朝日 古田家のルーツは

平成5年の調査のまとめ

古田 琢美

1. 序

子供の頃父から「我々の祖先は,宇治川の先陣争いで有名な佐々木四郎 高綱 である」と聞かされていた.それを拠り所としてこの調査を開始した.

1.1. 佐々木高綱

京都を守る木曽義仲と西上してきた源義経軍との間で,宇治川を挟んで行わ れた戦い(1184)では義経軍が勝ったが,『平家物語』に描かれる佐々木高綱 と梶原景季の先陣争いは名高く,歴史上の人物としてその名は後世に残った. しかしながらどの本に拠っても高綱と越後(新潟県)との結び付きはなく, もっぱら西国の長門(山口県)・備前(岡山県)・安芸(広島県)等の守護 を歴任し,1195年家督を子重綱に譲り発心して高野山に入り西入と称して12 14年に没している.余談になるが,明治の元勲大山巌や明治天皇の崩御に殉 死した陸軍大将乃木希典はこの高綱の末裔だという.

1.2. 佐々木盛綱

新潟県の歴史の中に,鎌倉幕府が上野国磯部郷(群馬県安中市磯部)にいた 佐々木盛綱 に,越後の下越地方に勢威のあった城(じょう)資盛が中央に呼 応して兵を起こしたのでこの討伐を命じた.盛綱は中条町の 鳥坂(とっさか)口で戦い(1201)鼓弓の名手板額御前で苦戦した り,子息盛季が負傷するなどアクシデントにみまわれながらもこれを鎮圧した という事項があり,しかも盛綱が短期間ながらも越後守護や加地庄の地頭に 補任された記事もあった.

だがこの時点ではまだ盛綱が高綱の兄であることが判らず,我が家には文献 も少なく,調査の範囲に限界があり,盛綱についてのこれ以上の追求は出来 なかった.

そこで角度を変えて,佐々木高綱が近江源氏の出であることにより,その本 拠を地図から突止めようと思い,現在の滋賀県蒲生郡の町村を辿ったがそれ らしい地がなく,日本交通公社発行の『日本ガイド』によって,探している 地が織田信長で有名な安土町であることが判り,その解説の中に佐々木四兄 弟が源頼朝を援け,鎌倉幕府の設立に寄与した記事があり,その四兄弟の中 に盛綱の名が見え,前述のことなどから我々の祖先は高綱でなくその兄の盛 綱のような気がしたが,確固たる自信は持てなかった.この上は一度訪ねた ことのある新津市の図書館の蔵書に頼るしかないと心に決めた.既に新津市 史の編纂(へんさん)室では,新津の大庄屋古田氏の全貌が明らかとな り,市史の通史篇に載せてあるとの広報を見ているので,両立で閲覧しよう と思った.

平成5年の夏は天候不順で雨の日が多く,晴天の日を選んで冷房の効く図書 館に通った.昼食を抜きにして写し得るページ数は思ったより捗らず,それ でも幸運なことに蔵書の中に新発田市史や加治川村史もあり,動かずに佐々 木盛綱に関する輪郭を知り得た.

以下,歴史の本に載らない佐々木盛綱の足跡を紹介しよう.

2. 父秀義

父は秀義,母は源為義の娘.秀義は源為義の娘を妻としてその猶子となり, 平治の乱(1159)で,源義朝に属したため,平家に追われて奥州平泉に向かっ たが,途中相模の澁谷重国を頼って澁谷荘(神奈川県藤沢市長後)に隠れ住 んだ.秀義には6人の子息がいたが,それぞれここで元服した.秀義は1180 年頼朝の挙兵に上の4人の息子とともにこれに加わり,老齢の秀義は近江( 滋賀県)で戦死した.子息達は木曽義仲や平氏の追討に殊功をたて,一族で 17ヶ国の守護職を得て繁栄する基礎を作った.

3. 佐々木盛綱

第3子の盛綱は,頼朝の挙兵には始めから参画していたらしく,長兄の定綱 は宇都宮,弟の高綱は京都の吉田にいたといわれる.挙兵の日取りが決まり, 当日の午後になって遅れて佐々木兄弟が参集すると頼朝は感涙したという. 緒戦の伊豆の目代山木攻め(8月17日夜)では,盛綱は宿直として頼朝の許に残 り,成果の挙がった火の手の煙の合図を待ったが,なかなか上がらず,痺れ を切らして宿直に残った盛綱らも応援に駆けつけ,ようやくにして首尾を収 め,夜の明け方近くに一同は北条館にもどった.

源平の藤戸合戦(1184)は謡曲にあるらしいが,一般には知られていない.一 ノ谷や屋島で戦勝した源氏は,平家の主力を瀬戸内方面に孤立させるのが目 的で九州に向かうが,その途次で起きた戦いである.源氏の大将は源範頼で, 先陣を盛綱が承った.藤戸の地は岡山県倉敷市の倉敷川の右岸の丘陵地にあ り,盛綱が陣地を敷いた場所は藤戸の西北粒江(つぶえ)であったとい う.この合戦で盛綱は浦男の案内で瀬戸内の海底の浅瀬を知り,30町の渡 しを馬で乗り切り,軍船を南岸(児島側)に集めて,渡船不能を策していた 平家方の平行盛を圧倒した.これにより希代の勲功として頼朝から児島の地 を与えられた.だがその時は,自分で動かせる土地は頼朝にはまだ無かった.

壇の浦で平家を壊滅させた頼朝は1185年,鎌倉に幕府を開き,自ら総地頭と なり,国毎に守護を置き,郡・郷・庄には地頭を置いた.盛綱の越後での守 護の在職期間は1195〜1199(一説には不祥)となっており,1203年からは伊 予国(愛媛県)の守護となった.一方盛綱が加地庄の地頭に補任されたのは, 頼朝が幕府を開いた1185年の最初の発令からではないかと考えられている.

加地庄の地頭となった盛綱は,居館を岡田(新発田市岡田)に構え,拠城を 要害山に置き,その麓(新発田市東宮内)に氏神として藤戸神社を祀るが, 祭神は近江源氏の祖宇多天皇,社号を藤戸渡しの戦功に因んで名付けられた という.更に居館近くの真言宗法音寺を庇護し,ここを氏の菩提時と定めた (寺の境内に頼朝の供養塔と伝える五輪塔がある).

1194年平家の迫害を逃れた頼朝の叔父慈応は,比叡山宿坊無動寺から越後入 りするが,たまたま越後守護であった(新発田市史では地頭職節をとる)盛 綱が手厚くこれを迎え,所領加地庄菅谷の地に寺領を与えて創建させたのが, 日本三大不動尊の一つ菅谷寺である(寺伝)とする.

盛綱は恩寵を受けた頼朝の死(1199)が余程ショックだったのか,入道して西 念と称し,加地庄と同じ地頭地であった磯部に隠退した.1200年ざん言巧者 の梶原景時父子の追討に加わったり,1201年鎌倉幕府に担ぎだされて越後の 中条で城(じょう)資盛追伐の指揮をとったりして,再びカムバックし たようで,1203年からは伊予国の守護となっている.晩年の盛綱ははっきり せず,1218年4月20日磯部で没している.行年68才.従って生まれた年は逆算 して1150年で,1147年生まれの頼朝とはほぼ同年輩で,従兄弟同士でもあり, 気が合ったのだろう.

盛綱の墓は安中市東磯部の松岸寺にある.磯部温泉は1783年の浅間山大噴火 の際わきだしたもので,盛綱がこの温泉に入り隠居を楽しむことは不可能だ った.

4. 子息 佐々木信実

加地庄の地頭職は藤戸神社で加冠し,加地太郎と称した子息信実が継いだ. この信実には次のようなエピソードがある.15才のとき(1190),将軍頼朝の 御所で開かれた双六会に父とともに出席した際,遅れて参加してきた有力御 家人工藤祐経(後年,富士の裾野で,父の敵として曽我兄弟に討たれる)に 着座を奪われたが,これを恨んで礫(つぶて)をもって祐経を殴り流血 させてそのまま遂電出家したという.頼朝の死後信実は御家人として復帰し たと見られ,1221年承久の乱が起こると「関東の士,官軍を敗る最初なり」 と賞された加地庄願文山(北蒲・加治川村貝屋)の戦いで,藤原信成(後鳥 羽上皇の側近の一人で,加地庄の領家でもあった)の家人酒 匂(さかわ)家賢を討ち,その足で越後府中へ参集し,北陸道大将軍北条朝時に従って 上洛した.この時信実は副将軍だったらしい.

この願文山には後日談があり,地元では山頂に家賢神社を祀り,毎年5月29日 (家賢の命日)を例祭日とした.昭和3年11月,昭和天皇の即位の大礼に際 し,家賢は願文山の戦いの勲功によって「正五位」を贈られた.また家賢の 母は越後加茂氏の出自というが定かでない.承久の乱後,藤原信成は養父( 正二位参議左中将権大納言忠信(一名坊門忠信))と共に越後に流されたと いうが,場所は不明.

承久の乱での軍功によって信実の地位は高まり,この年(1221)備前国(岡山 県)の守護に任ぜられた.乱後,幕府が冷泉宮を児島の地(岡山県児島郡灘 崎町)に流すと,この警固を守護の信実が命じられるが,守護の職務上当然 のことである.しかし信実の加地庄の地頭職としての事跡は何も伝わってお らず,1242年7月26日病没している.法名西仁,行年父と同じ68才.

5. 信実の子息等とその子孫

新発田市史によると信実には系譜上では8〜9人の子息(別表参照)がいた. 加地庄の惣領を継ぐのは2男の実秀である.1219年正月19日,3代将軍実朝の 鶴岡八幡社頭の際,実朝の側近にいて,下手人公曉を討ち取ったといわれる 人物である.大友(新発田市大友)に住し,大友氏を名乗った.大友に京都 伏見稲荷の分霊を招請し,大友稲荷を祀った人物でもある.また承久の乱後, 児島の地での冷泉宮の警固には,父に代り直接弟時秀と共に担当したとされ る.

新発田市史が掲載した系図の中で,資実の所に「加地四郎」・「新津の祖」 となっていて関心を引かれた.見方によっては新津城を構えた新津氏を指す ようにも受け取れるが,新津氏は金津保から出た清和源氏年賀氏の出自であ れば,そこまで間違いを侵さないだろうと思いながら閲覧したが,新発田市 史や加治川村史も,加治川村古川に居を構えた古川氏だけに言及し,新津に 関する記述は何もなく,ここで我々の祖先の名が出てくるのではとの,一縷 の望みと仄かな期待が見事裏切られてしまった.

このように,信実の子とそれぞれの子孫が新発田を中心に繁栄して,今の我 々が世にあるわけだが,どの系図から分かれて,誰が,何時頃,朝日に土着 して古田氏を名乗り,集落に貢献したかはまだ何もわからず,それを追求す る手筈も無くなった.

今にして思えば,新潟県の歴史にちょっぴり名を覗かせた「佐々木盛綱」か ら,これほど越後に密着した広がりを見せるとは想像もしなかったし,予測 も出来なかった.そしていろいろな経路を辿りながらも我々の祖先のおおも とが掴めただけでも収穫だったと自分自信を慰めた.

6. 古田九右衛門

平成4年8月9日版の『市民タイムス』の記事に接したときは,興味もなく 余所事(そよごと)としか受け取っていなかったが,この調査を始め, 新津市史の通史篇 新津組庄屋 古田九右衛門の項(p.505)を読むうちに興奮し 出し,思わず書き写す手が震えた.冒頭の「古田氏は近江源氏佐々木の出 …」で,すっかり記事にのめり込み,「朝日に住し…」の 件(くだり)になると,間違いなく我々の求めている先祖だと思い込んだ. この大庄屋古田家(略系図は別紙参照)の解説は3ページ半にわたっていた が,読後も興奮が冷めず,その日は早かったが図書館から帰宅した.

数日後,我々の祖先が関ったと伝わる古田新田の新田開発を調べているうち に,p.394 に新発田藩新津市城の新田開発免許状が表となって掲載されてあ った(別紙参照).大沢の勘五郎堤に関係すると思われる古田勘五郎なる人 物が,新津庄屋古田九右衛門家初代の古田勘解由のすぐ下段に並んでいて, それは1623年,2代藩主からの開発免状である.

その後,秋の彼岸に兄達に勘五郎なる人物を確かめた.勘五郎が腰に差した と伝わる大小の刀が家にあって,子供の頃錆びたその刀で遊んだものである. だとすると,同じ年の同じ日に新発田藩主から両氏にそれぞれ新田開発の免 状が下りていることになると,庄屋の古田家とは異なった,在来からの古田 家が存在したと考えねばならなかった.実にその12年前,古田源左衛門にも 同じ藩主から免状が下りており,これをどう見るか?新田開発別表の中の新 津村勘右衛門は古田勘解由の実父と見る事が出来,そこから推して,源左衛 門が勘五郎の父とも受け取れるが,穿(うが)った見方だろうか?

因みに,新津市古田の地名の由来を調べると,「古田(こでん)を再開 発したに拠るもので,古田新田の開村は1623(元和9),新発田藩主溝口宣勝か ら古田勘解由宛に新田開発の免許状が下り,隣接の市右衛門新田らとともに 開村となる」とあり,新発田市佐々木の「古書佐崎に依り,氏号佐々木に起 因するにあらず …」とあって共に我々の思惑から外れていた.

更に,我々の先祖の中に,御館(おかた)の乱(1578)で両方の板挟みで 自刃した人物がいたとすれば,当然言い伝えとなって残っていい筈だが,そ れが無く,古田九右衛門の系譜はやはり朝日の古田家とは何処か相容れない ものがあり,当初の仮定から段々遠退いていくのが現状である.また余談に なるが御館の乱で古田九右衛門の祖,四郎左衛門尉綱久が板挟みになって居 多の館で自刃するが,その背景には佐々木信実の子等の子孫が景勝方と景虎 方に分かれた事によるとおもわれる.景勝方には竹俣氏・新発田氏・五十公 野氏等の支流が付き,景虎方には主流である加地春綱が属した.(新津市史 では加地氏も景勝方になっているが,新発田市史に拠った).

諸兄各位の助言・御指導を仰ぎたい.


平成6年正月 自宅にて 古田 琢美