■3.筑波嶺の峰より落つるみなの河こひぞつもりて淵となりぬる (013)
筑波山の頂から流れ落ちるみなの川の泥濘(こひぢ)のように、私の恋も積もり、淵のように深く淀む。そんな思いになってしまいました。
■小倉はちょっと切ない悲しいシリーズなので、この話もちょっと雰囲気ブルーです。
■火村←アリス,片思い,エロというほどのエロはなしのR15
■趣味に走った埒のあかない話です。
シンクロニシティ
時々、「研究とは恐ろしい仕事だな」と、身近な研究者を見るにつけ感じる。
彼は答えのない事象に名前を与え、犯罪のあとさきを再構築し続けている。
彼の研究は、それに止まらない。
臨床犯罪学者という呼び名は私がつけたものだが、その名の通り、現場に飛び込んで直接対象に触れている。
彼は逆風にあおられながらも事件現場に通うのをやめない。
いつか『あとさき』さえ飛び越えた世界ーーー殺した理由や目的などなく快楽殺人でさえない犯罪ーーーの扉を開くだろう。
そこで、闇さえない世界の色を見るだろう。
そんな場面に出くわすと、「研究とは恐ろしい仕事だな」と感じる。
ただ、息をするのと同じく彼はそうしなければ生きていけないと、私は理解していた。彼にはそれが必要なのだと。
「アリス、フィールドワークだ」と呼んでくれるなら何処へでも行く。
何もできないかもしれないが、せめて一緒にいられたらと思う。
ずっと彼の隣にいることを願わずに居れない。
この願いもまた、決して喜びや楽しさ、純粋な友情に彩られたものではない……彼に腹の底の欲望を悟られたら、きっと彼は離れていってしまう。
彼を思う時、17歳の夏に失われた恋の記憶がまとわりついた。
愛したいと願うほどに、大事なひとが遠ざかってゆくのだ。そんな図式にいまだ囚われている。
だから、私の愛はいつもかくれんぼをしていた。
*
『アリス、暇こいてるならフィールドワークに来ないか?』と火村から電話があったのは、前回から実に二ヶ月半ぶりのことだ。
私は火村と敢えて距離をとっていた。
仕事にかこつけて、しばらく彼とコンタクトを断っていたらゴールデンウィークがすぐそこに来ていた。
鼻で溜め息をついて、心を落ち着かせる。
「しばらく干されとったんか? えらい間が開いてるやん」
頑張って冗談めかして言うと、火村は『いや。間に3つほどあったけど、どれもお前を呼ぶ間もなく終わったんだ』と言った。
そうかスムーズに解決したのならそれは重畳。
私だけ、火村を意識しまくっていたようである。安心する一方で、不満に思う自分は贅沢だろうか。
『いま府警にいる。来るか?』
「30分で行く」
フィールドワークに入ってから2日後、火村の機転と発想で事件は収束を迎えた。
大阪府警のエントランスを出たタイミングで、アスファルトを洗うかのような大粒の雨が降り始めた。煤で汚れた綿のような雲が空にたれこめ、午後4時とは思えぬ暗さだ。
「おい、濡れてるんだからぼさっとしてると風邪引くぞ」
「あ、ああ」
青い鳥の助手席に乗り込んだ火村が、エンジンをかけたまま思考に没入してしまった私を小突く。
自分を叱咤して運転に集中することにした。
フロントグラスの外にはずっしりと持ち重りしそうな雲、視界を閉ざすほどの雨。
なんて暗い。光がほしい。
火村は助手席で、静かに目を閉じている。
走り慣れた道を南下する。
雨の日は決まって幹線道路は渋滞するもので、濡れた体を暖房で守りつつ、夕陽丘に息も絶え絶え辿り着いた。
なのに火村ときたら、ここまできて妙な意地を張る。
「うちに寄れや」
「いや、いい。おまえのほうが濡れてるじゃないか、おれはまだマシだぜ」
「あかん、来いって。風邪引くぞホンマに」
私たちは青い鳥の中で言い争っていた。
いい歳になって聞き分けの無い子のように、濡れた服のままベンツで帰ると言い張るからだ。
最初は心配から部屋に来いと言っていたが、だんだん意地になってきた。
言う事を聞かない火村に腹を立てた私は、「じゃあおれも一緒に乗せていけ」と、愛車の中から飛び出して客用スペースに停めてあるベンツまで走って行った。傘もささず助手席側に張り付いて。
雨の弱まる気配は遠い。私の服は水を吸い込み、肌にどんどん水滴が沁み入ってくる。
体を張った訴えを哀れと思ってくれたのか、不承不承火村は折れたが、私は体温を徒に失ってしまい勝利に満足するだけの余力が無くなってしまった。
除湿器の上で、ハンガーにかけられたジャケットが揺れている。持ち主はシャワーを浴びているところだ。
私はソファの上で綿毛布に包まって、ケトルの湯が沸くのを待っていた。
夕方のニュースにテレビのチャンネルをあわせる。まだ報道に乗るには早いはずだが、地元局は短いながら我々も関わった事件を取り上げていた。
もしかして、と夕刊を取りに下までいったが、流石に地元の事件面にはまだ記事は無かった。
玄関ドアを開けると、火村が強張った顔をして足早に駆け寄ってきた。まだ濡れ髪だ。
「あったまったか?」
「なに呑気な事聞いてんだ。火の元放ったらかして危ないだろ」
つん、と額を指で押されてコンロのことを思いだす。
ケトルをかけたまま、すっかり忘れて1階に降りていた。一事が万事、胸に手をあてて「気をつけるわ」と息をつくと、「コーヒー入れてるから」と火村に急き立てられる。
うちに置きっぱなしのヘインズのTシャツとスウェットを穿いただけの後ろ姿に、見ているだけでぞわっとする。今日は薄ら寒いというに。
「そんな薄着でええんか」
「またすぐ着るし。下はもう乾きそうだから、新聞読んだら出るつもりだ。シャツ貸してくれ」
「今日の准教授殿は随分お急ぎらしいな」
晩酌の相手をしてもらおうかと思っていたが、諦めた方が良さそうだとボヤくと、
「相手に困ってるはずないだろ」
火村の返しは、べとっとした笑いを含む響きだった。
おれよりいい相手がいるだろうと言わんばかりの口調に、きょとんと彼の端整な横顔を見つめた。そして、ははぁとあることに思い当たった。
私に恋人がいるとでも思っているらしい。
火村はなぜか私に恋人がいるかどうかをズバリと当てる。
いままで、スケジュールの混み具合や、誘いの電話を取った時の断りの言葉で見抜かれてきた。その彼が初のハズレを引いている。
「なんだよアリス、その嫌な笑い顔は」
「きみが気を遣ことる姿が珍しくって」
「ニヤニヤせずに、はっきり言えよ」
「そっちこそ」
「はぐらかすなよ? お前さ、春前に女といちゃついてただろ。あれ新しい相手じゃねぇの?」
「へ、どこで」
「京都駅。つんつんのショートヘア、薄茶のコートを着てた」
火村が言い連ねる女性像は、スティングのコンサートに同行した連れのそれと合致する。どこで見ていたのやら。ああ、京都駅っていったか。
「彼女はただの幼なじみ。親戚がくっ付けようと目論んでたらしいけど、そう簡単にいったら誰も苦労せんわな」
そう、恋が簡単なら、難儀な巡り合わせを嘆く事もない。
鈍感な相手への非難を込めて、決めつけを否定する。
「じゃなんで二ヶ月半も音信不通なんだ」
「……なんとなく?仕事も立て込んでたし」
「そりゃご苦労さん。……でも、おれは明日も学校だから、どのみちお相手するのは無理なんだ」
奥歯で硬いハッカ飴を噛み締めているような顔で新聞を畳み、バサバサ音を立てて服を脱ぎ始めた。
今度こそ珍しいものを見た気がして目が丸くなる。
私と火村の仲にしては間が開きすぎたかもしれないと思うが、「連絡がない」と不貞腐れる火村など見るのは稀だ。
その理由が、「恋人に気を遣っていた(らしい)」っていうのも、火村らしくない。
なぜかはわからないが、なんだかとっても火村らしくない。
もっとこう、遠慮ないというか自分本位というか顔色伺うタイプじゃないだろう、きみは。
今みたいに、「シャツ借りるぞ」と顔も見ずに勝手にクローゼットめがけ寝室に入っていくタイプだろう、きみは。
私は体格に合うシャツを出してやろうと、その背中を追っかけようとした。
そこで不意にブブブブという振動音が聞こえたので、「おっと」とその場に踏みとどまった。
机に置かれた火村のケータイが、白と青の光を発して着信を告げている。
世話女房みたいでイヤだが、手が塞がっているかもしれない彼がすぐ会話できるよう、あらかじめ開いて持っていってやろうとフラップを開いたら、いきなり受話器から声が聞こえてきた。
思わず私はリビングの端っこにダッシュした。
『教務課の塚田です。イマクボ教授が、お休みのところすみませんが明日電話くださいとおっしゃってました』
「え、あと、すみません……いまちょっと本人の手が離せなくて」
『代理の方? では恐れ入りますが先ほどの用件をお伝え願えますでしょうか?』
「ええ。イマクボ教授ですね?」
『そうです。良いゴールデンウイークをお過ごしください』
ずいぶん一方的な人らしく、そのまま通話は切られた。私は混乱したまま、ケータイをもとの場所に置く。
お休み? ゴールデンウィーク?
さっきの話と、火村に言われたスケジュールの違いに驚いて、しばらく呆然となった。
奥の部屋にいる火村に声をかけた。
「火村、きみは明日学校なんよな?」
「あぁ? そうだ」
躊躇いのないひと言だが、今は何を聞いても疑わしく。
ずきん、と胸が痛みを感じた。
隠し事はあっても、あまり嘘のない間柄だったように思う。表面的な方便はあっても、ありもしない事を言ったりしなかった。(冗談で騙し騙された事は山ほどあるけど。)
冷たい光を放つケータイを見つめた。
「おれに電話か?」
不意に耳に届いたバリトンにびくんと体を揺らす。振り向くと、ネクタイから爪先まで身支度を整えた火村が寝室から出てきたところだった。
除湿器が働き過ぎているのだろうか。喉が乾燥して、粘膜に絡まった言葉は掠れ気味だ。
「あ、ああ。代わりに用件聞いといたで。イマクボ教授とやらが電話くれやって」
「チッ、何の用だってんだ」
ぶつぶつ言いながらもすぐにケータイで相手方に掛けている姿から目を逸らした。
どこかで、なにか事情があるからだろうと信じている。
なんでもないことだ。笑って玄関まで見送る。
「今日はお疲れ。ほな……また」
何かひと言付け足したかったが、何を言っても皮肉になりそうだったので黙った。
白いジャケットを小脇に抱えた火村は、一瞬だけ私を目の端で見遣ると扉の向こうに消えた。
(学校行くなんてしょうもない誤摩化し言って)
(明日は、なんか秘密の用事があるんやろか)
「おまえのほうこそ女が居るんやないんか」
ぼこん、とゴミ箱に八つ当たりしてみる。
変な蹴り方をしたせいか、小指が当たってすごく痛かった。しゃがみ込んでさする。
あいつが好きだ。
小さく「好きなんやなぁ」と言葉にしてみる。
あほくさ、と自嘲する。
けれど火村の姿を思い浮かべると、無視してきた体の欲求が立ち現れた。
脱衣所に脱ぎ捨てられているワイシャツに手を伸ばす自分は、ちょっとおかしいかもしれないと思いながら引っ張り出すのを止められなかった。
雨の匂いがまじった火村のそれは、イメージしていたより不潔でも清潔でもなく、火村そのまんまといった感じで妄想しやすい。
ソファにシーツ代わりに広げて身を横たえる。
十代の子のような情熱と、三十代らしく濃度の増した妄想で、自慰にふけった。
「あ……ひむら……っ」
マンガみたいに、火村が今ここへ戻ってきたらすごいやばいと思うと、余計に心臓が高鳴る。
調子に乗ってじゃれつく子犬のような声で鳴いたりしてみた。
ぬるい白濁をワイシャツに叩き付けたところで、満たされはしない。
満ちる事の無い海に注がれる雨のような思いは、計ろうとすれば自らが乾いてゆくものだと、いま身をもって感じた。
渦中にあれば、流れを止める事などできず、行く先には深さの知れない淵があるだけだった。
それでも、溺れながら乾いた私は、そこに身を浸す事を望んでしまった。
こんな涯の淀みで潤うものか。
そう嘆きながら、私はまだ同じ水に囚われ続けている。
end
ずいぶんテイストが違いますがこの話の延長線上 平行世界上に『ひとでなしの誓い』(置き場/WEB拍手)が、あったり、します。そこに到る過程はまた別の話で……
2008/8/15
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