サッカーシューズの販売メーカー紹介


サッカーシューズの販売メーカーは20社近くあるようですが
あまりなじみのないメーカーもありますね。
皆さんはひいきのメーカーはありますか?
びっくりするのはアディダスとプーマの創始者が兄弟だったこと。
楽しんで読んでください。
なお解説のないところはなんとか調べてそのうち記述します。


※解説は「ウィキペディア」の引用・アレンジです。


メーカー名 ロゴマーク 解説
アディダス

アディダスadidas)は、世界的に有名なドイツのスポーツ用品メーカーである。サッカー日本代表のユニフォームは、現在はアディダスが提供している。
ロゴは2種類あり、三本線のロゴは主にスポーツブランドに、楓を象ったロゴは主にファッションブランドに付される。

  • ドイツ・ニュルンベルク近郊のヘルツォーゲンアウラッハで、靴製造の会社「ダスラー兄弟商会」を設立。兄のルドルフが販売、アドルフが生産を主に担当。
  • 1948年 兄弟との意見対立により「ダスラー兄弟商会」を解消。アドルフはアディダス社を設立「アディダス」とはアドルフの愛称「アディ」と「ダスラー」をつなげたもの。なお兄ルドルフはRUDE社を設立。これが翌年、プーマ社となる。
  • 1965年 テニスシューズ「ハイレット」を発表。これが後のスタンスミスである。
  • 1970年 オールレザーのバスケットシューズ、「スーパースター」発表。
  • 1970年以降、アドルフの息子ホルスト・ダスラーが実権を握り始める。ホルストはスポーツ広告代理店ISLを電通と共同で設立し、スポーツをビジネス化した。これによりFIFAやIOCなど国際的スポーツ組織を取り込み、スポーツ界全般においても大きな力を持つようになった。この時期、アディダスは売上高で世界一のスポーツ用品メーカーであった。
  • 1986年 ホルスト・ダスラーが51歳の若さで病死。アドルフの娘たちとホルストの息子たちとの間での経営権争いもあり、アディダスの経営は迷走を始める。
  • 1990年 フランス人実業家ベルナール・タピが株式の過半を取得、経営権を握る。これによりダスラー家とアディダス社との資本関係はほぼ消滅した。この頃には、ナイキ、リーボックに次ぐ業界3番手に転落していた。
  • 1993年 銀行団主導でフランス人実業家ロベール・ルイ・ドレフュスが経営権を握る。ドレフュスのもとでアディダスは黒字化、復活を果たした。
  • 1995年 フランクフルト証券取引所に上場。
  • 1997年 ウインタースポーツ用品メーカー、サロモンを買収。世界ナンバー2のスポーツ用品メーカー、アディダス−サロモングループになる。
  • 2005年 リーボック株を取得し、リーボックをグループに加える。

アディダスグループの売上げは約100億ドル。ナイキの売上げはグループ推定で約137億ドル。10月25日、フィンランドのスポーツ用品メーカー、アメアスポーツコーポレーションにサロモン部門を売却。

日本でのアディダスブランドはそれまで販売代理店として兼松スポーツ(兼松子会社)、デサントなどが請け負ったが、1998年に直営日本法人が設立された。

  • 設立 1998年
  • 本社所在地 神楽坂(東京都新宿区矢来町)

    1998年のFIFAワールドカップフランス大会の公認サッカーボール「トリコロール」をパキスタン工場の10歳未満の子どもたちの手で作らせていたことが発覚。
    国連児童基金(UNICEF)とILOは、1日12~16時間ずつ、指紋が消え去るほどにして皮切れを綴らせた行為は深刻な児童虐待だと結論を出したうえで、アディダスに巨額の児童保護基金を出させ公開釈明させた。

ナイキ

ナイキ (Nike,NYSE:NKE) は、ご存じの通り世界的スポーツ用品メーカー。本社はアメリカオレゴン州にあります
ロゴマークは風を表します。
社名の由来はギリシャ神話の勝利の女神「ニケ」(Nike)から採ったもの。
児童虐待問題はナイキでもあるようです。
その他詳細はウィキペディアでは控えており現時点わかりません。
なにしろ巨大メーカーです。知っている人がいたら教えてください。

プーマ

プーマの原点は1924年にアドルフとルドルフのダスラー兄弟が体育館用のシューズを開発したことに始まる。靴工房を運営した父クリストフ・ダスラーは、その後子孫であるアドルフとルドルフの2人の兄弟に対し、ヘルツォーゲンアウラッハ地域の慣例に従って靴職人になるように言い伝え、靴工房での修行を行うようになり、水車小屋からフェルトクズを得て、そこからゴムチューブなどでスリッパを作り、各地の市場に販売された。
1920年、ダスラー兄弟商会設立。1924年それを応用し、靴紐の変わりにゴムの付いた革底を使用した体育館シューズを開発し、1925年地元の体育協会が1万足を注文したことで利益を上げ、工場の増築が図られるようになった。ルドルフはその後、著しく発展し世界的なスポーツとなりつつあったサッカーで使用するシューズや、知人で陸上競技のコーチであったヴァイツァーの提案による陸上用シューズの開発を行い、世界恐慌になりかけていた1928年には実に8000足を売り上げ、アムステルダムオリンピックでも参加者の多くはこのダスラー社の靴を使用していた。
その後、一旦1933年ごろから不況のあおりをまともに受けて経営危機に立たされたが、1936年のベルリンオリンピック開催が決定すると、その売り上げが原料不足になるほどまで急上昇していった。その後1935年にポスターによる広告活動が開始された。だが、第二次世界大戦の影響で一旦生産が規制され、1942年ルドルフも兵役に徴兵された。
その後、兄弟は喧嘩をしてしまい1948年に独立して、アドルフはアディダス、ルドルフはルーダを設立。このルーダが1949年からプーマというブランドに生まれ変わった。このプーマとはアメリカライオンのピューマから命名された。 それにも関わらずロゴはチーターである

尚、プーマは全国高校サッカー選手権大会の協賛スポンサーを第84回大会から担当している(それまではナイキが協賛スポンサーだった)。

[編集] 日本での販売

  • プーマ ジャパン株式会社(独PUMA.AGの日本法人、日本国内におけるPUMAの販売代理店業務および全権利の管理)
※同社が設立されたことにより、コサ・リーベルマンは2005年3月PUMA事業から撤退した。
  • プーマアパレル ジャパン株式会社(プーマ ジャパンとヒットユニオンのよるジョイントベンチャー、日本国内におけるPUMA APPARELの販売代理店業務)
※同社が設立されたため、ヒットユニオンはPUMAの販売事業から撤退した(製造は継続)。
アシックス

アシックスのブランドで競技用シューズやスニーカー、アスレチックウェアなどを製造、販売する。スポーツシューズに強みを持ち、とりわけマラソン競技、バレーボールなどでは高いブランド力を持つ。

アシックスに社名・商標を変更する以前のブランドであるオニツカタイガーはレトロな雰囲気からファッションアイテムとしての人気を呼び、2006年現在では再び一般向けシューズのブランドとして製造販売されている。

海外にも進出しており、ブランド全体の知名度ではトップブランドにはやや劣るものの、オニツカタイガーが、特にヨーロッパで人気を集めている。シューズの他、スポーツウェア、アウトドア用品等の製造販売、輸入等も行っている。

2006年3月期の連結売上構成はスポーツシューズ66%、スポーツウエア24%、スポーツ用品10%となっている。

[編集] 沿革

鬼塚喜八郎が1949年(昭和24年)に神戸で興した鬼塚商会がバスケットシューズの製造販売をしたことに始まる。その年9月に法人組織の鬼塚株式会社とした。

鬼塚は選手や監督に直接意見を聞き、シューズの改良を進めながら全国を営業して歩き、高校の運動部を中心に徐々にオニツカの製品が売れていった。鬼塚は、シューズのブランドを、新鮮で印象に残り、スポーツシューズにふさ わしい強さと敏捷性を表すものとして「虎印」とした。虎印の商標権はすでに他社に取得されていたため[1]、鬼塚と組み合わせて「ONITUKA TIGER」印を横につけ、虎の絵の下にTigerの文字を入れたマークを靴底につけた。

1953年(昭和28年)からマラソンシューズの開発を開始、1956年(昭和31年)にオニツカタイガーがメルボルンオリンピック日本選手団用のトレーニングシューズとして正式採用され、スポーツ界での知名度はさらに高まった。

1958年(昭和33年)に生産子会社のオニツカ株式会社を形式上の存続会社として社名を変更。

1961年(昭和36年)の毎日マラソン出場のために来日したアベベ・ビキラを鬼塚はホテルまで訪問し『裸足と同じぐらい軽い靴を提供するからぜひ履いてくれ』と説得し、シューズを提供。アベベはその靴を履いて毎日マラソンに優勝。1964年(昭和39年)の東京オリンピックでは、オニツカの靴を履いた選手が体操、レスリング、バレーボール、マラソンなどの競技で金メダル20個、銀メダル16個、銅メダル10個の合計46個を獲得。マラソン優勝のアベベもオニツカを履いていた。

1964年(昭和39年)2月に神戸証券取引所、同4月には大阪証券取引所第2部に上場を果たすが、オリンピック景気の落ち込みに対し経営危機となり、1966年(昭和41年)には取引先に対し約束手形の支払を繰り延べてもらう事態も生じていたと後に鬼塚は語っている。

1972年(昭和47年)5月に東京証券取引所第2部、1974年(昭和49年)には同1部に指定替えとなった。1975年(昭和50年)にヨーロッパ市場に進出。1977年(昭和52年)スポーツウェア・用具メーカーの株式会社ジィティオ、スポーツウェアメーカーのジェレンク株式会社と合併し、社名を株式会社アシックスに変更した。1985年(昭和60年)、神戸市のポートアイランドに新本社を建設し、スポーツ工学研究所も設置した。

社名の由来は、古代ローマの作家ユベナリスが唱えた「もし神に祈るならば、健全な身体に健全な精神があれかし、と祈るべき(Man Sana in Corpore Sano)」という言葉のMan(人間)をより動的な意味を持つAnima(生命)に置き換え、その頭文字、A、S、I、C、Sを並べたものである。

1977年の合併時に、3社の代表が集まる際に足が6本ある(人が3人)から「アシックス」(脚 six)になったという説[3]があるが、あくまで都市伝説である(合併前からアシックスというブランド名は存在していたから)。

ディアドラ ディアドラとは「神より賜りし至上の贈り物」というギリシャ語の意味です。ロゴマークの「フォークドバッヂ」はデザイナーのマルツィオ・ブロンバルが、獲物を捉え大空に舞いあがる鳥のイメージで作成したものです。
1948年、イタリアに設立されたシューズ会社が「DIADORA」です。テニスにおいてスポーツブランドの高いシェアがあります。 1988年、日本のスポーツ用品卸売会社「株式会社ベストワン」が「株式会社ディアドラジャパン」を設立しました。 現在、テニス・サッカー・陸上・ラグビーなど、シューズ・ウェアを中心に様々なスポーツ商品を手掛けています。
アンブロ

アンブロUMBRO)は、イギリスのサッカー及びラグビー用品のブランドである。

1924年にイギリスのハロルド・C・ハンフリーズとウォーレス・ハンフリーズ兄弟が「ハンフリーブラザーズ・カンパニー」を設立。アンブロは、社名のHumphrey (`Umphrey) Brothersからもじって命名したブランド。のち、アンブロはイギリス各地のサッカークラブやイングランド代表チームのユニフォームやサッカー用品の御用達ブランドとなり、その後も世界各国でも愛用されるようになった。

日本では1998年にデサントが総販売代理店契約を結び、Jリーグの一部チームでユニホームサプライを行っている他、JFLの協賛スポンサーとしても定着している。

ミズノ

1906年の創業以来、スポーツ振興には特に力を注ぎ、小さなスポーツ大会からオリンピックをはじめとするさまざまな国際大会にいたるまで幅広く協力。世界でも屈指の総合スポーツ用品メーカーとして、国内外から高い評価を受けている。同じ大阪に本社を置くデサント・ゼット・スポーツSSK・ザナックス・ヒットユニオンと並ぶ在阪スポーツ用品メーカーの一つ。

あらゆる種目のスポーツ用品・ウェアを手掛けており、中でも野球に関してはプロ・アドバイザリースタッフが多く、圧倒的なシェアを保っている。ただサッカーはあまり愛用者が多くなくアディダスやプーマの後塵を拝する形であるが、1993年のJリーグ発足時にはリーグ全チームのユニフォームがミズノ製であった。2007年時点では、セレッソ大阪、徳島ヴォルティス、サンフレッチェ広島、アビスパ福岡の4チームがミズノ製ユニフォームを採用しているが、低迷しているチームへの供給が多いため、サポーターの中でもイメージ的には悪い印象を与えている。

1965年に、英国の水着では国際的な知名度を有するメーカー、SPEEDO社とライセンス契約を結び、日本における同社ブランド製品の製造・販売のみならず、SPEEDOブランドグループ全体における最先端技術の開発の役割も担ってきた。しかし2006年、創業100周年を機に、『全商品のブランドを“MIZUNO”に統一する』方針を決定。これに基づき、まだ期間が残っていたライセンス契約を、2007年5月31日付で打ち切り、以後は自社ブランドの水着を製造・販売することとなった。なおライセンス契約については、三井物産に事実上譲渡(三井物産が改めてSPEEDO社と契約)し、2008年以降に商品展開。三井物産は、商品製造をゴールドウインに委託する方針。

[編集] 社名の由来 

創業者水野利八の出身地が岐阜県(美濃)であったことから、苗字の水野と美濃を掛け合わせたもの。

ヒュンメル

ヒュンメルhummel)はデンマークにある、世界でもっとも歴史のあるスポーツブランドのひとつである。スタッドのついたスパイクを生み出したことで有名。本社はコペンハーゲンから160㎞西のオーフス市にある。ヒュンメルとはドイツ語でマルハナバチのこと。シェブロンラインと呼ばれる>>形のラインが特徴的。

略歴

  • 1923年 ドイツで創業。
  • 1927年 初のシューズカタログを作成。
  • 1974年 デンマーク人のハンドボール選手ヨルゲン・フォッズガルドがヒュンメル社を買収。本拠地をデンマークに移す。
  • 1979年 デンマーク代表とスポンサー契約を締結。
  • 1970年代後半~1980年代 レアル・マドリー、ベンフィカ、ウディネーゼ、トッテナムなどの強豪チームへ積極的にウェア供給。
  • 1998年 ロンドン、パリのクラブシーンを中心に起こったポストモダンスタイルをきっかけにクリスチャン・スタディールがバンブル・ビー(後のヒュンメルファッション)を設立。代表に就任。
  • 2001年 チベット代表とのスポンサー契約を結ぶ。

なおヒュンメル社の売上げは約6250万ドル。
日本でのヒュンメル
日本でのヒュンメルブランドはライセンス製造、販売代理店としてエスエスケイが請け負っている。

  • エスエスケイは多くの野球選手ともアドバイザー契約を結んでいるがスポーツウェアの自社ブランド展開が希薄であるため、トレーニングウェア等はヒュンメルを支給しておりテレビニュース、新聞等で目にする機会がある
ルコック

ル コック スポルティフ (le coq sportif) は、フランスを本拠地とし、全世界に進出しているスポーツ用品ブランド。ルコックとは雄鶏のこと(le はフランス語で男性を表す冠詞)。前身はフランスの一地方で始められたメリヤス工業で、1882年に創業。フランスで最も古いスポーツブランドとなり、品質の良さが次第に知られる。その品質を証明するために、1948年から鶏のマークを付けることになった。
鶏はフランスの国鳥であり、フランスに移住してきたガリア族の旗印でもあった。
現在はサッカー、テニス、ゴルフ用のシューズやウェアを中心に、一般用のスニーカーやカジュアルウェア、アクセサリなどを製造している。
日本には1981年に進出し、2007年現在はルコックとしてデサントが展開してる。

パトリック 1892年、西フランスのプソージュという村で靴職人であるPatrick Benetau(パトリック ベネトー)が息子達と靴を作り始めた。“一足一足に情熱を込める”父が語ったその言葉は、その息子達、そして孫達へと受け継がれていった。1930年“PATRICK”はサッカースパイクを中心としたスポーツシューズで高い評価を受けた後、1972年についにシューズの後方に鋭く刻まれた「2本線」が誕生、ブランドのイメージを更に強烈なものにした。その後、“PATRICK”が発表するカラフルなスポーツシューズはファションに敏感なパリの人々から注目を集めて行くことになった。日本へは1978年に上陸を果たす。
当時機能性だけが注目されていた「スニーカー」の中で、“PATRICK”の持つ鮮烈なカラーリングや洗練されたフォルムは、流行に流されない洒落物達から密かに注目を集めてきた。“PATRICK”は当時のコピーである“足元のメイクアップ”を現在でも忠実に受け継ぎ、流行に左右されることのない、洗練された大人のファッションを表現したいブランドでありたいと考える。
そして、“PATRICK”は足元から独自のセンスとスタイルのある、自由で心地の良い「ライフスタイル」を常に提案し続ける。

ウールシュポルト どんなメーカーか不明です。
アスレタ フットサルで有名です。
トッパー よくわかりません
ロット

ロットlotto)は、イタリアのスポーツメーカーである。1973年に創業した。シンボルは「ダブル・ダイアモンド」。
シェフチェンコと2000年から契約を結んでいたが、2006年3月末で契約を解除された。

モルテン

株式会社モルテンは、広島県広島市西区に本社を置くゴム製品及びスポーツ用品メーカー。
[編集] 概要
モルテン本社
明星ゴム工業(現・ミカサ)を退社した技術者らが1958年に創立。特にボールはバレーボールやバスケットボール、サッカーなどの国際大会などで公式球として使用されることも多く有名。現社長・民秋史也はバスケットボールのプロ化に陣頭指揮を執るほか、多くのスポーツの普及に尽力する。
また、スポーツ用品のみならず、自動車部品や建設資材などの製造も手掛け、近年では高齢化社会に対応した医療福祉関連用品の製造にも力を入れている。
2008年北京オリンピックを睨んだ世界最大級のボール製造工場を、中国浙江省嘉興市に2006年5月に稼動させる。年間800万個の生産を予定、現在中国国内の市場占有率0.05%を2010年までに10%に引き上げ、北京オリンピックでの公式球採用を目指す。
また、2006年のFIFAワールドカップドイツ大会の公式球「チームガイスト」は、モルテンがアディダスに提供した技術が採用され製品もモルテンからアディダスへOEM供給されている。

ペナルティー
カッパ

Kappa(カッパ)は、イタリアのスポーツ用品専門のブランドである。
1916年、Kappaを生み出すことになるMCT社の前身であるSACT社がイタリア、トリノで設立された。Kappaは1950年代に生まれ、1970年代から本格的に展開を始める。ブランド名はギリシャ文字のK(カッパ)から。ロゴの背中合わせの男女はアダムとイブだという。日本では1983年にPHENIXがMCT社と技術提携。Kappaブランドのアスレティックウェアを発売。Jリーグでは2006年、コンサドーレ札幌の ユニフォームサプライヤーとして好評を得て、2007年にはコンサドーレ札幌の他に、ジェフユナイテッド市原・千葉、東京ヴェルディ1969とユニフォームサプライヤーとして契約。

チャンピオン