ペアエンド妄想短編集


+ドロテア/×ヒルダ/×ベルナデッタ/×アネット/×エーデルガルト





 カスパル+ドロテア


(※二人は生涯を共にできるほど親密な仲ではあるものの、性的・恋愛的な間柄ではないクィアプラトニックな関係なのではないかという解釈に基づいた話です)



「ほら、持ってて」
「買いすぎだぞお前。もうしまうところねぇだろ」
 市場での買い物を終え、大量の荷物を腕に抱えたカスパルが不満を漏らす。
 首都アンヴァルから離れた小さなこの村では、カスパルが軍務卿の息子であることや、ドロテアが「奇跡の歌姫」であることを知るものはいない。
 二人がその地に小屋を建て、ひっそりと移住してから数年が経っていた。
「ふふ、カスパルくんが力持ちでよかったわ」
「お前なぁ……」
 ドロテアが大量の食材を押し付けても、カスパルは文句を言うだけでつっぱねはしなかった。二人並んで仲睦まじく帰路につく姿は、傍から見れば恋人か夫婦に映るのだろう。
「おや、綺麗な嫁さん連れてるな兄ちゃん。大切にしてやれよ」
 そんな二人の姿を見停めた行商人が、カスパルにからかいの言葉を投げかける。
 カスパルはきょとんと目を瞬かせたあと「そういうんじゃねえけど……」と言いかけたが、途中で諦めたように口を噤んだ。こいった誤解を受けるのは、もはや何度目かわからないほどだったからだ。
「やっぱり、二人で買い出ししてると夫婦だと思われるな。もう慣れたからいいけどよ」
「まあ、そんなものよ」
 帰宅したカスパルは荷物を机の上に下ろしながらひとりごちた。慣れた手つきで暖炉に火を熾し、湯を沸かす準備を始める。
 二人が士官学校で出会ってから十年以上の時が流れていたが、カスパルが色恋沙汰に興味を示さないのは相変わらずだった。
 当時カスパルとドロテアが二人でお茶をしている姿が、ほかの者たちに逢い引きだと思われていたことすら彼は知らないのだ。
「そんなもん、か。まあ、お前もヒューベルトにエーデルガルトが好きなんだろうとか言ってたもんな」
「ちょっ……ヒューくんから聞いたの!?」
 思わずドロテアが取り落としそうになった紅茶の容器を、カスパルの手がすかさず受け止める。
「もう、昔の話なんだからいいでしょ」
 カスパルから容器をひったくったドロテアは、ごまかすように紅茶に砂糖を放り込んでゆく。
 カスパルとドロテアを夫婦だと思い込んでいる村の老人たちから「子供は作らないのか」などと頻繁に訊ねられるようになったいま、あのときのヒューベルトの煩わしさがドロテアにも理解できるような気がした。
「そういや、リンハルトのやつ結婚するらしいぜ」
「まあ、リンくんが?」
 カスパルは音を立てて紅茶を啜ったあと、思い出したようにリンハルトからの封書を取り出す。
 帝都から離れたいまもカスパルとリンハルトの仲の良さは変わることがなく、不定期に手紙のやりとりも交わしていた。
「あいつもそういうのに興味ないほうだと思ってたから意外だったな」
「あら、カスパルくん知らないの? リンくん、あれでかなりの女たらしなのよ?」
 ドロテアの言葉に今度はカスパルが驚いた表情を浮かべる。
 リンハルトの歯が浮くような口説き文句は一部のあいだでは有名だったが、色恋沙汰への興味のなさからかカスパルの耳には届いていなかったようだ。
「……カスパルくんも、結婚したいって思うことある? 例えば、私と……とか」
「いや、別に思わねぇけど」
 遠慮がちに問いかけるドロテアに、カスパルは不思議そうに小首を傾げてそう返した。「奇跡の歌姫」に求婚まがいのことを言われてこのような素っ気ない返事をできる男もそうそういないだろう。
「ふふ、そうよね」
 予想通りの返答にドロテアは苦笑した。
 カスパルはドロテアと同居しているというのに、相変わらず色気のある言葉ひとつ言わず行動も起こさない。
 自分が幸福な未来を手に入れるためにはお金と愛情が必要であり、そのためには貴族と結婚する必要がある――
 そう考えていたドロテアにとって、いまや貴族でもなく恋愛にも興味を持たないカスパルとの生活は、自分の価値観を大きく変えるものだった。
 しかし、それがドロテアにとって心地がいいこともまた確かだった。
「でも、お前がしたいってんなら構わねえぜ。前にそういう話もしたもんな」
「……別にいいわ。結婚するだけが幸せってわけじゃないものね」
 ドロテアはそっと茶器を皿の上に置く。
 互いがいい年齢になったとき双方に伴侶がいないのであれば、結婚という道もあるかもしれないという話はしたが――いまとなっては、わざわざ結婚という形式にこだわる必要もないように思えた。
 貴族の男に媚びて、相手の機嫌を窺いながら関係を築くよりも、こうして気の置けない相手と過ごす毎日のほうが、ドロテアにはずっと幸福に感じられたからだ。
「リンくんの結婚式、楽しみね。私も久しぶりに礼服を着ようかしら」
「いいんじゃねぇか? そうでもないとあんま着る機会ないしな」
 紅茶を啜りながら、カスパルは屈託のない笑みを浮かべる。
「ふふっ、楽しみね。……花嫁用の礼服は、ちょっと着てみたかったな」
 ぼそりと呟いた言葉は、幸いにしてカスパルの耳には届かなかったようだ。不思議そうに首を傾げている彼に「なんでもないの」と返しながら、ドロテアはまた紅茶を啜るのだった。






 カスパル×ヒルダ


 カスパルとヒルダが旅に出て数節――気ままな二人の悠々自適な旅が幕を閉じたのは、ヒルダの兄であるホルストからの呼び出しが理由だった。
 レスター最強と謳われるホルストに会えるとあってカスパルは高揚を隠せないでいたが、かくいうホルストはと言えば、かわいい妹を連れ出した不届き者を成敗するべく鬼の形相で待ち構えていたのである。
「クロードくんのお母さんの話を聞いてから、こういうのに憧れてたんだよね~。二人きりの逃避行、迫り来る追手……みたいな」
「はあ……お前はなんか楽しそうだよなあ」
 ホルストにこってりと絞られて心身ともに疲弊したカスパルは、楽しげに揺れるヒルダの髪を恨みがましく見つめる。
「なんだか疲れてるわね~。兄さんとなんの話してたの?」
「いやさ、なにもしてねえって言ってるのに、お前の兄さんときたら聞いてくれねぇんだ。まあ、ゴネリル家の令嬢を連れ回したのは事実だけどよ……」
 なにやらホルストに誤解を受けたカスパルは、突然呼びつけられたあげく根掘り葉掘り詰問されたらしい。その果てにようやく解放されたときには、既に日が落ちようとしていた。
「話し合っても埒が明かねえから最終的に拳で殴り合うことになったんだが、それでもなかなか決着がつかなくてさ。なんで殴り合ってたのか忘れたときくらいにお前の兄さんが『私と互角に渡り合うとはなかなかの猛者だな! 気に入ったぞ』とか言い出して」
「……兄さんもカスパルくんも相変わらずねえ」
 ヒルダからすれば、話し合いの末になぜ殴り合いになるのかも、なぜそこから和解できるのかも理解しがたい。
 かと言って、それを咎めるつもりも彼女にはなかった。理解こそできないものの、カスパルや兄の快活さは好ましいと思っていたからだ。
「でさ、そのあと『ヒルダとの結婚を認めよう!』なんて言うんだぜ」
「ええ? ……兄さん、なにか誤解してるみたいね。あたしのことになるとすぐ熱くなるんだから~。まあ、兄さんはカスパルくんをよく知らないから、そう思われても仕方ないか~」
 ヒルダは困ったように肩をすくめる。
 カスパルとヒルダは共に旅をする間柄ではあったが、いわゆる男女の関係というものではなかった。
 男女が寝食を共にしている以上そういった誤解を受けることはヒルダには想定内であったが、色恋沙汰に疎いカスパルにとってホルストの発言は不可解だったようだ。
「……でも、ふふっ、こういうのいいなあ」
「いい? なにがだ?」
 上機嫌に笑うヒルダにカスパルは首を傾げる。
「だってカスパルくんがあたしと結婚するために兄さんと決闘しただなんて……舞台の物語みたいで素敵だもの」
「いや、順番が違わねえか……? まあ、いいけどよ」
 ヒルダは夢見る少女のようにうっとりとした表情を浮かべるが、浪漫とは無縁のカスパルに彼女の気持ちはわからないようだ。
「それで、カスパルくんはどうするの?」
「なにがだ?」
「あたしと結婚する許可を兄さんに貰ったんでしょ? 結婚、しちゃう?」
 ヒルダは上目遣いで甘えるように訊ねる。このような愛らしい仕種をしたところで、カスパルがときめくことはないのは重々承知ではあったが。
「しねえ」
「なんで?」
「いや、結婚ってよくわかんねえし……覚悟もねえのにしていいものでもないだろ?」
 カスパルの返答はヒルダにとって意外なものだった。カスパルは結婚自体に抵抗があるわけではなく、むしろその行為の意味を彼なりに考えているらしい。
「そう? あたしはカスパルくんと一緒にいられると楽しいし、結婚してくれるなら嬉しいけどな~」
 これは押せばいけるかもしれない――それを察したヒルダは、その行為によって自分が喜ぶということを強調して伝える。
「……そうなのか?」
「そうよ~」
 かわいらしく首を傾げるヒルダに、カスパルは照れくさそうに頬を掻いた。
「そっか……じゃあ、結婚……してみるか?」
「するの? ふふ、嬉しいな」
 ヒルダは顔を綻ばせると、カスパルの腕に自らの腕を絡める。
 後日、カスパルは正式にゴネリル家の騎士として登用されることとなり、二人はゴネリルの邸で共に暮らすこととなった。
 男女の営みのいろはなど知らないカスパルが、ヒルダの指南を受けながら日夜奮闘する姿は、やがてゴネリル邸の名物となるのだが――カスパル本人がそれを知っていたのかはついぞ不明である。






 カスパル×ベルナデッタ



 フォドラ全土を揺るがす戦争はアドラステア帝国の勝利という形で幕を下ろした。
 各地では戦後処理などが行われ、帝国将として戦っていた者たちもまた忙しい日々を送っている。
 そんな日々がひと段落しようというある日、ベルナデッタは勇気を振り絞ってカスパルに訊ねてみた。
「あ、あのですね、いろいろ落ち着いたあと、カスパルさんは何かする予定あるんですか?」
 中庭で休憩を取っていたカスパルはふいの質問に目を瞬かせる。だがすぐに言葉の意図を理解したらしく、快活な笑みと共に口を開いた。
「ああ……旅に出ようかと思ってる」
「た……旅!?」
 思いもよらぬ返答にベルナデッタは顔を青ざめさせる。
「そ、そんな! カスパルさんがいなくなっちゃうなんて……」
 本人的には心の声だったそれが自身の口から発せられていることなど気づかないまま、ベルナデッタは言葉を続けた。
「えーっと、それは何日くらいの……?」
「さあ。あちこちの国を見て回りたいと思ってるんだよな。フォドラだけじゃなくてさ、ブリギッドとか、ダグザとか、パルミラとか……周辺の国を回るだけでも何年かかるかわからねぇ」
「そ、そんなにですか?」
 ベルナデッタは悲観のあまり泣きそうになってしまう。
 もしかしたら旅先で大怪我をして帝国に帰れなくなるかもしれないし、あるいは国外でいい人を見つけて定住してしまう可能性もある。
 そう思うと、ベルナデッタは「どうあってもカスパルを帝国にとどめなければ」という焦燥感に駆られてしまった。
「あ……あのですね、もしよかったらヴァーリ家の婿養子になりませんか?」
「えっ?」
 ベルナデッタの唐突な提案にカスパルは目を丸くする。
「か、カスパルさんはベルグリーズ家の人ですし、戦争で功績も上げてますから、家族も納得してくれると思うんですよね」
 ベルナデッタは必死に言い募った。それはもう必死だった。カスパルをどうにか引き止めようと焦るあまり、ベルナデッタの脳は混迷を極めていたのだ。
 しかしカスパルはといえば、いまひとつピンとこないようで首を傾げるばかりである。
 ひょっとして、話が飛躍しすぎて理解が追いつかなかったのかもしれない。なにかもう少し具体的な話をしなければ――と、ベルナデッタが思った矢先にカスパルが口を開いた。
「でもオレ、領地の運営とかはまったく習ってねぇぞ? 親父はオレに跡を継がせることは考えてなかったみたいだし……ほかにも貴族ならこれはできなきゃならない、みたいなの、たぶんあるんだろ?」
 カスパルのもっともな疑問に、ベルナデッタはぐっと言葉を詰まらせる。
 普段は貴族としての在り方となどまったく考えてなさそうではあるが、それとは裏腹に現実的な思考と割り切りを持ち合わせているのがカスパルという人だった。
「えっと、それはですね……その、優秀な家令とかがいるので」
「そうか? でも、有能な奴がいてもオレがそれをできないんじゃなあ……」
 ベルナデッタは必死に知恵を絞るが、カスパルを引き留めるための策はまるで浮かばない。なんとかしてカスパルを帝国に留めたくて藁にも縋る気持ちで言葉を紡ぐ。
「いえ、そういうのはどうでもよくて……そうじゃなくて……」
「どうでもいいってことねぇだろ? 貴族の養子になるってことはそういうことだろうし……オレよりもっとふさわしいやつがいると思うぜ」
「だ、だからあの、その……カスパルさんじゃないとだめっていうか……」
 カスパルの返答はあまりにもっともで、ベルナデッタはまともに言葉を紡ぐことができない。
「べ……ベルと結婚してくださーーい!!」
 窮鼠猫を噛む――とでも言うべきか、カスパルを引き止める言葉が尽きたベルナデッタは、もはや勢いに任せてそう叫んでいた。
 カスパルというと――ぽかんとしていた。
 そしてベルナデッタは、勢い余って自分がなにを口走ったのかすぐには理解できず、混乱状態に陥ったまま顔を真っ赤に染めていた。
「いえ、あの、急でしたよねすみません! その、まずは手を繋ぐところからでもいいんですけど……ええとでも、旅に出ちゃうんですよね? それだと寂しいっていうか……せめて国内にはいてほしいんですけど……そ、それに前に教えてくれた素敵な夕焼けが見える丘の場所も覚えてなくって、カスパルさんが一緒じゃないと行けないんですよ。えーっと、それと、あと……」
 ベルナデッタは顔を赤くしたり青くしたりしつつ、しどろもどろになりながらもカスパルを引き留めるための言葉を必死に口にする。
 その勢いに圧されたカスパルはしばらく唖然としていたが、ようやくベルナデッタの言わんとしていることに思い至ったのか、閃いたように「あっ」と小さくつぶやいたのちに頬を赤らめた。
「い、いや、婿養子ってそういうことだよな……悪ぃ、オレそこに気づいてなかった……」
「あ、いえ、違うんです! カスパルさんは何も悪くないです! す、すみません、ご迷惑ですよね!?」
 ベルナデッタはぶんぶんと首を横に振り、あわあわと挙動不審に手を動かして懸命にその場を取り繕う。
「ただ、カスパルさんには……帝国にいてほしいなって……ベルは、その、カスパルさんのことが……」
 先程までの騒々しさとはうってかわって、ベルナデッタは力なく呟く。
 喉まで出かかった言葉は、しかし緊張のあまりか出てこない。ベルナデッタは何度も口をぱくぱくと開閉させたのちに諦めたように俯いた。
「……ベルナデッタ」
 カスパルに名を呼ばれて、ベルナデッタはおずおずと顔を上げる。
「そんなことなら、わざわざ婿養子とか遠回りなこと言わなくても聞いたのによ。オレも、お前と一緒にいると楽しいからさ」
「え……じゃあ……」
 カスパルの返答にベルナデッタはぱあっと表情を輝かせた。
「エーデルガルトにも軍務卿を継がないかって打診されてるし、まあ、しばらくはアンヴァルに残るかな」
「は……はい! そ、そうしてください!」
 ベルナデッタは満面の笑みを浮かべて大きく頷いた。カスパルが帝国に留まってくれるのであれば、いまのところ他に望むことはない。
「あっ……で、でも、その、さっきの話も別に引き止めるための口実ってわけでもなくてですね? ずっとカスパルさんと一緒にいたいのも、一緒にいてくれれば嬉しいっていうのも本当のことで、その……だから……」
「おや、カスパル殿、ベルナデッタ殿。貴殿たちに頼んだ作業はまだ終わっていないようですが」
「ひえええぇぇっ!? でたああぁっ!」
 足音もなく背後に現れたヒューベルトにベルナデッタが奇声を上げる。
「悪ぃなヒューベルト、ちょっと休憩してたんだ。行こうぜベルナデッタ!」
 カスパルは爽やかに笑いながら立ち上がると、ベルナデッタの手を引いて通路へと駆け出した。
 肝心な言葉を伝え逃してしまったが、自分の手を握るカスパルの手の熱が心地よく、ベルナデッタはまあいいかと頬を緩ませながら中庭をあとにした。






 カスパル×アネット



「はあ……あたしってなんでいつもこうなんだろ……」
 樹木が生い茂る山中、生徒たちからはぐれたアネットは薄暗闇の中でひとりため息を吐く。
 魔道学院の教師となったアネットは、授業の一貫として生徒たちと共に野外演習へと訪れていた。
 しかし、想定外の魔獣の出現によって授業は中止となり、アネットは自ら囮となって生徒たちを山の麓へと避難させたのだ。
 幸いなことに生徒たちに怪我人はなく、あとは自分が魔獣を撒けばいいだけだった。だが、魔獣の追跡は執拗で、逃げているうちにこんな山奥まで来てしまったのである。
 アネットはなるべく音を立てぬよう慎重に歩を進めていくが、どれほど注意を払っても枝を踏み折る音は止めようがなかった。
 さらに不幸なことに、行く手には崖が広がっており、そちらには進めそうにない。つまり、魔獣との戦闘は避けられないということだ。
「しょうがない……やるしかないか」
 アネットは腹を括ると、魔獣と対峙すべく呼吸を整えた。
 唸り声と共に、四つ足の魔獣がアネットへと飛びかかってくる。アネットはその攻撃を躱して魔法を打ち込んだが、あいにく障壁に阻まれてしまった。
「く……!」
 なんとか応戦しようとするが、魔獣の動きは素早く、なかなか攻撃に転じることができない。アネットは魔獣の攻撃を避けるのに精一杯で、気づけば崖の方へと追い込まれていた。
「あ……!」
 気がついたときにはもう遅かった。
 魔物に気を取られていたアネットは足を滑らせ、崖下へと落下してしまったのだ。
 アネットは地面に叩きつけられる衝撃を覚悟してきつく目を閉じる。
 しかし、地面の激突による痛みが訪れることはなく、代わりに力強く体を支えられる感覚があった。
 恐る恐る目を開いたアネットの視界に飛び込んできたのは懐かしい水色の髪と瞳だった。
「――カスパル!?」
 落下するアネットをすんでのところで受け止めたらしい。カスパルは魔獣を避けて木陰に身を隠すと、腕の中のアネットをそっと地面に下ろした。
「無事か、アネット? 怪我とかしてねえか?」
「あ、あたしは大丈夫だよ。ちょっと足をくじいたみたいだけど……それよりカスパル、どうしてここに……」
 諸国を漫遊していたはずのカスパルがなぜフェルディアの山中にいるのか――アネットの質問は魔獣の咆哮によって遮られた。
「おっと」
 アネットとカスパルは体勢を整えて魔獣に対峙する。
「まあ、細かいことは後でいいだろ。それより、今はコイツをどうにかしねえとな」
「う、うん! そうだね!」
 カスパルの掛け声にアネットが頷き、ふたり揃って魔獣へと向き直る。
 アネットの魔法によって、魔獣の障壁には亀裂が生じていた。それを見抜いたカスパルが一気に魔獣との距離を詰めると、右手を振りかぶって鋭い一撃を叩き込む。
「はああぁっ!」
 障壁が砕け、無防備になったところにさらに二撃。たまらず魔獣は後退するが、アネットが魔法によって魔獣の体勢を崩し、その隙にカスパルが更なる追撃を加えた。
 続く攻撃はともに障壁に阻まれて決定打にならなかったが、二人の攻撃は的確に障壁を破壊していき、やがて魔獣を完全に追い詰めた。
 最後はカスパルの強烈な一撃が直撃し、魔獣は咆哮と共に地に伏した。

「カスパルは私の同窓生なんだよって説明したら、生徒たちすっごく羨ましがってたよ。離れ離れになってた相手が窮地に助けにくるなんて、物語に出てくる王子様みたいだって」
 アネットは今にも鼻歌を口ずさみそうなほどご機嫌な様子でカスパルに語りかける。
 あれからアネットとカスパルは無事に山を降り、避難していた生徒たちと合流して魔道学院への帰路についた。
 カスパルがアネットの危機を知ったのは偶然フェルディアを訪れていたという理由に加えて、生徒たちが魔法で狼煙を上げて危機を知らせていたためだったという。
「ま、お前の窮地を見過ごすわけにもいかねぇしな」
「えへへ、ありがとうカスパル。本当に助かったよ。……でも」
 カスパルに何度目かの礼を伝えたアネットは、しかしふいに表情を曇らせる。
「やっぱりあたし、まだまだ半人前だなあって実感しちゃった。たまたまカスパルが助けに来てくれたからいいけど、もし誰も来なかったらあたしだけじゃなく生徒たちも危険だったかも……」
 魔獣との戦いを振り返り、アネットは自らの弱さを嘆いた。
「なに言ってんだよ」
 がっくりと肩を落とすアネットの肩をカスパルが軽く叩く。驚いた顔をして顔を上げたアネットを、カスパルは真剣な眼差しで覗き込んでいた。
「お前が身を呈して逃がしたから生徒たちは無事だったんだし、お前が無事なのはたまたまじゃなくてお前の生徒たちが危機を知らせてくれたからだ。あの魔獣を倒せたのだって、オレとお前が力を合わせたからだろ?」
「カスパル……」
 カスパルの力強い言葉を受け、アネットの瞳にじわっと涙が浮かぶ。
「ありがとう、カスパル。カスパルは変わらないね。いつも落ち込んでると慰めてくれる」
「いや、それはお前がよく落ち込むからだろ。前もそうだったじゃねえか」
 アネットは涙を拭い、カスパルの言葉に微笑んだ。落胆からではなく別の種類の涙が溢れそうになってしまったが、ごしごしと目を擦ってなんとか涙を押し留め、気を取り直すように深呼吸をする。
「やっぱり、カスパルには敵わないなぁ……あ、でも今回のことはちゃんと反省しなきゃだよね。生徒たちにはもっと安全な授業をしなくちゃ!」
「おお! その意気だぜ!」
 気合いを入れるように拳を握るアネットの姿に釣られるようにして、カスパルもまた拳を握る。
「じゃあ、今から夕日に向かって全力疾走しよっか!」
「よっしゃあ! ……ん? なんか前もこういうことなかったか?」
 カスパルは首を傾げつつ、アネットと共に夕日を目指して走り始めた。
 その風景を生徒たちに目撃されてからと言うもの、カスパルの印象が「物語に出てくる王子様」から「灼熱の猛特訓」に変わったのはまた別の話である。






 カスパル×エーデルガルト



 カスパルとエーデルガルトの結婚式は、それはもう盛大に執り行われた。
 なにせ、皇帝と軍務卿という、アドラステア帝国屈指の権力者同士の婚姻である。会場となった城には身分を問わず大勢の参列者が集まり、あちこちで歓声が湧き上がる大盛り上がりの式となった。
「しっかし、本当にオレでよかったのかよエーデルガルト?」
 諸々の儀式を追えたあと、カスパルは礼服の首元を緩めながらエーデルガルトに訊ねる。
 エーデルガルトは好ましく思っているし、だからこそ婚姻の申し出を受け入れたのだが――それでもまだ、皇帝の生涯の伴侶となる相手が自分でいいのだろうかという疑念は拭えない。
 皇帝の結婚は政略的な意味合いも強く、エーデルガルトは数多の貴族から婚姻を申し込まれていた。しかしエーデルガルトはそんな有象無象を相手にせず、カスパルただひとりを選んだのだ。
 もちろん、一部の貴族からは批判の声もあったのだが、エーデルガルトの気迫に気圧されたのか、そういった声はやがてなりを潜めた。
「あら、貴方は私の判断が間違っていると言いたいの? 私は自分の選択に誇りを持っているけれど」
「いや、そうじゃねえよ。オレはお前を信頼してるし、お前がそう決めたなら文句はねえ。まあ……よろしく頼むぜ、エーデルガルト」
 まっすぐな瞳を向けてくるエーデルガルトに、カスパルは気恥ずかしそうに鼻の頭を掻く。
「貴方こそ、本当に後悔しないわね? 貴方の人生を私のために使うことになるのよ? 私個人はなるべく強制はしたくないけれど、皇帝の夫となれば周囲が黙ってはいないわ」
「後悔なんてしてねえよ。結婚なんてしなくたって死ぬまで付き合うつもりだったしな。その覚悟がなきゃお前を選んだりしねえ」
「ふふ……そこまで言い切られると清々しいわね」
 カスパルの迷いのない言葉に、エーデルガルトの顔にも笑顔が浮かぶ。
「貴方は貴方自身の努力と勤勉さによって、いまの信頼と地位を築いたの。それは誇ってもいいことだと思うし、そんな貴方だからこそ私は夫に選んだのよ」
 エーデルガルトは迷いの感じられない口調でカスパルに告げる。その口調には、カスパルの生き様を肯定する気持ちが込められていた。
 貴族とはいえ紋章も継承権も持たないカスパルが、それでもその立場に腐ることはなく、誰よりも真摯に己の生きる道を追求してきた。エーデルガルト自身も、そんなカスパルの在り方を認めているのだ。
 そしてカスパルも、エーデルガルトがその生き方を尊重してくれるからこそ、彼女と共に戦ってきた。その互いへの敬意と信頼が、婚姻という形で昇華するのは想定外ではあったが。
「それより、これからは戦後の混乱を収めることに集中しなければいけないわね。各地で反乱を起こしている残党兵も鎮圧しなければならないわ。もちろん協力してくれるわね、カスパル」
「ああ、任せておけよ!」
 カスパルは拳を握り締め、力強く頷いてみせる。その姿がいつかのカスパルの姿と重なり、エーデルガルトはふっと口元に笑みを湛えた。



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