■1.住の江のきしによる波よるさへや夢のかよひ路人めよくらむ(018)
住の江の岸に寄る波のように、あなたの傍に寄り添いたいと思うのに。夜の夢の通い路でさえ、人目を避けて通ってきてはくれないのですか。
キャメルの指先
四月に洗って、汚されぬまま初夏を迎えた灰皿に吸いさしを押しつけた。
音もなく火は消える。
肋骨で守られたやわらかい内側。
そこがすこし痛いのは、キツイ煙草のせいではなくて。
「おつかれさま、俺」
かさかさの唇からこぼれた声はやはり艶がない。
脱稿直後のひからびた作家にリップクリームを差し出してくれる誰かなどおらず、またそんな存在を求めぬアリスは、とりあえず冷蔵庫を開ける。
そこで初めてエビスが一本しかないことに気付いた。
えぇーうそやん、とあまり抑揚のないイントネーションでぼやく。
さっきコンビニでデータを宅急便で送ったとき、二、三本買っておけば良かった。よく見たら食べ物もない。
「上等や」
その昔「ビールは栄養価も満腹感も得られる完全食品だ」と夕食代わりにしていた先輩がいたっけな。半年で内臓壊してたけど。
金色の缶に手をかけて、キッチンで一気に呷った。
喉の鳴るリズムが鼓動に似ているなぁと考えながら流し込んだら、するすると飲めてしまい、結局半分以上胃に落ちた。
喉も渇いていたようだ。
からっぽだった胃袋も、なんとなく満たされて。
たった一本のキャメルとビールが、ボロ切れみたいになっているアリスをねぎらった。
なりふり構わず第一次締め切りを踏み倒し書き続けた七週間。
機織り職人もかくやの根気をもってアリスは長編を織り上げた。
秋に単行本として出されるそれは、珀友社のミステリフェアに寄せてのもので、アリスほか七人の作家が書き下ろしの長編を依頼されている。
ミステリの旗手と呼ばれる中堅作家たちの新刊をずらり並べ、書店の平台を軒並み占拠してやるんだと片桐は熱く語ってくれた。
企画に参加している某氏の作品の映画化が決定していることもあり、いやがおうにも社内のテンションは高まっているようだ。
この秋全国ロードショウされるから、それにぶつけて追い風を捕まえたいのだろう。
華々しい企画の頭数あわせだとしても(とは卑下し過ぎかな)、やっぱり単行本はうれしい。おもわずにやりと笑みが浮かぶ。
パリッとした背表紙がいとおしいし、なにより活字が鮮明だ。
フェチはお嫌いな助教授が何と言おうと、これに関しては譲れん。
ついでにグルメもお嫌いらしい助教授とアリスは、ここしばらく顔を合わせていない。
リング綴じのカレンダーをぺらりとめくり、火村の顔を何か月見ていないかを確認する。
ひい、ふう、み。
振り続けたのは自分と分かっていても、その無沙汰ぶりに今日何度目かのため息がでた。
そういえば、四苦八苦した長編に取りくんでいた最中に、一度か二度電話はあった。
関西方面ではトップニュースになっている殺人事件。そのフィールドワークへのいざないだったが、抜き差しならぬスケジュールのため不参加だと伝えたとき、彼とはいつもどおり「またな」とあっさり会話を終えた。
火村はフィールドワークにのめり込むと、人としての生活時間をじわじわ削ってゆく傾向がある。
先週まで関わっていた事件は大阪と兵庫の県境で起きた。彼の習性に変わりがなければ、この部屋を定宿にするのが常のはずだった。
しかし彼のベンツはこの町に影さえ落とさない。
常ならざる事態に、ちくちくと、こめかみがうずく。仕事中、不意に思い出しては言いようのない焦燥感にかられた。
府内に用事がなければ何か月だってここにはこないが、近辺に出てきたら電話一本寄越しふらっとやってくる。
目の下の隈はお互い様。
気兼ねのない会話が添えられる食事。
それがどれだけアリスに安息を与えることか。
しかし彼は来なかった。
アリスも誘わなかった。
しばらくして、解決と後日談を聞かされた。これも電話だ。
仕事中だから、と自らを律していたが、それも今夜で終わりだ。枷も軛も引きちぎっていいのだが、いかんせん体力ゲージが最低に落ち込んでいる。
夜が明けたら「お疲れ会しよ」と電話してみればいいのだが、この指は短縮ダイヤルを前に固まったままだろう。
気安い関係の自分たちだったのに、電話するのがこわい。
小説が一番だったアリスでも、女の子と付き合ったことは何度かある。あまり長続きしなかったけど、彼女たちの肌の匂いはそれなりにアリスを興奮させたし、いとおしさをかき立てた。
火村のことは知らない。
口説かずモテるイヤミな奴なのは今も変わらずだが、今ほど女性を遠ざけていたわけでもなかったようで、それなりにやることはやっていたようだ。
過去、一度だけ話を振ってみたこともある。確かどんなホテルを使ったことがあるか、という話題だった。
彼は『とりあえずお前らがさっき挙げたホテルではない』と言って、テーブルを囲んでいた男女をどよめかせた。言い方はヒネているが交渉があったことは認めたからだ。
その後やいのやいのと続いた追求にはノーコメントを通していたが、アリスは内心動揺していた。
火村と女性が絡み合う生々しさに触れて。
羞恥に似たいたたまれなさを感じた。
それから随分年月がたち、なんとなくそれぞれ交渉を持っていた女性が消えたころ。
あまりに近くにいて、お互いを好ましく思っていて。
誰がありえざる欲情のスイッチを押したのか、茫洋とした記憶の彼方にかすみよくわからない。
あれは、ミナミのバーで飲んでいたときだ。読んでいる本の話と取材先での小さな珍事を肴に、穏やかにグラスを傾けていたはずだ。
『出よう』と耳打ちした火村と同じタイミングでスツールから降り、ネオンのけばけばしさに反して薄暗い部屋の中へと手を引かれるまでの間、アリスの記憶はぶっとんでいた。何がおこるのか全部分かってしまって、火村相手に緊張していたのだろう。
ひたすら、こんなあっけないものなのか。という一語が渦巻いていた。
だたひたすら。
火村と寝てしまうのなんて、こんなもんなんか?
自分を安心させたかったのかもしれない。天地がひっくりかえるようなことではないのだと。
セックスでがらりと変わる女性との関係のように、明日からメールチェックやデートのコースに気を配ることはない。連絡をおろそかにして「一体何度かけたと思ってるの」と苛立ちをぶつけられることもない。
だって火村だから。火村のことはよくわかっている。
あの心地よい距離を保ってていいのだ。
シャワーを浴びながら自分の中の論理立てに躍起になっていた。
まったくもって支離滅裂なのだが、付き合いの長い友人同士、捌けた交渉が始まっただけだと安心しようとした。
そんな夢遊病者のような目で捉えた現実は、ひどく掴みにくい。
歩きなれた道すらぼんやり霞がかっていた。
(さすがにそんな時はテンパるっちゅうねん。)
なら意志もなかったのか?無理矢理だったのか?誘導したのか、されたのか?
人には言えない関係だが、きっぱり男らしく言いたい。
「自由意志の結果や」
その夜、アリスたちはできうるかぎるの手管でお互いに触れた。
最初はちらりと唇を舐め合っていたが、やがて遠慮がなくなると長く官能的なキスにもつれこんだ。
禁欲的な生活を双方送っていたからいきなり深く繋がったりしなかったが、ぎこちなくも解放を求めている場所だけは違えず手を伸ばした。
二度目も
火村はめっぽうキスを好んだ。
それ以上の熱心さでアリスの中に道をつけたがった。
『……ん、』
声にならない声で、ひむらと呼ぶ。
たまらなく優しく突き上げられて、でも腰骨をつかむ指は少し強く。痛い。
こんな小さな痛みなど、大きく抉り込む動きからアリスを逃がさないための、甘いアンカーでしかない。柔らかい場所に落ちる碇は、アリスの中、名前のない場所に食い込んでいく。
作家稼業のくせに言葉を忘れてしまったのか、繰り返し彼の名にすがりつく。辛いともいえなかった。感じるところも種類も多くて、いいのか悪いのか分からなかった。
言うなれば全部火村だった。全部彼だからかまわないと、やってる最中に覚悟が決まった。
彼は痛いほど真剣な眼差しでアリスを食らい尽くす。
『アリス、もっと、いいか?』
以来、適度に酒が入って仕事が入ってなければ、禁断の小径はいとも簡単に開かれた。
体だけ繋いで、友人の距離を保つことはさほど難しくはない。
アリスと彼がいつも通りなら。 思えばアリスは甘く見ていた。
なにをって、自分の身体感覚を。
学生時代に彼の女性関係を茶化せなかったとき、すでに答えは出ていたのに。
自分の忘れっぽさを非難した。
火村が離れたらどうなるか、こんなにも暗示する出来事があったのに。
フィールドワークのときは友人としてできれば隣にいたい、それが出来なければ時々うちに転がり込んで余多話をしてほしい。
あの瞳がセックスを欲すれば、状況が許す限り彼に多くを許したい。
冷たいくらい冴えた表情に火がめらりとたちのぼり、すこし獰猛になってぞくぞくする。
ほら、途切れぬワルツのように二人を繋ぐ糸が優しく結ばれて解ければいいだけじゃないか。
今、解けたっきり絡まってくれないことが、ひどくアリスを不安にさせている。
昨日までは、仕事中を言い訳になるべく彼のことを頭の中から追い出してきた。
机上の物語を編む以外に使われたときのアリスの想像力は、理屈はあってても辻褄が合わない時が多い。
口に出したらそのままボロッと何かが壊れていきそうなほど、アリスは火村の訪問を待っていた。
もう友達なんかじゃない火村のことを考えていた。
ほぼ無意識で手が伸び、潰れかかったケースから抜いた一本に火をつける。
ひょっとしたら明日彼の方から電話をしてくるかもしれない。
『仕事はどうだ。カレンダーが書き込みでグチャグチャだって? ははぁん、そりゃ結構だな』
『休講に比例してレポートの質が落ちるのは、俺ばかりが責められるべきことか?』
『先月のミステリマガジン、読んだぞ』
こんな風に。
会う時話せばいいことでも、電話でつらつらと話してしまう。そんな瞬間が好きだった。自分と彼の離れていた時間が、合流する川のように一つになって、運んできた日々の木石を勢い良く流してしまえる。
口が悪くて、性格も捻くれて、信心は幼稚園の焼却炉に放り込んできたに違いない男をアリスは見つめていたかった。
体ごと持っていかれて。
徹夜明けで頭沸いとるな、俺。
不毛な話だが当面の理性の崩壊を回避したくて、密かに彼専用と決めていた灰皿へ、灰を落としてみたくなったわけで。
本人の与り知らぬところでやっても、なぁ?
のっぴきならぬところまで自分が来ていることに気付き、しかし後戻りなどできず。
彼のやや薄い唇も、しょっちゅう乾いていたことを思い出して、また胸を詰まらせる。
気が付けば、皓々と明かりのついたリビングのソファで気絶していた。
カーテンを通して見る外界は、うっすら明るく。時計の針は南南東を指す。
初夏とはいえ、なにも掛けずに眠るにはまだ早く、肌寒さが沁みて目が覚めたらしい。
ふっつりと記憶がなく、夢の名残もない。
夢の方が幸せなときもある。
意識を明け渡して、計算づくな現実からダイブした世界はすべて偽物だけど、揺り動かされる感情だけは作り物じゃないから。
たとえば灰皿を汚したのは火村だったらよかったのに。
ベッドに潜り込んで手足を伸ばしても、眠れそうにない。
直前まで考えていた彼との情交が体に飛び火して、少し膝頭を寄せた。
火村と関係を持ってこのかた、ここ数カ月、この山のアタックに限界を感じる。手軽に立ち寄れる花園が欲しいなら、こんなに苦しいビバークを続けたりしない。
自分は先を行く火村に確かめたい事があるのに、話すのを先送りにしていた。まだ成り行きに任せていたいという気持ちがそうさせていた。
結論を急いで、友人というカラビナを外してしまったら、滑落するのは間違いなく自分だ。
スウェットのズボンとパンツを床に落とす。Tシャツも脱いでしまう。理屈っぽい自分はなんとなく白々しさを感じなくもないが、目を閉じてしまえばいいのだ。
『おまえの好きなように』
って、恐いほど優しいバリトンに誘惑されたときみたいに、頭がすこしバカになる。
「ぁあ……ん……して」
にっちゃ、にっちゃと浅ましい音をたてて扱く。こんなにどうしてってくらい、淫らな衝動がぐるぐる鳩尾でとぐろを巻いていた。
誰も聞くものはいないが、恥ずかしいのをちょっととっぱらって明け透けな言葉を口にしてみると、おかしな位煽られた。
して、という単語が喉に甘く絡まって、自分のいい所を擦りたてる動きが大胆になる。
キャメルの匂いがしみた自分の指に、劣情をそそられた。欲望を隠しもしないでアリスのものに手をかけた男の影を、畏れながら、重ねる。
野球中継を見ながら一緒にビールを飲んだ、あの口で、ここを愛された。
じゅっと音を立てて啜られる液体は彼の唾液ばかりではなくて、そんなところいやや、と身を捩っても、前を突き出すように腰が浮いて。許しがたい恥ずかしさのはずなのに、脚を深く折るころには『もっと』と火村の舌を求めていた。
求めてくる夜、火村は擦りあうだけの行為をむさぼって、それでも満たされないとセックスは少し嗜虐味を帯びた。とても自然に、性欲のまま吐き出し合うだけ、と言うにはあまりに情の濃い行為へとスライドしてゆく。
だから大きな手のひらが支えるまま、自分で考えるのも堪え難いあのポーズで一番弱いところを差し出してしまえる。むき出されたそこを、なんであいつは喉を鳴らさんばかりに見つめるのか。
きっと最高にいやらしく、たっぷり欲情をこめて、その深いところに捩じ込んでくるからだ。
おとなしやかに侵入してくるのに、呼吸を重ねる毎に、堪え性なく動き出す。
そこから狂おしいほどの熱が溶け出し、こだわりを捨て自分からもクッとリズムを掴んで、腰から繋がりにゆく。
『っは……』
背中に落ちる切なげな吐息。火村の色っぽい声がめちゃくちゃに嬉しかった。ローションの滑りが途方もなく奥まで火村を入ってこさせて、ああっ、と体が跳ねた。
おかしくなる、こんなにされたら。
突っ張った内股からくずおれたくてしょうがないのに、腫れたように熱を持った後ろが火村のものとこすれたがる。
『やぁ、あ……ん……ひむ……もぉ』
こんなにしても正直に口にするのは恥ずかしく、あの一言で強請れない。聞きたがった火村に焦らされまくったときは、さすがに泣きが入った。でも最高に、感じて。
「ぁ、イキ、たい、ん……」
いまは一人のシーツの上、枕元の吸いさしに指をのばす。
生理的な快感を受け止めながら、アリスはキャメルを強く噛んだ。
ああ、これが寂しさかと、まだ愛してないのに泣いた。
ベッドサイドに連れてきた白磁の器は、まだ、洗わない。
夢の小道を彼が通ってきた時、目印がないと困るやろ?
自分の中のふたつのこみちが、一人の男に開かれるのを待ってる。
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