安保関連法案の撤回を求める長谷部氏と小林氏の発言詳報
2015年6月16日01時38分 朝日新聞電子版

 15日に日本記者クラブで記者会見した長谷部恭男・早大教授と、小林節・慶大名誉教授の発言詳報は次の通り。



◆長谷部恭男氏

 集団的自衛権行使容認の違憲性の問題。集団的自衛権の行使容認をした昨年7月1日の閣議決定は、合憲性を続けようとする論理において破綻(はたん)している。自衛隊の活動範囲についての法的安定性を大きく揺るがすものだ。それから日本の安全保障に貢献するか否かも極めて疑わしいと考えている。

 憲法9条のもとで武力行使が許されるのは個別的自衛権の行使、すなわち日本に対する外国からの直接の武力行使によって我が国の存立が脅かされ、国民の生命及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険が切迫している場合に限る。これが政府の憲法解釈であって1954年の自衛隊の創設以来変わることなく維持されてきた。

 集団的自衛権の行使は典型的な違憲行為だ。憲法9条を改正することなくしてはありえない。これも繰り返し(従来の)政府によって表明されてきた。

 昨年7月の(安倍内閣による)閣議決定だが、自国を防衛するための個別的自衛権、そして、他国を防衛するための集団的自衛権、これは本質を異にするものだ。前者のみが許されるとする論拠が、後者の行使を容認するための論理になるはずがない。法的安定性についてはこの閣議決定は何ら語るところがないわけだ。

 しかし、中東ホルムズ海峡でも機雷掃海活動が許容されるか否かについて、連立を組む(自民、公明の両)党首の間で見解が分かれている。そのことをみれば、集団的自衛権の行使に対して明確な限定が存在しないのは明らかだ。

 「我が国の存立が脅かされ、国民の生命自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」。この文言はいかにも限定的に見える。しかし、このいかにも限定的に見える文言と、地球の裏側まで自衛隊を派遣して武力行使をさせようという政府の意図との間には、常人の理解を超えた異様な乖離(かいり)があり、この文言が持つはずの限定的な役割は否定されていると考えざるを得ない。

 機雷掃海活動を超える武力の行使についても、時の政権によって必要と判断されるのであれば、行使されないという法的論拠はない。安倍首相はあれはしない、これもしないとおっしゃっているが、これは彼がいま現在、そのつもりであるというだけであって、明日になって、あるいは来年になって、彼が考えを変えればそれまでの話であって歯止めは存在しない。

 いかにも限定的に見える先ほどの文言も、実は、武力の行使を限定する意味はない、そんな役割を果たさないということであり、とすると、従前の政府見解の基本的論理の枠内に入っているはずもないということも改めて確認できる。



砂川事件の最高裁判決。

 この判決を根拠に集団的自衛権の行使が合憲だという主張もなされているが、砂川事件で問題とされたのは日米安全保障条約の合憲性であって、同条約は日本の個別的自衛権とアメリカの集団的自衛権の組み合わせで日本を防衛しようとするものである。

 日本が集団的自衛権を行使しうるか否かは全く(裁判の)争点になっていない。

 よく引き合いに出される「我が国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは国家固有の権能の行使として当然のこと」という文言があらわれる段落は、「憲法9条は我が国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることをなんら禁ずるものではない」という結論で締めくくられている。

 この結論を引き出すために、日本には自衛力、自衛権があると最高裁は指摘をしているにとどまる。それだけだ。

 最高裁判決としての価値は、いかなる具体的争点に対してなされた判決であるか。それに則して決まるものだ。砂川判決から集団的自衛権の行使が合憲であるとの結論が導かれるとの主張は、こうした法律学の基本原則と衝突する。

 例えで言うと、妻と自動車で出かけようとした夫が、車のキーを忘れたことに気がついて、奥さんに「キーを忘れた、取ってきてくれ」と言った。奥さんは家中のありとあらゆる鍵を、タンスの鍵から日記帳の鍵に至るまで、すべて持ってきたとすると、夫は僕の言葉通りに何らの区別もすることなく「すべての鍵を持ってきてくれてありがとう」と感謝するだろうか。自民党がいま言っているのはそれと同じ議論だ。国民を愚弄(ぐろう)していると思う。

 自民党の政治家の方々は、最高裁がある種の「統治行為論」をとったことにも救いを求めようとしているように見える。これは個別の紛争を決められた手続きのもと、限られた証拠のみに基づいて裁く司法機関。最高裁が回答を示すべきか否かという問題と、当該国家行為、問題となっている法律が違憲か合憲かという問題はレベルが違う。

 たとえ最高裁が判断を示さなくとも、違憲なものは違憲。最高裁が違憲と言わないからといって政治部門が違憲の法律をつくって良いということにはならない。

 6月9日、内閣官房及び内閣法制局が公表した集団的自衛権行使容認の合憲性を示すとする文書があるが、この内容は昨年7月の閣議決定の内容を繰り返したに過ぎない。何ら批判に対する応答にはなっていない。反論できないことを、むしろ如実に示したものではないかと思われる。

 だからこそ、ワラにもすがる思いで砂川判決を持ち出してきたのかもしれないが、ワラはしょせんワラ。それで浮かんでいるわけにはいかない。



外国軍隊との武力行使一体化の問題。

 現在、国会に提出されている関連法案によると、自衛隊による外国軍隊の後方支援に関して、従来の「戦闘地域」「非戦闘地域」の区別は廃止され、しかも自衛隊は弾薬の供与、そして発進準備中の航空機への給油も新たに行われることとされている。

 弾薬の供与や発進準備中の航空機への給油がなぜ外国軍隊の武力行使との一体化ではないのか。不思議だ。まさに一体化そのものではないか。

 より一般的には、自衛隊の活動が外国軍隊の活動と一体化しているかについては従来、四つの要素「他国の活動の現況」「自衛隊の活動の具体的内容」「他国が戦闘行動を行う地域と自衛隊の活動場所の地理的関係」「両者の関係の密接性」で総合的に判断するとされてきた。

 ただ、具体の状況に即した総合的判断を現場の指揮官がその都度その場で行うのは至難の業。だから、戦闘地域と非戦闘地域を区別する。そして一律の判断ができるよう、ある程度の余裕を見て自衛隊の活動地域を区分する。そういう配慮に基づいて、この区分は成されてきた。

 現在の法案が示している、現に戦闘行為が行われている現場では自衛隊の活動は実施しないという条件では、刻々と変化する戦闘の状況に対応して、一体化が起こったか起こらないか、その判断を適切に行えるはずはない。具体的な状況によっては外国軍隊の武力行使との一体化につながる恐れが極めて高い、といわざるを得ない。



 先週6月11日の憲法審査会において(与党側から発言があった)、私に対するいわれのない批判についてコメントをしておきたい。

 私が武力行使の一体化の問題について、戦闘地域と非戦闘地域の区分が憲法9条が直接の要請であると誤解をしており、それはしかも、私が安全保障の問題について専門知識、これを熟知していないことに由来しているのである、そういう批判があった。

 しかし、私は戦闘地域と非戦闘地域の区分が憲法9条の直接の要請であると述べたことはない。外国軍隊の武力行使と自衛隊の活動の一体化、これが生ずるかどうかは先ほども述べた「4要素」、これを具体的状況に照らして、総合的に判断した上で答えが出るのだと言っている。ただ、それは現場の指揮官などにとっては至難の業だ。だから、余裕を見た上で正確な線引きをする。その配慮から戦闘地域と非戦闘地域の区分をしたのだ、と明確に指摘をしている。

 だからこそ、私は、この区分を廃止すると、武力行使の一体化をもたらす恐れが極めて強いと、持って回った言い回しをした。

 この区分が憲法9条の直接の要請なのであれば、この区分の廃止は直ちに憲法違反だと言えば済む話だ。そんなことを6月4日の審査会で(私)は言っていない。そうした誤解を私がしているという話は、自民・公明に属する複数の与党議員によってなされている。

 つまり、これらの議員は私の発言を素直に、普通に理解していれば思いつくはずのない解釈を、私の発言に対して押しつけた上で、私が従来の政府見解を誤解しているという、いわれのない批判しているわけだ。

 しかも、そのうち公明の議員は、私がそのような誤解をしたのは、私が安全保障について熟知していない、つまり素人だから、という指摘も加えている。

 私が安全保障について専門知識を欠いているという指摘は極めて興味深いと考える。私が専門的知識を欠いているのか。欠いているとは必ずしも考えていない。

 オックスフォード大学出版局が2012年に刊行した比較憲法大辞典「Oxford handbook of comparative constitutional law」という書物がある。ハンドブックという名はついているが大辞典だ。世界の第一線の研究者が参加をしている。

 ところで、この大辞典の「war powers」、戦争権限の項目は私が執筆している。憲法による軍事力行使の制限についての各国の法制を分析する項目だ。このオックスフォード版、比較憲法大辞典の編者は、安全保障に関する専門知識を欠いている人間にこの戦争権限の執筆を依頼したのか。なかなか考えにくいところだ。

 仮に私が安全保障に関して素人であるとしよう。すると自民党は、特定秘密保護法案という安全保障に不可欠な歯車と言うべき法案の参考人として、私という安全保障の素人を呼んだ。明らかな人選ミス。私の記憶している限りでは、この法案に賛成の意見を表明したのは、参考人のうち2人だけ。そのうち1人は私。つまり安全保障の素人だ。

 これは、この法律の成立の経緯に重大の欠陥があったことを示すものだ。制定の経緯に重大な欠陥があった以上、政府与党はただちに特定秘密保護法を廃止し、ゼロから作り直すべきであろうかと私は考える。

 別の言い方をすると、今の与党の政治家の方々は、参考人が自分にとって都合の良いことを言ったときは専門家であるとし、都合の悪いことを言ったときは素人だという侮蔑の言葉を投げつける。自分たちが是が非でも通したいという法案、それを押し通すためならどんなことでもなさるということだろうか。



 昨年7月の閣議決定は、集団的自衛権の行使が容認される根拠として、我が国を取りまく安全保障環境の変化、それがより厳しくなっていることであろうかと思うが、ただその内容として具体的に挙げられていることは、パワーバランスの変化や、技術革新の急速な展開、大量破壊兵器の脅威などという極めて抽象的なものにとどまっており、説得力ある根拠であるとは思えない。

 そして、我が国を取り巻く安全保障環境が本当により厳しく深刻な方向に変化しているならば、限られた我が国の防衛資源を地球全体に拡散するのは愚の骨頂だ。

 サッカーに例えれば、自分のゴールが危険なのに味方の選手を相手側のフィールドに拡散させるものだ。どこにそんな愚かな戦略をとるチームが存在するのか。

 世界各地で米国に軍事協力をすることで、日本の安全保障に米国がさらにコミットしてくれるのではないかという思いが語られることもある。しかし、米国はあくまで日米安全保障条約5条が定める通り、自国の憲法上の規定及び手続きに従って条約上の義務を果たすにとどまる。

 そして、本格的な軍事力行使は連邦議会の承認を条件にしていることを忘れるべきでない。つまり、いざというときアメリカが日本を助けてくれる確実な保証はないということ。

 ご存じの通り、アメリカは大統領制。大統領側の政治勢力と議会の多数派が一致する保証は、制度上はない。いかなる国でも、軍事力の行使は、まずは自国の利益にかなう場合である。連邦議会、とくに米国民の思いや利益を代表する人が、日本を守るために本格的な軍事行使をする決断をするだろうか。その時でないとわからない。

 集団的自衛権行使の容認が抑止力を高め、それが安全保障に寄与すると言われることもある。

 これまたよく言われるが、相手方はさらに軍備を強化し、安全保障環境はますます悪化する。さらに軍備増強が互いに進むことによって、プレーヤーの誰かが計算違いを起こすリスクも高まることも考えに入れる必要がある。安全保障が悪化する可能性も少なくとも同じ程度にはあるのではないか。

 以上述べた通り、数多くの重大といえる欠陥含む安保関連法案は直ちに撤回されるべきであると考える。



◆小林節氏

 安倍内閣は憲法を無視した政治を行うとする以上、これは独裁の始まりだ。本当に心配している。

 自民党の方たちと不毛な議論をずっと続け、30年近く続けて、いまだに憲法って何ということについて、自民の方たちが納得してくださらない。世界の非常識のような議論がいまだに続いている。私たち主権者、国民は基本的には権力を扱っていない人たちの総体と思ってほしい。

 憲法は、権力担当者、政治家や公務員ら本来的に不完全な人間に課した制約だ。

 でも、自民の勉強会に行くと毎回、「どうして憲法は我々政治家だけを対象としているのか」と非常に不愉快そうに言う。そのうち「じゃあ、一般国民は憲法守らなくていいのか」と。権力者は「おれはまじめにやっているよ。おいそこの非国民、協力が足りないな」と、こうなる。

 憲法はそんなもんじゃない。ジョージ・ワシントンが王様を倒して初めて民主国家をつくったとき、それまでの神の秩序を使っていた王様と違い、理論上、普通の人が権力を扱う以上、当然民法や刑法が必要になる。それから、ずいぶん時間がたっているが、民法はなくならない。人間の本質は変わらない。



 いま取り上げられているのは、その権力者が従わざるを得ない憲法の中で問題の9条だ。私の言葉でこれまでの政府の見解をわかりやすく言うと、9条の1項は、国際紛争を解決するための手段としての戦争、すなわち1928年のパリ不戦条約議会で国際法上の概要として、侵略戦争のみ放棄する。ということは、自衛のための戦争は放棄していない。

 もう一つの根拠は、自民党の大好きな砂川判決にも出てくるように、民主主義国家で自然権としての自衛権がある。これは9条があったって誰も否定はしない。

 だけれども、9条の2項で軍隊を持てない、交戦権は持てない、行使してはいけないと言われている。

 軍隊というのは戦となったら勝つことを優先する。大量破壊、器物損壊、建造物損壊、何でもあり。大量殺人。普通に考えたら犯罪だ。例外的に戦場で強盗したり強姦(ごうかん)したりする。それは民法で裁かれてしまう。大量殺人、大量破壊を、そもそも問題としない。

 日本国憲法は76条2項で軍法会議も禁止している。だから軍隊という道具を我が国がしつらえることは許されていない。

 だから我が国のテリトリーの中で、自国の領域内に生じた危険に対応する。警察や海保で担えないほどの大きな力が襲ってきた場合、自衛隊、すなわち、警察予備隊として発足した。法的には代理人警察だ。専守防衛というのは自然に出てくる。

 我が国は憲法上、海の外に軍隊と称するものを出すことはできない。

 海上自衛隊が外でドンパチやったら、交戦権もないし軍法会議もない、しかも法的本質が代理人警察だから、国際法的に見たら海賊になる。勢い余ってよその国の領土にあがったら山賊になる。当然の帰結として、我が国は海外へ兵隊を出せない。

 集団的自衛権というのは要するに、我が国がどこかの国と同盟関係を結んで、「私が襲われたら、あなた、助けてね。あなたが襲われたら、私が助けるね」。

 大事な点は、おまえの方からちょっかい出してケンカになったじゃないかと言わないから同盟なんだ。戦争の時は四の五の言わず、違法な戦争でも、米国が戦争したら、「おう分かった」と。これでこそ同志じゃないか。でも、その瞬間から我が国の軍事組織が海の外に出ると憲法違反になる。

 我が国は他国防衛のための海外派兵を、その本質とする集団的自衛権はそもそも行使できない。よく自民党の方が「持っていても行使できないなんておかしい」と言う。全然おかしくない。国際法上、集団的自衛権があることは私も否定しない。

 だけど、日本が集団的自衛権を行使しようとする上では、日本の公務員が担当するしかない。今でいうと腕力として姿のある自衛隊がやるしかない。でも自衛隊員は日本国の公務員だから。必ず任官の際に宣誓してるわけだ。全ての公務員の宣誓はまずは「日本国憲法を順守し」と入っている。だから国際法上、我が国に集団自衛権があるとしても、行使する場合には憲法に従ってやるしかないじゃないか。だから、憲法上行使できない。

 3人の有名な憲法学者が「(集団的自衛権は)使えないはずない」と言うが、論争は1年前の議論だ。ひところ一世を風靡(ふうび)した、(解剖学者・養老孟司氏の著書)「バカの壁」ってやつだ。一番強い。人間同士の論争は発展性があるが、壁とのはつらい。発展性ない。壁を蹴飛ばすか、こちらが気が狂うしかない。



 新しい安保法制は結論として、法的にも政治的にも経済的にも愚策だ。

 僕らは普通の法律の専門家でしかないが、逆に法律的な論争をするときは話を聞いてほしい。それが、ど素人の扱いをされる。失礼だ。政治家だって選挙に通らなければ何の資格もない。失礼な話だ。

 9条に違反する海外派兵で法的にはアウトだ。中東の戦争が典型だ。何千年もの歴史的な恨みがある。パレスチナなんてお互いに引けない。言い出すとおれの親が殺された、じいさんを殺されたと永遠に言う。これはすごい泥沼だ。

 歴史を見ると戦のない時代はないし、終わらない戦はない。その時に止めるところが必要だ。小さくてはだめ。強くて両方ににらみがきき、何となく情を持たれる国、まさに日本がそうだ。

 その立場を維持すべきなのに、なぜ米国の2軍にならなきゃいけないのか。その瞬間にイスラムの天敵に変わり、イラクやパリやロンドンや、キリスト教国で起きたテロが東京で起こる。そのことは、むしろ真面目に考えたほうがいい。

 日本は神道と仏教の国。神道は自然、先祖を大切に。あと輸入した仏教。難しい宗教よりよほど進んでいる。理屈で殺し合う宗教よりは。だから日本は第三者でいるべきだ。

 それから「切れ目のない防衛を」とやたら言っている。尖閣が危ないというのは自民の売りだ。中国が軍隊らしい軍隊でないとか色々くる。ブルーとか白とか最後はグレーの船。そういうときに、仕方がないから白い船で対応する。腕力でかなわないから、自衛隊に引き継ぐときにギャップが生まれる。自衛艦が中国船にミサイル電波を照射されて右往左往した。武器使用基準があるから。現代の高度の技術の兵器で、撃たれたから撃ち返す人はいなくなっている。海保が自衛隊にタッチするときにギャップが出来るのは法的不備だ。撃たれたら撃つのは防衛大臣訓令で決まっている。法律でも政令でもない。法規範じゃないということだ。

 (政府は、安保法制ができても)予算は増やさないと言い張っている。

 世界の警察として出口のない戦争をしまくって困っている米国につきあって、日本が手薄になる。切れ目ばかりで、すかすかの自国防衛をどうするのか。米国が助けてくれるなんていうのは幼稚な発想だ。専守防衛を全部集中すれば、少なくとも日本は侵されない。それ以上何を望むのか。

 戦争ってすごく美しくみえるが、単なる壮大なる花火大会だ。だから、戦争経済で疲弊した米国に肩代わりを頼まれて、日本が第2の戦争経済破綻(はたん)国になることは目に見えている。こういうことを平気で考える政治家は、愚かだと思う。



 1年間議論をみていて本当に政治が劣化したと思う。

 去年、閣議決定してから時間が1年くらいあった。5月15日の安保法制懇の報告書から1年はあった。そこから、安倍晋三首相から「丁寧に説明する」という言葉だけがクリアに出ているが、国民の一員として丁寧に説明された実感は全くない。

 質問されると、全然関係ないことをとうとうとしゃべって。本当に私はああいう世界に住んだことありませんから。きちんとディベートをする世界に、米国にいたので。ディベートに応じるふりをして応じないという。あれを見て違うと思っていると、気を付けないと、なに興奮しているんだとなる。興奮させている方が冷静に「なに興奮しているんだ」と。あれは本当にひきょうな手だ。

 いずれにしても、天下国家をつかさどる人々の器ではないと思っている。



 砂川事件の珍妙と言ったが、司法制度というのは、問われたことしか答えられない。

 砂川判決で問われたことは、在日米軍基地の合憲性だ。だから、強いて言うならば、米国が米国の集団的自衛権を行使して、日本に駐留することは合憲であって、日本の集団的自衛権はどこにも問われていない。

 高村正彦・自民党副総裁が言い出したとき、専門家の端くれとして、初めて知ってびっくりした。もし、彼らの言うことが常識だったら、私もそのように習ったし、そのように教えてきた。ちなみに私は博士号を統治行為論でとった。ああいう解釈はこの年になって初めて知りました。

 統治行為の引用の仕方も非常に珍妙。統治行為論というのは、戦争と平和は大変な、特別な行為だから、15人の選挙で選ばれていない裁判官が決めることができない。だから、選挙で選ばれた国会議員たちと、その国会議員たちから選ばれた総理と、その下の閣僚たちが決めてくださいませと。国会と内閣の法判断に一時的に委ねる。

 ただ、高村さんの話は、最終的に委ねられたことになっちゃうが、最終的には、主権者の国民が決める。つまり選挙で決めることになる。ちゃんとフルテキストを読んで引用していない。

 真剣に考えるのが馬鹿らしいと言って黙ったら、あれ(=高村氏の主張)がまかり通っちゃいますから。この時代の専門家として、ちょっとくどいが言わせていただいた。

 長谷部先生の指摘に対し、(与党の批判に)「学者に字面に拘泥」と。当たり前じゃないか。法治主義とか法の支配というのは、人間は間違いを犯すから、将来変なことが起きないように前もって議論した結果、これでいこうと(法律の)言葉にしてまとめた。

 だから、その言葉を政治家が勝手に無視しようとしたとき、専門家として、ちょっと待ちなさいと。そうしたら、学者は字面に拘泥。政治家は拘泥しない。「ちょっと待って」というための学者なので、それを言われちまったら、我々はいる意味がまったくないわけで、本当にふざけないで欲しいという話だ。

 つまり、学者が否定された個人の問題ではなく、法治主義とか法の支配がなくなってしまう。高村弁護士にぜひ、そのことをお伝えしたい。



 「憲法を法案に適用させる」という発言を、中谷大臣があとで撤回したが、権力にある人が出した言葉を引っ込めちゃいけない。

 「学者は現実は知らない」。これは、知らなくても論じられる世界もあるし、誰でも知っている公知の事実もある。むしろ、戦争の現実を知らずに論じているんじゃないか。

 後方支援は、要するに前からではなく、後から戦争中の部隊に合体するという話だ。

 これを後方支援だから安全だとか。後方支援だから弾が飛んできたら中止するという。弾が飛んできたら、捜索やめて帰ってくるのか。弾が飛んできたら、野戦病院の治療を中断するのか。弾が飛んできたら、中止するのか。

 僕が中止された米軍だったら、(日本に)向いて撃つ。「ふざけるな。続けろ」と。


 30年以上、自民党の勉強会に付き合って最近感じるのは、意見が違うと怒り出す人が多い。意見が合うとプロフェッサーとなるが、意見が違うと「小林さん、あんたね」となる。すげえ、やくざだなあと。

 思う通りにならないと怒っちゃうというのは、苦労が足りないんだと思う。世襲議員について批判すると、我々だって選挙に当選してと言う。ただ、特別有利な形で当選したことが問題だ。だから、(親の地盤と)違う選挙区で苦労すれば、誰も批判しないし、本人たちも政策論争で逆切れしたりしないと思う。

 どうしたらいいのか。4年後に違憲判決を待っていても始まらない。なぜ、あの人たちがあんなに自信満々かというと、選挙制度がある。3割の得票で7割の議席をとって、「信任された」と自信満々になっている。だから、反対側に3割の票を集めて政権交代すればいい。

 民主党が非常にだらしないのは事実だ。今度は1党じゃなくてもいい。とりあえず野党がすみ分けをして政権交代し、こんな法案を取り下げる。廃案でおしまいだ。

 そういう意味では、メディアが死んでいて報道してくれませんでしたが、この間の憲法審査会で自民党推薦の参考人(=長谷部氏)が意見を宣言したことで、メディアが生き返った。これで国民教育をきちんとして頂ければ、ウィ スティル ハブ ア ホープだ。