真白に染まれ 俺は人を見るのが好き、というか習性だ。 こんな味気ない教室にも、興味をそそられる人間がいないかぐるりと見回す。半ば無意識だ。 そして、目の前で軽口を叩き合う一対以上に惹かれるやつらはいないな、とため息をついた。 画家志望ながら妥協で入った法学部だが、こいつらのおかげで少しばかり楽しい。 火村英生と有栖川有栖は、今日も地味に目立っていた。(この表現には矛盾があるね) この二人に興味が引かれるのは俺ばかりではないらしい。 『教室で漫才』という前衛的な試みでもなければ、パーティ効果を実験しているわけでもないのに、耳をそばだてている気配が前後左右から伺えるのだ。 大方、俳優より俳優じみた容姿をした火村の人気故だ。 しかし、軽快な喋りにあふれる機智と稚戯のギリギリ感が興味をそそる有栖川は、いるだけでなんとなく人目を引きつける才能があると思うのは目下俺だけだろうか。 いや、火村も相当参っているはずだ。 俺は人を見ている。だから気づいてしまった。 月曜は隣の席で、火と水曜は学食前の渡り廊下で、木曜は有栖川が必ず通る廊下の灰皿で、金曜は1階の掲示板前で必ず待ってることに。 今週だけでも、何度有栖川を見つめていたことか。 やつは有栖川が好き……なんじゃないのか。それもディープに。 「いやいやいや二人ともヘテロだ……」 ディープ、がどの程度か想像する事を恐れるように素早く打ち消した。 「なにを唸っとるんや天農」 「なんでもない」 「ヘテロ? 異性愛者がどうしたってんだ」 「絵の構想を練ってただけだ」 4つの瞳が不審な色を浮かべたが、チャイムがそれ以上の追求を阻んでくれた。 この後、火村がひどい女嫌いだと聞いてからも、深慮を持ち合わせる俺はすぐ結びつける事などしなかった。 * だから確信を得た時は、なぜかほっとしたものだ。 それは有栖川が初春に風邪をひいて、3日間ほど休んだ時のことである。 出席できなかった講義のほとんどはノートを借りれば事足りるものだったが、専門科目にひとつ、エグイ講義があった。 教科書は使わない。試験はノート持ち込み可だが記述で20問などという、しょっぱい出題をする鬼っぷり。 その名は『法倫理学』。 講義のやりかたが独特な教授で、早口かつ内容が難解。板書をほとんどしない。必死で聞きながらノートを取ったはいいが、下手すると意味不明な代物になっていたりするという、学生泣かせの講義なのだ。 ちなみに俺は受講を避けた。単位を稼げるが、必須ではないから。 ノートがなければ有栖川はきっと、いいや、絶対に困る。 しかし自分には打つ手がなく、いざとなったら彼自身でなんとかするだろうと決め込んでいた。 週が明けてすぐ、語学のノートを貸してやるため訪れた大教室。いつもの席に有栖川は火村といた。3日間休むとノートかき集めるのに苦労するだろうという話の流れから、ふと『法倫理学』のことを思い出した。 あの日、気の毒にと思ったけど、具体的に行動を起こしはしなかった。そのことに今更少しばかり良心が傷んだ。 つい、誰かいいやつのノート借りられそうか? と問うと、有栖川と火村が顔を見合わせた。そして言われた本人は愉快そうににんまりし、臨席の友人はひょいと眉をあげる。何なんだと問うと、彼の手には完璧な『法倫理学』ノートがあるではないか。 ちょっと寄越せと取り上げて、開いて驚いた。あまりに美しかったのだ。 「ノートを取るにせよ、書いた本人じゃないと解読不能の講義なんだよな? どうしたんだこれは。奇跡的なまでに真面目で優秀なクラスメイトを見つけたのか?」 火村が隣にいる時点でだいたいの予想はついたが、あえて回りくどくいってみる。 「身近に心当たりがあるから、昼飯1回と引き換えに代理でノートとってきてもろた。持つべきは頭のええ友達やな」 やはり、若白髪混じりの友人が動いたのだ。 「昼飯一回とは舐められてるんじゃないのか火村よ? お前さんも暇じゃないし」 「ああ俺も人がいいよ。レポートも抱えて時間的にもぎりぎりだった。学食のカレーじゃごまかされなつもりだが? 好きなものなんでも、だよな」 そう言うと少し荒れた唇を楽しげに上げて、隣の席を覗きこんだ。我々にとって、いくら食べても食べ足りない年頃の男の食欲は想像するに易い。迫られた有栖川は「うっ」と帆布製のリュックを抱き寄せた。 「なんちゅうやつらや。俺の足下見やがって」 「人に軽く風邪うつしといて真っ先に自分の財布の心配をするのか。そうかそうか」 そう言われた有栖川は、少しムキになって火村に詰め寄る。 「やって、うつったんは俺ばっかりの責任やないやん。最悪の時に来るから」 恩着せがましい、と言いたいのだろう。 「ほう。珍しく仕上げていたレポートを出せなかったばかりに単位がヤバくなったら困るから提出してくれ、と頼まれて訪ねた俺に責任があると?」 「う……そこを責めるなよ」 「昼飯を作ったのもお節介だったかな」 「そこまで言っちゃ意地が悪いぜ、火村」 対する火村はあくまでからかって遊んでいるだけだ。なんだ、いつものレクリエーションかと思っていたら、 「そうや。俺の食い残しさらったりしたから」 風邪がうつるんや! と指差された漆黒の目に一瞬薄い膜が張った。 動揺、と気づいたときには、信じられない事に火村の耳朶がうっすら染まってさえいた。 「味見してなかったことを思い出したんだよ。不味くて食えなかったのなら気の毒じゃないか」 有栖川の視線から逃げてきた火村と目が合う。 思わずへぇーと仰け反ってしまった。前々からひょっとしてとは思ってたけど、まさかまさか。 これら全ての独白が聞こえたかのように眉をしかめた火村は、クソ、と舌打ちでもしたそうだ。有栖川は水面下の遣り取りに気づかない。いっそ気持ちいいくらいだ。 「残したんは悪かった。すまん。うまいとかまずいとか超えて、飯が喉通らんかったんや」 「道理で。俺の味付けはいつもどおり絶品だった」 「白粥でわかるんかい。せめてあのレンゲを洗ってればな」 「細かいよお前。もういくぞ」 「待てや。ったく、忙しないやつ。じゃな天農」 ばたばたと二つの影が去っていく。次の講義までまだ時間的に余裕があるはずだが……火村は気づかれたのが、ちょっと気に触るらしい。なにを今更と言いたい。 今度から火村は決して尻尾を出さないよう用心するだろう。つまらないな。 他人との接触を避け、隠者めいた大学生活を送る。それが火村英生だと思っていた。 無為な時間を過ごさない彼のサイクルは、完璧に近い。 故に、有栖川とつるむのも浅薄ならざる行動原理に基づくものと、そばにいれば容易に気づく。 とどめにこの献身。 完璧すぎると、却って隠し事ができないという良い例だ。 今日のは結構決定的だったから、気づかれても仕方ないだろうが。 自活のためのバイトも休まず、抱えたレポートをこなし、みっちり聴講と必須でうめられたスケジュールの合間を縫って作った『法倫理学』ノート。 すべては有栖川のためだけに。 クールな顔の下隠されたいたいけな花を、当て推量で手を伸ばしたのに俺は見つけてしまった、知ってしまった。 「心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花」 (たぶんこのへんだから、折れるものならば折ってみようか。一面に降りた初霜がカムフラージュしてる白菊の花を。) そんな、すこしシュールレアリスティックで絵画的な百人一首を思い出した。 * だからといって火村は一目でわかるような形で有栖川をかまいつけたりしない(少なくとも公共の場では)。 だからすっかり忘れていた。 あの見た目を裏切って、繊細かつ純粋で持続性が高い、つまりエヴァーグリーンな気持ちの持ち主だということを。 角を曲がって、有栖川とその彼女だとすぐに気がついた。似た者カップルだなぁといつも思う。二人とも柔らかそうな明るめの髪を肩に触るくらいまで伸ばしていて、肩の狭いジャケットが似合う華奢なシルエットをしている。 二人はゆっくりゆっくり、講義棟の間の細い並木道を歩いていた。 枯れ葉を蹴っ飛ばす無邪気な彼女の背中がぐらついた瞬間、身を寄せて庇ってあげる腕が意外に素早くて「へぇ」と思わず呟いた。 「めっちゃ驚いたわ」と胸に手を当てて有栖川を見上げる彼女の声は大げさなほど高く、それはちょっとしたピンチに焦ったせいだけではないと、数メートル後ろからでもよくわかる。 水彩でさらっと描いてしまいたいような、実に微笑ましくて可愛らしいカップルだと眺めていると、「借りたい資料があったことを思い出した」と真後ろで声がした。 振り返って見ると、隣にいたはずの火村は既に背を向けて歩いていた。ひらひらと振った手を下げた後ろ姿が、蛇行する並木道の向こうにたちまち消えてゆく。 そこから180度視線を巡らすと、先ほどのカップルの影もなく、散らされた落ち葉だけが道ばたに広がっていた。 カフェラテを飲みたくなるような淡い冬空。きっとあの二人はこれから、スチームミルクの湯気に誘われてカフェの扉を開く。 図書館で乾いた書物を手にする男が何を思うか、俺にはなんとなく予想がつく。 そんな火村はとても人間臭くていい。あくまで友情の範囲内で、火村には強烈な好意を覚える。共感もできる。 彼は決して迂闊には入り込めない庭の門前で、何でもない顔をして立ち続けているのには、切なさを通り越してどこか悲愴だ。 少なくとも俺は、指をくわえて眺めるだけなら諦める方を選ぶ。しかし火村に根性なしのレッテルを貼るのはためらわれる。 ハードルがどれだけ高いかなんて、外から眺めるだけの人間には計り知れないことだから。 「コーヒーと恋愛相談は、切っても切れない組み合わせなんだけどな、火村」 今日は行きつけの喫茶店に誘おうと思っていたのに。 仕方がないので俺は部屋に帰り、自分ひとりのためにコーヒーをたてた。 アラン編みのセーターをどこにしまったか、思い出しかけてた晩秋だった。 * 「恋には落ちるものだが、失恋したらしたで落ち込む」 学食で昼飯をとっていたら、スプーンを置いた有栖川が突然そんなことを言い出した。 メシの最中に妙な話題を持ち出しやがって、という火村の煙たそうな声を無視した有栖川は、さらに言葉を重ねた。 「どこまでも落ちてばかりやなぁ、これ繰り返したらマントルに届く位深いとこいけるんちゃう?」 「安心しろ。落っこちても付きあいはじめたらすぐに舞い上がるだろ? だから失恋して落ち込むとはつまり、地上という名の現実に叩き付けられることを指す。プラマイゼロでよかったな」 真向かいに座る有栖川有栖の余多を、彼のすぐ隣に座る火村英生が聞くともなしに聞き、箸を進める合間に適当なことを言っている。 俺には有栖川の譫言が行き着く先がわかっていたが、知らない火村のためにあえて沈黙は金なりと心中で唱えた。 件の彼女とつい先日別れた。 クリスマスまであと7日というこの時期にだ。 タイミングとしては潔いというか、世俗的な欲望に反しているというか。 お子様ランチなのか諸行無常の境地なのか、有栖川はわからない。 「いいや、その理屈はおかしい。君の結論からいうと、恋していない状態を『地上にいること』と指しとるな? で、恋したらそっから何百メーターか落ちるわけやな?」 「落ちすぎだろ」 「死ぬかと思う位ドキドキするんやから、むっちゃ落ちんとあかん。この数値は各人のドキドキ度によって変えてくれたらええ。続けるぞ? で、付き合うようになって一気に底から舞い上がる。そうやな、地上数百メートル上空まで舞い上がるとする」 「はいはい、成層圏でも月でも好きな高さまでどうぞ。で、失恋して墜落すると、もとの地上に戻る。おかしい所なんかないだろ」 「そこがおかしい。わからへん? ああー、しゃあないわなぁ。火村は恋したことなんかあらへんもんなぁ」 「ほっとけ。気の毒そうに俺を見るな。さっきから何が言いたいんだ、もったいぶってないでサッサと先を聞かせろ」 「この理屈の基本的な前提を忘れてないか? 重力を無視して落下し上昇するのは、気持ちを例えてのことやん。だから失恋したときだけ、みんな等しく地上に衝突するのはおかしい。まだ浮いたままの奴もおるやろし、どこまでもめり込むやつもおる。飛んで逃げた相手を追いかけるやつもおるし、痛くも痒くもなく地上に降りてるやつもいる。失恋の様相は万人に等しくないんや。俺は今回しみじみ思った」 「なんだ、やけに絡むと思ったらフラれたのか」 「振った振られたなんてない。価値観の不一致や」 「離婚の理由ナンバーワンを持ち出すあたり、犬もくわねぇ愁嘆場だった?」 「あほぅ、さっぱりしたもんやったわ。なぁ、あの日も穏やかなもんやったろ?」 ようやく俺の存在を思い出してくれたらしい有栖川が、唇を尖らせて同意を求めてきた。 年中お前相手に失恋を繰り返している男がいるんだぞ、そんな事聞くなよ。 そう。火村英生が有栖川に思いを寄せているなんてファンタジックな現実は、まだ継続中なのだから。なんて口が裂けても言えないので、有栖川の話に乗るけど。 「相手の事を知らんからコメントは控えたいところだが、少なくとも有栖川に未練はないようだな」 「メシが喉通らんほど悲しくはないけど、約束してたモロー展がな、明日で会期終わるんや。ひとりで行くのは吝かではないが、チケットが1枚無駄になるのが悲しいといえば悲しい」 そう言って冷めかけのカレーライスをひと掬いした有栖川は、本当にあっさりしたものだ。こちらの箸を持つ手が脱力する。 すると、珍しく早々にラーメンを食べ終えた火村が口を開いた。 「モローなら見てもいいぜ。チケット買い取ってやるよ」 「付き合ってくれるんか」 きららん、と有栖川の目が輝く。 「駄目なら言わない」 「ん。ほな明日行こか。天農はもう見たん?」 「そう。俺はもういいよ。最終日は混むし」 失恋話などなかったかのように、火村と有栖川は明日の予定を決めはじめた。 同じ流れで、来週火村の下宿で酒を飲む計画を立て、3人の湯のみが空になったのを潮に席を立つ。 「火村、君が恋した事がないなんて言うたん、悪かったわ」 食堂を出て、それぞれの講義棟に繋がる分かれ道で、突如有栖川が言った。 とっさに火村を振り返ってしまった自分の迂闊さに内心焦ったが、火村は見事にポーカーフェイスを崩さなかった。 「ばぁか。本気で聞いてないよ、そんな言いがかり」 「こっちは結構マジやったから謝っとるんや」 「そこまで言うなら聞いといてやるよ」 「下手に出てるのになんで不機嫌になる?」 「しおらしいアリスなんて気味が悪い」 突き放した言い方だが、有栖川が持つ特別なアンテナは何かしら受信したらしい。尖った唇が少し緩んで、可愛らしくつり上がる。十九二十歳を過ぎてなお、倒れそうに愛くるしい、と不治の病にかかっている男の目には映るのだろう。 「今年のクリスマスは君で我慢しといたるわ。彼女おらんもん同士慰めあおうか」 なー? と、何を思ったのか火村の顎にするりと細い手をかけて、くいっと鼻先同士をあわせた。 触れてしまうかと思うほど近くて。 人を従わせるような傲慢な手つきだったが、ひどく色気もあった。 どれほど親しくてもまずしないような所作に驚いたが、そんな距離にまで有栖川を引き込んだのは火村で。 火村を捕らえているのは有栖川なのだ。 ぬけぬけと見せつけられてしまったのか、と気づくと妙に悔しくなってきた俺は悪態の一つでもつかせていただこう。 「……アホとバカでおまえらは丁度いい感じだよ全く」 未来の学者先生は「ふん」とシニカルに口をゆがめた。 あくまでクールにカムフラし続けるのだろう。自分に嘘をつけない、不器用な男なりに。 君はエヴァーグリーンより、根雪のような真白さがよく似合う。 白菊の花言葉は『真実』。 |
「心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花」(凡河内躬恒)/参考文献『フローラ逍遥』澁澤龍彦(平凡社ライブラリー) 2007/9/6 |