の世まで
伝承されてきましたが、惜しくも第二次世界大戦の戦火により天守閣と運命を共にしました。しかし、昭和34年10月、天守閣と共に再建され再び市
民の前にその姿を見せるようになりました。
雄雌一対 金板18K 厚み0.15mm
古井戸 葵の紋の鬼瓦
お堀と石塁 お堀の外から見た天守閣
西北隅櫓(重用文化財)
戌亥櫓とも清洲櫓ともいわれ、清洲城の古材を多く用いて建築されました。外部北面、西面に千鳥破風が作られ、「落狭間」を備えています。
古くは南二之門といわれ、門柱・冠木とも鉄板張りとし用材は木割りが太く堅固に造られています。袖堀は土塀で鉄砲狭間を開いて要害としての堅固
さを示しています。
表ニ之門 〔重要文化財〕 表二之門鉄砲狭間
表ニ之門の扉の1部 表ニ之問の入り口の橋の一部