天農&アリス。『願うすべて』より番外。乙女です。チョー乙女です。辛党の方ご注意。
絵描きの目
「おい、有栖川? 講義終わったぞ。出ないのか?」
気配もなく横に立っていた誰かに肩を叩かれ驚く。
顔を上げると、心配そうにこちらを窺う天農がいた。
「気分でも悪いのか?」
「や、ちゃう。ちょっと立ちくらみした」
「座って立ちくらみか、器用だな。ああ……ひどい顔して。飯食ってるか?」
「食うとるよ、昼抜かしたけど。こう蒸せたら食欲わかんわ」
「夏バテには早いぞ。うどん奢ってやるから、ほら立って」
そんなわけで、背中を押されながら、食券販売機の前へと連行された。
高価な絵の具を買うために天農が切り詰めていることを知っているので、おごるというのを固辞し1杯160円のカレーを選ぶ。
3時過ぎの学食はガラガラだった。
保温機にかけられていたカレーもちょっと煮詰まり気味で、生卵を投下しようかどうか迷って、結局落とさないことにした。
いただきます、と付き合ってくれる天農に断ってスプーンを取る。
「おあがりよし」
年寄りめいた合の手を返して、友人は炭酸飲料に口を付けた。
しばらく目の前の食べ物を咀嚼することだけに意識を傾ける。
繊細な光を帯びた瞳が、どこか焦点の合わない目でアリスを見ているのに気付いていたが気にはならない。自分もよくやる表情らしいので。
それを教えてくれた男のことを、つい考えてしまう。
カレーなんか選ぶのではなかった。荒っぽく福神漬けをルゥにまぜて、口にかっこんだ。
「ひとりじゃなぁ……」
ぼそっと、缶に向かって話しかけるように漏らした声を耳聡く聞き付けて「なんや?」と問う。
「やー、なんていうか、まとまらん考えなんだが」
「なんやの。そういうのめちゃ気になるやんか。教えてや」
スプーンを突き付けて抗議すると、お育ちのいい友人はいやそうに手を一振りして、白状することを決めてくれた。
「そのまま食べててくれ。俺が勝手に喋ってるから」
「ふん?」
「勝手な思い込みなんだが、俺にはなんだか、物足らない眺めなんだよ。有栖川が1人でいるのが。言ってる意味分からないかもしれないけどな。俺自身もなんでそんなこと感じるのか、理由がわからない。小説書いてるお前はなかなか絵心を刺激する。でも、誰かとバカ話してる有栖川の方がなぁ、こう、生き生きとした絵となって見えてくるんだよ」
おもわず手を止めた。
きっと、相手が居心地を悪くするほどに視線で射ぬいているに違いない。
「ごめん! 決して、その、小説書いてるお前が良くないとかいうんじゃなくってだなぁ」
アリスが引いた、と思ったらしい天農は顔の前で手を振って、慌てて否定した。
ああ、そうじゃないんだ、あまの。と、言おうとするが声にならない。
「だからこれは、根拠薄弱な思いつきというか、印象というか。まぁ芸術家のいち妄想だと思ってこらえて……有栖川? え、ちょっ……わ、ティッシュ、ティッシュ。ほれ、どうしたぁ?」
ほんとに、どうしたことか。
天農がひたすら困った顔をしているではないか、ほら、止まれ。
それでも勝手に涙腺は壊れ続ける。
トレイにぽたぽた、音をたてて落ちる。
食堂がガラガラでよかった。
天農が目元に押し付けてくれたティッシュで目頭を拭って洟をかんでも、注意をむける人など何処にもいない。
絵描きの目は、一体何でできているんだろう。
なんで、説明すらできない存在を、感じ取れるんだ。
「たぶん、おれがその絵を見せとるんやろう。実を言うと、気になる相手に振られてもうてな」
「泣くほどの相手か」
「ん、これは事故。重ねてちょっとヘビーな別件が控えてて。スマン、変になってた」
「変じゃないよ」
「じゃあそういうことにしとこか」
唇が、ふにゃりとほどける。
まだ胸はきりきりするけれど、それは、突き上げてくる暖かい感情のせいだから痛くはない。
いっそなにもかも話してしまえれば、と思った。
でも、それこそ妄想を晒すようなものだし、なにより彼にこの事実は不要だ。
きっと隣が寂しいって仕草を、サブコンシャスが刺激されるギリギリのレベルで出していて、彼はたまたまそれを受信した。
そういうことなのだ。
と、あえて単純化しなければ、また涙が出そうだった。
そういえば、この世界に来て彼と言葉を交わしたときも涙が出そうだったんだっけ。涙腺を刺激されてばかりだ。
言えないけど、「ありがとう」。22歳の俺を感じてくれて。
彼ともこんな風に繋がりあえればいいのにと思うと、やっぱり泣けて、最後に一粒転がり落ちた。
2007/5/20 ブログより再録
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