ある傷痍軍人と男の話 ////////10/11



 なにが起こったのか、よく覚えていない。聞いたことのない轟音が空から聞こえてきて、見上げると巨大な杭のようなものがメリセウス要塞に向かって飛んでくるところだった。
 なんだあれ、と呆然としているあいだにそれは落下してきて――そこからもう記憶が曖昧だった。
 気がつくと、オレは寝台の上に寝かされていた。
 あの杭のようなものが放った閃光で目が焼かれたらしく、自分がどこにいるのかもわからなかった。瞼を開けると視界がぼんやりと明るくなって、そのおかげで自分の目が開いているのか閉じているのか、ここが明るいのか暗いのかくらいの判断はできた。
 仲間に救助されたのか、敵に捕縛されたのか――いまの状況から考えて、前者だろうとオレは判断した。
 たぶん、ここは牢屋ではない。牢屋だったなら、いまオレが寝かされている場所がこんなに柔らかくて暖かいはずはないだろう。となると、帝国軍の野戦病院だろうか。
 周囲に誰かがいるのであれば、声を出せばオレが起きたことに気づいてくれるかもしれない。そう考えて声を出そうと試みたものの、なぜか声が出なかった。
 そうなるともう、体を動かすことによって察知してもらうしかない。オレは寝台に手をついて、上体を起こそうとして――そして、まったく体が動かないことに気がついた。
 なぜかわからなかった。理由を確かめようにも、目が見えねえから視認できないし、声も出ねえから誰かに訊ねることもできない。
 オレは錯乱しちまって、遮二無二に体を暴れさせた。そうしたらふっと体が浮いた感覚がして、次の瞬間には全身に激痛が走った。
 オレは自分が寝台から落ちたことを悟った。高さはそこまでではなさそうだったが、オレはおそらく大怪我をしている。そのせいで、落下したときに激痛が走ったのだろう。
 あまりの激痛にオレは情けなく床を転げ回った。そのおかげで誰かがオレに気づいてくれたらしく、背中に手を回されて持ち上げられる感覚があった。
 悲鳴は出していないはずなのになんで気づいたのだろう、とオレは疑問に思った。だけど、よく考えたらこの手の主の足音もオレは聞こえていなかった。使えなくなっていたのは、喉ではなく耳だったのだとオレは理解した。
 自分の体温が残っている敷き布に転がされて、さっきまで寝ていた寝台に戻されたのだとわかった。怪我の具合を確認しているのか、手の主はあやすようにオレの体をあちこち撫でている。
 オレの髪や頬を撫でる手は硬くて大きくて、相手の姿は見えねえけど大人の男だとわかった。小指らしき部分に感じる不自然な硬さは、何かを握った際にできた胼胝なのだろう。
 しばらくすると体を起こされて、口になにか硬いものがあてがわれた。なんだ、と思っている間に液体が口に流れ込んできて、驚いたオレはそれを飲み込めずに噎せてしまった。
 それでまた体に激痛が走り、咳き込むたびに涙が出てきた。男はそんなオレの背中を優しく擦って、柔らかい布のような物で唇の端から零れた液体を拭ってくれた。
 落ち着いたころにもう一度同じことをされた。男はむりやり飲ませようとはしなかったから、毒物ではないだろうと判断してオレはその液体を嚥下した。それはただの水だった。
 ひと口水を飲んだとき、オレは自分の喉がひどく乾いていたことに気がついた。オレは夢中になって男から与えられる水を飲んで、水が注がれなくなっても口を動かし続けた。
 もう水はないのだと諭すように髪を撫でられて、ようやくオレは我に返った。そして恥ずかしくなった。まるで赤ん坊みたいじゃねえかよ、と自分に嫌気が差した。
 オレが恥じ入っているうちに、今度はどろりとしたものを口元に差し出された。たぶん、匙でなにかを掬ってオレに食わせようとしているのだろう。
 首を傾げながらそれを舌先で舐めてみると、甘い味と水っぽい食感がした。果物を擦り下ろしたものだろう。甘いものはあまり好きじゃねえけど、腹が減っていたからかこれは美味いと感じた。
 それから何度も同じものを口に運ばれて、オレはそのたびにぜんぶ平らげた。そうしている内にだんだん眠くなってきて、そのまま男の腕の中で眠りに落ちていった。







 光の杭による大規模攻撃によって、メリセウス要塞は閃光と轟音に包まれた。建物は爆発によって倒壊し、町中に瓦礫が散乱して粉塵が舞っていた。
 それは偶然だった。被害状況を確認するために廃墟と化したメリセウス要塞を探索していたとき、僕はカスパルの姿を見つけたんだ。
 カスパルは倒壊した建物の下敷きになっていた。建物の骨組みがカスパルの両脚を貫通していて、そのときすでに彼の意識はなかった。
 僕一人では瓦礫をどかしてカスパルを助けるなんて不可能だ。けど、助けを呼びに行ったのではその間に周囲の建物が更に倒壊してしまうかもしれない。
 僕はほんの少しだけ迷って、それからカスパルの両脚を切って瓦礫の下から助け出した。その場に鋸なんてあるはずもなかったから、カスパルが持っていた斧を使った。斧の重量をもってしても一度で骨を切断することはできなくて、僕は謝りながら何度もカスパルの脚に刃を立てた。
 えずきながらも切り口を処置して、できるだけ清潔な布で切断面を保護して――カスパルを担いでその場から少し離れたとき、カスパルを押し潰していた建物が自重で崩れ落ちた。

 僕はカスパルを野戦病院まで運んで、備え付けられていた寝台に横たえた。カスパルの姿を見た仲間たちは驚いた様子だったけど、彼を見捨てろとまでは言わなかった。
 カスパルの心臓は弱っていて、体の末端まで血液を送り出せる状態ではなかった。
 左腕は戦闘で負傷したようだった。敵の攻撃を避けきれなくて、咄嗟に腕を盾にしたようだ。幸いなことに裂傷は骨で止まっていたけど、刃に毒が塗布されていたのか、カスパルの腕は糜爛していた。
 左腕はもう駄目だ。右腕もいずれ壊死するだろう。
 そう判断した僕はカスパルの腕も切り落とした。右腕はまだ壊死していなかったけど時間の問題だし、切り落としてしまったほうがほかの部位に血液を送ることができるため、カスパルの生存率が上がると考えたからだ。
 両手足を切り落としてまで生き延びるなんて、カスパルは望まないかもしれない。そうも思ったけど、それを決めるのはカスパル自身だ。いま僕にできることは、カスパルの命を繋げることだけだった。
 カスパルはなかなか目を覚まさなかった。
 僕は水を含んだ布をカスパルの唇にあてがって水分を摂らせた。血流が滞らないように、夜中でも定期的に起きてカスパルに寝返りを打たせた。日に何度もカスパルの胸に耳を当てて、まだ心臓が動いていることを確認した。
 カスパルはみるみるうちに痩せていった。丸みのあった輪郭からはすっかり脂肪がなくなり、筋肉が落ちた胸はあばら骨が浮いていた。目の周囲もすっかり落ち窪んでいて、カスパルの凛々しい風貌は見る影もなかった。

 五日ほど経った頃だろうか。ようやくカスパルが瞼を開いた。
 そのとき僕は軍務のためにカスパルから離れていた。用事を終えて負傷者を寝かせている天幕に近づくと悲鳴のような声が聞こえてきて、慌てて中に入ると床でもがいているカスパルの姿があったんだ。体を動かそうとして寝台から落ちたのだろう。
 嬉しかったのか、驚いていたのか――僕はよくわからない声を上げながらカスパルに駆け寄って、もがく彼の体を抱き起こした。カスパルは自分の状況がよくわかっていないらしく、警戒するようにきょろきょろと周囲を見回していた。
 ここは戦場じゃない。君は怪我をしてずっと寝込んでいたんだ――そう言葉で伝えると、カスパルは「あぁ」「うぅ」と掠れた声で呻いた。寝たきりだったせいで喉が枯れているのだろう。
 仲間たちはどうなっただとか、敵軍はどうしただとか――いろいろ聞きたいことがあるのかもしれないけど、僕はひとまずカスパルに水を飲ませた。
 カスパルを抱き上げて寝台に戻し、片腕で体を支えながら口に器を近づける。カスパルはうまく水を嚥下できず、口の端からだらだらと零してしまったり、ときおり噎せたりしていた。
 大丈夫? 飲みにくいよね、ごめんね――カスパルに水を与えながら時折そんなふうに声をかけてみたけど、返事らしい返事はなかった。まだ意識がぼんやりしているのかもしれない。
 お腹が空いてるだろうと思って擦り下ろした果物を匙で掬って与えると、カスパルは子供のようにそれに吸い付いて食べ始めた。僕の手から食事をするカスパルは、親鳥から餌を貰う雛みたいで可愛かった。
 用意した食事をほとんど食べ終えたカスパルは、そのまま僕の腕の中で眠ってしまった。体力が落ちているから、少し動いただけでも疲れてしまうのだろう。
 僕はカスパルの体をそっと寝台に横たえて毛布をかけた。一人用の粗末な寝台は、いまのカスパルには大きすぎるようだった。






 オレがふたたび目を覚ましたとき、すぐ横に誰かの気配を感じた。寝る前に世話をしてくれた男だろうと思って、オレは適当に声をあげて自分が起きたことを伝えた。
 伝える必要があるのかはわからなかったけど……まあ、オレも目が見えなくて心細かったんだろう。男はすぐにオレに気づいたようで、オレの体を抱え起こしてくれた。
 オレはまだ体にぜんぜん力が入らなくて、男の介助がないと起き上がることすらできなかった。寝返りくらいはなんとかできるようになったけど、まるで手足が鉛になったみたいに体が重かった。
 ――リンハルトなのか?
 オレはうまく喋れないなりに男にそう訊ねた。
 こんなふうにオレの世話をしてくれる男は誰なのだろうと考えて、真っ先に思い浮かんだのがリンハルトだった。親父は自分でそんなことはしないだろうし、兄貴はもっとありえない。
 医者やほかの仲間という可能性もあったけど、男の手付きには親しい者に対する情のようなものが感じられた。だから、この男はきっとオレのことをよく知る相手なのだろうと思った。
 男はしばらく反応をしなかった。もしかしたら何か話していたのかもしれねえけど、オレには聞こえなかった。反応がないのが不安になって声を上げると、男はオレの肩あたりを軽く指先で叩いてきた。
 オレの目や耳が機能していないことに、相手も気がついたのかもしれない。オレ自身も、そのときまで「相手はオレの目や耳が機能していないことを把握していないかもしれない」という可能性を失念していたことに気がついた。
 男の指は文字を書くように動いていたけど、肌の感触だけじゃなにを書いているのかまったくわからなかった。オレは首を振って「わからない」と伝えた。すると男は諦めたのか、オレの肩をそっと撫でてから手を離した。
 それからまた寝台に横たえられて、なんだろうと思っていると服を脱がされる感覚があった。
 たぶんオレは体中に包帯を巻かれていて、男はそれを交換しているのだと思う。包帯を剥ぎ取られて、傷口に薬らしきものを塗られて、新しい包帯を巻かれる――そんな感触が体にあった。
 それを終えた男は、今度はオレの臍の下あたりを軽く指先で叩いてきた。腹の中に軽い振動が伝わって、そのせいで尿意が湧いてくる。そこでオレは、自分が目覚めてから一度も排泄をしていないことに気がついた。
 腹を軽く叩いたのは排泄をさせるという合図だったのだろう。男はオレの下半身を持ち上げると、その下に盥かなにかを差し込んできた。ここに排泄をしろという意味なのだろうが、正直かなり恥ずかしい。
 だけどここで催したまま我慢してあとで漏らすわけにもいかない。それに相手がリンハルトならいいかという気持ちもあって、オレは観念してその場で用を足した。
 緊張のせいでうまく排泄ができないでいると、男は排泄を促すように腹をぽんぽんと叩いてきた。それがなかなか心地よくて、オレは途中から完全に身を任せてしまっていた。
 排泄が終わると、尿で濡れた性器や尻を拭われる感覚があった。それがまた恥ずかしくて、オレはずっと顔を横に背けていた。いっそのこと相手が女だったなら、名前も顔も知らない看護師だろうと思えて楽だったのかもしれない。
 男はオレに服を着せてから、もう一度肩を軽く叩いてきた。それで終わりのようだったので、オレは礼のつもりで小さく声を上げた。男はそれを最後に立ち去ったらしく、周囲からは人の気配が消えた。
 オレの体はまだうまく動かない。寝返りを打つだけで息切れがする。全身に倦怠感があって、ずっと眠っていたはずなのにまだ眠気が残っていた。
 いまが昼か夜かもわからず、世話をしてくれている相手が誰なのかもわからない。食事も排泄も他人任せで、礼を言うことすらままならない。こんな状態がいつまで続くのだろうと考えると、ひどく心細くなった。
 せめて、手足が動くようになってくれればいいんだが。







 ――リンハルトなのか?
 胡乱な発音のカスパルにそう訊ねられて、僕は彼の目と耳が機能していないことに気が付いた。僕の姿が見えているのなら、僕の声が聞こえているのなら、彼がそんなことを訊く必要はないからだ。
 カスパルは目をきちんと開けていたから、目が見えていないなんて思わなかった。うまく喋れないのも、寝たきりで喉が渇いているせいなのだと思っていた。食事を零してしまうのも、手足がないために体の均衡を保つのが難しいからなのだろう。そう勝手に納得していた。でも、そうではなかったのだ。
 どうやったら僕の意思をカスパルに伝えられるか考えて、カスパルの肌に指で文字を書いてみた。でも、それでは意思疎通はできないらしく、カスパルは「わからない」と言うように首を振った。
 カスパルの傷を覆っている包帯を交換して薬も塗ってあげたいけれど、いきなり服を脱がせては驚くだろう。僕は断りを入れるつもりでカスパルの肩に軽く触れて、それから衣服を脱がせ始めた。
 カスパルは抵抗しない。されるがままに裸にされている。僕が何をしようとしているのか察してくれたようだ。僕は包帯を取り去って、傷口を湿らせた布で拭って、血止めの軟膏を塗り、新しい包帯を巻き直した。
 それを終えたあとはカスパルに服を着せて、汚れた包帯を捨てるために部屋を出ようと思ったのだけど――そこでふと、カスパルが目覚めてから一度も排泄をしていないことに気がついた。
 あまり食べていないから尿意は湧いていないのかもしれないけれど、僕がいるあいだに済ませておいたほうがいいだろう。意識がないうちならともかく、意識があるいま漏らすことになってはかわいそうだ。
 そう思ってカスパルの下腹部に指を当てて、合図のつもりでそこを軽く叩いた。特定の行為をするときに特定の合図を毎回すれば、カスパルもそれが合図だと理解してくれるだろう。
 人前で排泄をすることに抵抗があるらしく、カスパルは戸惑った表情を浮かべていた。無理もない。だけどしばらくすると諦めたのか、僕が下腹部を叩くのに合わせて少しずつ盥に排泄を始めた。
 排泄が終わったあとは下半身を拭ってあげて、カスパルを寝台の上に仰向けに横たえた。それから部屋を出て介護に使った布などを洗っていたとき、国の指導者である『彼』に声をかけられた。
 いつまでカスパルの世話をするつもりなのか――そう問われて、僕は言葉を詰まらせた。
 カスパルがあと何年生きられるかはわからないが、仮に何十年も生き続けるとして、お前はずっとあいつの世話をするのかと。それができないのなら、中途半端に情けをかけるべきではないと、そう指摘された。
 それは正論だったし、僕自身にもいつか限界が来ることはわかっていた。僕の留守中は人を雇ってカスパルの面倒を見てもらうつもりだけど、僕自身に何かあったら誰かに頼むことすらできなくなってしまう。
 カスパルの世話を続けることができなくなる日はきっと来る。そのとき、カスパルは誰かの助けがなければ生きていけない。そうなったときに見放すくらいなら、最初から手を差し伸べるべきではない。『彼』は僕にそう言いたいのだと思う。
 僕はその問いに対する適切な答えを見出せなかった。自分でも自分の気持ちがわからなかった。ただ、このままカスパルを放っておくことはできないという強い想いだけがあった。
 だから、僕かカスパルのどちらかが動けなくなるその日まで、僕はカスパルの面倒を見続けるつもりだと答えた。その言葉を聞いた『彼』は、それ以上は何も言わずに去っていった。






 リンハルトは毎日オレのところに来て、オレの世話を焼いてから帰っていく。
 今日もいつものように食事を口に運ばれて、それを咀嚼して飲み込んだ。
 目覚めたばかりのころは擦り下ろした果物とかだったが、最近は魚の身をほぐしたものを与えられるようになった。できれば肉も食べてえけど、きっとまだ胃が弱っているから口にしたら吐いちまうんだろうな。
 食後は口の中に刷毛をつっこまれて歯を磨かれた。
 家にいるときは骨の台に豚の毛を植え付けた刷毛を使っていたけど、たぶんいま使われているのはそんなにいいものじゃない。小枝の先端を煮て叩いて、針で梳いて柔らかくした簡易的なものだと思う。それでも、口の中まで綺麗にしてくれるのはありがたかった。
 いつも食事のあとは包帯を交換したり、体を拭いてもらったりしてるんだが、今日は少し違っていた。
 リンハルトはオレの服を脱がして包帯を外したあと、オレの体を抱えてどこかに移動したようだった。それからリンハルトの膝に乗せられたらしく、背中や尻に他人の体温を感じた。
 何をする気だと思って身構えているうちに、太腿のあたりに生温い湯をかけられた。脚、腹、腕と体の下側から順番に湯をかけられて、オレはリンハルトが体を洗ってくれているのだと理解した。手足がまったく動かせないから、オレはされるがままに身を任せていた。
 胸や背中、首元まで軽く流されて、そろそろ頭だろうかと思っていると、瞼に指を添えられてそっと目を閉じさせられた。湯が目に入るからな。そりゃあ、こうするよな。
 予想通り、次の瞬間には鼻や口を手で軽く押さえられて、頭の上から湯がかけられた。
 オレは顔に湯がかかったのが不快で、犬みたいに頭を振って水滴を飛ばした。すると、すぐに布で顔を覆われて、濡れた肌を拭われる感触があった。
 髪も何度かに分けてしっかりと濯がれた。しばらく洗っていなかったオレの髪は、指が通らないほど絡まっていたらしい。髪が指にひっかかって痛みが走ったから声を出して抗議すると、謝るように頭を撫でられた。
 それから、髪を指で梳きながら丁寧に洗われた。慣れた手つきで頭皮を揉み解され、指の腹で頭皮を優しく刺激されると、心地が良くてうっかり眠っちまいそうになった。
 最後に耳の穴に指を突っ込まれて、体全体を湯で流された。それでようやく終わりかと思ったら、また体を持ち上げられて寝台ではない場所に移動させられた。
 足の先端が湯に浸かる感覚がする。どうやら湯船に入れられているらしい。そのままゆっくりと肩まで浸からされ、温かい湯に包まれる。あんまり気持ちがよくて、思わず深いため息が出た。
 ありがとな、と感謝の気持ちを言葉にしたけれど、きちんと伝わったかはわからない。リンハルトの指先が何度も頬をくすぐってくるから、たぶん伝わっているんだろう。






 カスパルの体調はずいぶんと良くなった。食事を摂れるようになったおかげで、減ってしまった体重もいくらか増えたと思う。あとは体力をつけるために、運動もさせてあげられたらいいのだけど。
 治癒魔法の効力もあり、傷はもうほとんど塞がっていた。そろそろ体を洗っても大丈夫だろう。そう思って、湯を沸かして大きめの盥に注いで湯船の代わりにした。カスパルの体を洗って湯船に浸からせてあげると、彼は気持ちよさそうに目を細めて小さく欠伸をした。
 弟がまだ赤ん坊だった頃、こうやって体を洗ってあげていたな。カスパルを眺めているうちに僕はそれを思い出して、なんだか懐かしい気持ちになった。
 カスパルとは、取り立てて仲がいいわけではなかった。士官学校に通っていたころ、たまに食堂や訓練所で話をしたことがある程度だ。
 カスパルは話しているとこちらまで元気が湧いてくるような人物だった。乱暴なのは玉に瑕だが、明るくて前向きな性格をしていて、誰とでも分け隔てなく接する少年だった。
 それから戦争が始まって、各国がいがみ合うようになって、僕たちは敵同士になってしまったけれど。こんな時代でなければ、友達になることもできたのかもしれない――メリセウス要塞を守備している将がカスパルだと知ったとき、僕はそんなことを考えてしまった。
 だから、瓦礫の下でわずかに息をしているカスパルを見たとき、どうしても見捨てることができなかった。
 彼が敵であることくらいわかっていた。きっと、僕の同胞たちの命もたくさん奪ってきたのだろう。だけど、それは目の前で尽きかけている命を見捨てる理由にはならないんじゃないだろうか。
 ……もしも彼が僕の立場だったのなら、きっとそんな甘いことは言わないのだろう。情に熱いいっぽうで、どこか冷めたところもある不思議な人だった。その不可解さに、僕は惹かれたのかもしれない。






 その日、オレの体に触れた手は細くて小さかった。女の手だ、と思った。いつもオレの世話をしてくれている男の手ではない。
 あいつはどうしたのか、今日は出かけているのか――そう訊ねようにも、オレにはもう相手と意思疎通をする術がなかった。
 いつものが男リンハルトだったとしてもそうでなかったとしても、それぞれの務めや生活があるだろうから、常にオレの世話をできるわけではないのだろう。
 だから、いまオレの世話をしているのが別の人間なのは仕方がないとは思った。
 そうは思っても、まあ、不安にはなっちまうよな。オレはこんな状態だし、疲れて嫌になっちまったのかなって。そうであったとしても仕方ねえんだけど。
 それからしばらくあいつは帰ってこなくて、オレは別の人間に世話をされていた。おそらく、一人ではなく数人が交代でやってくれている。
 動けない相手の介護をするのに慣れている感じがしたから、たぶんそういう職業の人たちなんじゃねえのかな。まあ、確認できないからわかんねえけどさ。
 オレは相変わらず立つこともできなくて、ずっと寝台の上で寝かされている。
 ……もしかしたら、オレの手足はもう腱が切れていて、二度と治らないのかもしれない。あまり察しのよくないオレにも、そのくらいのことはわかってきていた。
 オレはもう、戦えない。
 いまオレの面倒を見てくれている連中は、きっとオレがどこの誰なのかは知っているのだろう。だけど、戦えなくなったオレを責めたりはしなかった。むしろ、同情してくれているような気配すらあった。
 こんな体じゃ武功を立てることもできねえし、生きていても何の役にも立てないならもう、いつ死んでもいいんじゃねえかなって。最近はそう、思うようになってきた。






 しまった、と思ったときにはもう遅かった。
 グロンダーズの会戦で死んだはずの『彼』の姿を宮城内で見かけて、助けなきゃと思ったときにはもう体が動いていた。
 『彼』に襲いかかっていた魔獣に射掛けて、魔獣の気を引いたまではよかったのだけど――僕にはちょっと荷が重かったのかもしれない。
 人工紋章石によって魔獣と化した帝国兵の攻撃は苛烈で、すんでのところで避けたつもりが気づいた時には体の半分が吹き飛んでいた。
 『彼』が大声で僕の名を呼んで、魔獣に斧を振り翳す。斧の刃は鈍い音を立てながら魔獣の頭蓋に食い込んで、魔獣がよろめいたところで仲間たちが矢の嵐を撃ち込んだ。
 それが、僕が最期に見た光景だった。
 僕はもう、死んでしまうのだろう。最期に『彼』に会えたのは嬉しかったけど、心残りがないと言えば嘘になる。故郷に残してきた兄弟たちも、心細い思いをしているであろうカスパルのことも気がかりだ。
 ……死ぬのは嫌だな。
 とっくに覚悟は決めていたはずなのに、そのときになるとやっぱり怖かった。






 あいつがいなくなってから、たぶん何節か経ったんだと思う。
 あいつはもう帰ってこないのかもしれない。そう思って、諦めかけた頃だった。寝台で寝ていたオレに、急に誰かが抱きついてきたんだ。
 肌の感触と匂いで、男だとはすぐにわかった。オレの頬や顎のあたりにさらさらした髪が当たる感触があるのは、相手がオレの首筋に顔を埋めているからだろう。
 ――リンハルトなのか?
 ちゃんと発音できてたのかはわからねえけど、オレは相手にそう訊ねた。すると、相手がオレを抱き締めたまま小さく頷くのが、肩口に当たる感触でわかった。
 ああ、やっぱり、リンハルトなんだな。
 声を聞きたいと思ったけど、オレにはもうそれは叶わなかった。顔も確認できねえし、抱き締め返すこともできねえしで、オレはとりあえず適当な声を出すしかなかった。
 どうすればいいかわからなくてオレがもぞもぞ動いている間にも、リンハルトはぎゅうぎゅう抱き締めてくる。なんだよ、ほんの数節離れてただけだろって。笑っちまうよな。こんなにも、お前に会いたかったなんてさ。
 お前がいなくなるまではそんなふうに思ったことなかったのに、いざいなくなったら、寂しくて仕方がなかった。
 できることならもう一度、昔みたいに一緒に飯食ったり、遠乗りにでも行きてえなって、そう思うようになった。けどさ、そうは言っても、もう無理だもんな。
 いまのオレは、自分じゃ歩けもしないし、何もできないただのお荷物だ。だから、いまこうしていられるだけでも充分に贅沢で幸せだと思った。
 リンハルトはしばらくオレから離れようとしなかった。オレを抱えて膝に乗せたり、髪を指で梳いたりして、まるでオレの存在を確かめているみたいだった。





10


 修道院でカスパルの姿を見つけたとき、僕は驚きのあまり言葉を失った。カスパルはとっくの前に、メリセウス要塞での戦いで死んだものだと思っていたから。
 最後にカスパルの姿を見たのは、メリセウス要塞に光の杭が落下してくる直前のことだった。そのとき、カスパルは左腕を負傷していた。
 カスパルに治癒魔法を施しながら、もうこの腕は駄目かもしれないと僕は思っていた。武器の刃に毒が塗られていたのだろう。僕と合流したときにはすでにかなり毒が回っていて、カスパルの左腕は糜爛していた。
 治癒魔法は人間の自己治癒能力を高めるだけのもの。切れた健を繋げるだとか、壊死した部分を治すだとか、人間の能力を超える治癒は施せない。それでも、カスパルは片腕になったとしても戦い続けるつもりだったのだろう。
 光の杭が落ちてきたのはその直後のことだった。爆発によって目が一時的に焼かれ、耳がほとんど機能しなくなっても、僕の名を呼ぶカスパルの声だけはなぜか鮮明に聞こえたのを覚えている。
 ……僕を、庇ったのだと思う。
 気がつくと、僕はカスパルに突き飛ばされて地面へと倒れていた。町は一瞬で瓦礫の山と化していて、吹き飛ばされた仲間たちの亡骸があちこちに転がっていた。
 周囲を見回しても、近くにいたはずのカスパルの姿が見当たらない。瓦礫の下敷きになったのかもしれないと思い至って、僕は必死になってカスパルを捜した。
 柄にもなく大声を出して、瓦礫を手で撤去して。爪が剥がれるまで捜したけど、ついにカスパルは見つからなかった。そうこうしているうちに本隊から撤退の合図が出て、僕は後ろ髪を引かれる気持ちでメリセウス要塞をあとにした。
 それから同盟軍がアンヴァルまで侵攻してきて、僕は指揮していた祈祷兵たちと共に降伏した。
 ペトラやドロテアも戦っていたし、僕なりに奮戦したつもりだったんだけど……見知った仲間たちが目の前で肉塊になっていくのを見ているうちに、戦う意味がわからなくなってしまったんだ。
 クロードは亡国となったファーガスの将兵たちも同盟軍に取り込んで、急速に勢力を拡大させていた。士官学校時代に面識のあった人たちもいて、捕虜である僕に対しても友好的だった。
 僕は同盟軍の人々と共に彼らが本拠地にしている修道院まで移動して、そこで負傷したカスパルと再会した。
 カスパルは四肢を失っていたけれど、拷問されたわけではなさそうだった。カスパルに怯えた様子はなかったし、柔らかい寝台に寝かせられて清潔な衣服を着ていたから。
 髪も肌もとても綺麗な状態だったし、傷もほとんど残っていなかった。きっと、誰かが負傷したカスパルの治療をして、ずっと介護をしていたのだろう。
 労力にもならない敵軍の将を、なぜ同盟軍は保護していたのだろうか。
 貴族とはいえ、継承権のないカスパルに人質としての価値はほぼ無いと言って差し支えない。だから、帝国軍との交渉の道具にするためではないだろう。
 紋章持ちなのであれば、四肢がなくとも種馬として生かしておく価値はあるのかもしれない。けれど、それもカスパルには無縁のことだ。
 ……純粋な親切心や好意でカスパルを保護していたのだろうか。
 僕はカスパルの世話をしていた人に礼を言いたくて、同盟軍の人々に訊ねてみた。それによると、カスパルの世話をしてくれていた『彼』は、宮城での戦いで命を落としたのだという。
 戦闘が長引く可能性や、自身が戦死する可能性も考えていたのだろう。『彼』は数年分の給金を看護師に前払いして、自分が戻らない場合はカスパルのことを頼むと依頼していったそうだ。
 なぜ『彼』がカスパルのためにそこまでしてくれたのかはわからないけど、カスパルにも『彼』の死はきちんと話すべきだろう。そうは思ったものの、目も見えず耳も聞こえないカスパルにそれをどう伝えればいいのか、僕には検討がつかなかった。





11


 違和感を覚えたのは、それからほどなくしてだった。
 リンハルトはオレに食事を与えたり、排泄や入浴の手助けをしてくれた。けど、以前のように特定の部位を軽く叩くといった合図はなくて、代わりに髪や顔を撫でてきた。
 ……リンハルトじゃ、ない、のか?
 いや、ここにいるのは間違いなくリンハルトだ。オレが寝台から落ちて怪我をするたびに治癒魔法で治してくれるし、ときおりジンジャーティーを淹れては口元に運んでくれる。オレのことを、昔からよく知っているリンハルトだ。
 じゃあ、以前オレの世話をしてくれていたあいつは誰なんだ? 手の、小指側に、胼胝があったあの男。そうだ、あれは弓胼胝だ。
 オレと関わり合いのある、弓を得意とする男――一人だけ、思い当たるやつがいる。でも、あいつが帝国にいるはずがないんだ。
 ……帝国? そもそもここは帝国領なのか? あのあとメリセウス要塞が制圧されたのなら、次に同盟軍が向かうのはアンヴァルなんじゃないのか? アンヴァルは、エーデルガルトはどうなった?
 オレを助けてくれたのがリンハルトじゃなかったのなら、オレはいままでどこにいたんだ? あいつが同盟軍に協力していたのだとしたら、オレはずっと敵地にいたのか?
 ……なにもわからねえ。
 オレが唸っているとリンハルトが心配そうな手つきで頬に触れてきたから、なんでもないと首を横に振った。
 考えてもわからねえし、訊くこともできねえしで、オレはもう考えるのをやめた。
 眠ろうとして瞼を閉じると、額に柔らかなものが触れた。たぶん、リンハルトの唇だろう。おやすみ、と言われたような気がして、返事をしようとしたけどうまく声を出せなかった。
 ああ、いま、お前がどんな顔してるか見てえなって、そう思ったよ。



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