with or without また明日逢える。 約束なんてなくて、でも、いつ逢ってもいいという了解はあった。 仕上がった投稿作品、補完が必要な講義ノート、貰い物のfour roses。 アリスはさり気なく何かを手にやってきては、火村の何かを手にしてゆく。 それはフェアな感想だったり、完璧な内容の講義ノートだったり、一夜の宿だったりする。 目には見えない貸借台帳への書き込みは数えきれないほどあって、火村は増えていくその意味を知っていた。 取り交わした持ち物は、物以上の繋がりを手繰り寄せ、 自助と共存が心地いいバランスを保ち続けていく。 相手が唯一の存在になっていく予感。 もう自分から捨てることなどできない。 昨日、院への合格を確約された火村は、上がる前までの時間をどう使うか少し悩み、とりあえずバイトを増やしてみることにした。 とりもなおさず金はいる。 専門書を買うにしろ、中央の学会に行くにしろ、生活するためにも金はいるのだ。 4月前に終わる短期のバイトがないか、目を皿にして就職課前の掲示板を見つめていたら、 「ひーむらーぁ」 母音の「あ」はなるべく伸ばさないでほしい我が名を呼ぶ、「あ」のつく男がせかせかとやってきた。 去年の初夏、会社員仕様に切りそろえていたアリスの髪は随分伸びている。 無造作だが柔らかいラインでふんわり頭蓋を包み、梳いてみたいくらいツヤツヤだ。 有栖川有栖は間違いなく成人男子なのだが、その姿かたちを言葉に表するとき、火村的にはありえない単語を選択させる。 バリエーションとして、きゅっ、とか、すべすべ、とか。 「お前のヘソ色気ありすぎ」と本人に面と向かって告げるアリスよりマシなのか、それともより重篤なのか、その判断は先送りにしていた。 「久しぶりに会うたと思うたら就職課前って、なんや切ないな」 「どうした。内定取り消されて職探しか」 「おかげさまで無事に内定者研修に呼ばれましたー。来月の15日から一週間、高野山に缶詰や」 「寒い時期に人事担当も大変だ」 「噂では作務衣着て、早朝から拭き掃除するのが伝統らしいんや」 「おまけに三食精進料理か。同情はしない。経費は会社持ちだしっかりやってこい」 「こらこらデタラメ話に現実持ちこむなや。あーアホゆうたら寒なった、飯食お。四条まで行かん?」 「金がないからこの掲示板前にいるんだが?」 この近辺、財布に優しい場所は限られる。 惰性で選んだ学食は、時期が時期のせいか賑々しい。卒論や試験を抱える学生の出入りが多いのだ。 カウンター前の長い列から解放されて、八割がた埋まったフロアーのなか空いた席を見つけた。 自分のトレーの向かいにアリスのトレーがある。 ここ3年のうちに、すっかり見なれた光景だ。 食べ納めやねん、と神妙な顔でオムライスにスプーンを突き立てているアリス。 そこまで思い入れのあるオムライスなのかと聞いたら、いやなんとなく、と小首を傾げられた。 俺は冷めるまで放置しているうどんを前に、はっきり、もうアリスは此処にくるつもりがないのだなと理解した。 この食堂は学生が食事を取るための手近な場所であって、なにも特別なところはない。 4月が来たら、自分の向かいは見通しが良くなるだけだ。 そう思わないと、苛立ちに似た痛みに支配されそうになる。アリスがいつも通り笑うから、ますます意識して困った。 アリスは今日で最後のゼミだったという。卒ゼミ発表を終えた顔は晴れやかだ。 来月のバレンタインデー前後をピークに、春期休暇に向けてゼミや講座はそれぞれに終了してゆく。 火村は先週早々に学士論文の発表を終えた。 教授が海外に飛ぶとかで、二週間も繰り上がったのだ。正月ボケしていた面々には不幸だった。 「火村はまだ、勉強つづけるんやろ?」 福神漬けを転がしながらアリスが問う。食うか食わないかはっきりしてくれ。俺はようやく食べごろのうどんに手を付ける。 「ああ、昨日合格通知がきた」 「そういうことは先言えやー。そのうどんおごったったのに」 「驚かないんだな」 「だって、火村が受からんかったらほかの誰が受かるっちゅーんや?」 君は受かって当然、と言って憚らない男の寄せる無邪気な期待が眩しくて、うどんよりましなもの寄越せと言った。 そしたらデザートのプリンをしぶしぶ出してきたので、慎んで受け取る。有名菓子メーカーの大量製産プリンだ。 「おめでとう」 「ありがとう」 とりあえずここは学食なので緑茶で乾杯をした。 添加物満載のデザートは、ひどく優しい甘さだ。 アリスだけではなく、あらゆる関係者から合格確実と目されていた火村は、通知前から院の人間に呼ばれていた。これもどうかと思う話だが。 時間が合えば研究棟に出向いて、院生の仕事をさらっと教えてもらったり、翻訳の助手のそのまた助手をさせてもらっていた。 それに対しはっきりと妬み嫉みをぶつける院生もいたが、三か国語を操って海外からのファクシミリを解読するこの学部生は屁とも感じていない。 合格したら、実力でねじ伏せる自信があったから。 誰に何と言われようとかまわない。 誰かをねじ伏せるためにつけた実力ではないから。 自分はただ見てみたいだけだ。幾多もの犯罪が覆い繁る薮の中を進んでみたい。 そして研究と私生活がジワジワと融和しはじめる。 火村は自分が何者で、どのようなものに親和するかよく知っていた。その危うさも。 心の平穏からはほど遠いが、犯罪の世界に立ち入らなければ明日の自分はないと思い続けてきた。 ここしかないと、茨をかき分け続けているのに。 なぜ踏み分ける踵が痛む? さっきからチクチク自分を苛んでいるものは、得難い何かが遠ざかるのを嫌がっている感情だ。自分独りで行きたいくせに、たった一人と生きたいなんて冗談ではない。 口に出せない願いなど、まったく、持つものではない。 アリスは仕事をしながら書き続けるという。 そう呟いた横顔にたまらなくなった。 それは、ただ一緒にいて楽しいという、罪のない理由だけで繋がっていたアリスが、まだ自分の隣に立ってくれている証のようで。 背を向けた世界の入り口でアリスが自分を呼び続けていた無邪気な季節はまだ続くのだろうか。 らしくない感傷だ。まったく自分らしくない。 こんな気持ちになるのは何故か、答えだけ出せてもどうしようもない。 さっきから自分の欲求を堪えてばかりだ。 明日の約束など考えたこともない癖に、卒業がもたらす距離を恐れている。 いっそ誘って、絆してみようか。 そう考え続けて数カ月たつが一向にチャンスはこない。 こなくてもいい。 そんな心境は、忍耐か臆病か。手を触れるのも恐いくらい大事なのか。 「火村、ひとくちくれ」 「これは俺への祝いじゃないのか」 あ、の形を作って待つ唇に、なかばやけくそで柔らかい甘味を滑り込ませる。ヤケなのは無論プリンを惜しんでのことではない。 カツンと、指にかるい振動が伝わる。 プラスチックのスプーンが、アリスの歯にあたる感触。無意識なのか舌が嘗めとるとき、クンとスプーンを引いた。 頭の中の何かがほどけそうで、逃げるように指を離す。 「うまー。一口だけってのがええんかな」 「……それはあるかもな。満足するまで食べるより旨いと感じる。デパートの試食もそんな罠が張ってある」 俺はアリスの手で返されたスプーンを、どうでもいい話を並べ立て、何でもない顔で使ってみせた。並んだトレイ、馴染んだ方言、なくしたくない関係。なにもかもにアリスが映る。 ぶり返す痛みに耐えるのに、代替物だらけのプリンはちょうどいい。 「こんなケチくさいもんで済ます人間ちゃうわ。卒業したらサラリーマン様がおごったるから、もうひとくち」 子供みたいに口を開くな、人の気も知らないで。 それでも。 誰が見てようとかまわないアリスのマイペースに付き合わされている火村英生の役、はこの3年間悪くはなかった。 もう自分からこの関係を捨てることなどできやしない。 アリスはどう思ってるか知らないが。 永遠を疑う俺が、なにかひとつだけ永遠なるものを認めるとしたら、もう決めてある。 「期待してるぜサラリーマン兼未来の作家先生」 「プレッシャーかけんな未来のプロフェッサー。とりあえず、まだ小説は書いとるん……我ながら見上げた根性やと思う」 「ああ。コケの一念だ」 「なんか引っかかるな。まぁええ、来週暇な日あるか? 君んち持って行くから見て欲しいんや」 極上の笑顔で、アリスは俺に矢を放った。 「やっぱり君が最初で一番の読者やから」 お互いが唯一の存在になっていく予感は悪くない。 時間は俺たちに無関心なまま、あるべきところに体を運ぶだけだ。 予感は現実に投げかける、ある可能性のヴィジョン。 予感よ二十歳の時間に宿ったまま、虚実の波打ち際で遊べばいい。 彼がいても いなくても その海岸線はゆるぎもしない。 |
うちのアリスは火村ベタ褒めですが、ベタ惚れの火村の方が負け。 menu |