ひとつのかたち /


・リンカスが恋人同士ですが、肉体関係があるのはリンシェズ♀のみとなります。
・三人のセクシュアリティに関して多大な捏造を含みます(特にシェズ)
・三人が関わる恋愛話ですが揉め事は起こらず基本的に仲良しです。
・直接的な性描写はありません。
 





「僕と性交する相手になってほしいんだ」
 雇い主であるリンハルトに呼び出されてヘヴリング邸の一室を訪れたシェズは、開口一番に告げられたその言葉に目を眇めた。
 リンハルトの誘いに乗ってヘヴリング邸に雇われてからおよそ一年――意味深長なリンハルトの言葉とは裏腹に、特にこれといった出来事もなく日々を過ごしていた矢先のことだ。
 リンハルトは常に茫洋とした雰囲気を纏っていて、何を考えているのかわかりにくい。紋章と釣り以外のものには興味を持たず、一日のほとんどを寝て過ごしている。
 そのいっぽうで、思わせぶりな発言で異性を振り回すことでも有名だった。「好きだよ」だけならまだ可愛いもので、「子供を作りたい」などと言われた者もいるという。
 そんなリンハルトから出てきた言葉がこれなのだから、怪訝な面持ちになってしまうのも致し方ないというものだ。
「……『恋人』とは言わないってことは、つまり性交だけする関係を求めてるってこと?」
「うん。話が早くて助かるよ」
 シェズの問いにリンハルトは笑顔で頷く。
 先程の提案だけでも多大な顰蹙を買いそうなものだが、それに加えてこの笑顔である。もっと遠慮や抵抗を感じられる態度をしてもいいのではないだろうか。
「……まあ、話くらいは聞いてあげるわ。あなた、『そういう』人ではないものね」
 シェズは軽くかけていた椅子に深く座り直した。
 リンハルトは思わせぶりな態度で異性を振り回すことが多いいっぽうで、「遊んでいる」というような噂が流れたことがないのもまた事実だ。
 要するに、思わせぶりな態度をしておきながらそれ以上の関係にはならないということである。
 口説き落とした相手を顧みない者を「釣った魚に餌を与えない」と比喩することがあるが、リンハルトはさしずめ「餌をちらつかせるだけで釣らない」といったところか。
 それはそれでたちが悪い気もするが、とにかく不特定多数の相手と性的な関係を持つような人物ではないということだ。
「てっきり私は、あなたはカスパルと付き合ってると思ってたんだけど」
 シェズが話を訊く気になったのは、リンハルトとカスパルの関係を確認するいい機会だったからというのもある。
 数年に渡るフォドラ統一戦争が終結したあと、帝国将としての役割を終えたカスパルは一人旅に出た。
 もともと旅というもの自体に興味があったようなのだが、戦争のさなかに勉学に励んだ結果として、本で読んだものを実際に見てみたくなったらしい。
 カスパルは各地を放浪しては不定期に帝都へと戻り、その際には必ずヘヴリング邸を訪れる。そして、リンハルトに会いに来るのだ。
 二人は人目を憚らず抱擁や口付けをし、はにかんだように笑っては手を絡ませ合う。場合によってはリンハルトの私室で同衾し、入浴を共にすることもあった。
 「幼なじみだから仲がいいのだろう」で片付けるには、二人にはあまりにも親しすぎる。きっと、二人は深い関係なのだ。ヘヴリング邸で働いている誰もがそう思っていた。
「君の言う『付き合ってる』という言葉がどういう意味か把握しかねるから『うん』とは言えないけど……カスパルは僕の親友だし、恋人だよ。一番大切な人だと思ってる」
 リンハルトはあっさりと、それも心から嬉しそうにそう答える。まるで宝物を自慢するような、愛おしさが籠った口振りだった。
 だからこそなおさらシェズは解せなかった。
「なのに私としたいの? なんで? ああ、最近よそよそしいなと思ってたけど、もしかして喧嘩したとか?」
「そういうんじゃないよ」
 カスパルがヘヴリング邸を訪れるのは相変わらずだが、ここ数節ほどは客間で寝ているようだし、入浴も共にしていないようだった。
 あれだけべったりだった二人がこれなのだから、下世話な勘繰りもしてしまうというものだ。それでありながらカスパルは欠かさずリンハルトに会いに来るし、リンハルトもそれを受け入れる。
 傍から見れば二人の距離感は不可解そのものであり、使用人たちのあいだではさまざまな憶測が飛び交っていた。
「……カスパルは僕と性交したくないらしいんだ。僕、というか、性行為そのものに忌避感があるんだと思う。男相手だから嫌ってわけじゃなくて、女性が相手でも嫌みたいなんだ。口付けしたり、抱き締め合ったりするのは好きみたいなんだけど」
 リンハルトは力なく、つぶやくように告げる。それはどこか、子供のように頼りないものだった。
 カスパルが色恋沙汰に興味がない質であるということはシェズも理解していた。とはいえ、肉体は成熟しているのだから性欲自体がないわけではないのだろう。
 そう推察していたのだが――カスパルの色恋沙汰への関心のなさは、シェズが想像していたより根深いところに起因するようだ。
「カスパルとはしてないんだ? てっきり、カスパルがあなたの部屋で寝るときはしてたんだと思ってたわ」
「君もけっこうはっきり訊いてくるよね。予想が外れて残念だけど、カスパルとは一度もしてないよ」
 他人の性事情に口を挟むのは野暮というものだが、そもそもリンハルトが不躾な提案をしてきたのだから、こちらも多少は不躾になっても許されるだろう。そんな言い訳がシェズの口を動かした。
「カスパルは僕がしたいなら構わないって言ってくれたけど……僕はカスパルが嫌がることは絶対にしたくない。だから君と性交をするのは我慢する。そうカスパルに伝えたんだ」
 リンハルトはそこまで言うと俯いてしまった。その表情はシェズから見えないが、声に滲む寂しさからおおよその想像はついた。
「カスパルと一緒に寝たり、一緒に入浴したらやりたくなっちゃうから、肌が触れ合うような付き合いはしばらく避けてたんだ。でも、僕も性衝動を我慢するのはつらかったし、カスパルもその距離感が居心地悪かったみたいで……しばらくしたら、カスパルに『オレじゃないやつとしてもいいんだぞ』って提案されたんだよね」
 リンハルトはぽつり、ぽつりと言葉を紡いでいく。シェズは相槌も打たず黙って聞いていた。
「でも、それだとカスパルを裏切るみたいだし、カスパルもいい気分はしないだろうって、最初は悩んだよ。カスパルが僕を試してるんじゃないかって可能性も考えた。でも、居心地の悪い距離感のままじゃいつか破綻してしまうんじゃないかって不安だし、このまま我慢し続けてカスパルを襲ってしまうようなことがあったら僕が後悔する。だから思いきって、他の人と性交することで性衝動を発散させられないかって思ったんだ」
「それで私に声をかけたってわけね」
 シェズはリンハルトの提案の意図を理解して頷いた。
 恋人を前にして性衝動を我慢するのは生半可なことではないのだろう。だが彼はそれを乗り越えて、カスパルに嫌われる可能性をも覚悟して、シェズに相手を頼んできたというわけだ。
「誤解を与えたくないから先に言っておくけど、僕はなにも手近にいたのが君だからって理由で君に頼んでるわけじゃない。僕は君のこともすごく好きだ。信頼もしている。本当だよ。もちろん、君ならこの提案を受け入れてくれる可能性があると踏んだからというのもあるけど」
 シェズは自分が性に奔放なほうであるという自覚はある。
 誰でもいいというわけではないが、ある程度の好意がある相手に対しては性行為への抵抗が希薄になるのだ。それはおそらく、多くの他人が「性行為を許容する距離感」よりも広いのだろう。それを他人は「奔放」と呼ぶ。
「カスパルのことがすごく好きなんだ……好きで、好きで仕方ないから、嫌われたくない。でも、性衝動にも抗えないんだ。食事や睡眠を求めるように、体がそれを求めてしまう」
 リンハルトは切々と、まるで懺悔をするように告げる。
 自分に対してリンハルトが告げる「好きだよ」の軽さと比較してしまい、シェズの胸中には苛立ちのような感情がうっすらと灯ったが、それは燃え上がることはなく凪ぐようにして鎮火した。相手がカスパルだと思うと、なぜかしょうがないという気持ちになってしまったからである。
「まあ、私は構わないわよ。私もあなたのことは好きだしね」
 シェズは脚を組み直しながらリンハルトに婀娜っぽく微笑みかけた。
 正直に言ってしまうと、シェズはリンハルトの「護衛としてヘヴリング邸に住む」という提案を受け入れた時点で、彼と肉体関係になる可能性を視野に入れていたのである。
 もっと言うなら、恋愛関係を含めたものを想定していたのだが――ヘヴリング邸で働き始めてからほどなくして、カスパルとの親密さをこれでもかと見せつけられたために、その可能性を除外することとなったのだ。
「ただし」
 シェズはそこで一度言葉を切り、リンハルトをまっすぐに見つめて告げる。
「私はあなただけじゃ物足りないかもしれないし、女の子とやりたくなるときもあると思う。そのときはそうさせてもらうつもりだけど、あなたはそれで構わないかしら?」
「もちろん。君がほかの人と関係を持つことを僕が管理する資格はないし、君がこの関係を解消したくなったときは君の意思を尊重するつもりだよ」
 リンハルトは即答した。シェズの言葉に動揺する様子は全くない。彼にとって、シェズが他の相手と性交することは想定の範囲内だったのだろう。



 配給された給仕服の裾をひらめかせながら、シェズはヘヴリング邸の廊下をゆっくりと歩く。
 シェズの最大の武器は剣術の腕でも闇魔法の手腕でもなく、無防備を装える点である。虚空から現れる双剣は魔力を介したものではないため、敵の魔法によって攻撃手段を奪われることもない。
 屋敷のいたるところに立つ重厚な鎧を纏った騎士たちは、その存在を主張することで抑止力として働いている。逆に、シェズは警備の者だと気づかれるような装いでは最大の武器を生かせない。
 そういった理由から渡されたのがこの給仕服である。
 とはいえ、もともと傭兵くずれでしかないシェズに給仕としての仕事は求められていない。
 その代わりに「普段は足音や気配を消して歩かないこと」「体つきから剣士であることがばれる可能性があるため、露出の高い服は着ないこと」といった、ある意味では難題とも言える要求をされていた。
 シェズに渡された給仕服も、首元から手首や足首までもが隠れるような意匠である。開放的な服装を好むシェズにとってはいささか煩わしくはあるが、敵を油断させるには適していると言えた。
 あれから、リンハルトはなんの音沙汰もない。
 自分から提案しておいてなんなのだ、もしかしてまたからかわれたのか――そう勘繰ることもあったが、あのときのリンハルトの切々とした口調を思い出すと、冗談だと流すのも失礼な気がした。
「シェズ、話があるんだけど」
 書斎の扉を開いて中に足を踏み入れたところで、室内にいたリンハルトに呼び止められる。シェズはいつも決まった時間に決まった場所を巡回しているため、それを見越して待っていたのだろう。
「カスパルが帝都に帰ってるんだって。彼をここに招いて君の紹介をしたいと思うんだけど、いいかな?」
「紹介? カスパルに私を?」
 なにを今更――シェズの抱いた疑問が顔に出ていたのか、リンハルトは言葉を付け足した。
「僕の性交の相手としての紹介って意味だよ」
「……それ、カスパル本人に言っていいことなの? あてつけだと思われるんじゃないかしら」
「カスパルはそんな性格じゃないよ」
 リンハルトは苦笑すると書斎の椅子から立ち上がり、机上にあった一通の手紙を手に取った。
「……でも、カスパルがいい気分にならないのは確かだと思う。僕はそれでも、カスパルにはきちんと伝えておきたいんだ」
 リンハルトは手紙を封筒に差し入れ、封蝋でしっかりと封をする。その手紙が、おそらくはカスパルに宛てられたものなのだろう。
 わざわざ招かなくても待っていればカスパルはいずれヘヴリング邸を訪れるはずだ。だが、リンハルトはあえて招くことによって「用事がある」という意思を示したいに違いない。



 翌日、カスパルはヘヴリング邸を訪れた。
「よう、リンハルト!」
「久しぶりだね、カスパル」
 応接間へと通されたカスパルは、リンハルトの姿を見て笑顔を浮かべる。それから飼い主にじゃれつく犬のようにリンハルトに抱きついたあと、用事があることを思い出したのかやっと椅子に腰を下ろした。
「君に提案されてから、僕の相手をしてくれる人を探してたんだけど……シェズが引き受けてくれることになったんだ」
 護衛として横に立っていたシェズを手で示しながら、リンハルトはカスパルにそう説明する。
「えっ……相手って、シェズなのかよ」
 カスパルはリンハルトとシェズを交互に見ながらぱちぱちと目を瞬かせた。もともと童顔のカスパルだが、こういった表情をするとより幼く見える。
「うん。シェズならカスパルとも仲がいいし、君を不安にさせにくいかなって……どう、嫌かな?」
 様子を伺うように訊ねるリンハルトにカスパルは首を横に振った。
「いや、シェズがいいならオレも構わねえけどよ。わざわざこんなふうに改まって紹介されるとは思わなかったぜ」
「だって、カスパルに黙ってこそこそ会うなんて真摯じゃないじゃないか。カスパルが嫌だって言うなら、シェズには謝ってこの話はなかったことにしてもらうつもりだった」
 リンハルトはさも当然と言わんばかりの態度で答える。
 シェズとカスパルは二人して顔を見合わせたあと、リンハルトに視線を戻した。
「……なんつうか、お前って本当にオレのこと好きなんだな」
「当たり前じゃないか。カスパルだって、気分はよくないだろうけど僕のために提案してくれたんでしょ? 本当に嬉しいよ、ありがとう」
 カスパルに誠意が伝わったことに安堵したのか、リンハルトは柔らかな笑みを浮かべる。
「その……改めて、よろしく頼むぜ、シェズ。リンハルトのこと、任せたからな」
「ええ、こちらこそよろしくね」
 カスパルは気恥ずかしそうに頬を搔いてシェズに向き直った。目の前で堂々と惚気られた気分になりつつ、シェズも改めてカスパルに挨拶をする。
 シェズと彼らとの関係は、あくまで利害の一致で結ばれた契約に過ぎない。
 それでもカスパルにリンハルトを託されたという事実は、シェズにとって誇らしいことだった。カスパルがそれだけ自分を信用してくれているという証左のように感じられたからだ。



 リンハルトはカスパルの留守中にシェズを抱き、カスパルが訪れたときはカスパルを自室に招いて二人で眠りにつく。
 後ろめたさからなのか、リンハルトは自室ではシェズを抱かなかった。シェズに一人部屋をあてがって、数日に一度の頻度で行為に及ぶのだ。
 リンハルトはカスパルと一度も性行為をしていないと言ったが、シェズが認識しているだけでもリンハルトは片手で数えられないほどカスパルと寝所を共にしている。
 すぐ隣に性愛の対象が無防備に眠っていて、その体温や吐息を感じられる距離にいながらも、リンハルトはずっと耐え続け、文字通り「一緒に寝る」ことだけに徹していたということか。
 その我慢強さに敬服しながら、半年ほど関係を続けた頃のことだった。
 リンハルトが自室にいる気配がないので、シェズは彼を探すために応接間の扉を開けた。すると、そこには長椅子に座ったカスパルと、彼の膝に乗ったリンハルトの姿があったのだ。
 カスパルはリンハルトの背中を撫でさすりながら、その首筋に顔を寄せてなにかを囁いている。カスパルの言葉に対してリンハルトは心地よさそうに目を細め、ときおりカスパルの空色の髪を愛おしげに梳いていた。
 シェズには決して見せない、リンハルトの甘やかな表情と仕草――それを見た途端、シェズの心に湧いたのは嫉妬でも悲しみでもなく安堵だった。
 シェズの存在は、彼らの関係を損なうものではないのだ。カスパルとリンハルトを繋げる絆のひとつとして、シェズの存在は認められている。
 シェズは音を立てないようにそっと扉を閉め、踵を返して自室へと戻った。



 それから更に数節が経った。
「カスパル、もう一節も帰ってないんだって?」
 いつものようにヘヴリング邸で警備の任務にあたっていたシェズは、仕事の合間にリンハルトに訊ねた。
 各地を回って旅をしているカスパルは、長期間帝都に戻らないことも多かった。戻った際はいつもヘヴリング邸に顔を出すのだが、その姿を見なくなってから一節が経過している。
「手紙のやりとりくらいはしてるの?」
「いや、まったく。ああ、ベルグリーズ伯とはしてるみたいだけど」
 リンハルトは相変わらずの眠たげな表情で言葉を続けた。
「心配しないの?」
「まあ、一節くらいならね。もしものことがあったらベルグリーズ伯経由でうちにも連絡がくると思うし」
 リンハルトは手にした本から視線を外さないまま答える。
「……カスパルって、あなたのこと信頼しているのね。私がここに住んでるってことは知ってるのに、ずっとあなたに会いにこないなんて。まあ、私も信用されているって自惚れてもいいのかしら」
 大切な存在がいればこそ、人は不安になるものだ。その相手が自分を裏切らないか、自分から離れてしまわないかという懸念に心が支配される。そして、それが「恋」や「愛」と呼ばれるものの一部でもあった。
「まあね。カスパルは僕のことを信用も信頼もしてくれてるし、僕に対して誠実であろうと努力してくれているから」
 リンハルトの言葉からは、自分がカスパルの一番近くにいるという自信が感じられる。だからこそ、この状況においても不安に駆られることがないのだろう。
「……まあ、呆れられた可能性もあるのは否定できないけどね。そのときはそのときだよ」
 リンハルトは読んでいた本をぱたんと閉じて机に置き、背後に立っていたシェズに向き直った。
「あんなにカスパルに嫌われたくないって言ってたのに、随分あっさりしてるのね」
「仮定の話で一喜一憂しても仕方ないからね」
 リンハルトは淡々とそう告げたあと、本を持って立ち上がった。本棚に向かうその背から、シェズに対して更に言葉が続けられる。
「君と僕との関係はもう屋敷の使用人たちにはほとんど知れ渡ってるみたいだね。まあ、一人部屋をあてがった時点でこうなるとは思ったけど」
「言っておくけど、私は他言してないわよ」
「わかってるよ。君がそんな人間なら最初から頼んでないからね」
 リンハルトは振り返ってシェズに視線を向けた。
「僕は傍から見れば、恋人が留守なのをいいことに使用人に手をつけている放蕩貴族ってやつなんだろうね。あるいは、男に飽きて女に鞍替えした薄情者と思われているのかも」
「まあ、否定はできないわよね。私たちの関係を他人に説明するのも難しいし」
 リンハルトの自嘲的な言葉にシェズは苦笑する。
 リンハルトは他者からの評価を気にする性質ではないし、リンハルトの提案を受け入れた時点で下世話な噂が立つことはシェズも覚悟していた。
 リンハルトにとっては、自身の評価よりもカスパルとの関係を維持することのほうが大切なのだろう。それはある種の献身にも見えて、シェズは少しだけカスパルが羨ましくなった。






 そんな会話を交わした数日後のことだ。
 見回りのために屋敷の中庭を歩いていたシェズは、遠くから響く蹄鉄の音に耳を澄ませる。その音は門で一度止まったあと、庭を通過して厩へと向かったようだった。
「誰かしら。来客があるとは聞いてないけど……」
 来客の予定があるのであれば、屋敷の使用人たちにも伝達されるはずだ。シェズは訝しみながら音の聞こえるほうに向かって歩いていく。
 連絡もなくヘヴリング邸に訪れて、それでいて門番に咎められない――その条件を満たす者と言えば、シェズの知る限りでは数人しか思い浮かばなかった。
「よお、シェズじゃねえか! 久しぶりだな!」
「カスパル、戻ってきてたのね」
 案の定と言うべきか、勝手知ったるといった様子で厩を利用していたのはカスパルだった。
 カスパルは旅衣のまま、鞍も外さず馬の背からひらりと飛び降りる。荷物も馬の背に乗せたままなあたり、ベルグリーズ邸には寄らずまっすぐにヘヴリング邸に馬を走らせたらしい。
「しばらく見ないから、どこかでのたれ死んでるんじゃないかって心配してたのよ」
「ひっでえな! オレはそんなにやわじゃねえよ」
 軽口を叩き合っていると、ヘヴリング邸の従僕が慣れた様子でカスパルの荷物を受け取り、汚れた外套を脱がせて屋敷の玄関へと先導する。
 「奉仕されること」に慣れたカスパルの所作に、彼もまた貴族であったことをシェズは今更になって思い出した。
「リンハルトも待ってるわよ。あなたが帰ってくるのを楽しみにしてたんだから」
 シェズの言葉にカスパルは決まりが悪そうな表情を浮かべる。
「あー……まあ、後でな」
 歯切れの悪い返答に、シェズは訝しげに首を傾げた。その様子を見て、カスパルは困ったように頭を搔く。
「なんつうか、あいつ怒ってねえかなって思ってよ……」
「リンハルトがあなたを?」
 よくよく考えると、二人が喧嘩をしたところをシェズは見たことがなかった。
 心当たりがあるとすれば、カスパルが「首のない騎士を見た」と騒いだときにリンハルトが強く反論した出来事くらいか。
 いつものリンハルトであれば「そんなものいるわけないでしょ」で流しそうなところを、そのときは強い語気で反論していたため印象に残っていた。
 後になって、リンハルトが心霊現象の類を怖がる質だと知って納得したものだ。
「ややこしい時期に長期間留守にしちまったからなあ」
「私が知る限りだと、別に怒ってなかったわよ」
「そうか? いや、まあ……それならいいんだけどよ」
 カスパルはどこか歯切れの悪い様子で頭を搔く。
「もう、ここに来ておきながらなんなのよ。本当は会いたいんでしょ? とっとと会ってきなさいよ」
 シェズが呆れながら扉を指差すと、カスパルは「わかったよ」と苦笑しつつ屋敷へと入っていった。
「シェズは、リンハルトから何か聞いてねえのか? その、オレに対する文句とか……」
 ヘヴリング邸の廊下を歩きながら、カスパルはシェズに訊ねる。
「食べ物を飲むように食べるのはやめるべきとはよく言ってるわね。あと、危険なことに首をつっこむのもやめてほしいみたい」
 食事の仕方に関しては、それはもう呆れるほど何度も言っていた。「前にこんなことがあった」「このときもこうだった」と、「カスパルの危険な行動列伝」のような思い出話を聞かされた回数も少なくない。
 しかし、よくよく聞けばそれらの愚痴もカスパルの健康や身の安全を危惧してのものだ。
 あれはもしかして、愚痴のような口調で惚気られていたのではないか――シェズはカスパルに説明しながらその可能性に思い至った。
「そういうのじゃなくてよ。その……オレが、リンハルトに『オレじゃないやつとしてもいいんだぞ』って言ったから……オレがリンハルトのことを嫌いになったと思われてるんじゃねえかって」
 カスパルはいつになく不安げな様子で声を震わせている。
「今更そんなことを気にしてるの? だとしたら、わざわざあなたに私のことを『性行為をする相手です』なんて紹介しないでしょ」
 確かにカスパルがリンハルトに告げた言葉は、リンハルトの愛情を拒否する、あるいはリンハルトへの愛情を否定するものと捉えられかねない。
 実際、シェズもリンハルトから話を聞かされたときにその可能性を考えた。だが、カスパルの様子を見た限りリンハルトへの愛情が冷めたというわけではなさそうだ。
 そうであったなら、こんなにも心配そうな、不安そうな表情は見せないだろう。
「時間が経ったからこそ不安なんだよ。リンハルトが、その……やっぱり性交ができる相手のほうがいいって言い出したらって……」
「それなら、リンハルトに直接訊いてみたら? 私に訊いても仕方ないでしょう」
 シェズがそう告げると、カスパルは困ったように眉間に皺を寄せた。そして、しばらく沈黙したのちに再び口を開く。
「昔からこうなんだよな。誰かとそういう仲になっても、いざ行為に誘われると億劫になっちまうっていうか、嫌な感じがしちまって……それを伝えるとみんな『あなたは私のことが好きじゃないのね』なんて言って離れてくんだ」
 当時のやりとりでも思い出したのか、カスパルは深いため息をついた。
 カスパルの口から性愛に関する話題が語られるのは不思議な気分ではあったが、それはカスパル自身が忌避していたのも大きいのだろう。シェズはそんなことを考えつつカスパルの話に耳を傾けた。
「変な話だよな。愛情がなくたって性交をできるやつはたくさんいるじゃねえか。それなのに、性交ができないと愛情がないって思われちまうなんてよ」
 カスパルがリンハルトに愛情を抱いているのは本当なのだろう。だが、その感情は性欲に直結していないのだ。
 カスパルの言葉をシェズがそう受け取ったのは、シェズにも思い当たる節があるからだった。
 シェズにとって性行為は抱擁や口付けの延長上にある「親愛を示す行為」であり、これはカスパルの感覚とは反対と言える。それと同時に、カスパルを拒絶してきた人々とも異なると言えた。
 多くの他人にとって性行為は抱擁や口付けの延長上ではあるものの、それと同時に「特別な相手としか行わないもの」でもある。そのため、性行為をすると「自分は相手にとって唯一絶対の存在である」といった認識を与えてしまうのだ。
 だが、シェズにとってそれは「特別な行為」ではない。それこそ、抱擁や口付けと同じように、親しい相手への親愛の証として行うものだった。なんだったらカスパルとでもできる。
 その認識の違いによって、揉め事になったことがシェズには何度もあった。
 かと言って誰でもいいわけではないのだが、多くの他人は「親しい相手としかしない人種」と「誰でもいい人種」の二種類しか認識していないらしい。そのため、後者であると誤解されがちなのが現状だった。
「リンハルトとは、うまくやっていきたいんだ。だから、オレはしていいって言ったんだよ。相手が女のときはオレが動かなきゃならないから無理だったけど、相手が男なら我慢してればなんとかなるかと思ってさ。でも、リンハルトはオレの嫌がることは絶対にしないって言って、結局なにもしなかった」
 そこまで言って、カスパルは立ち止まった。
「オレにはわかんねえけど、性衝動を我慢するのってつらいんだろ。腹が減っていて、目の前に好物の食べ物があるのに、それを我慢するみたいな感じか?」
「まあ、そんなところかしら。どうしようもなくお腹が空いたときは、誰かから奪ってでも食べ物を摂取しようとする人もいるわよね。性衝動もそれと同じじゃないかしら。あなたも、戦場にいたなら少しは心当たりあるでしょ?」
 性に関する知識に乏しいとはいえ、カスパルも戦場に立っていた武人だ。戦場で理不尽な暴力が氾濫していることは理解しているだろう。
「リンハルトはすごく我慢してるんだと思うわよ。私に話を持ちかけてきたときも、『カスパルに嫌われたくない』って泣きそうだったもの」
 シェズの言葉にカスパルは「そうなのか」と驚いたように目を丸くした。
「リンハルトはオレと一緒に寝るとつらいって言うか……したくなっちまうらしくてさ、しばらくオレと寝るのを避けてたんだ。でも、シェズが相手してくれるようになってからはまた一緒に寝れるようになった。たぶん、発散できるようになって我慢が利くようになったんじゃねえのかな」
 リンハルトはカスパルを傷つけないために距離を取っていたようだが、それはカスパルにとってもつらいことだったのだろう。
 肉食動物と草食動物が共存しようとしているような、そんな不均衡な関係を二人は理性と信頼で保とうとしているのだ。それは、言葉上での不確かな約束よりもよっぽど強固な絆と言えるのかもしれない。
「オレはリンハルトとまた寝れるようになって嬉しいし、リンハルトもたぶん、つらいのが軽くなって助かってるんじゃねえのかな。だから、シェズには本当に感謝してるんだ」
 カスパルはシェズに向かって深々と頭を下げた。
 カスパルにまっすぐな視線を向けられると、不思議と気恥ずかしい気持ちになる。その感情をごまかすようにシェズは口を開いた。
「まあ、礼を言われるようなことなのかはわからないけど……世間一般的な感覚だと、私たちの関係は理解し難いものだと思うわよ」
「それでも、オレはお前に礼を言わなきゃならねえ。ありがとうな」
 カスパルの真摯な瞳に、シェズは再びたじろいでしまう。この屈託のない瞳を、リンハルトはいつもどのように受け止めているのだろうか。
「オレ、リンハルトにとっていい恋人じゃねえかもしれねえけどさ。あいつがいいって言ってくれる間は、あいつに甘えようと思う」
 そう言って笑うカスパルはどこか憑き物が取れたような雰囲気だった。
「リンハルトはオレにとって一番の親友で、恋人で……大切な存在なんだ。オレがリンハルトに向けている気持ちと、リンハルトがオレに向けている気持ちは違うものなのかもしれねえけど、リンハルトはそれでもいいって言ってくれてる。だから、あいつがオレのことを好きでいてくれる間はそれに応えたいと思う」
 カスパルがリンハルトに向ける情は、確かに愛と呼ぶには純粋すぎる。恋と呼ぶにはあまりにも真っ直ぐで、友情と呼ぶにはいささか重い。おそらく、その感情は恋慕や友愛といった既存の言葉では言い表せないものなのだろう。
「あれ、カスパル。帰ってきてたんだ」
 惚けたような高い声に振り向くと、通路の向こうからリンハルトが歩いてくるところだった。
「お、リンハルト! 久しぶりだな!」
 カスパルはぱっと表情を明るくしてリンハルトに駆け寄っていく。二人は久々の再会を喜び合い、抱擁を交わしては額や頬を啄み合った。
「戻ってくるなら連絡のひとつくらいくれればよかったのに」
「悪いな。手紙を出すより馬を走らせた方が早いと思ってよ」
 リンハルトが不満げな声を上げる。それに対して、カスパルは困ったような表情を浮かべるだけだった。
「そうだ、お前に土産があるんだよ。ほら」
 カスパルは荷物の中から一冊の本を取り出してリンハルトに手渡した。
 フォドラの言葉で書かれた本ではないのだろう、見慣れぬ記号のような文字で記された本は、しかしその装丁からして紋章学に関する本であることがわかる。
「これ、パルミラの学者が書いた紋章学の本かい? 驚いたな、君がこんな気の利いたことをするなんて」
 リンハルトは目を丸くしてカスパルからその本を受け取る。シェズには解読不能なその文字を、リンハルトは一目でパルミラ語であると認識したらしい。
「旅に発つ前にシェズから教えてもらったんだ。恋人にはこういうのを贈ると喜ばれるんだろ?」
「ちょっとカスパル、そこまで言わなくていいのよ。自分の発案ですって顔してなさいよ」
 シェズが慌てて口を挟むと、カスパルはきょとんとした表情で首を傾げた。その後ろで、リンハルトが肩を震わせて笑っているのが見える。
「なるほど、シェズの発案か。君はこういうの得意だもんね。まあ、ありがたく受け取っておくよ」
 リンハルトはカスパルが贈った本を大事そうに胸に抱えた。
「それはそうと、今日は泊まってくのかい?」
「ああ、しばらくゆっくりしていこうと思ってよ。でも急に来ちまったし、無理そうだったらうちの屋敷に泊まる」
「問題はないよ。使用人たちももう慣れてるし、カスパルをもてなすことに関しては一家言あるからね。今夜は君の帰還祝いで宴会でもしようか」
「そりゃ楽しみだぜ!」
 リンハルトの提案にカスパルが破顔する。
 それから三人はお互いの近況を語り合ったり、今後についての意見を交わしたりと穏やかな時間を過ごした。
 夜になると、屋敷の者たちだけでささやかな宴会が開かれた。
 使用人たちはリンハルトとカスパルおよび、リンハルトとシェズとの関係を察しているだけあって、カスパルとシェズが並んで食事をする姿に居心地の悪そうな表情を浮かべている。
 この屋敷で働き続ける以上、悪評が立つのはシェズにとって好ましくはない。なにより、カスパルと不仲であると思われてしまうことが心外であり不快だった。
「ねえ、カスパル。ここに口付けていい?」
 シェズは手にしていた酒杯を卓上に置き、自身の頬を指で示しながらカスパルに訊ねる。
「え? 別にいいけど……」
 カスパルが戸惑いつつも了承すると、シェズは席を立ってカスパルの頬に口付ける。使用人たちがざわめくのを聞き流しながら、シェズは口角を上げて微笑んだ。
「ええ……? 君らそんなに仲良かったの? なんか妬けちゃうんだけど……」
 シェズの行動に驚いたのはリンハルトも同じだったらしい。
「妬けるって、どっちに? 私? カスパル?」
「両方かな……いや、妬けるっていうより羨ましいかも」
「なんだよそれ」
 シェズとリンハルトのやりとりにカスパルは笑い声をあげる。使用人たちも、その笑い声につられるように表情を和らげた。
 リンハルトとカスパルは杯を傾けながら、離れていた期間に何をしていたかを語り合い始める。シェズは葡萄酒を口に運びつつ、そんな二人の姿を遠くから眺めていた。
 二人はお互いを大切に思い、愛しく思い、だからこそ一緒にいられないこともある。だが、それでも二人は寄り添い合っているのだ。
 それは傍から見れば奇異な関係に映るのだろうし、「そんなものは愛情ではない」と否定する者もいるのだろう。だが、それは当人たちが決めることだ。
 それから夜も更け、酒宴は自然とお開きとなった。使用人たちもそれぞれに与えられた部屋へと戻っていき、広間にはカスパルとリンハルトだけが残される。
 カスパルは酔いが回って眠そうにしており、リンハルトに寄りかかって居眠りを始めていた。
「あら、酔い潰れちゃったの」
「長旅のようだったし、疲れているのかもしれないね」
 リンハルトはそう言って、カスパルの頭をぽんぽんと叩く。それはまるで幼い子供を寝かしつけるような仕草で、シェズはその姿を微笑ましく見つめていた。
「君、カスパルのこと好きなんだね」
 リンハルトが不意にそうつぶやいたため、シェズは驚いて顔を上げる。
「どうして?」
「だって、カスパルのことすごく優しい目で見つめてるから。恋してるみたいだなって」
 リンハルトに指摘されて初めて、シェズは自分自身がカスパルに向けている眼差しに気が付いた。
「まあ、恋なのかはわからないけど。好きだとは思ってるわよ」
「そっか。よかった」
 リンハルトは安心したように微笑む。それは、いつもどこか斜に構えた言動をする彼にしては珍しい表情だった。
「いいんだ?」
「いがみ合われるよりは遥かにいいよ」
「あなた、以外と自惚れ屋なのね。カスパルが私に嫉妬するような性格かしら。それとも私をそういう人だと思ってる?」
「さあ、どうかな」
 リンハルトは悪戯っぽく笑って、カスパルの頭をひと撫でした。その指先が慈しむように髪に触れるのが、シェズには妙に羨ましくも感じられた。



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