■8.あひ見ての後の心のくらぶればむかしは物を思はざりけり (043)
(契りを結んだその後の、求めてやまないこの切なさ、苦しさよ。
それに比べたら、あなたを抱きたいとただ望んでいた頃の物思いなど物の数にもはいらない。)
甘くうずまく
キャラメルマキアートがいつもより少し濃いな、と私は唇についた泡を舐めた。
隣では懇意にしている女性が、カフェモカを傾けては紫煙を吸って吐いてを繰り返している。
熱い飲み物が冷めてしまう前に、とばかりに会話を止めて私と彼女はカフェインを口にしていた。
言葉の代わりに静かな雨音がパラソルの下で響いた。
あろうことか私たちは雨の中オープン席に腰を落ち着けていた。
店内は全面禁煙で彼女は愛煙家である。となれば選ぶ道は一つしかなかったのだ。
私が姉のように慕う朝井小夜子の喫煙を禁止する事は不可能だ。弟の地位(かりそめのものだ)にいる私が、たとえ上位の立場だとしても到底無理である。
マイウェイな彼女は私を店内に残し、あっさりと出て行っただろう。折角一緒に来たのに、そんな淋しいことはしたくなかった。
そうしてしばし途切れていた会話の切れ端を繋いだのは、彼女のほうだった。
「これもまた粋やね」
「イキとは?」
「煙草吸いたいがため雨天のテラス席にいるうちらを粋狂と言わずして何と言うんよ」
そう言って箱から新たな一本を取り出し火をつける。
正しく『粋』であると思った。
ハスキーボイスと煙草と雨。自立した粋な女が、なんの気負いもなくそこに座っている。ハードロック好きの少女がそのまま年をとったと思わせる浮いた身なりをしているが。
いつの間にか凝視していたのだろう。
彼女は注がれる視線に気づくと、モスグリーン色に翳る目元をうっすら細め、
「先週あいつの墓参してしもうたわ。
墓地まで続く道沿いに、真っ赤な彼岸花がばーっと咲いてお出迎えしてくれるんや。
いっぺん見たら忘れられへん。また見とうなるんよ。今年もよう咲いとったわ」
と、何か幻術を見てきたみたいに呟いた。
私の脳裏にその情景が浮かぶ。きっと彼岸花の群れに溶け込み、道を急がず往ったのだろう。実に似合いだ。
私は故人と彼女の関係を知っていた。ふたりは恋仲だった。
しかも、疑惑が残る形で別れたはずだった。
だが彼女は死んだ元恋人のことを、そんなふうに心の中から出し入れしてみせる。虚勢ではないところが、聞く相手を穏やかな気持ちにさせた。
若いばかりの夏が過ぎ、山粧う季節は成熟を連想させる。
成熟は孤独を飼い慣らしたものにこそ似合う。
そして孤独は距離なくして語り得ず、距離はノスタルジーを連れてくる。
対象と距離が生まれると、情緒より理性が呼び覚まされるはずだが、秋はその二つが寄り添ってそこにいた。
なんて、言葉遊びが過ぎるな。
私はやまない雨に少し倦んで、腕時計を覗いた。時計は三時を少し過ぎたあたりを示している。
視線を転じ、秋雨が降りそそぐ駅を見つめた。
これもまた現代建築の『粋』を集めた構築物だ。賛否両論あれどやはり見応えがあると思う。
私は京都タワーと同じくらいこの駅を気に入っていた。
水煙で燻されたように鈍く光る壁面に、なんとなく『ブレードランナー』を思い出す。その瞬間を狙ったかのように、アンドロイドめいた美貌の女性とステンカラーのレインコートを纏った男性が視界に飛び込んできた。
長身に着映えするあのコート。
一瞬火村と見紛って、どきりと胸が震えた。だがよく見ると、茶色に髪を染めた若い男だった。横顔のラインも全然違う。
己の眼のトンチキ加減を少し笑った。
「なにぼっとしてんの、濡れてるやん。ここらがもう限界やし店内に移動するで」
カップを持った手に軽く小突かれて、ようやく雨が強くなっていることに気づく。
「ぅ……はい。あ。朝井さん、傘忘れてますよ」
「それアリスのやないん?」
そうやろ、と言わんばかりに彼女は軽く眉を上げる。私は憮然として言った。
「あきらかに女物やないですか」
「失礼、似合うからつい。ベージュにパープルのドットが可愛らしいな」
まったく「失礼」と思っていない、悪戯っぽい笑みでこちらを見遣った彼女は、さっさと先に店内へ戻って行った。
それを追って軒先まで走ってから後ろを振り返ると、タクシーに乗り込もうとしていた二人は、路上からそれごと消え去っていた。
気まずいものがなくなって、なんだかホッとした。
それでも、わけのわからない不安はまだ残っていた。
振り払っても霧散しないこれはなんだろう?
今日、彼と逢う約束をしている。それは確かなものだ。なのに、この切なさは何だ?
きっと雨のせいだ。
美しく濡れる街が、他人の影を火村のそれに見せたせいだ。
紛い物の影が、私の望まない未来を演じたせいだ。
雨は孤独を誘い、孤独は距離なくしては語り得ない。
すべては繋がっている。どうにもならない感情を救いもせず、慰めもせず。
人はひとりである事を教えてくれる。
本当にひとりになってしまった時、私はどうなってしまうのか。
似たシルエットを見かけるたび、火村を思い出すだろう。違うと判っていても、切なさとともに見送るのだろう。
三時間後、こんな気持ちを忘れて伸びやかに愛を語るのだとしても、三年後来るかもしれない別れを想像できる。 肌が切れそうなほど真に迫った悲しみだ。
こんなふうに、ずっと遠い未来を思い描いて憂うのは、私にとってなくてはならないものを彼から受け取っているからだ。
彼が居なければ受け取ることができないものがある。
嫉妬、焦燥、迷い、目も眩むような充足感。なにが幸せかは自分で決めるけれど、彼のもたらすものなしに私の幸福はない。
悲しいかな、目に見えないそれらに掛ける枷はない。無限と考えられがちな心の中には、すべてを刻む事は出来ない。人は忘れてしまう。
だから何度も探して、何度でも印す。
小さな頃から繰り返してきた作業だが、まだ孤独は埋まらず、忘れてしまうばかりだ。
けれど覚えていることもある。
振り向いた顔や、並んで歩いたこととか。とても些細なそれらだが、忘れて忘れて、それでもなお消えなかった事とは、私の中の真実に直結している。
これは自分だけに有効で絶対の経験則だ。
彼を失った時、思い出が私を苦しめても、今の幸福を犠牲にしてまで愁いたくはない。
フラれた後、彼に良く似た背中に過ぎた日の恋を思い出したとしても、それは不幸なばかりではないはずだから。
あの恋は悪くなかったと思えるような今を生きている。
雨がどんどん激しさを増していく。
唐突に、抱き締められながらキスして欲しくなった。
いますぐ会いたい。会いたい。
伝えてもらった彼の愛がひどく恋しい。
すべてわかったつもりでいても、私はどこか寂しがり屋なのだ。
彼を思ってカップの中身を啜る。
いつもより少し濃いキャラメルマキアートは、いつもより苦く、甘かった。
初出:2007/11/18ペーパー。なにげに『今夜降る雨の名は』とつながっている。
2007/12/4
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