空を飛ぶ鳥の話 髪紐/二人旅/あいのかたち





 例えば、空を飛ぶ美しい鳥がいたとして、それを捕まえてしまえばきっとその美しさは損なわれるだろう。
 籠に入れて、餌を与えて、大事に可愛がったとしても、その鳥本来の姿を見ることはできなくなってしまう。
 それならば、鳥が自由に空を羽ばたく姿を遠くから眺めていたほうがいい。
 だけど、もし鳥が外敵に襲われたり、怪我をしたりしたらと思うと、心配で仕方がないのだ。
 だから、せめて目の届く範囲で見守らせてほしいと願ってしまう。





 髪紐


 髪を切るのがめんどうで、放置しているあいだに肩の長さを越えてしまった。邪魔だなあとぼやきながら伸びた髪を耳にかけていると、カスパルに「邪魔なら切っちまえよ」と飽きれた様子で言われた記憶がある。
 カスパルがヘヴリング邸まで遊びにくるのは日常茶飯時で、召使いたちも慣れた様子で彼をリンハルトの部屋まで招き入れるようになっていた。
 カスパルはいつもあれをしよう、これをしようと言い出してはリンハルトを連れ出そうとするのだが、大抵その提案はめんどくさくて実現しない。けれどカスパルはめげずに次の計画を立てては、またリンハルトを誘うのだ。
 リンハルトの気が向けばカスパルの希望する場所まで遊びに行くこともあるし、気が向かなければカスパルは屋敷の蔵書を引っ張り出して「これなんて読むんだ?」などとリンハルトに訊ねてきた。
 そうすればリンハルトが構ってくれることをカスパルは知っているのだ。そんなカスパルを邪険にしようと思えばできるのだが、不思議とそんな気分にはならなかった。
 カスパルがいようがいまいが眠気は襲ってくる。カスパルが自室にいるときであってもリンハルトは構わずその場で寝ていたし、カスパルもそれを咎めたりはしなかった。
 屋敷の使用人いわく、リンハルトが眠っているあいだカスパルは横に座ってじっと本を読んでいたり、部屋の隅っこのほうで図鑑を開いていたりするらしい。カスパルは、座学は苦手だが本を読むこと自体は嫌いではないようだった。
 それが当たり前になったある日のことだ。机に向かったまま寝ていたリンハルトが目を覚ますと、中途半端に伸びた髪がいつの間にか後頭部で結ばれていた。
 カスパルが結んだのだろうか? そんなことを思って振り返ったが、自室にいたはずのカスパルはいなくなっていた。
 屋敷の者に訊ねたところ、ベルグリーズ家の使用人が迎えに来たので帰ったとの話だった。リンハルトの親はリンハルトに挨拶をさせようとしたが、カスパルは「起こしたら悪いから」と断ったらしい。
 坊ちゃん、今日は髪を結んでるんですね。綺麗な紐ですね、似合いますよ――と、すれ違った使用人に言われて、リンハルトは初めて自分の髪を纏めている紐の存在に気がついた。
 髪をほどいて手に取ってみると、それはなんの飾り気もない白い紐だった。手に乗せるとするりと抜けていきそうなほど滑らかな生地である。おそらく絹糸を使って織られているのだろう。
 こんなものをつけていったのか……。
 リンハルトの知る限り、カスパルはずっと短髪だ。そんな彼が自分の髪を結ぶための紐など持っているわけもない。だとすれば、衣服についていた装飾用の紐でも結びつけていったのだろうか?
 そう思うと呆れながらもなんだかおかしくなって、知らず口元がほころんでいた。
 翌朝から、リンハルトは自分で髪を結んだ。結んだ紐の長さが不揃いになってしまうことも多かったが、目立つものでもないので気にしなかった。使用人に頼めば綺麗に髪を梳いて結ってくれるのだろうが、毎日それをやるのかと思うと煩わしかった。
 カスパルは似合うとも似合わないとも言わなかったが、「切っちまえよ」とも言わなくなった。
 あれから十年ほど同じ髪紐を使い続けているけれど、上質な生地で織られたそれは未だに切れていない。
 この紐の持ち主がカスパルだったという証左はどこにもないし、そうだとしてもカスパル本人はとっくの昔に忘れているのだろう。ただなんとなく捨ててしまうには惜しくて、いまも手元に置いている。





 二人旅


 フォドラ全土を巻き込んだ戦乱が終結してから半年あまり――リンハルトとカスパルの旅路は順調に進んでいた。
 道中、魔獣や山賊などに襲われて戦闘になることはあったが、大抵はカスパルが殴り倒すので障害にはならなかった。リンハルトがやることと言えば、戦闘で怪我を負った者を白魔法で癒すくらいだ。
 町から町へ移動する途中では野宿になることも多い。日が沈んだあとは、カスパルが集めてきた薪にリンハルトが魔術で火をつけて暖を取った。
「リンハルトがいると楽で助かるな」
「まあ、僕ができるのはこのくらいだしね」
「そんなことねえよ。食いもん探すのも楽だしな」
 野宿中は、わずかな保存食と現地で調達した食材で腹を満たすことになる。
 カスパルは鳥や野獣を捕獲し、リンハルトは魚や野草を採集した。釣りはもともと好きだし、図鑑を丸暗記しているので毒草とそうでないものの区別もつく。
「今日は何にする? また炒め物でいいか?」
「うん、それでいいよ」
 食事を作るのは交代制にしていて、今日はカスパルの番だった。
 旅に出てから、リンハルトはカスパルの意外な面をいろいろと知ることができた。料理もそのひとつだ。
 士官学校にいた頃のカスパルは料理などまるきりできなかったはずなのに、知らぬ間にそれなりのものを作れるようになっていた。
「そりゃ、五年も一人で旅してりゃな」
 カスパルは苦笑いしながら鍋の中に切った野菜を入れていく。
 ガルグ=マクの戦いのあと、ベルグリーズ家と絶縁したカスパルは各地を放浪していたらしい。
 士官学校時代は家族と手紙のやりとりをしていたようだが、絶縁後は当然ながら家族に連絡を寄越すこともなく、カスパルの所在をリンハルトが知る手段はなかった。
 そのうち、カスパルはどこかの戦地で討死したのではないかという噂が帝国内で流れるようになっていた。
 武芸で身を立てると豪語していたカスパルのことだ。どこかの国の傭兵として戦争に参加し、その挙句に死亡したという可能性は充分にあった。
 それでも特に心配をしていなかったのは、カスパルが無事であるという確証があったわけではなく、確証のないことを危惧しても仕方がないというだけの理由だった。
 約束の場所でカスパルの姿を目にしたとき、自分が安堵していることにリンハルトは少しだけ驚いた。自分はカスパルのことを少なからず心配していたのだなと、本人に再会してから気がついたのだ。
「最初は干し肉とかの保存食だけだったんだけど、そのうち自分で作るようになってさ。いまはけっこう自信があるぜ」
 カスパルはてきぱきと手際よく調理を進めていく。
 貴族という身分もあってそれまで料理とは縁遠い生活を送っていたのだろうが、もともとカスパルは手先が器用なほうだ。覚えようと思えば習得は早かったのだろう。
「ほら、できたぞ」
 今日の夕食は根菜の煮物と焼いた川魚だった。
 カスパルは魚が嫌いなはずだったが、放浪中は好き嫌いなどしていられなかったらしい。おかげでだいぶ食べられるようになった、というのは本人の弁だ。
「いただきます」
 カスパルの作った料理を口に運ぶ。具材の切り方こそ雑ではあるが、味つけに関しては悪くない。少し辛味が強く感じるのはカスパルの好みが反映されているのだろう。
 夜になると、二人は交代で見張りを行いつつ就寝した。
 カスパルが眠っているあいだ、リンハルトは火の番をしながら周囲の警戒をする。なにか異変があればカスパルを起こしてそれを知らせ、二人揃って対処にあたった。
 こんなめんどうなことを自ら進んでやるなんて、以前のリンハルトからは想像もできなかったことだ。カスパルの旅についていくと提案したときも、「野宿も多いぞ」「眠くてもその辺で寝たりできないからな?」と何度も念押しをされた。
 リンハルトは傍らで眠るカスパルに視線を向ける。カスパルはよく眠っていた。ここ数日は移動続きだったので疲れているのかもしれない。
 カスパルの頬にそっと触れる。規則正しい呼吸を繰り返しているのを確認してから、リンハルトはゆっくりと自分の顔を近づけていった。
「ん……」
 唇が触れ合う寸前、カスパルが小さく身じろぎした。起こしてしまったかと思いリンハルトは慌てて体を離したが、カスパルはそのまま穏やかな眠りを続けている。
 安心したような、残念なような複雑な気持ちになりながら、リンハルトはふたたび焚き火に視線を戻した。
 気配に敏感なカスパルがこうまでして起きないのは、それだけリンハルトを信頼しているということだ。
 寝ている隙に口付けをするのはその信頼を裏切るような行為に思えてきて、リンハルトは苦笑いをしながら火に薪をくべた。





 あいのかたち


 久しぶりに宿を取ることができたため、リンハルトは机の上に羊皮紙を広げて書き物をしていた。親友であり、家族のようでもあり、恋人のようでもある彼のことを記録に残しておこうと思ったのだ。
 カスパルと旅をする日々は目まぐるしく過ぎ去っていった。彼がいなければ、自分はいまでもあの窮屈な屋敷で惰性のように生きていたのかもしれない。
「なに書いてんだ?」
 寝台の上で横になっていたカスパルが興味深そうに羊皮紙を覗き込んでくる。
「日記だよ。旅先で起こった出来事や感じたことなんかをこうしてまとめておけば、あとあと役に立つと思ってね」
「ふーん……オレも読んでいいか?」
「いいけど、おもしろいものではないよ。ただの記録だからね」
 リンハルトの許可を得たカスパルは羊皮紙を手に取って読み始めた。カスパルの水色の目が文字を追って左右に動き、ふっと止まってリンハルトのほうを向く。
「なんだよ、オレのことばっかじゃねえか」
 何頁かに目を通したカスパルは不満げに口を尖らせる。端正な顔と幼い仕種の落差がおかしくて、リンハルトは思わず口元に笑みを浮かべていた。
「仕方ないだろう、旅先でなにかやらかすのは大抵カスパルなんだから」
「やらかすってなんだよ」
「山賊を追って崖から飛び降りたりとか、子供を助けるために急流を泳いで渡ろうとしたりとか、その辺のことだよ。もっと安全で堅実な対処法もあったはずなのに、君はいつも無茶ばっかりする」
「お前だってけっこう無茶なことするじゃねえか。ほら、前にあっただろ。オレが魔獣に襲われて大怪我をしたとき、魔法をぶつけて囮になっただろ」
「僕の場合はちゃんと考えてから無茶してるよ。あのときだってそれしか方法がないと考えたからそうしたまでさ」
「けっきょく無茶なんじゃねえか」
 カスパルは大きく息をつくと、羊皮紙の束をリンハルトに押し付けた。
「まあでも、おかげで楽しい旅を送れてるのは事実だけどね。君と一緒にいると退屈しないし」
 リンハルトは小さく笑い、羊皮紙を机に戻してふたたび筆を走らせる。
 カスパルとの思い出を書き連ねる作業は楽しかった。戦争というしがらみもなくなり、彼の命が脅かされることに怯えなくてもよくなったいま、二人で過ごす時間は穏やかで幸せなものだった。
 自分たちはこれでいいのだろう。リンハルトはそう思っていたはずなのに、その想いを揺るがしたのはカスパル本人だった。

「……なあ、リンハルト。お前もさ……オレとその……同衾したいとか思うのか?」
 珍しく言い淀むカスパルの声を聞きながら、リンハルトは本に向けていた目線を上げる。夕餉を終え、宿でそれぞれの時間を過ごしていた矢先の発言だった。
 リンハルトとカスパルはおそらく恋人同士と呼ばれる間柄だ。
 おそらく――というのは、『恋人』という言葉の定義が何を指すかによるため、断言できないという意味である。
 リンハルトとカスパルは挨拶のような気安さで口付けを交わすし、じゃれ合うようにして抱き締め合う。だが、性行為をするような関係ではなかった。
 性行為をする間柄を『恋人』と呼ぶのならば、二人は恋人ではないことになる。だからと言って、『友人』と呼ぶには肉体的な距離が近すぎる気がした。
 リンハルトは性欲が希薄なほうだがまったくないわけではない。若い体が疼くことは頻繁にあるし、それを愛しい相手にぶつけたいと要求してくる。
 ただ、カスパルは他人に対して性欲を抱かない質であるし、それを奇異に思われることを煩わしく感じている節もあった。
 そんなカスパルに性行為を要求する気は起きず、名前のわからない関係を続けている。
「同衾なら昔からよくしてるじゃないか」
「そういうんじゃなくてよ。わかってんだろ?」
 もちろん、カスパルが何を訊ねているのかリンハルトはわかっていた。ただ、彼からそんな言葉が出てくるのが意外だったのだ。
 もしカスパルがいまのリンハルトの立場だったなら、「同衾」という言葉の裏に隠された真意に気がつかないのではないだろうか。それほどにカスパルは色恋沙汰に疎いのだ。
「……思うよ。カスパルにもっと触れたいし、触れてほしいとも思う」
 リンハルトが静かに本心を告げると、カスパルは戸惑うように視線を落とした。
「けど、カスパルがしたくないなら僕はそれでいいと思ってる。僕は、君とは君の望む関係であり続けたいんだよ」
 リンハルトが体の関係を求めればカスパルは拒まないだろう。そのくらいカスパルに好かれている自覚はあった。
 だが、カスパルがリンハルトとこれ以上の関係を望まないというのであれば、リンハルトもカスパルにそれを望むつもりはない。
「どうして急にそんなことを訊くんだい?」
「……オレも、こんなんだけど何人か女の子と付き合ったことあってさ……でも、いつもそこでうまくいかなくて長く続かなかった」
 カスパルの言葉を聞いて、リンハルトは「ああ、やっぱりな」と得心した。カスパルは昔から女性にもてるのだ。
 士官学校時代のカスパルはまだ少年らしさが抜けておらず、容姿端麗と言えるような部類ではなかった。
 しかし、その人の良さや親しみやすいまっすぐな性格、誰に対しても分け隔てなく接する態度などが人を惹き付けたのだろう。
「恋人にしてくれって言われてさ、オレも相手のことは好きだったからいいって答えたんだけどよ……いざそういう場面になると、なんか違うなって思っちまって……うまくいかないんだよな」
 カスパルは困ったような顔をしながら頭を掻いた。
 カスパルが相手に好意を持っていたのは本当なのだろう。嫌っている相手と親しくできるほど器用な男ではない。だが、カスパルの求めていた関係と、相手の求めていた関係には大きな乖離があったのだ。
「リンハルトとは、うまくやっていきたいんだ。だから、リンハルトがオレとどうなりたいのか確かめたかった」
「……そう」
 カスパルは、リンハルトとの関係を真面目に考えている。正直、その事実だけでリンハルトは嬉しかった。カスパルにとって、自分は特別な存在なのだという実感を得られたからだ。
「ねえ、カスパル」
 リンハルトは寝台の縁に座っているカスパルの隣に腰掛ける。そして、カスパルの頬に触れてゆっくりと自分の方へ引き寄せた。カスパルはなにも言わずにされるがままになっている。
「口付けてもいいかい?」
 カスパルの顔を見ながら尋ねると、彼は少しだけ目を泳がせてから小さくこくりと首を縦に振った。了承を得て、リンハルトはカスパルの肩に手を置いてそっと口付ける。
 柔らかく温かい感触を確かめるように唇を食み、角度を変えて何度も口付けをした。舌先で唇に触れると、カスパルはおずおずといった様子で口を開き、リンハルトを受け入れる。
「んっ……ふぅ……」
 鼻にかかった声を出しながら、カスパルはぎゅうっと強くリンハルトの服を掴む。息継ぎの仕方がわからなくて苦しいのかもしれない。
「カスパル、息を止めないで」
 囁きながら、リンハルトはカスパルの背中をやんわりと撫でる。カスパルは一瞬身体を震わせたあと、恐る恐るというふうに少しずつ呼吸を再開した。
「カスパル」
 名前を呼んで再び唇を重ねる。今度はカスパルのほうからも応えてくれた。最初は拙かった動きも次第に滑らかになり、リンハルトに合わせて懸命に応えようとしてくれる。
「……も、もう無理だ」
 しばらくそうして口付けをしていたのだが、やがてカスパルが音を上げた。
 カスパルは顔を上気させて苦しげに胸元を押さえている。慣れないことをしたから疲れてしまったのだろう。その初々しさが愛おしく、リンハルトは水色の髪を慈しむように手で梳いた。
「ごめんね。大丈夫?」
「おう……けど、なんつーか、すごいな、これ。頭がくらくらする」
「そうだね。僕もまだどきどきしているよ」
「お前がか?」
「ひどいな、僕だって好きな人に触れれば緊張することくらいあるよ」
 冗談めかして言うカスパルにリンハルトも笑って答える。
「……お前はさ、オレが望むような関係でいたいって言ってくれたけど、オレもお前が望む関係でいたいと思ってるからさ。だから、その……どうしても我慢できないとかあったら、溜め込まずに言ってくれよ。できるだけ、応えたいと思ってる」
 カスパルは照れ臭さをごまかすように早口に言った。
「ありがとう。僕は今すごく幸せだよ。こうしてずっと君と一緒にいられるんだからね」
 カスパルの額に口付けを落とし、もう一度抱き締める。
 この先、自分たちの関係がどのように変わっていくのかわからない。けれど、カスパルが自分を受け入れてくれる限りは、二人で一緒に歩いていけたらいいと思う。
 腕の中の温もりを感じながら、リンハルトは静かにそんなことを考えていた。



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