咲いてはいけない花はない

 

 

 



渡り船みたいな細い下弦の三日月に、咲き初めの桜がそのしなやかな枝を延べる夜、北白川の友人を訪ねた。
綿ぬきが迫る季節、ぬるい風が短く切りそろえた襟足をさらりと撫でていく。酒屋のショーケースの前で少し迷ってから、ビールは春限定のラベルを選んでみた。

 

 

その夜は居酒屋の利益率から古典ロックバンドの系譜などを肴に、望みどおりの放縦な会話をした。
火村は同年代の誰よりも考え方が熟していて、子供じみた屁理屈には手厳しいが、その分飽きない。適度にペダンティックな言い方は、歯切れのいい東京弁によくあっていた。
会話は設計図もなくなにかを建てるのに似ている。だいたいが書き割りの四畳半を作って終わるのだが、彼は違った。
申し合わせたわけじゃないのに、屋根を支える柱を具合良く配したり、ふさわしい大きさの敷石を嵌めたりできた。要求なしに手応えのあるものを出し合えるのは快感だ。
アリスの頬は火照った。頭の中が整然と、荒々しく駆動する心地よさに酔う。

「最後の政経概論でな、俺ら四回生のためかどうか知らんが、時間あまった山下センセがまた例の無駄話をはじめたわけや。一流の経済人が集って会食する時、仕事や天気の話題で相手との会話をスタートさせるのは野暮なんやと。相手の知識や教養を試すような質問で、近付いてくる。これが日本人のエリートはすこぶる苦手らしゅうてな、諸外国の人間と交流を図るための共通言語は語学のみにあらずっちゅうとこから話が始まる」

「俺も天気の話なんぞ興味はないけどな。透けて見えるぞオチが。自国の歴史のみならず、相手国の文化まで捉えたネタを展開させるんだろ?」

「先回りに感謝しよう。ある時『夏目漱石の「こころ」での先生の自殺と、三島由紀夫の自殺はなにか関係しているのか』て質問が飛び出して、たいそう焦ったそうや。許されるもんなら、こんな漠然とした質問からは逃げ出したかったろうなぁと俺は少し同情した。俺も聞きながらシュミレーションしてみたが、どう考えてもしどろもどろや」

「まともに受けて答えようとするからさ、これは一種の会話術なんだ。中途半端な知識からくる質問に一見聞こえるが、逆に相手の素顔を引き出したくて撒いた呼び水、というのがセオリーのひとつなんだ。文学作品とそれが書かれた時代性、社会情勢を引き合いに出しつつ私的見解でも分析でもいいから『なるほど』と思わせる答えに、会話をリードさせることができればいい。近代文学ともなれば世界の経済の動きも、社会、ひいては時代に生きる人間へ影響をしている。そこで経済人としての本領もちらりと見せればオチも付く。で、その焦った経済人はどのような回答を?」

「日本人の死生観を継ぎ接ぎした持論ない答え方をしてしまって、非常に不本意やったらしい。つうかお前は一体何者、いくつサバ読んどる? 何浪もしくは留年してんここだけの話」

「現役合格留年なしで来月院に行くが何か。冷静になればその人もお前も、理路整然とやってのけると思うぜ、こういう話題の切り口に慣れてないだけで。聞かせてもらいたいものだな、シュミレーションでお前ならどうしたんだ?」

「俺はまず三島がある歌舞伎役者の死について書いたエッセイを取り上げるな。夏目は詳しくないから」

「ほう」

続けてみろ、とタバコを指に挟んで上下させた。二十歳そこそこで、なんでそういう松田優作みたいな仕草が板に付いてるのかな。中折れ帽子でも押し付けてやろうか。

「エッセイで取り上げられていた役者の事から始まる。その役者、芸風は地味だが手堅く脇役をつとめて花形を支え続けた実力者なんやけど、引退して出た旅の途上、投身自殺をするんや」

「で、三島はなんと?」

「詳しくは諳んじることができんが三島は、芸の道は、死ぬことではじめて遂げられることを、死なずに成就させることと言っている。老役者が若手花形役者の『影』だったことに触れて、芸の上で成就できなかったことを、死でもって完成させたのだ、感動したと褒めとった」

「感動、か」

火村はゆっくりと煙草を吸い込んで、感情のない顔を窓の外に向けた。私も最初この話に触れたとき、なにやら臓腑をかき回される思いがした。
投げかけたその後が、決して見えない訴えなのだ、彼の心の中は何に満たされていたのだろう。
三島は、その死自体が痛烈な批判だという。声、目、かたちの優れた花形と呼ばれる役者たちに対しての。

 

 『お前たちは私より確かに良いものをもっている。しかし浅い』

 

死をもって何事かを成就させるなど、このリアリストは鼻で嘲笑うだろうか。

「つまり自分の立っている境地は、芸の道より上位のところだと示したかったという解釈をした、と」

「ううん、そういう解釈をすると一般人には『通りやすい』気ぃするけど、俺はなんとも云えん。ただ、どんなに華やいだ世界に生きていてもどこか負い目や劣等意識を持っていて、それがファナティックな行動へと駆り立てたように思える。猫みたいに高い位置に視座を持つことだけを求めて、死んだりでけへんやろ」

「三島の劣等意識についての根拠は?」

「そ、それは……吉田いや猪瀬だったかな、文献名も忘れたけどな、そこから感じた私見やから雑把であることを先にゆうとく。彼は誤診から出兵を免れたけど、兵役逃れと取られかねんことがあったり、右翼に脅迫されたり、肉体改造したりとか。どれも命こそとられてないけど、なにか時代の中でアイデンティティが脅かされてきた、という印象がある。なにせ一流のエリートや、自意識過剰な面もあったろう。そんな一連の負の流れの中で、俺は、こん人の死に三島も確信を持ったと思ったん」

「ああ、俺もだ」

へぇ、と思い、目が合う。
さん、はい。

「「俺も死ぬしかない」」

諸外国のエリートへの回答については、もうとっくに議論を放擲していたがどうでもいい。なにせ酒のツマミになればいいのである。
火村はこの話を、冷たく嗤ったりしなかった。だから私のささくれた気持ちも少し落ち着いて、酒屋のビニル袋の底で嵩張っている、本屋の包みを開ける気持ちになれた。

「……今度こそは、思たんやけどな」

立ち読みで見た限り、有栖川有栖という名前は第二席にあった。期待していた一席、いや入選から遥かに遠いランク。
芸道を超越しようとした俳優、美学に殉じた作家の話はアリスにとってあまりにもスケールが大きく、非現実的であるけれど、彼等は世界でただ一つの花でありたいのだという、切なる願いが聞こえてくる。

「編集者評は既に来とるんや。独創的なトリックへの挑戦は買いますが、やや破たんしている点も見受けられます。作風に既存作家の影響もあるように思われます、新しい切り口を見つけてみては、やって。最後の一言が曖昧で悶えたわ」

「純粋培養のオリジナリティってやつは、ないと俺は思うね。文字媒体という場で、本格推理というジャンルに属して、一定、物語づくりのルールに則したものを書こうとした時点で問われるのは書く力と、なんだ、構成力か? 次に、研究でいうなら第一次文献にどれだけ触れるかっていうのが勝負の分かれ目になる。小説でいうなら読書経験がモノをいう。幾多と触れてきた他人の言葉を吸収して吐き出す時、有栖川有栖という癖だらけの人間が再構築してしまえば、既にオリジナリティらしきものになっている」

「らしきもの、てのもけっこうぐさっとくるわ」

「言葉尻を捉えるなよ。俺が言いたいのは、お前が書いたものはお前以外に書けないものだから、オリジナリティについて悩むのは二の次にして、『やや破たんしている点』という具体的な問題の方をやっつけちまえってことだ。2年前の小説より、この前書いたものの方が様々な点で進歩していると思う」

「へぇ、さよか……」

「おいおい、一番の読者を信じろよ。それともお前は本格推理を書くのに三島的美学を求めてるのか?」

彼の美学はまるで磨きあげられたダイヤモンドのような、最高硬度の花。
でも光を受けてこそ花は輝くのだ、ただ一つの究極美を備えていても自ら光を発しない。
自分の綴る物語は探偵の叡智の光を受け続けて、ひいては読者に挑戦してこそ、輝くものだから。
選り分けで弾かれたからといって、咲くことすら許されないわけじゃない。来月から満員電車に飛び乗る日々が始まるけれど、いつか咲くために書くことをやめない、やめたくはない。

「まさか。俺はロジックにおいての美学を求めてるんや。文学性とか、新しいばかりのミステリもどきやない。もし、望みが成就できなかったとしても、俺自身を献じてまで叶えなくていい思う。うん、それを確かめたかったのかもな。ありがとうな、火村」

畳み掛けるように喋ったものだから、喉が乾いてしまったので手もとの缶を引き寄せたが、中身がなくなっていた。火村の手からも奪ってみたが、ない。お互い新たな一本を開ける。

「じゃ改めて。有栖川有栖の落選と就職に」

「はん、それを言うなっちゅうの。では……火村英生の思いがけない愛情に」

乾杯とぶつけたら、珍しく火村の手もとが少し危なくて、がっつんといってしまった。まだ2本目なのにもう酔っているのだろうか、顔も少し赤い。

「いやあ君って有栖川有栖の理解が深いわー、いまかなり感動してる。さては俺のこと好きなんやろ」

「臆面もなくよく言うぜ、恥ずかしいやつだな。そうそうその通り好きだよ好きだ。一目惚れだよ」

「うんうんなんか気力湧いてきたわ! 俺も君が好きっ」

顔を見合わせて、ほろ酔いの二人は屈託なく笑った。

 

 

 

咲いてはいけない花はないと三日月を睨んだ春宵、卒業できなかった思いにひと区切りつけた。もし入賞したとしても、今この時期に就職を蹴るような冒険はできないことくらい理解していたが、なんらか評価があればその先へと希望を繋いでいけると願いを込めたものだっただけに、この手応えのなさはそのまま灰色の社会人生活への埋没を予感させた。

 

悲しいかな、働きながら書いてゆくという、その価値さえ一瞬疑ってしまったのだ。この価値に値段などつけられないと、がむしゃらだった去年までの自分が萎れて枯れてゆくのを止められないかもしれない、と。
誰でもない、自分が信じるしかない道。確かに信じている自分、だけれども、誰かに大丈夫だと言ってもらいたい時があることを、自分に許せるようになった。

 

彼に出会ってからだ。それは彼の、誰の許しも求めていない背中を見つめはじめてからのような気がする。誰かを許せず、自分をも許さない。
その姿勢を批判するときもあるが、本当は彼に少しでも自由になって欲しいという気持ちの方が勝っていた。驕っているだろうか、とも思うけど、この気持ちを素通りできるほど生きることに、いや火村英生に無関心ではないのだ。
本人にさえ悟られたくはない、これはなんと名付けられる気持ちだろうか。

 

来週からはもう会えない友に、今まで通り暇を告げて雑誌一つとともに夜道を歩く。
天高くまで曵かれた月は迷いなく進むだろう、この道は駅まで続いているだろう、自分は歩き続けるだろう。何度も君を探しながら、何度でも自分の居場所確かめるだろう。
満員電車に揺られて伝票整理に追われて、待ったなしの日々はたちまちグレーに塗りつぶされてゆくだろうけれど、何度でも塗り直そう、大好きな色に塗り替えよう。

 

「アンチテーゼのために、本格推理を書きたいわけやない」

 

つぶやいて、幸せだと思った。
今夜この道を照らすのは月と街灯と、まだ絶えない情熱。

 

 

 

 

 

追記。
この時、先の事ばかりを考えていたから気にも留めなかったが、ひょっとしたら火村の方は本心を打ち明けてくれ
ていたのかもしれない。
再び、向かい合って好きだと告げあうのに、ここから数年の時を要する。

 

 

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