盲人マラソン

 大分市視覚障害者協会では、昭和60年から平成16年まで20年にわたり、盲人マラソンを開催しました。
 これは、本会の歴史の中で特筆すべき内容であり、ここに過去の記念誌を通して、20年の歩みを止めておきたいと思います。
 なお、記念誌に原稿をいただきました多数の皆様に心よりお礼を申し上げますとともに、掲載にあたりましてご理解を賜りますようお願い申し上げます。

(木村 記)

目次


盲人マラソンをふり返って   常任顧問  冨森寿弘
20回大会に寄せて   副会長  柳井 憲和
大分盲人チャレンジマラソン大会の思い出   大分走ろう会 理事長  植木 宏治
私と大分大会   熊本市 阪本 喜代子
大分盲人マラソンイメージソング

盲人マラソンをふり返って

常任顧問  冨森寿弘

 スターターのピストルを合図に、居並ぶ盲人ランナー達が一斉にスタートを切った。コースサイドに立つ私の前を次々と駆け抜けていく。その力強い足音が、弾んだ息づかいが、躍動する魂が、私の心にびんびんと伝わってくる。「よかった!なんとかこぎつけた!!」それまでの苦労が大きかっただけに、また責任の重圧に押し潰されそうになっていただけに、私は感極まって人前もはばからずボロボロと涙をこぼした(そんな多感な若い日もあったのです)。昭和60年12月1日のことでした。
 「何か大きな事業を計画したいのだが・・・」というのが、当時の清水会長のご希望でした。「それなら盲人マラソンなんかどうでしょう」と言った私に、もちろん何の見通しもあてもあった訳ではありません。今思い返すと何とも恥じ入るばかりです。その頃盲人マラソンはJBMAが大阪で大会を開いた頃で、まさに緒についたばかりでした。ありのままを言えば、いくら新任事務局長の気負いからとはいえ、何の力も知恵も持たない私の夢物語を、周囲の人々が善意や思いやりを結集して何とか格好をつけてくださったというのが実情でした。
 その後いく度かの試練を乗り越えて、また多くの支援者との出会いにも恵まれて(この間の事情は第5回、第10回の記念誌に詳しい)、いよいよ今年で記念すべき第20回目を迎えようとしています。と同時に、今まさにその輝かしい歴史に静かに幕が引かれようとしているのです。
 一抹のさびしさがないわけではありません。原因としては、私たちが若いランナーを育てられなかった事と、財源の確保が難しくなってきた事があげられます。でも、現在のように盲人マラソンがパラリンピックの正式種目として認定され、また全国各地の大会で健常者に混じって力走する盲人ランナーの姿を見るとき、盲人マラソンの普及定着という意味で、本大会もそれなりの役割を果たしたのではないかと考えております。
 視覚障害者のスポーツとしては野球・卓球・柔道・水泳などがあげられます。しかしそれらの多くが相応の施設や設備、技術の修練を必要とします。私たちはマラソンを通して築き上げた大分走ろう会をはじめ多くの皆様との関係を大切にしながら、またその人たちの協力を得ながら、私たちがもっと日常的なレベルで手軽に取り組めるスポーツを模索し、視力障害者の体力の維持増進と健康管理に取り組んでいかなければならないと考えております。
 おわりに、本大会を影ながら支え育ててくださった皆様、本大会にかかわってくださったすべての皆様に心からの敬意と感謝を申し上げまして、拙文を閉じさせていただきます。

平成16年11月7日(大分盲人チャレンジマラソン第20回記念大会記念誌)より

20回大会に寄せて

副会長  柳井 憲和

 マラソンを始めて最初の感動は、3ヶ月余りの間に体重が一挙に10キロも落ちたことです。
 始めた当時、100メートルも走れなかった体が、身も心も軽やかになりすっかりジョギングのとりこになってしまいました。それからというもの、雨の日も風の日も休むことなくジョギングに明け暮れる日々が続くようになりました。
 大分走ろう会にも入会させていただき、いろいろな大会に連れて行っていただき、楽しい思い出を作ることができました。
 盲人チャレンジマラソンでは、第10回大会から始まったハーフマラソンで裏川1週3,4キロのコースを5週。伴走者に励まされてのレースで、最後に少し余力を残しておいて競技場に入ってのラストスパートでスタンドよりの拍手喝采は何ともいえぬ爽快な気分でした。
 フルマラソンには3度挑戦することができました。宮崎の青島太平洋マラソン2回とホノルルマラソンです。第18回ホノルルマラソンでは走ろう会の皆さんとツアーに参加し、タイムはともかくマイペースで楽しく完走させていただきました。
 3度のフルマラソンで感じたことは、ゆっくりでもペースを守れば最後には満足のいく結果が得られるということです。
 20回の記念大会を迎えるにあたり、マラソンという健康的なスポーツをする機会を与えてくださった当協会、ならびに走ろう会の皆さんに心より感謝いたします。これからもマイペースで健康づくりに励みたいと思います。

平成16年11月7日(大分盲人チャレンジマラソン第20回記念大会記念誌)より

大分盲人チャレンジマラソン大会の思い出

大分走ろう会 理事長  植木 宏治

 第20回記念大分盲人チャレンジマラソン大会、誠におめでとうございます。第1回(昭和60年12月1日)から共に楽しみながらお手伝いをしてきた大分走ろう会にとっては、感慨ひとしおです。
 振り返れば私個人の「走ろう会活動」の歴史もこの大会が原点で、共に歩んで来ました。初回は、10kmの部 堤俊彦選手(大分市)の伴走をさせて頂きました。2回目は、ある事情で、いても立ってもいられない気持ちになり、大会実行委員会に、大分走ろう会の一有志としてしゃしゃり出ました。当時の伴走は桜ヶ丘高校(現在の楊志館高校)陸上部と走ろう会とで受け持っていました。その後、会員の伴走技術も回を重ねるたびに上達し現在は伴走はもとより、競技委員(給水・監察員外・・・)としても毎回50数名の会員が黒子として協力し、大会を盛り立てて現在に至っています。
 20年間にはいろいろな思い出が沢山出来ました。中でも印象に特に残る3点を選びました。
@ 大分走ろう会に視力障害者の方が初入会(昭和62年4月19日)
安東 千平氏(故人)・佐藤 弘氏・佐藤 チユキ氏・柳井 憲和氏・つる見 忠良氏以上5名の方が大分走ろう会に入会され、平成3年大分走ろう会15周年記念旅行の第19回ホノルルマラソン大会に安東 千平氏(故人)、佐藤 弘氏、佐藤 チユキ氏、柳井 憲和氏の4名が参加され、全員フルマラソンを完走しました。
A 柳川 春巳選手(佐賀県)パラリンピック アトランタ大会で 金メダル(平成6年)
柳川選手は昭和63年第4回大分チャレンジマラソン大会に1、5kmで初参加しました。9位(8分17秒)の成績に終わり、この悔しさをバネに、わずか6年で世界の頂点に立ちました。フルマラソンのタイム2時間54分46秒は見事なものでした。
B 三島 康幸・早苗夫婦(大阪)ジョギング中に事故死(平成11年4月28日)
三島ご夫妻は大分盲人チャレンジマラソン大会の常連で10km・ハーフマラソンに常に優勝し素晴らしい走りを見せてくれました。しかしながらジョギング中に暴走して来たワゴン車にはねられ、残念ながら他界されました。まことに悲しい出来事でした。
特に大分走ろう会 井上 憲一会員にとっては、三島 早苗氏のマラソンには常に伴走し、深い親交があり、悲しみも人一倍だったでしょう。

 その他にも思い出はつきませんが、本大会が縁で現在も衛藤 良憲会長を始め沢山の視覚障害者の皆様と友達になれた事が大きな財産だと思っています。

平成16年11月7日(大分盲人チャレンジマラソン第20回記念大会記念誌)より

私と大分大会

熊本市 阪本 喜代子

 第20回大分チャレンジ・マラソン大会開催おめでとうございます。
 私は、平成5年11月14日の第9回大会から参加させていただいております。ちょうどその頃の私は、更年期障害の始まりで、ひどい肩凝りに悩まされていました。河上敏子さんに誘われて、一緒に走ってもらったのが大会の少し前、9月の下旬のことでした。駆け足よりも遅い走り方でしたが、体が軽くなって、運動をすることの素晴らしさを実感したのです。4回ぐらいの練習の後大会へ参加することになりました。
 みんなで大会会場に着いた時に感じた生き生きした空気、私も国体選手にでもなったような緊張と喜びが溢れて来るのを感じました。といっても、実力以上の走りはできません。伴走の吉永さんは、私の緊張をほぐすように優しく誘導してくださいました。知らない人たちからも声援があり、次の年にも来ようと心に堅く決めて帰りました。
 帰ってからも毎週河上さんの所へ走りに行きました。5キロ走れるようになることを目的にして…。走った後に敏子さんの手作り料理でビールを飲みながら、河上さんご夫妻からマラソンの話を聞くのも楽しみで練習が続いたのかも分かりません。
 途中で1年だけ家庭の事情で参加できませんでしたが、大分で5キロ・10キロ・ハーフと走れるようになりました。平成11年の11月23日に行われた第15回大会は、朝から雨で開会式も競技場内で行われましたし、レースもずうっと雨でした。最後の1キロぐらいになった時、「寒いな」と思った途端に足が動かなくなって、伴走者の方に助けられてようやくゴールしたこともありました。その年に最初で最後のフルを走ることができました。
 大分大会に行く楽しみの一つは、毎年同じ伴走者の方とお会いできることです。一緒に走らなくても声をかけていただけるのがとてもうれしいのです。坂本紀美子さん、財前さんとはよくお会いします。財前さんは、ハーフをご一緒してくださった優しい方です。「阪本さんは歩幅が小さくて…」と笑いながらおっしゃいます。大変だっただろうと思いながらも、私のことを覚えていただいてるってことも一つの喜びです。必らず声をかけてくださいます。
 「風になれ、自由な風に」この言葉がとても好きです。そして、元気が出て来ます。走力のない私でも大きな顔をして参加できる大分大会が大好きです。外の大会にはない温かいこの大会、私のように運動不足になりがちな視覚障害者が一人でも多く、運動を通して多くの人と触れ会って健康に過ごせるように、大会運営は大変だと思いますが、ずうっと続けていただくように心から願っています。他県に居て何もお手伝いできませんが、事情が許す限り熊本の人たちを誘って参加させていただきます。
 大分には多くの知人がいます。この大会の継続と会の発展を心よりお祈りしながら終りにします。本当におめでとうございます。

平成16年11月7日(大分盲人チャレンジマラソン第20回記念大会記念誌)より



大分盲人マラソンイメージソング 「振り向けば君がいる」

 平成6年、第10回記念大会の折りに完成、発表されました。
 以後、開会式の協会旗掲揚時には斉唱されました。
※ここをクリックすると歌が聴けます。

作詞:富森 寿弘

作曲:富森 寿弘
編曲:山藤 陸紀
歌:富森 寿弘 柳井 憲和 山藤 陸紀
伴奏:橋本 久美子

風邪のように自由に 子供のように気ままに
この道を駆けて行ったら どこに続くのだろう
海に出れば潮騒 野の花の香り
人生は分からないから まず駆けだして見たい
僕の足弾む この胸は躍る
振り向けば何時だって そこに君がいる

時の流れはいつも 心の傷を癒して
また新たなかげりを 宿して行くものです
心がうずく時には 思い出すでしょう
君の腕民なの声援 暑く息づく心
君の手は力 襷は絆
振り向けば何時だって そこに君がいる

この道は遠く この道は険しい
振り向けば何時だってそこに君がいる
暖かい人々の声が聞こえる


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