天農親子登場。ヒムアリ前提。







スイート リトル ダーリン










年末年始だからといってあえて実家に帰らない。
いつもと同じ時間に起き出して、簡単な朝食を採りポストを覗きに階下へ向かう。
新年を寿ぐ言葉が並ぶ葉書の束を掴むと、ああ正月だなぁという実感がようようわいてくる。
筆無精なもので出すより頂く方が多いから、恐縮しつつリビングで束を広げていると、思いがけない差出人の名を見つけ口元が思わずほころぶ。
年賀はがきは父親の作品が印刷されたポストカード風の洒落たもの。
その空いたスペースに本人による筆とおぼしき拙い字で
『アリスさん ことしも あそびにいこうね』
とピンクのペンで書かれたメッセージがあった。

女の子はませてるな、やっぱ。
『あそびにいこうね』は、去年クリスマス前に行った遊園地のことを指しているのだろう。
一生懸命書かれた文字をなぞる。
ぱっちりとした目を見開き、父親に「年賀状かきたい」とねだる光景が目に浮かぶ。

年賀状の差出人は天農真樹。若干5歳だ。
この小さなレディとのお付き合いは、昨年彼女の父親-------天農仁という私と火村の共通の友人-------からさる事件に関する相談を依頼され、家を訪問した事より始まった。
火村が「想像」と言った事件の輪郭は認めたくない姿をしていた。
事件の輪郭に触れた大人達が凍り付く中、素直で屈託の無い彼女の存在は闇夜の灯明のようだった。
宗教画に描かれる天使のように、やわらかくって愛らしくて。
実際、天農にとって娘は生きる希望だろう。
彼も火村と似た所があって、家族に縁の薄い男である。母親の消息はどうだか知れないが、少なくとも大学を出てからは同居していない。妻も、家を譲ってくれた叔母もいない。
それはまた真樹にも言える事で、父娘はお互いを唯一と認め寄り添って生きていた。
その様子は大変微笑ましいもので。
事件がらみでなければ、どんなにか和やかな一夜を過ごせただろう。





火村ともども憂鬱な気分を抱えたまま黒鳥亭を発ったあの日の事を、夏を過ぎても秋を越しても私は忘れられなかった。
だから、あの日『六甲アンリミテッドランド』のチケットが手に入った時すぐに「真樹ちゃんを連れて行ってあげたい」と思ったのだ。
父親がいるのだから、私のような他人が出過ぎた事をするのも考えものだが、幸いチケットは4枚あった。
二人まとめて招待すればいいと考え、多忙な准教授どのも巻き込み、いまから丁度ひと月前関西最大の遊園地に繰り出したのだ。
AVボードに置いてある『クマのアンリちゃんとテッド君』ぬいぐるみが、あの日のことを思いださせる。



















府内の小中学校が終業式を迎える前の週、しかも平日だ。
クリスマス前の混雑を見る事無く、悠々と園内を巡ることができるようだ。静かな遊園地というのも淋しいが、私たちにはラッキーだった。
この歳になると、遊園地の混雑にたいして耐性が弱っているのだ。
真樹だけ周りの事などおかまい無しにはしゃいでいた。
私が心配しなくても、しっかり地元の遊園地には連れて行ってもらっていた彼女は「あれ乗った事ある、これも」と思い出して興奮している。

『六甲アンリミテッドランド』はジェットコースターが売りの遊園地なのだが、真樹の前後を固める我々三十路男には関係ない。
身長における制限をクリアできたアトラクションをチェックして、姫をエスコートすることに徹した。
「先にここを回ってから、フェスティバルゾーンに行った方がいいぜ。昼食が経由地点でとれる」
火村がトントンと人差し指でマップを叩く。
その指で胸ポケットを探りかけ、「あ、駄目なんだよな」と手を引っ込める。喫煙者には辛いだろう、『園内全面禁煙』なのだ。
ニコチンの誘惑と戦いつつ、ピックアップしたアトラクションを、順序よく整理してルートを組む。
「よっ、さすが名探偵。ルート作成が早い」
からかいの意も込めて率直に賞賛を送ると、冷ややかな目で
「お前は乗りたいものから乗るタイプだろ。だから最後で切羽詰まるんだ。整理しろ、ルートもトリックもな」
と言いやがる。年末進行で「まとまらん!」と四苦八苦していたことを指しているのだ。
「ねぇアリスさん、早く行こうよ!」
臍を噛みつつ、真樹に手を取られるまま歩き出す。前にあった時より大きくなった彼女は、今日はパステルブルーのワンピースの上に白いフェイクファーのショートジャケットを着ていた。花柄のポシェットがおしゃまで可愛い。

「有栖川と火村に会うからって、張り切って選んでたんだぜ」
天農が苦笑しながら言った。それはそれは、光栄なことだ。
彼は前にあったときよりも健康そうな肌艶になっていた。仕事はそこそこ上手く行っているらしい。
誘ってくれてありがとうと言うその顔はやはり保護者のもので、天農という男を少し遠く感じた。
羨ましくもあり淋しくもあり、といったところだ。

オジサンのそんなセンチメンタルなどさておき。
准教授をメリーゴーラウンドで白馬の王子にし、私と空飛ぶ象に乗り、父親をミニコースターに3回も同乗させたこの日の主役は、独身男二人の手をとって遊歩道を歩く。
「お父さんと、アリスさんと、ヒムラさんと、いーっしょ」
うふふ、と鈴を鳴らしたような笑い声が溢れた。
天使モチーフがぶら下がるモニュメントにさえ、「きれーい」とキャッキャ喜んでいる。
その顔は遊歩道沿いの花もかすむほど晴れやかで。
見ていると、連れて来て本当によかったと思った。「そろそろ食事にしようぜ」
時計を見ながら火村が私たちを促す。

港町神戸を意識したかどうか知らないが、人口の入り江が作られており、そこに船上レストランがあるという。
彼女の知る港や日本海とはまるで違う地中海風の雰囲気だ。
開放的な桟橋の光景に感じるものがあったのか、真樹は目の前に広がる木製のデッキを駆け出した。
「こら! そんなに走ったら落ちるぞ」
「待ってや、真樹ちゃん!」
船と岸壁の間には頼りない鎖の柵が走っているだけだ。聞く耳を持たない5歳児になってしまった子を追いかける。
人出は少ないとはいえ、通行人は全くいないわけじゃない。
カップルにぶつかりそうになりながら、ちょろちょろとすばしこい影を追い続ける。
久しぶりに朝の7時なんぞに起床したせいか、はたまた運動不足が祟っているのか、息があがりかけたところで真樹はようやく止まった。ついに人にぶつかったのだ。

相手は私より少し若いくらいの女性だった。
丸みを帯びた輪郭の優しげな顔立ちだが、ドライビングシューズとジーンズの組み合わせが軽快さを感じさせる。
白い手を真樹の肩に置き「大丈夫? お母さんは?」と腰を折り目を合わせて話しかけていた彼女だが、私の視線に気付いて「あ」と言う風に顔を上げた。
すみませんでした、と軽く会釈をすると、保護者の登場に引き際を了解した女性は真樹に手を振って去って行った。
小さな手を振り返したことにどこか安堵した私は、立っている傍らにしゃがみこみ
「真樹ちゃん、おいでや。レストラン行こう」
とゆっくり呼びかけた。
こちらを向いた真樹は、もういたずらっ子の目をしていなかった。水を飲んだ後のような、どこか透徹した顔をしていた。
落ち着いているようだったが、私の呼びかけに「うん」と頷いたと思ったら、そのまま首に細い手を巻き付けて来た。だっこの催促だ。

思いがけない身の任せ方にハッとした。
私をアリスさんと呼び、賢くて、おしゃまな子だが、まだほんの5歳なのだと思った。守ってやりたい。
これは父性本能なのか、保護欲なのか。
慣れない温もりに私は密かにため息をついた。
普段は全く感じさせないが、感覚の何処かで母親を覚えているのかもしれない。それに同情するのはいけないことか?
柔弱な腰が不平を訴えてくるが、背中と太ももの下を支え構わずしっかりと抱き上げてやった。





「どうした。久々のレジャーにもうヘトヘトか」
缶コーヒー片手にニコチンを摂取している火村は、メシを食べているときよりも満ち足りた顔をしている。
天農親子は観覧車に乗るというので、私たちは数少ない喫煙スポットに来ていた。
私は元気を取り戻した火村とは逆に、少しだれてきていた。真樹に付き合ってバタバタとあちこち駆け巡ったせいだ。
「夜型人間に、真昼のレジャースポットはあまりに眩しいわ」
「何度も来てる場所だろ。大げさな」
「学生のころとちゃうねん。君とも来たなぁ、そういや」
そう、火村とは10年以上前にもここに来たのだ。
当時関西最高峰の絶叫マシンと言われたジェットコースターに乗ったが、今ではもっとすごい新型が導入されたという。時の流れを感じる。
「乗りたいのか?」
「いいや。あえて乗らんでもええ」
「すっかりお疲れさまだな」
「君と違ってセンシティブなもので。ノスタルジーに浸ってるんや」
タフな准教授に図星を指されっぱなしなのも癪で、フンと鼻を鳴らす。
「ほー」
「真樹ちゃんを見てたらな、手のかかる俺を遊園地とかに連れて来てくれたんか、親の気持ちが分かる気がした」
「余所の子供を見て実感する辺り、淋しいことで」
スタンドタイプの灰皿を前に、私の隣に座る火村から揶揄するような視線を感じる。
家庭への憧れ? とか想像して心配とかせえへんのかこの男は。本気で心配になったら……首根っこ掴まれて問いただしにくるか。
「淋しくはあれへん…いや、ちょっとはあるかもしれんけどな。こら笑うな。真面目な話、真樹ちゃんには今日うんと楽しんでもらいたいんや」
「そうだな。それは同感だ」
女性嫌悪だが子供には優しい恋人の、素直な同意に勇気を得る。
「余計な心配かもしれんが、あの丹後半島と真樹ちゃんを思いだす時、淋しくしてへんかなっていう感情がいつもどこかにあるんや。あれだけの子に育て上げてる天農は、立派な父親やねん。けど……」

近しい人々を、あの子は失っている。
この世に生まれる前から、生まれた後も。
あの子の背景には、闇から立ち上がり絶えず追ってくるような波の音と、天農の優しい腕しかない気がする。
これは母の無い子に対する先入観ではないし、無駄に想像を膨らませたわけではない……と思うが、考えてしまうのだ。

「カッコつけるわけやないけど、俺が子供の時いろんな人から受け取ったものを、真樹ちゃんにもあげたい」
そっと横目で伺うと、キャメルをくゆらせる傍らの恋人は、黙って耳を傾けてくれていた。
ちょっとおしゃべりになっとるな、と思いつつ、もう少しだけ補足する。
「休みの日は遊園地だ動物園だとかって、あちこち連れてってもうたやん、子供の頃って。それが、高校の時の思い出より、ずっと鮮やかな原体験として残ってるんや。その鮮やかさっていうんは、あの時やないとありえへん」
「アリスの中にいい思い出があるから、真樹ちゃんという対象に向けて世代送りしたくなったわけか」
「あっさりゆうたらそういうこと」
フィルタギリギリまで紫煙を吸い込み、名残惜しそうに灰皿に押し付けながら、

「『覚えていてくれる人がいる限り 愛は滅びることはない』」

と火村が呟いた言葉に私は目を剥いた。
「なに? それは准教授の格言か」
「残念ながら違う、さる本からだ。今日のお前の気分にぴったりだと思って」
「……むちゃベタやなぁ」
「アリスがむちゃベタベタなんだよ」
そろそろ降りてくるぞ、と立ち上がった火村は、似合わぬ言葉の意味も言わずに赤い観覧車へと歩き出した。
その通りだなと思った私は、それ以上問う事無しに火村の横に並んだ。







説明せずとも、そのままの意味を汲み取ればいい。
誰かから受け取った愛が私の中で生き続けている、ということだ。
その愛が私を動かし、真樹に思い出を残す。
真樹がこの日を良き日と記憶してくれるのなら、愛は伝わっている。
そうして愛は、忘れられない限り、無限に繋がってゆく。





















あの日、ケータイで撮った写真はたったのワンカット。
あとはとにかく遊びこけていたことを思いだす。
『六甲アンリミテッドランド』のキャラクタを気に入った真樹に、「ひとつだけだぞ」と天農はしかつめらしい顔で大きなアンリちゃんのぬいぐるみを買ってあげていた。クリスマスバージョンで、ブルーとホワイトの盛装を着せつけられているのが綺麗だった。

「なんでかウッカリ買うてしもうたんよなぁ……」
2匹のクマを手のひらで弄ぶ。
両手がいっぱいになった真樹には渡しづらくなって、いもしない姪っ子へのお土産と言って持って帰った。
甘いベージュがアンリで、赤茶がテッド。
こんなオッサンの部屋にはふさわしくない愛くるしさいっぱいのぬいぐるみである。

いっそ片桐氏へのお土産にしよか。
男やもめの家から、男やもめの家に行くだけのことかと思うとそれもまたわろし、やなぁ。
あ、青洋社に女性の編集さんおったな。彼女にあげよう。
とりあえず再びAVボードの上に2体をのせ、ベランダにつながる掃出し窓のカーテンを開いた。
正午前の太陽は庇に隠れて見えない。けれどこの部屋の奥まで光は届いた。
一瞬プリズムとなってきらめく。
世界が揺らいで------目が眩んだせいだ------肺の奥から指先までがふわりと緩むような解放感に息をついた。
「あ」

天農画伯の年賀状にプリントされていた抽象画の意味が分かった。
たぶん『光』だ。
淡い青とホワイトを中心に、モンドリアンばりのルミナスティックな絵に仕上げている。
真樹の動きに合わせてパステルブルーのワンピースと、純白のショートジャケットがひらひらしていた様を思い出して「親ばか」と笑った。

火村の所にも同じ葉書が届いているに違いない。

真樹がこの日を良き日と記憶してくれるのなら、愛は伝わっている。
そうして愛は、忘れられない限り、無限に繋がってゆく。あの日そう私は思った。
葉書を手に取る。
これは愛が伝わっているという確かなメッセージ、と思いたい。




遊園地でずっとこの胸を捕らえていた感情と、火村の紡いだ言葉が再び甦り、より強く輪郭を持って私の中でさざめいた。
誰でも知っているし、分かっているし、三十路男が耽る感慨としては少々味付けが甘すぎる。
あの日、あの時、火村はどうしてそんな言葉で私の気持ちをなぞったのか。
思いだすとたまらなくなってきた。


いつか、私のことは忘れられても、愛だけは誰かのもとへと届けられるだろう。
愛と言わず、許しと言い換えてもいい。
それらは心を動かしてゆく。心は動いてゆく。
思いは滅びることはない、誰かが心ををなぞる限り。
願うべくは、その誰かは君であって欲しい。



新年早々かき乱されていると思いながら、受話器を手に取る。
年中行事を大切にする大家の手前、しっかり朝早く起き出しているに違いない恋人に、新年の挨拶をするために。








2008/1/1

     




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