■ヒムアリです。ハピエンなのですが……なんといいますか、不思議系は苦手な方は御注意ください。
■少し痛いかもしれません。黒くはないはずです。





ぜんぶ嘘にして
















火村は学生時代からの友達で、阿といえば吽と頷き、ツーと言えばスリーと返ってくる仲だ。
些細なところで違う。
それでも、お互いの近いようでかけ離れている価値観やら性格やらを汲み取ってきた。
それこそ病めるときも健やかなるときも。
火村にも私にも譲れないものがあるのだと認めあってきた。


特に恋愛がからむと、火村の行動は一癖も二癖もあって巻き添えを食った私は散々だった。
火村のそれは私のと随分異なっていて、派手且つ回転が速く、そしてつきまとわれ体質だった。


火村は無視と無関心を決め込んでいたが、痺れを切らした相手方が「こっち向きなさいよ」と勇猛果敢に挑んでくる時もある。(火村に挑むのは自信家の美人ばかりだった)
そういう時は躊躇うことなく鼻を叩き折るのが流儀らしく、大勢の前で恥をかかせるようなことも言った。(火村は傲慢女のプライドを傷つけるのが得意だった)
ベーリング海に、わざわざ南極の氷を抱かせて蹴り落とすような容赦のなさ……私にはそんな情景が見えたものだ。


いくら意に添わなくても、そこまでしなくてもいいだろうと、正面から非難したこともある。
逆に、私の愚直やお節介を真っ向から責められたこともある。
おかしな話だが、恋愛ごとで揉める時は、当の女性を置き去りに私としょっちゅう喧嘩になった。


あんなに怒鳴って自分の価値観をぶちまけた相手は、思えば火村ぐらいだ。
火村も、らしくない様子で溜め息をついていた。
つまり、私たちは互いの事について無関心でいられなかっただけなのだ。
親友としての絆が深まるのをくすぐったく思いながら、別れる時はまたなと手を振った。


そんなわけで。
切磋琢磨というのは大仰で嫌だが、そんなふうに私たちはずっと一緒に磨きあっていた。
私と火村は同じ硬度の石同士みたいだった。
出会った頃から今まで、私たちの間にはルビーとサファイアほどの違いしかなかったらしい。例えが上等すぎるな。河原の石と路傍の石ほどの区別しかなかった。
そうと自覚し、ここまで付き合ったのなら、苔むすまで続くのだろうとなんとなく自分の中で決めてしまっていた。
だから、火村が結婚するかもしれないなんて言い出した時も、先を越されたとは思ったが付き合いが途切れるとは思わなかった。







紅葉で山が燃えたように色づいたころ、そのひとを紹介された。


京都の某デパートに入っているアフタヌーンティールームに私たちは入った。
火村の彼女さんと向かい合ってお辞儀をする。この構図が妙にくすぐったくて笑いがこみ上げた。
こんな風に友人の交際相手と顔合わせするだなんて、私たちはもう子供ではないのだなと思ったのだ。


斜め前の席に腰掛けたそのひとは、どちらかというと平坦な顔立ちだ。だが目眉はシャープで印象的。背が高く、知的で、颯爽とした振る舞いがかっこいい。一課の刑事だと言われても納得しただろう。火村が連れていたどの女性にも似ていない。
重ねて意外、というと失礼だが彼女は小学校で教員をしているそうだ。私が子供だったら畏れるか、憧れるかのどちらかだろうな。

「初めまして、お会いできて嬉しいです。火村と付き合い始める前から、有栖川先生のファンで。昨日はなかなか寝付けませんでした。彼からしょっちゅう話を聞いてたので余計に楽しみだったんですよ」

声も渋いアルトだ。
落ち着いた喋り口と、少女のようなミーハーぶりのギャップにドギマギする。考えてみれば、火村の連れている女性で、ひとりたりとも私のファンだと名乗る人はいなかった。


「こちらこそ、ご丁寧にありがとうございます。火村、おれの大事な読者さんに妙なこと言うてへんやろうな」
「まだアレはしゃべってないから、安心しろ」
「火村、おれの名誉を守るんは、自分の為やと思うとけよ。で、ここにふたりで来たということは、ひょっとして先の予定とか立ってるん?」
「ん、まあな。入籍を来月、こいつの誕生日に。式はわからん」

なんでもない事のように言ったが、結婚は「するかも」ではなく確定事項だった。
「うわ、もうすぐやん」と心底驚き、彼女さんを向くと恥ずかしげに肯首した。恥ずかしがらんでもと思ったが、火村がすかさず「デキ婚じゃねぇからな」と言ったので彼女の態度の意味が飲み込めた。
私はそんなに野次馬的な好奇の目をしていたか? 自粛。気を取り直して。

「誕生日っていつですか? 入籍のお祝い贈らせて欲しいんですけど」
「12月5日です。けど、そんな、お気持ちだけでじゅうぶん嬉しいです」
「いえいえ、私のためにと思うてください。大学以来の友人が何もせえへんなんて、篠宮の婆ちゃんが聞いたら寂しがります。さ、さ。なにがええですか?」
「さっきからこいつばっかり向いて、俺には聞かねぇのかよ」
「旦那に聞くなんてダサイで、こういうんは嫁はん優先や。所帯持つなら覚えとき」
「小姑……」

独身者のくせに知ったかぶった私は、火村のヤツが拗ねても知ったことあるかと無視し、傘立て、というささやかすぎる希望の品をスケージュール帳に書き付けた。
ペンをもつ手が少しだけ震えて、汗もかいてきたが、前のふたりは見もせずに話をしていたので助かった。
私は最高の友達を演じきって、意気揚々とした気持ちを持続させたまま青い鳥に乗って帰路についた。




火村が結婚する。
火村が家庭をもつ。


『世界が終わっても結婚だけはありえない』と言っていたくせに。
ひょっとしたら私が眠っている間に世界が終わって再生したのだろうか。
それとも逆さまになったのだろうか。
もしそうなら、私は売れっ子推理小説家になってしまうな。ポリシーに反するがやむおえないし、売れるのは吝かでない。


そんな箸にも棒にもかからない妄想を運転中に広げていたので二度も路上でエンストした。




胸に、がらんとした部屋がひとつできたようだった。
そこにはもう、誰も帰ってこない。
もうあの日みたいに飲んで騒いでも一緒に帰らない。雨の日にかけたグールドの曲も思い出になる。夕陽をひとりで眺める日が増える。
漠然と、「これが友人に先を越される寂しさかな」と思い、不思議な感情の輪郭をなぞった。



思えば、すべて前触れだった。
ただし、私のもとに舞い降りたのは奇跡ではなく災厄であった。













「有栖川さん、中に入ってください」

私を診察室へと呼び込んだ看護士の声は普通だった。
彼女はいかなる病の患者が来ても、驚かないための訓練をしているのだろうか。
特に顔色を変えもせず結論から言う医者と、聞く私を傍観していた。


やるべきことはやりました。MRIもCTも、検査結果に異常はありませんと、きっぱり医者は言った。
私はここに至ってのんびりと、「直りますか?」などと意味のない事を聞いてしまった。


「わかりません」
これに続き、明日直るかもしれないし、数年かかるかもしれないとお決まりの文句が右耳から左耳に抜ける。
そりゃそうでしょうねと、私は手に持った下敷きをぼんやり眺めて頷いた。


この下敷きは、眼科によくある視力検査用のものだ。
レンズの見え具合をテストするためのものなので、教科書の抜粋みたいな文章や、意味のない単語を大から小まで段階的に並べたものが載っている。
私には、それがすべて鏡文字に見える。


なんど見ても、どんな文字を見ても水平に反転していた。
名前がない病気。
いまいち、病だという実感がわかなかった。


大阪でいちばん規模が大きく権威のある病院にかけこんだ私は、いわれるがままに科を転々とし最後は脳外に来たが、ここでも全員お手上げの奇病である。
医者の中にはあからさまに疑いの視線を向けてくるものもいた。
騙り、と思われたのだ。心身ともに気分が悪くなった私は、支払いを済ませると足早に白い塔を出た。


どうしょうもない虚脱感でシートに沈んだ私は、慣れと惰性で青い鳥を走らせる。
道路標識の文字はやはり反転している。世界がおかしいのではない。私が、そうなのだ。




時間を遡る。
昨夜は遅くまでパソコンに向かって仕事をしていた。
仮眠のつもりが本格的に寝入ってしまい、目が覚めたのは午前9時。
ベッドから降りて、水を飲んでパンを焼こうとトースターを開け、焼けるまでニュースを見ようとリモコンを手に取った時気付いた。
びっしりと見知らぬ形の文字が張り付いているのを見て、思わず手の中のそれを取り落とした。


世界がおかしくなった。慌てて飛びついて見たカレンダーも、本棚の本も、全部まるで鏡の中のもののようになっていた。
文字通り頭を抱えた私は外に飛び出して四半時ほど歩き、ようやく自分の目の異常を認めたのだ。だが病院はアテにならなかったわけで。


望みは絶たれ、私は文字通り窮地に立たされていた。


年末進行のため、今日明日中に原稿を珀友社に送らねばならないというのに、目がこれでは書くこともままならないではないか……。取り敢えず目の前の仕事が悩ましい。
車は、バックでマンションの駐車スペースに入れられたけど、これがなんだというのだ。


足を引きずるようにして辿り着いたリビング。半ば絶望しながら片桐さんに電話をかけた。ちょっと締め切りを伸ばしてほしかっただけなのだが、結果として彼を軽い恐慌状態に陥れてしまった。

『有栖川さん、私に気を遣ってる場合じゃないですよ。本当に頭は痛くないですか!? 偏頭痛は!? 手とか痺れませんか。あぁっ、なんなら今日最終でそっち行きますんで』
「あっ、待ってっ、それはええですから。ホンマええですっ、体の方は何も異常ないんです。さっき病院行ってMRIとってきたんですが、頭ん中は綺麗やって。せやから腫瘍の類いやないみたいですけど」
『はぁ〜〜そうですかぁぁ。じゃ……今回は、有栖川さんは……』
「落とすかもしれへんですが、いえ、本心としては上げたい思ってますんで鋭意努力してみます」
『……ァア……気にせず休んでくださいと言えない珀友社で申し訳ないです! こうなったら不肖片桐が働かせてもらいますからね。締め切りですが、金曜の夕方で構いません。僕が責任もってやります』
「ありがたい。すみません、恩に着ます」
『いえ、こんなことしかできなくて歯がゆいですよ……もう。有栖川さん、なにかあったら何時でも構いませんので電話ください。ぜったいですからね』

ぐず、っと洟をすする音が電話の向こうで微かにした。
医者を前に呑気だった私も、思わずもらい泣きしそうになった。愛すべき担当者との会話で、ようやく事の重大性を認識させられたのだ。


電話を切った後、内にみなぎってくるものがあった。文字が反転したくらいで、組み上がったトリックが崩壊するものか。チーンと鼻をかむ。
来るならきやがれ、と、姿のないモンスターに吠えデスクトップを立ち上げた。






片桐さんは言葉どおり甲斐甲斐しく、私に良くしてくれた。
データを送った翌々日には寝る間を惜しんで作業をし、著者校正を送ってくれた。私でもちゃんと読めるそれに「目が直った!」とぬか喜びしてしまったが、蓋を開ければコピー機の無いわがSOHOを慮ってか、反転コピー済みのものを送ってくれただけのことだった。
がっかりしたが、担当者の心遣いはそれを補ってあまりある。ありがたいではないか。
返送した後、ふと素朴な疑問が浮上した。
電話での最終打ち合わせの時に聞いてみたら、やはり私の文字は反転していたそうな。






年末進行のフリーフォールから放り出され、ベッドに倒れ伏し。
気付けば火村と彼女さんの入籍日はとおに過ぎていた。
あれほど贈り物をさせてほしいと言いながら、プレゼントを探してもいない。これは有栖川有栖の沽券に関わる。


無精髭を剃ってさっぱりとした私は、七日ぶりに家を飛び出した。色々回ってみたが、最初に入った梅田大丸で見つけた傘立てが一番よかったのでそれに決めた。
お持ち帰りですかお送りしますかと問われ、配送で、と答えてからシマッタとこめかみを押さえた。まともな字が書けないのに。カウンタに出されたボールペンと配送伝票が私を威嚇する。


すみませんやっぱり持ち帰りますと言うと、不審な行動を特に気にもとめず、店員は重い包みにぐるぐる荷紐を巻き持ち手をつけてくれた。しかし重い。
よろよろと駐車場に直行し、なんだか疲れたので本屋にも寄らずそのまま家に帰った。

「あ、インターネット通販にすれば良かった」

そんなナイスなことを思いついたのは、夜も更けてからだった。










そうして。
鏡文字の国の有栖川有栖になってからはや10日が過ぎようとしていた。
字は、意識を集中すれば読める。
逆さで見る癖をつけようとしたが、結局鏡越しに本や手紙を読んだりした。
看板はある程度読めるのだが、やはり文章になるときつかった。なにより、従来のペースで書けないのが一番もどかしく苛立たしい。
文字媒体に反転フィルタがかけられた状態なのだ。私のような活字依存にこれ以上の苦痛はあるだろうか。
このままスランプに陥らないように、なるだけ楽しみつつ模索する事にした。





















こうしてヒヤヒヤしながら、いつもと違うコンディションでの助手役も果たしていった。
比較的短い日数で終わるフィールドワークなら隠し仰せるのだ。
だから私は身に降り掛かった奇病を、火村に告白せずにいようと決心した。
直る見込みもない病は、私の生活を大きく変えている。いずれ話さねばならないことには違いない。


その時がくるまで黙っておれば、火村に余計な心配をかける期間が短くて済む。こんな状態でひとりでいる私を、彼は放っておけないだろう。口は悪いが、行動で優しさを示してくれる男なのだ。
だからこそ、私は秘密にしようと思った。
こんな理由があると、際限なく友人に甘えてしまいそうだからだ。
彼はもう独身の頃のように自由に家を空けていい立場じゃない。





そうして冬が終わり、春が来て、大きな事件への出動要請がかかった。
あえて変化をもとめなかった私は、火村にくっついて大阪府警にお邪魔する。
結婚生活が火村にいい影響をもたらしているようだ。前より顔色も優れ、精神的にも安定しているのか人当たりもいい。府警の方との連携もスムーズだ。


助手を名乗ってついて回る私の出る幕はなく、存在意義も実際薄れているんじゃなかろうか。
それが客観的事実じゃないだろうか、と思うのだ。
けど、いつもより多く回っていますと謳っていた師匠も、あの役割分担で黄金コンビだったのだから気にすることはないかもしれない……首を回して、暗い思考を払い落とす。

「おい、アリス」
「あ、ああ」
「どっか行ってねえか?」

間近から覗き込む彼の顔に、府警にいることを思いだす。危ない。飛んでいた。

「大丈夫や」

無駄な想念を断ち切って、会議室の最後列に座り捜査会議に耳を傾けた。
前のホワイトボードには、びっしりと情報が書き込まれている。意識が飛ぶ筈だ、さすがに今の私には辛い。あの密度の文字は。
それでも口頭の報告や捜査員のやり取りを必至で聞いて情報を組み立てた。


今回の標的は厄介だった。
連続通り魔殺人犯は『臨床犯罪学者』の存在を意識しており、挑発するようなこともしている。
火村はそんなことに弄されるやつじゃないが、手をこまねいている現状だ。顔は冷静だが頭にきているに違いない。いつも以上に現場はデリケートだった。


なのにフィールドワークが始まると、私はいつも以上にとんちんかんなことをしでかした。意地の悪い悪魔に邪魔されているかのようだった。
情報の錯誤。
仮説にあいた大きな穴。
すべては鏡文字を解読できないせいだった。そうじゃない。文字を鏡文字として認識してしまうこの目のせいか。私が滑りまくって、いいわけはなかった。





「いいかげんにしろよ、こんな単純な読み間違い……ったく、勘弁してくれ」

3日目、早々に火村にキレられ手に持ったハンカチが飛んできた。どこかの鬼監督みたいな投げ方で。


府警のベンダーコーナーだった。
読み間違えたのは犯人からの挑戦状だ。
私としては、目が正常な頃よりも注意深くやっているつもりだから、ハンカチを投げつけられるほど酷いことをした覚えはない。なかば呆気にとられながら、大人げない友人の行動をたしなめた。

「感情的になるなよ。俺はとっさに、この文脈やったら”ち”と思うたんや。”5”やったんやな。悪かったわ」

私の胸に当たりリノリウムの床にぽとりと落ちたハンカチを拾う。このままベンダーの脇にあるゴミ箱に突っ込んでやろうかと思ったが、どこかの課の婦警の目が私たちを伺っているのでやめた。突っ返すと、火村は流石にきまり悪いのか素直に受け取った。
今回は、どうしてか気持ちが添わない。


ずっと役に立たないなりに存在意義を自認できてきたが、今は側にいることを許されているのだろうかと不安になる。
火村ではなく、現場は、私を受け入れてくれているのか。
文字だけでなく、世界がくらりと反転してゆく。





これより3日を費やしたのち。
夕方過ぎの春雷とともに、事件は幕を閉じた。


府警から出たベンツは妻の待つ家に。青い鳥は独りのねぐらへ。
帰り道は水しぶきで前が見えにくかった。


早く帰りたい。帰るということは、火村とより距離ができるということだ。
無事に帰り着いたか電話をすべきかと思ったが、彼には気にかけてくれる存在がいることに気がつき、思いつきを頭から追い払った。電話など必要ない。
雷雲は針のように細く激しい雨を降らせた。


怒りでも焦りでも悲しみでも嫉妬でもない、言いようのない感情に囚われステアリングが重い。
重くて滑るのは、手のひらの雨粒のせいだけなのか。
フロントグラスが溺れそうなほど水を受けとめている。
帰るというより、彼から離岸してゆくようだ。
火村は明かりのついた家に。私は淀んだコンクリートの島に。
せめてこの感情に名前がつけば、ひとりでも平気なのだが。







実は存外傷ついていたらしい。
そのことに気付いたのは事件解決の翌朝だった。
寝ても取れない類いの疲労感に、ぼんやりとベッドの上で座り込んだ。トーストしようにも食パンの買い置きがない。とりあえずキッチンに移動し、水を一杯飲んだ。
シンクにグラスをおいて、背中に乗っかってるのはただの疲労感でないと思った。
火村の苛ついた声が耳の中でリプレイされる。

『いいかげんにしろよ』

ハンカチ一枚分の軽さだったが、胸には矢を射られたような痛みを感じた。

「がんばったのにな。まいにち字を読んだけどな。付け焼き刃で訓練をしてもあかんかったみたいや」

子供みたいな愚痴がこぼれた。
思いだしたらじわーっと目頭が熱くなってきた。
ぷつんと何かが解けたように、涙がつぎつぎ流れ頬を濡らす。
とっさに、手近なタオルで顔を拭った。柔軟剤を使ってないのでざらざらとした肌触りだ。このタオルで喉の奥を拭けたら、絡み付く熱も消せるだろうか。


読めないことを火村には知らせない。
私がそれを望んだ。
けれど今はこんなに苦しい。もどかしい。ひとりだ、と痛感した。


白けるほどに明るいキッチンで君を思う。
心の中で何度も名を呼んでしまう。

「最低最悪……」

阿呆や。
あいつ結婚しとるし友達としか思えへんし大体男や。
なのに、こんなに胸が痛いなんて、まるで恋してるみたいやないか。
恋なんかしてへん、好きなんかやない、そんなんやない……









と、私が取り乱しているのを見計らっていたかのように電話が鳴った。







火村? いや、暫く連絡はない筈だからその懸念は捨てていい。
だが相手が誰であろうが、いまこの縮こまった声帯で応答できる筈がない。じっと鳴り止むのを待ったが、いつまでたっても音は響き、留守電にも切り替わらない。
ぎくり、と嫌な予感がよぎった。誰か不幸ごとか?
唇の震えも忘れ、私は電話に近寄った。
耳元で、いる筈のない人物の声がした。

「アリス、電話……なぁ、アリス」
「ひ…むら…?」
「ほら、よ」

力なく横たわる右手を無理矢理引きずり出され、機械を握らされる。サリバン先生に道具を教わっているヘレンケラーのようだ。
腫れぼったい瞼をこじ開けて状況を伺う。重い。グギギ、と音がしそうだ。
何で火村が? というかシーツに頬がくっ付いている。
私は夢と現実の狭間で混乱しながらも、手の中の機械に向かって「もしもし」と言った。
努力虚しく、返事がない。

「どして……あ、火村、阿呆が。これアラームやんか」

電源ボタンを押すと携帯電話は大人しくなった。時刻を確認。現在午前7時だと。
私にしてみれば真夜中だ。

「俺が阿呆なんじゃねぇよ。アラームセットしてんのに、忘れて寝こけてる先生の巻き添えを食ったんだ。朝飯おまえがつくれ。俺は二度寝するから」

おやすみと隣の男はひとつしかない布団をかぶり直した。おかげで私はちょこっとはみだしてしまう。かけっぱなしの除湿のせいで肌寒い。
私は火村の横暴に感謝した。おかげでさっきまで見ていた夢の続きを見なくて済みそうだからだ。

「朝飯もっと後でええやろ」

そう言って、二度寝を決め込んだ男の脇にもぐり込む。
今年の春に買った薄い羽布団はクイーンサイズだ。火村と布団の強奪戦を避けるために奮発した。
シーツの間に籠る匂いは、彼の微かな体臭とウチのボディソープの残り香。Tシャツ越しに感じる体温に、深い安堵を噛み締める。まだ悲しみの余韻が頭の中に居座っていて、唇が震え出しそうだ。
頬は乾いている。幸い、寝ながら泣いたりしてないようだった。


ゆめ、だ。 さっきまでのことはぜんぶ、ゆめだ。 深いため息がもれた。

「おい……なんのためのアラームだよ」
「さぁ。なんか、間違えたんかも」
「予定、確認しとけよ」

珍しく寝ぼけている彼は、とろけそうな声色で私が甘えるのを受けとめている。
火村、火村。
ぎゅうと抱きしめても抱き返してくれないつれなさだが、私のベッドで眠ってくれているだけで十分幸せだった。



なんて夢を見たんだろう。
もし夢につづきがあるなら、そのなかで私はきっと暗澹と生きてゆくのだろう。
フィールドワークの助手役が難しくなっていた。
誤摩化しのきかなくなった目のことを話せなくて、消えるように彼の隣から離れる。かもしれない。十分起こりうるな。
目覚めてもリアルな感情が肌に残っている。


夢が、私の中の深いところで生まれた想念をいくばくか投影しているだろうと、少しでも思うからこそだろう。
私はこんなにも暖かなベッドにいながら、ありえないことではないと、心のどこかで想像していた。



めずらしく寝汚い恋人が起きたらさっき見た夢の話をしよう。悪い夢は口にすれば消えるそうだから。
そして「バカじゃないのか」と笑ってくれ。浅い寝息に耳を傾ける。
この部屋が君の息で染まる。
心の中、じゃなくて、喉を震わせ君の名を呼んだ。

「ひむら……」

火村、火村。
軽く肩の骨を齧る。
若い頃からこの背中に見惚れていた。純粋な憧れと羨望。
ちゃんと目が覚めたら、「朝っぱらからするようなもんじゃない」キスがしたい。












結局キスはしてもらえなかった。
何故なら、夢の話をした火村はなぜだか怒ってベッドを出て行ってしまったからである。
それでも私が気に入るような朝ご飯を構えてくれたので、こちらとしても優しさに欠けると責め難い。

「俺の夢の話はそないにつまらんかったか?」

4枚切りトーストを半分に切ったものに、たっぷりマーマレードをつけた。ピーナツバターは大変高カロリーなので、中年太りを懸念する我々は最近控えている。
少し間があってから、火村は「別に」と言った。渋面なのはブラックコーヒーのせいではないであろう。
こんな態度は慣れっこなので相手にいないに限るが、今朝ばかりは私も感情が高ぶったまま起床したので挑発してみた。
すると段々火村の口も回り出した。
惚気に聞こえるかもしれないが、もともと私のことに関しては我慢強い男ではない。

「根っこのところではやっぱり俺なんか軽く見られてんのかって思ったんだよ」
「はい?」

私の夢の、どこらへんが君を軽んじていたというのか?
どシリアスに盛り上がって、恥ずかしいくらいに君を想っていたじゃないか。

「あ、病気のことふせてたって設定が気に食わんのか」
「なにもかも」
「悲劇性が高まって悪くないと思うけど」
「現実にあったらたまんねぇな。大体なんだよ、婚約者って?ああ?入籍だ?あああん?どこの誰の話だ」
「……あー、そこは、俺の現実が混ざったな」




『俺の現実』の話までは、数ヶ月遡る。
過ぎた友情に、恋みたいだと苦笑していたこの十数年間。
そんな季節は去年の秋に終止符を打った。
夢の中に出てきた、紅葉で山が燃えているように赤い風景。
あれは現実に見たものだ。


火村とふたりで箕面までドライブした時の記憶だ。
艶やかな晩秋の山を前に、火村が車の中でマンガみたいに凹んでいて、訳を聞いたら私の見合い話がショックだったとかで。
なにゆうてんの、断ったで?この歳になって誰か君以外の人間と部屋をシェアするなんてようせん気がして、ハハ。
みたいなことを言ったらいつの間にか助手席のシートに多いかぶさってきた火村にキスされた。
深く角度をつけられるたび、カチカチ歯が当たるのが子供のそれみたいで、必至すぎてかっこ悪くて、頬が火照った。
私は悟った。


恋みたいだなと思っていた感情が、合わさった唇のあいだで恋そのものになったのだ。「キスしよや」強請りたくないが、したくなったのでダイニングテーブルを挟んで座る火村に言った。
火村はぎゅっと眉根を寄せて私を見据えると、身を乗り出して素早く唇を押し付けてきた。切手にスタンプ打つ機械だってもう少し、こう、密着すると思うんだけど。「今夜まで覚えとけよ」

「……この技巧もへったくれもないキスをか?」
「ばぁか、俺を見くびった夢を見たことをだ。お前が字を読めなくなったら一発でわかる。耳が遠くなっても、膝軟骨がすり減っても、白髪が増えてもだ」
「白髪はわかるやろ」
「何年一緒にいると思ってんだ。お前、俺が熱出してもわかるだろ? なあ」

減らず口を叩く私の頭を、ぶっきらぼうに撫でた火村の手のひらは、驚くほど優しかった。そこからじわっと、彼が意識している時の永さが流れ込んでくるかのようだった。


なんて独りよがりだっただろう。
並んで歩きたいと、そう望んだ彼を疑っていたってことか?
信じてる、信じてるとも。
鼻の奥がつんとした。
あんな夢を見ていた時でさえ涙など流さなかったのに、年を取ると感じやすくなって困る。


「言う通りや」と笑いかけると、火村も幾分納得したようで穏やかに席を立った。
私は少し俯いて空いた皿を片付けることで衝動をやり過ごし、洗面所に向かった背中に声をかける。

「……これから君、仕事やっちゅうのに、夜になったらまた来てくれるんか?」
「いつもしてることだろ。だるかったら来ねぇから」
「そう言ってくれると助かる」
「来ない方が嬉しいみたいだな」
「君の正直なところが好きなんや」

言い終わらないうちに、体当たりされた。もとい、強引なハグだった。
腕が絡み付き、私の背中をお構いなしに抱き寄せるから、流しに洗い物を集めてた私の手が彼のパジャマを濡らしてしまう。
お構いなしに顔中にキスを落としてくる彼の意図は明白だ。
仕方なく寄せられる唇に応じる。火村の真っ黒な瞳を縁取る睫毛が小さく揺れるたび艶めいて、ちょっと見惚れた。

「きみ、してほしい時にはそっけないのに、こっちが忙しい時に構ってくるなぁ」
「昼寝でもして、また妙な夢を見られたらたまんねぇから」

拗ねたような横顔に「すまん」と思った。
君のキスでは呪いは解けないのに、お願いして悪かった。というか浅はかだった。


全ては自分次第なのだ。





さて、仕事でもして辛くも幸福な現実に戻ろう。
それが一番だって、経験で知ってるだろうアリスガワアリス? 
私次第で、ネガティブな想像はぜんぶ嘘になるのだ。

 

end



すみませんとしか……

 

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