甘いひととき


 甘い香りに誘われて厨房に足を踏み入れると、こんがりと焼き色がついた菓子が卓上に置かれていた。焼きたてならではの柔らかな香りが鼻腔を擽り、リンハルトは思わず顔を綻ばせる。
 こんなに美味しそうなお菓子を目の前にすれば、口にしたくなるのが甘党の心情というものだ。だが、誰のものとも知れないお菓子に勝手に手をつけるわけにもいかない。
「あ、リンハルトか。それ、食っていいぞ」
 リンハルトがお菓子を見つめながらそんなことを思案していると、厨房の奥から明らかに場にそぐわない人物が顔を出した。カスパルである。
 珍しく料理でもしていたのか、カスパルは身軽な衣服の上に前掛けを身につけていた。おそらくは狩りに行って、捕獲した鹿なり猪なりを捌いていたのだろう。リンハルトはそう判断した。
「ふうん。なら、ありがたくいただくよ」
 リンハルトは焼き菓子をひとつつまみ上げて口に運んだ。
 しっかりと焼き上げられた生地の歯ごたえとともに、濃厚な牛酪の風味が口の中いっぱいに広がる。生地に木の実が練り込んであるのだろう、香ばしい風味と特有の食感がまた心地よい。
 リンハルトはしばらくの間、口の中に広がる甘さと、鼻腔を擽る芳香をじっくりと堪能した。
 戦場では甘味は贅沢品ということもあり、滅多に口にすることはできない。その反動もあってか、リンハルトはひとつだけでは飽き足らず、ふたつ、みっつと菓子を口へと運んでいった。
「美味しいなあ……カスパル、これすごく美味しいよ。甘さも焼き加減も絶妙だね」
「おう、そうか! お前にそう言ってもらえると嬉しいぜ」
 リンハルトの素直な賞賛に、カスパルはなぜか得意げな顔を浮かべる。
「うん、帝都の職人に貰ったお菓子くらいおいしいよ。これ、誰が作ったの? ベルナデッタ? メルセデス? ああ、シェズもこういうの得意だったね」
 リンハルトは知る限りの料理上手な知人の名前を列挙していく。
 しかし、カスパルは首を横に振ってそれを否定した。
「いや、オレが作ったもんだけど」
「え?」
 リンハルトは思わず問い返す。
 カスパルは料理は不得意だったはずだ。力加減が苦手なのか調理器具をよく壊すし、味付けも大雑把で全体的に雑だった。それが、いつの間にこれだけ上達したのだろう。
「驚いたな。君は料理は不得意なものだと思ってたよ」
「まあ、確かに苦手だけどよ。菓子作りはまだやりやすいっつうか……」
 適切な言葉が見当たらないのか、カスパルはしばらく悩んだあと言葉を続けた。
「ほら、料理って調理法を読んでも『大さじ一杯』とか『適量』とか曖昧なことばかり書いてあるだろ? あれが意味わからなくて変な味になっちまうんだよな。でも、菓子の調理法って具体的にどんだけ入れろって書いてあって、その通りに作れば美味くできるじゃねえか」
「なるほど……確かに、主食の調理には勘や経験則も必要になると聞くね」
 リンハルトも料理に関しては詳しくないが、カスパルが言いたいことは理解できた。
 例えば、煮物などを作る場合は『塩をひとつまみ加える』だとか、『煮立たせてから肉を入れる』といった、調理者の匙加減が要求される過程が多い。そのぶん、多少は分量や調理時間にずれが生じても食べれられるものにはなる。
 逆に、菓子作りの場合は添加物に具体的な数値が定められてり、それを少しでも誤れば生地が膨らまないなど致命的な失敗に繋がる。カスパルが料理よりも菓子のほうが作りやすいというのは、その辺の違いによるものなのだろう。
「イエリッツァ先生との勝負のために、メルセデスに教わって作ってたんだ。けどよ、オレは別に先生の舌を唸らせたいわけじゃねえし、上手くなったところでどうしようもねえし……でも、お前が美味しいって言ってくれるんなら上手くなった甲斐があったな」
「うん、すごいと思うよ。調理法通りに作ると言っても、それができない人だって多いんだ。それに、お菓子作りだって仕上げや装丁には調理者の感性が必要とされるはずだよ」
 リンハルトは素直に感嘆の言葉を漏らした。
 メルセデスが黒鷲遊撃隊に加わったのはほんの数節前だ。つまり、カスパルはその短期間でここまでの技術を習得したということになる。それは並大抵の努力ではなしえないことだろう。
「へへっ、ありがとな。でも、リンハルトのおかげでもあるんだぜ」
「僕が? どうして?」
「お前、菓子とか好きじゃねえか。だから作るときに、お前だったらどういうので喜ぶかって考えながら作ってたんだ。菓子の仕上げは小細工みたいなもんだし、オレはそういうの苦手だけどよ……好きなやつに食わせるものくらいは手を抜きたくねえからな」
 なんでもないような口振りのカスパルを前にして、リンハルトは思わず頰が熱くなるのを感じた。
 よくよく考えれば、この生地に練り込まれている木の実はリンハルトの好物だ。カスパル自身は甘いものを好むほうではないのに、リンハルトの嗜好は把握していたらしい。
 その事実に嬉しくなると同時に、なぜか気恥ずかしさが込み上げてしまい、リンハルトはそれを隠すように「そっか、嬉しいな」と努めて淡々とした返事をした。





 約束というわけではないけれど


 朝靄が立ち込める中、リンハルトは古びた教会の扉を開く。
 豪奢な装飾が施された教会は、かつては人々が訪れて賑わったであろう面影を残している。鮮やかな色硝子から差し込んだ陽光が、床に淡く散らばって模様を描いていた。
 傾いた屋根は崩れかけており、崩れ落ちた壁や剥がれ落ちた天井の破片が床に散乱している。黴と埃の臭いが入り混じった空気が、鼻を通して喉に絡みつくようだった。
「……ここにも人はいないみたいだな」
「戦乱の折に村ごとどこかに避難して、そのまま忘れられたのかもしれないね」
 きょろきょろと周囲を見回すカスパルに、リンハルトは淡々とした口調で返す。
 旅の最中にこの廃村へ訪れた二人は、一夜の宿を探してあちこちを散策していたのだが――どうやら、住人は一人も残っていないようだった。
「誰もいないなら勝手に泊まらせてもらおうか。ちょっと風通しがよすぎるけど屋根はあるし」
 リンハルトは古びた椅子の上に積もっていた埃を軽く払うと、荷物を置いてそこに腰をかけた。
 橙色を帯びた日差しが天窓から差し込み、空気中の塵を照らし出す。薄暗い堂内に漂う塵が光の筋の中で浮遊する様子は、まるで夢の中にでも迷い込んでしまったかのような光景だった。
「……悪くはないねえ」
「何がだ?」
 値踏みするような物言いのリンハルトにカスパルは首を傾げる。
「廃墟って、面白いよね。雰囲気が独特で」
 リンハルトは教壇の向こうにある色硝子を見上げて目を細める。
 かつては人々が行き交っていたであろう聖堂は、今は沈黙を守っていた。
 柱も椅子も絨毯もすべてが古びて形を失いつつあるが、かろうじてかつての荘厳さを感じられる程度の形を保っている。朽ちかけた建造物特有の陰鬱さもありながら、同時に静寂に包まれた厳かな雰囲気も感じられた。
「遺跡とか好きだもんな、お前」
「遺跡と廃墟は違うと思うけど……まあいいや」
 リンハルトは軽く肩を竦めたのちに、荷物の中から小さな箱を取り出す。掌に乗る程度の大きさをした、飾り気のない簡素な箱だ。
「これを渡すにはちょうどいい雰囲気かと思ってね」
 リンハルトは掌に乗せた箱の蓋を開けてカスパルに中を見せる。
 そこには精巧な細工が施された銀製の指輪が入っていた。リンハルトが嵌めるにしては大きいそれは、誰か特定の人物に渡すために誂えたものだということがすぐにわかる。
「指輪?」
 カスパルは興味深そうに指輪を覗き込む。
 リンハルトはそっとカスパルの手を取り、その薬指に先程の指輪を通した。節くれだった指には少し不釣り合いなそれは、カスパルの指の上で繊細な光を放っている。
「君にあげるよ」
 ぽかんとした表情を浮かべているカスパルを尻目に、リンハルトは満足気にその指輪を指先で撫でた。
「君はあまり形式ばったのは好まないかなと思ったんだけど、でもこういうのはきちんとした所で渡したかったから……だから、『悪くはない』って思ったんだ」
 リンハルトはそっとカスパルに顔を寄せる。唇が触れ合う瞬間カスパルの肩が小さく揺れたが、リンハルトは構わずに口付けた。
「……あー……えっと、つまり、そういう意味ってことか……?」
 触れるだけの口づけを終えて離れると、カスパルは照れくさそうに視線を逸らす。そして、自分の指に嵌められた指輪をまじまじと眺めては瞬きを繰り返した。
「うん。君が好きだよ。ずっと僕の傍にいてくれないかな?」
「改めて言われるとなんか恥ずかしいな……」
 カスパルは頰を掻きながら目を伏せる。
 今まで何度も好意を伝えて合ってきたが、こうして改めて言葉にされると気恥ずかしいものがあるようだ。聞き慣れた「好きだよ」という言葉も、不思議と特別な響きを持って聞こえるのだろう。
 カスパルは指輪の嵌まった自身の手と、リンハルトの顔を交互に見つめたあと大きく息を吐き出す。それから照れ臭そうに頬を緩め、はにかみながら口を開いた。
「オレもお前と一緒にいたいと思ってるよ。だから……その、これからもよろしく頼む」
 カスパルはリンハルトの頰に軽く口付けて再び視線を彷徨わせたのちに、リンハルトの肩にぽすっと頭を預ける。
 甘え方をあまり知らない不器用な恋人が愛おしくて、リンハルトはその背中にそっと手を回した。





 旅立ちの日に


 フォドラ統一戦争が終結し、『闇に蠢くもの』との戦いを終えた帝国軍の将兵たちは、それぞれの未来を歩むべく新たな道へと踏み出そうとしていた。
 エーデルガルトから役職を与えられたもの、親から爵位や領地を引き継いだもの、町や村の復興に尽力するもの、その最中で愛しい相手と婚姻関係を結ぶもの……。
 慌ただしく足を踏み出そうとする彼らの中にあって、リンハルトはひとり、未だ平時と変わらぬ生活を送っていた。
 差し当たってやらなければならないことといえば、家督の相続と領地の引き継ぎに関して父と話し合うことくらいだが――そんなことよりも紋章の研究のほうがリンハルトにとってはよほど重要な事柄だ。
 戦の最中に他国で発見した遺跡の調査も進めたいし、各国に保管されている紋章学についての文献や資料にも興味がある。リンハルトとしては、家督に煩わされることなく研究に没頭したいというのが正直な気持ちだった。
「リンハルト! ここにいたのか」
 士官学校の庭園でまどろんでいたリンハルトは、聞き馴染んだ幼なじみの声に顔を上げた。
 前線部隊を率いる将であるカスパルは、戦争が集結したあとも多忙を極めているようだった。山賊と化した敗残兵の討伐や、混乱に乗じた反乱分子の鎮圧、それに加えて調練も行っているのだというのだから感心せざるを得ない。
「家督を継ぐのを嫌がって家に戻ってないんだって? お前の親父さんが愚痴ってたって親父が言ってたぜ」
 カスパルはそう言いながらリンハルトの向かいの席に腰を下ろす。
 リンハルトがヘヴリング邸に戻らずガルグ=マクに住み着いているのは、カスパルの言う通り家督の相続問題が理由のひとつだった。ここに住むのであれば紋章学の講師にならないかという話ももちかけられたが、それも気が進まず断ったのが先日の話だ。
「まあね。カスパルこそ軍務卿の打診を蹴ったんだって?」
「なんだ、リンハルトも聞いてたのか」
 カスパルはリンハルトが持参した茶菓子を摘みながら話を続ける。
「戦後の処理が落ち着いたら旅に出ようかと思ってよ。ファーガスやレスターだけじゃなくて、ブリギッドとか、ダグザとか、いろいろ行ってみたいんだよな。だから、その話は断ったんだ」
 カスパルが旅に興味を持っていることはリンハルトも知っていた。戦争が起こらなければ、あるいはカスパルがエーデルガルトと共に歩む道を選ばなかったのであれば、いまごろ彼はふらりとどこかを放浪していたのかもしれない。
「家を継がないってんならお前も一緒に来るか? 旅の話とか好きだろ」
「そうだね。興味はあるよ。でも……」
 カスパルの誘いにリンハルトは頷く。
 他国を訪れて見聞を広めることは、紋章の研究という観点から見ても有益であるように思えた。紋章の歴史はその国や土地とも密接に関わっているし、フォドラの外を見ることによって得られる知識もあるだろう。
 だが、リンハルトにはひとつだけカスパルに伝えておかなければならないことがあった。
「僕、カスパルのことが好きなんだよね。親友としてももちろんだけど、それだけじゃない。抱き締めたり、口付けをしたり、それ以上のこともしたいと思ってる」
「……ん? おう……? なんだよ急に?」
 唐突にも思えるンハルトの言葉にカスパルは首を傾げる。
「君と二人で旅をするのなら、あらかじめ言っておいたほうがいいと思って。旅に出てから君のことをそんな目で見ているだなんて言ったら、後出しみたいで卑怯じゃないかな」
 カスパルはしばらく虚を衝かれたような表情を見せていたが、リンハルトがそう説明すると意図を察してくれたらしく、今度は納得したような表情を浮かべた。
「まあ確かに、一緒に旅をしてる相棒にそういう目で見られてたなんて後で知ったら気まずいだろうけどよ」
「そうだよね。だから、ちゃんと伝えておこうと思ったんだ」
 リンハルトは机の上に無造作に置かれていたカスパルの手に自分の手を重ねる。拒絶はされなかった。それに内心で安堵しながら、リンハルトは言葉を続ける。
「君が嫌だっていうなら、僕は君の旅には同行しない。でも、もし君が僕の言葉の意味をきちんと考えてくれて、そのうえで受け入れてくれるなら……どこにだって一緒に行くつもりだよ」
「きちんと考えて……か」
 カスパルはリンハルトの言葉を反芻するように繰り返す。
 色恋沙汰に対する興味が希薄なカスパルが、リンハルトの意図をどこまで汲み取ってくれるかは怪しいところではある。
 リンハルトの好意を受け入れるということがどういうことか――それをカスパル自身が考えてくれることが今のリンハルトの望みだった。
「まあ、考えておいてよ」
「……おう。すぐに返事していい話でもなさそうだしな」
 いつになく神妙なカスパルの返事にリンハルトは微笑む。
 今はこれでいいだろう。結論を急ぐ必要はない。カスパルがリンハルトの言葉を真摯に受け止め、「きちんと考える」という段取りを踏んでくれたこと――今はそれだけでも充分な成果だ。
 リンハルトがもっとも危惧していたのは、カスパルがリンハルトの言葉の意味を咀嚼しないまま「オレも好きだぜ! じゃあ出発するか!」などと結論を出してしまうことだった。
 もしそのような反応をされたのであれば、リンハルトは多少なりとも傷付いていたかもしれない。それは、リンハルトの切なる告白をカスパルが聞き流してしまったということにほかならないからだ。
 カスパルがきちんと考え、その上でリンハルトを受け入れてくれたのであれば――そのときは、自分の抱えた想いを余すことなく言葉と全身で伝えること にしよう。
 リンハルトはそう決意し、カスパルの手から伝わる体温を感じながら静かに目を閉じた。



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