当方は一部のBL愛好家が主張する『BL趣味を「同性愛への理解である」と語る行為および、BLへの批判意見を「ゲイ差別である」と糾弾する行為』に反対しています


この記事は既婚者BLへの批判意見に対する、BL愛好家の「BL嫌いはゲイ差別である」という反論が論点のすり替えであると感じ、多大な不快感を覚えたために記述したものです。

あくまで「二次創作を楽しむのは個人の自由である」「性的指向によって人を差別してはいけない」ということを前提とした意見であり、それらそのものを批判するものではありません。

この記事で使用している「男性」「女性」といった単語は、主に「その性別と設定されている(性別違和などの設定はない)キャラクター」のことを指しています。

「ゲイ」という単語は同性愛者全般を指すこともありますが、この記事では紛らわしさを避けるために「男性同性愛者」の意味として使用しています。

LGBTQ+用語の説明については省いておりますので、わからないものについてはAABUさん(https://acearobu.com/)などで検索していただけると助かります。




目次

はじめに
BL二次創作の趣味は「同性愛者への理解」ではない
BL嫌いの人が嫌っているのはあくまでBLである
「性愛の多様性」を盾にして迷惑行為を正当化するべきではない
ポルノ作品を現実と混同すべきではない
「原作改変は嫌」という人の気持を理解できない一部のBL愛好家
BL愛好家がこっそりBLを楽しむのはゲイへの差別意識から?
BLを扱うSNSアカウントで同性愛差別反対を主張するべきではない
LGBTQ+の認知度が上がったことにより増えた「自称・理解者」









 
●はじめに

 この記事を書いている私自身はBL二次創作の愛好家です。正確には、BLだけでなく男女の恋愛や夢作品など、いろいろな二次創作を楽しむタイプです。ですので、BL二次創作そのものを嫌っているわけではありません。

 ですが、BL二次創作への批判意見を「ゲイ差別である」と主張する一部のBL愛好家に関しては多大な不快感を覚えました。この記事はそういったBL愛好家の人達に対する自分の意見をまとめたものです。

 あくまで自分はこれらの意見に反対していることを主張するための記事であり、そういった人々に話を聞いてもらおうという主旨ではありません(そういった人々になにを言っても無駄だと思っているためです)





 
●BL二次創作の趣味は「同性愛への理解」ではない

 以前、BLへの批判意見に対して「異性を好きになるのも、同性を好きになるのも本人の自由だし、それを批判する権利なんて誰にもないんだよ!」と「性愛の多様性」を説いて反論するBL愛好家の人をお見かけしました。

 確かに、誰をどのように愛するか、あるいは愛さないかは本人の自由です。

 でも、BL二次創作を嫌う人達は何もそこを批判しているわけではないですよね。

 そもそもそのキャラは原作でゲイorバイセクシュアルであるという設定が開示されているのでしょうか。そうであるなら、それを批判するのは確かに同性愛差別と取れるかもしれません。

 ですが、大抵の場合はそうではないと思われます(少なくとも、発言者が愛好しているキャラは異性と結婚している人物でした)

「本来は性的マイノリティである人物を映像作品などで異性愛者として描く、あるいは異性愛規範にとって都合のいいように描く行為」は「ストレートウォッシュ」と呼ばれて問題視されています。

 では、「本来は異性愛者であろう人物を同性愛者として描く行為」は「同性愛への理解」なのか? 「性愛の多様性」をときながらも、異性愛者のセクシュアリティを蔑ろにするのは構わないのか? ……と、いささか疑問に感じてしまいます。





 
●BL嫌いの人が嫌っているのはあくまでBLである

 確かに、BL嫌いの人達の中には男性同性愛者を嫌悪している人もいるでしょう。そして、BL作品を娯楽として楽しんでいるゲイの方も確かに存在します。しかし、BLを嫌う人達の中にはゲイの方もいるのです。

 私には推測することしかできませんが、その嫌悪感は「自分の性や性的指向を性的客体化コンテンツとして扱われること」への不快感や、「わかったようなことを言う部外者」への不快感などが理由なのかなと考えています。

 そういった人達の存在を無視したうえで「BL嫌いはゲイ差別である」と主張するのは、理解から程遠い行為なのではないでしょうか。

(なにかと「ゲイ差別、ゲイ差別」と口にしてジェンダー差別を批判する割には、ゲイコミュニティの中に存在する女性蔑視的な思想を持つ人々の存在は無視しているあたり、二次元における耽美な同性愛者のイメージだけで話しているのでは……とも思えます)

 そもそもBL二次創作は「男性キャラを性的客体化した娯楽」です。

 BL好きの人には女性が多いという都合上、「女性を性的客体化した娯楽」には過敏に反応する傾向があります。女性キャラの衣服にボディラインを強調するような皺が寄っているだけで文句を言う人もいますね。

 そうであるのに、男性キャラを性的客体化した娯楽は「男性同性愛への理解である」と主張し、批判されるようなものではないと訴えるのか? それはどうにも矛盾しているように思えます。





 
●「性愛の多様性」を盾にして迷惑行為を正当化するべきではない

「この二人は固い友情で結ばれているのがいいんだ、なんでもBLにするんじゃない」という二次創作BLへの批判意見に対して「ゲイ差別だ」と高圧的につっかかるBL愛好家の人も見かけたことがあります。

 確かに、同性同士の親しい関係を必ずしも友情であると定義するのは「そこに同性愛者の人がいるかもしれない」という可能性を排除しているということになるため、広義の同性愛差別と言えるかもしれません。

(かと言って恋愛関係であるとは明示されていない二人を恋愛関係であると決めつけるのも、当人たちの性別に関係なく失礼だと思いますが……)

 ですが、二次元のキャラクターの場合「この二人は固い友情で結ばれている」という設定が明示されていればそれは友情です。そんな二人を恋人同士として扱うのは原作の改変にほかなりません。

 こういった「BL批判」に対してBL愛好家が「ゲイ差別だ」とつっかかるケースはほかにも見かけます。

 ひどい場合は「バディものであれば、制作側もBL好きの視聴者層を意識しているはず。にも関わらずそのキャラを既婚者にするのは、彼らがゲイであると思われたくなかったんだろう。ゲイ差別だ」などと主張する人もいました。

 これは本当に「なにを言ってるんだ」……と感じました。

 バディものは昔から「キャラクター二人の硬い信頼関係を描く作品」として親しまれてきたジャンルです。そして「男女の恋愛描写」は多くの人に好まれるため、バディの描写と並行して男女の恋愛が描かれるケースも少なくありません。要するに「お約束パターンの一種」なのです。

 それを描くのになぜBL愛好家の目を意識しなければならないのか? そして、なぜBL愛好家の機嫌を損ねることがゲイ差別になるのか? それこそ「なんでもBLにするな」です。





 
●ポルノ作品を現実と混同すべきではない

 BLへの批判意見に対して「BLがエロばかりだとお思いで?」などと高圧的に反論するBL愛好家もお見かけしました。つまり「エロだから批判しているんだろうが、エロばかりがBLではない」と言いたいわけですね。

 確かに、BLには「肉体関係を介さない男性同士の親密な関係」を楽しむことを目的とした作品もあります。ブロマンスと呼ばれるものですね。

 ですが、「ただのポルノ」でしかない作品が多いことも事実です。そして、「攻めがその気のない受けに性行為を迫る」「既婚者男性が妻を蔑ろにして別の男性キャラと交際する」といった作品も好まれる傾向にあります。

 レイプものであろうが、既婚者BLであろうが、フィクションであれば楽しむのは本人の自由です。

 ですが、男性キャラをそのようなモラルのない人物として描いているにも関わらず、それを「男性同性愛者への理解」と称するのはおこがましいのではないでしょうか。





 
●「原作改変は嫌」という人の気持を理解できない一部のBL愛好家

 論争の発端となった既婚者BLへの批判意見に対して、一部のBL愛好家は「このキャラが女性であったなら、あるいは女性同士であったなら批判されなかったはず。つまりゲイ差別だ」といった主張をしているのを見かけました。

 個人的には、そんなことはないと思います。既婚者BLを好む人がいるのと同じでそれを好む人はいたでしょうが、それを嫌がる人ももちろん存在したと思います。

 というのは、これを書いている自分がその心境に心当たりがあるからです。自分の場合は、「原作で夫のいる女性キャラが、『夫よりあなたのほうが……』などと言いながらほかの男性キャラに求愛する」といった描写に対してでした。

 伴侶や恋人を持つキャラのBL二次創作では、本来の伴侶はいないことにされたり、ひどい場合は当て馬にされたりします。そういった理由から、キャラの性別を問わず「原作で恋人がいるキャラがほかのキャラと恋愛関係になる二次創作」を嫌う層は必ずいると思います。

 BL愛好家の多くは、「左右相手完全固定! 逆カプ地雷です!」などと言って「自分の趣味と一致しない二次創作」を安易に批判しますよね。それであるのに「このキャラが本来の恋人以外と交際しているのは嫌」という人の主張は「ゲイ差別だ」と糾弾するのです。

 こういったBL愛好家の主張は、自分の趣味を正当化するために同性愛者の方を盾にしているようにしか見えません。本当に同性愛差別を批判したいのであれば、趣味のポルノとは切り離して考えるべきだと思います。





ここから下は本題から少しずれた話になります。




 
●BL愛好家がこっそりBLを楽しむのはゲイへの差別意識から?

 このような話をしていて思い出したのが、以前SNSでゲイの方が「腐女子がBLをこっそり楽しむのはゲイへの差別意識からだろう!」と憤っていたことです。

 これについてはゲイ差別というより、議題となっている既婚者BLの話題のように「BLを嫌う人達が批判してくるから」という理由によるものが大きいと思っています。男性オタクが悪質な嫌がらせをしてくるという話も耳にしますね。

 ですから、BL愛好家がコソコソするのが気に入らないのであれば、まずはその辺をどうにかする必要があるのではないかと思います。

 とはいえ、さんざん述べているようにBL二次創作を批判する人にもさまざまな理由がありますから、それをなくすことは不可能と言えます。加えて、BL愛好家がこのように「BL趣味は同性愛者への理解である」と主張する以上は、それに対する批判もなくならないでしょう。

 そういった理由から、現状では論争を避けたい人ほどこっそり楽しむしかないのでは……と思いました。

 



 
●BLを扱うSNSアカウントで同性愛差別反対を主張するべきではない

「BL批判はゲイ差別である」と主張する人達が「#同性愛差別に反対しています」等のタグをつけた記事をSNSに投稿する行為も私は問題だと思っています。

 もちろん、「差別に反対するという主張」自体を問題視しているわけではありません。問題は、「同性愛者を性的客体化したポルノ作品」や、それに関する話題を扱うアカウントで同性愛差別反対を主張するという行為のほうです。

 例えば、私が見かけたこのタグを使用しているBL愛好家は「こういったシチュエーションのエロが読みたい」といった主旨の投稿を同一アカウントでしていました。BLへの批判意見に対して「BLじゃなくて百合だったら文句を言わないんだろう!」といった発言もしています。

 そういった発言が、真面目に差別に反対している人や、タグを辿ってきた同性愛者の方の目に入ったら……ということを考えてほしい。

 本当に同性愛差別と向き合うつもりがあるなら、ポルノを扱うアカウントとは切り離すべきだと思います。

 また、一般的に女性同性愛者より男性同性愛者のほうが差別されがちという実情はあるものの、同性愛差別反対を訴えているのに女性同性愛者を蔑ろにしている(ようにも取れる)発言をするのも矛盾していると感じます。






 
●LGBTQ+の認知度が上がったことにより増えた「自称・理解者」

 私の観測範囲では、こういった「同性愛者への理解を語るBL愛好家」は非常に多いように感じます。

 おそらくは、BL好きが高じて同性愛者のことを調べるようになる→調べた結果として「わかった気」になる……という経緯を踏む方が多いのだろうと思います。BLに限らず「付け焼き刃の知識で専門家ぶるオタク」はどこにでもいますね。

 また、私の周囲にいるBL愛好家は「自分はアセクシュアルだ」「自分はエーゴセクシュアルだ」「自分はクワロマンティックだ」「自分はノンバイナリーだ」……と、やたらと「自分はクィアである」という主張をする方が多いです。

(これは私が二次元キャラのセクシュアリティについての考察記事などを書いているため、そういった事柄に興味を持つ方々にフォローされるという理由によるものかもしれません)

 この傾向も非常によくないと個人的には考えています。

 あくまで推測ですが、こういった方たちは同性愛者について調べる過程でLGBTQ+についての知識を得たために、「自分はこれかもしれない」という考えに至ったのではないかと思われます。

「二次元のキャラにしか興味を持てないオタク」は昔から存在しますので、この方たちが自称しているアセクシュアルやそれに属するマイクロラベルは嘘ではないのだろうとは思います。

 ですが、あまりにも「自分はクィアだから特別である」「自分はこんなにかわいそうである」「自分は専門知識を有する知恵者である」という主張が激しいために、私にはそれがクィアベイティングに近い行為のように思えてならないのです。

 中には性別違和を自称しながらも毎月のように生理への愚痴を言ったり、「性別を意識させないために男性的な一人称を使用している」という主張をしたり、「自分はほかの女性とは違う」と自身の女性性を強調するような発言をするなど、明らかに嘘っぽいなと感じる人もいます。

 このような人に対してはとりわけ憤りを感じざるをえません。

 トランス男性の中には自身の体への違和感から乳房を切除する人もいるそうです。また、性適合手術を受けるために、同年代の人達が遊びにお金を費やす中、それを理不尽に思いながらも貯金をし続けている人もいるそうです。

 そうまでしてやっと手術を受けられても、昔からの知人のひとこと(出生時にあてがわれた性別を露呈するような言葉)で台無しになってしまうこともあるのです。

 グッズや同人誌やソシャゲにお金を費やしている人達に、こういった人々と同じ覚悟があるのか? 口では「理解者」を語りながらも、そういった人々の苦痛を考えずに「自分はクィアだ」などと語っているのではないか? そう思わずにはいられません。

 あくまで個人的な意見ですが、セクシュアリティのラベルはそれを必要とする人(性別違和などに悩んでおり、自身に該当するラベルを見つけることで心の平穏を得られる人)のためのものであり、「我こそがクィアである」と声高に主張して自分を飾るために使うものではないと考えています。

 加えて、「自分はクィアだから特別」「自分だけがかわいそう」といった過度な主張は「周囲にも口に出さないだけでそういった性的指向を持つ人もいるかもしれない」という視野が欠如しているようにも感じられ、それもまた性の多様性への理解(=世の中にはいろんな性的指向を持つ人々がいて、あなただけが特別なわけではない)から逸脱した行為であるように思います。

 同性愛者やトランスジェンダーを名乗って他人の気を引こうとする人は昔からいましたが、近年はLGBTQ+の認知度上昇につれてそのバリエーションが増えているのかもしれない……と感じました。