風花雪月と三国志の類似点を考えてみる


 目次

 ・はじめに
 ・三国志および三国志演義とは

 帝国と魏、エーデルガルトと曹操
 ├曹操は徹底した実力史上主義者だった
 ├国のトップでありながら自ら戦場に立った曹操
 └曹操の敵は劉備でも孫権でもなく「古い制度」

 王国と蜀、ディミトリと劉備
 ├人情家でもあり激情家でもある劉備
 ├劉備には暴力的な一面もあった
 └魏に無謀な戦を挑み続けた末期の蜀

 同盟と呉、クロードと孫権
 ├外交と軍事を巧みに駆使した孫権
 ├機転に富んだ孫権の戦い方
 ├日和見なイメージがある呉
 └余談……フランシスと呂蒙

 ベレト&ベレスと司馬昭&司馬炎
 ├魏を滅ぼした司馬昭と、呉を滅ぼした司馬炎
 ├もともとは魏の将だった司馬昭
 └セイロス教会と漢王朝

 風花雪月と三国志の戦いの類似点
 ├かつての同胞が三つの勢力に分かれて戦争に
 ├三つの勢力が衝突した「グロンダーズの会戦」と「赤壁の戦い」
 └つわものどもが夢の跡……な三国志の結末と、「風花雪月」という言葉を表した銀雪ルートのシナリオ





 ●はじめに

 風花雪月のシナリオにはモチーフとなった作品がいくつかあると思われます。その中で自分が「この作品の影響が大きいのではないだろうか」と感じたのが「三国志」および「三国志演義」でした。
 風花雪月のモチーフとしては「銀河英雄伝説」や「アルスラーン戦記」などが挙げられているようですが、それらの作品もまた「三国志」にインスパイアされたものではないかという説があります。
 例えば「銀河英雄伝説」に登場する「ラインハルト」は「曹操(そうそう)」がモデルの一人であるという話を耳にしました。知将「ヤン・ウェンリー」は、天才軍師「諸葛亮(しょかつりょう)」がモデルという説があるようですね。
 それを鑑みると、後世の「戦記もの」は多かれ少なかれ「三国志」の影響を受けているのではないか……などと思えてくるわけです。それを前提として「風花雪月」と「三国志」の物語を読んでみると、それらしき点がかなり多いと感じられたので記事としてまとめてみました。
(この記事を書いた人は三国志マニアというわけではなく、ゲーム「真・三國無双」のファンが高じて三国志や演義のことも多少調べたことがある程度の者です。ですので、まだほかにも存在する類似点に気づいていない可能性も高いです。ご了承ください)



 ●三国志および三国志演義とは

「三国志」は中国の後漢末期から三国時代(西暦180年頃 ~280年ごろ)にかけての戦争を記録した歴史書です。
 この時代の中国は「曹操」を丞相(総理大臣)とする「魏(ぎ)」、「劉備(りゅうび)」を皇帝とする「蜀(しょく)」、「孫権(そんけん)」を皇帝とする「呉(ご)」というの三つの国に分裂しており、互いに覇権を競い合っていました。
「三国志演義」はその「三国志」をベースとし、フィクションで肉付けされた歴史小説です。
 史実と演義の大きな違いは、どの国の立場から歴史を語っているかという点にあります。正史が魏を正統な王朝であるとするいっぽうで、演義は蜀を正統とみなしています。そのため、蜀の人々の活躍が誇張されていたり、曹操が残忍な悪役として描かれたりしています。





 
 ●帝国と魏、エーデルガルトと曹操

 曹操は兵法に精通した文武両全の英傑で、後漢末期の群雄の中では段違いの存在感を放っています。冷酷で智謀に富み、場合によっては非道とされる行為も厭わない彼は、後世ではダークヒーローとして人気を博しています。



 
 ・曹操は徹底した実力主義主義者だった


 曹操は優れた兵法家でしたが、単に武力で天下を治めるだけではなく、中国の文化的価値観をも変革しようとしていました。それまでの漢王朝の秩序を変えて、新しい国の体制を築こうとしたのです。
 当時の中国では漢王室を尊ぶ風潮が残っており、儒教的な価値観の文化を中心として世を治めようとする考えが主流でした。
 実力主義の曹操はこの儒教的な価値観による人選を良しとせず「唯才のみを挙げよ」という、当時としては斬新な求賢令(きゅうけんれい)を出しました。才能さえあれば人格も出自も問題にせず登用せよという意味です。
 こういった曹操の方針はセイロス教の価値観に基づいた紋章主義や貴族社会の撤廃を掲げ、血統的には平民でしかないランドルフや、純粋な平民であろうラディスラヴァを重用していたエーデルガルトと重なります。
 また、曹操は実力さえあれば品性も気にしなかったため、郭嘉(かくか)のような素行の悪さを指摘されている人物も重用しました。エーデルガルトも敵対した場合はとても品行方正とは言えないメトジェイを引き連れていますね。  
 でもメトジェイって品性に目を瞑ってまで登用するほど優秀なのエーデルガルト? 
 まあメトジェイは極端にせよ、黒鷲の学級は何かにつけてエーデルガルトと張り合うフェルディナント、やもすれば授業に参加するのかも怪しいリンハルトやベルナデッタ、エーデルガルトが「目を離さないで」と注意するほど落ち着きのないカスパル、貴族だらけの士官学校にありながら貴族を敵視しているドロテア……と問題児が多く、三つの学級の中でもいちばん級長が苦労していそうです。
 そんな彼らを「品行方正でないからだめ!」と切り捨てないあたりにも、エーデルガルトの方針が表れていますね。



 
 ・国のトップでありながら自ら戦場に立った曹操

 曹操は魏の丞相でありながら、軍を率いるときは陣頭指揮型でした。指揮官でありながら常に兵士と行動を共にし、危険な戦場に立っていたのです。だからこそ冷酷な指導者であるにも関わらず兵士や百姓たちがついてきたのでしょう。
 ここもまたエーデルガルトと重なる部分です(エーデルガルトに限らずFEの君主キャラは大抵そうなのですが、曹操はそういった君主がフィクションに限らず存在するという例としても興味深い人物と言えます)
 曹操が率いる軍勢は攻めるにも退くにも迅速という特徴がありました。攻めるときは一気に攻め、退くときは「退くべきか否か」を適切に判断して被害を最小限に抑えたのです。曹操は多くの戦で指揮を取っていますが、その勝率は八割程度とかなり高かったようですね。
 紅花ルートはほかのルートよりも数節早くエンディングを迎えますが、この迅速さにもエーデルガルトの軍事手腕が現れていると感じます。



 
 ・曹操の敵は劉備でも孫権でもなく「古い制度」

 曹操の残した有名な言葉として、「既に隴を得て、また蜀を望まんや」というものがあります。
 215年、魏の軍師である司馬懿(しばい)が劉備を一気に討つことを提案したとき、曹操はこの段階では無理に蜀を攻撃せず国内を治めることに注力しました。
 劉備が曹操を「漢王朝に仇なす者」として敵視していたいっぽうで、曹操は劉備のことは敵でないとみなしていたのです。曹操はやがて蜀が自壊することを見越していたのかもしれませんね。  
 曹操の敵は劉備でも孫権でもなく「宗教を価値基準とした古い制度」だったのです。
 ディミトリを主役とした蒼月ルートでは帝国軍を撃破してエンディングとなりますが、エーデルガルトを主役とした紅花ルートでは王国軍との戦いは通過点であり、セイロス教会との戦いが主軸となっています。こういった二国の関係も帝国と王国の関係を彷彿とさせました。
(紅花ルートでは「闇に蠢くもの」との戦いがエピローグで語られるのみとなっていますが、これは「闇に蠢くもの」との戦いをクライマックスとして描いてしまうと、エーデルガルトの最終目標が「宗教を価値基準とした古い制度の改革」であることが霞んでしまうからなのだろうと自分は考えています)


 


 
 ●王国と蜀、ディミトリと劉備

 劉備は情に厚く、人徳に優れた英傑です。曹操がダークヒーローなら、劉備は正統派ヒーローといったところでしょうか。実のところアウトローな面も多く記されている人物なのですが、創作物ではおおむね聖人のような人格者として描かれています。



 
 ・人情家でもあり激情家でもある劉備

 劉備は情に厚いがゆえに激情家な部分もありました。義弟の関羽(かんう)が呉の裏切り(といっても、関羽が呉との約束を反故にしたために同盟関係が解消されたという経緯なので、どちらが裏切り者なのかという話になるのですが)によって戦死したとき、激しく激昂して復讐のために軍を動かしたのです。
 しかし、それを迎え撃った呉の陸遜(りくそん)の知略により、蜀軍は40余りの陣地を奪われた上、武将を含めた数万の兵が討ち取られるという壊滅的な被害を受けることになりました。蜀を大きく衰退させる原因となったこの戦いは「夷陵(いりょう)の戦い」と呼ばれています。
 戦の後、逃げ延びた劉備は失意のまま没しました。衰退していった蜀はやがて魏に滅ぼされ、三国のうち最初に歴史から姿を消したのです。
 この劉備の行動は、翠風および銀雪ルートにおけるグロンダーズの会戦で無謀な行軍を決行し、その結果として早々にシナリオから離脱することになる王国軍を想起させました。



 
 ・劉備には暴力的な一面もあった

 聖人君子のようなイメージが強い劉備ですが、史実では督郵(とくゆう/監察官のこと)を杖で二百叩きにしたというエピソードもあります。しかもその理由が、この督郵が劉備に罷免の詔命を通告しにきたため、交渉を試みるもそれを断られたからというものでした。
 こういった劉備の粗暴な側面もまた、ランドルフの拷問などで暴力的な一面を見せるディミトリを彷彿とさせます。
 このエピソードは「三国志演義」では劉備ではなく、劉備の義弟である張飛(ちょうひ)の所業として描かれています。劉備を善として描く三国志演義において、このエピソードはあってはならなかったのでしょう。歴史はこのようにして改竄されていくということがよくわかる例ですね。



 
 ・魏に無謀な戦を挑み続けた末期の蜀

 劉備の死後は、彼の軍師であった諸葛亮が魏の討滅にあたることになります。
 諸葛亮は天才軍師として有名な人物ですが、そのいっぽうで魏に対しては勝ち目のない戦いを挑み続けていました。将兵や民の負担は相当であり、戦争の繰り返しによって蜀はどんどん衰退していったのです。
 ですが、蜀という国が「魏に奪われた漢王朝の再興」という国是を捨てれば、それは蜀という国を否定することになってしまいます。だからこそ諦めるわけにはいかず、勝ち目のない戦いを繰り返しました。
 諸葛亮の死後、その跡を継いだ姜維(きょうい)もまた魏への侵攻を繰り返しました。しかし、時の皇帝であり劉備の息子でもある劉禅(りゅうぜん)が魏に降伏して蜀は滅びたのです。
 姜維は蜀が滅ぼされて捕虜となったあともクーデターを起こして蜀の復興を試みました。ですが、それは呆気なく失敗して姜維は妻子ともども処刑されます。彼は蜀が滅びたあとも蜀の国是をまっとうしようとしたのですね。単独でアンヴァルの宮城に侵入してくる翠風&銀雪ルートのドゥドゥーっぽいです。
 彼らのそういった行動は「私利私欲を捨てて国のためにその身を捧げて死ぬまで奉公した忠義の精神」として、美談として語り継がれることが多いです。圧倒的に戦力で劣るという状況も「それなのにがんばっていて健気!」という同情心を誘ったのでしょう。ですが、そのために民や将兵を犠牲にするのは正しいのか……という批判意見があるのも事実です。
 こういった蜀の人々の価値観もまた、「臣下は国や主のために死ぬまで戦うことが美徳」といった風潮のある王国と通じるところがあるように感じます。





 
 ●同盟と呉、クロードと孫権

 孫権は19歳で兄の跡を継いで江東(こうとう)を支配し、呉の初代皇帝となった人物です。曹操や劉備と比較すると地味な印象は拭えませんが、彼ら人気者たちの夢を要所要所で打ち砕いたダーティーヒーロー的な活躍は、三国志という物語を大きく盛り上げてくれました。



 
 ・外交と軍事を巧みに駆使した孫権

 孫権は馬術と弓術に長け、「人の協力と信頼を得ること」を得意としたそうです。
 皇帝となった孫権はまず周瑜(しゅうゆ)や張紹(ちょうしょう)といった、先代から信用されていた地元を代表する二人の重臣を改めて重用して協力を得ました。影響力のある彼らが積極的に仕官を呼びかけることで、多くの優秀な人材が孫権のもとに集まったのです。
 このような「地縁血縁」を重視した登用によって孫権は名士たちの信頼を獲得し、国の安定化に努めました。曹操が全国から広く才能を集める人材戦略を取ったのとは対照的に、孫権は地元密着型の人材戦略を取ったのです。
 こういった孫権の人脈を駆使した政策は、ジュディットやナデルといったレスター諸侯同盟およびパルミラの諸将たちを味方に引き込んだクロードの手腕を彷彿とさせました。
 また、孫権は兄から受け継いだ江東という土地を基盤として勢力を拡大していったのですが、その際に多く用いられたのが外交と軍事の使い分けです。
 孫権は劉備に荊州という土地を貸していたのですが、返還する時期になっても守将の関羽が頑なに返そうとしません。それを見るや否や、孫権はそれまで戦っていた曹操と和睦し、関羽が曹操軍と戦っている隙に南郡(なんぐん)を奪取したのです。そして、劉備が夷陵の戦いを反省すると再び蜀と同盟を結み、今度は魏の領土を攻め取りました。
 こういった逸話のみを列挙すると「なぜまた敵に回るかもしれない呉と手を組むのか?」という疑問が浮かんできますが、孫権は戦況や政治的な事情などから相手が「呉と手を組むことによって利益がある状況」もしくは「いま呉と戦うわけにはいかない状況」にあることを見極めて的確に交渉をしたのでしょう。
 局面に応じて外交と軍事を巧みに使いこなして版図を広げる孫権のやり方は、魏や蜀からすると非常にしたたかでやりにくい相手だったのではないでしょうか。この「食わせもの」とも言える孫権の政治手腕は、「卓上の鬼神」の異名を持つクロードにも通じるところがあるように感じます。



 
 ・機転に富んだ孫権の戦い方

 孫権は曹操と同様に、自らも戦場に赴くタイプの君主です。
 しかし、「合肥(がっぴ)の戦い」では魏の張遼(ちょうりょう)に奇襲され、あわやというところまで追い詰められたことがありました。そのときは得意の馬術を生かして橋を飛び越え、なんとか逃げ切ったそうです。
 そういった話を聞く限り、直接の戦闘は得意なほうではなかったのかもしれません。
 いっぽうで、孫権にはなんとも機転の利いた逸話も残されています。
「赤壁の戦い」の際、偵察に出た孫権の船が片側の舷側に射掛けられ、その重さで船が傾いたという出来事がありました。そこで孫権は船を反転させ、逆舷にも敵の矢を浴びることによって、船が転覆するのを防いだのです。
 こういった孫権の機転の利いた戦に対して、曹操は「子どもを持つなら孫権のような人物がいい」と口にしたそうです。これは曹操自身が機転によって乱世を生き抜いてきたからこそ、後継者にもそういった器量があってほしいと願ったのかもしれません。
 クロードもどちらかと言えば体を動かすより頭を使うタイプですから、この点も二人に共通した点と言えるのではないでしょうか。
 また、クロードと言えば「好きなもの」の「宴、遠乗り、弓、好奇心を掻き立てるもの」が上げられますが、孫権も宴会や狩りを好む人物でした。それに関しても孫権の機転……というか、悪知恵とも言えるエピソードがあります。
 ある日、孫権は趣味だった虎狩りに出かけた際、虎に反撃されてあやうく大怪我をしそうになりました。もちろん臣下たちは心配しますから、「危険なので虎狩りはおやめください」諌められたのです。
 しかし、孫権は虎狩りそのものはやめずに、装甲車のようなものを作って狩りを続けたそうなのです。「これなら危険ではないからいいだろう」と言いたかったのかもしれませんが、臣下としては「そういう問題じゃない」という気分でしょう。
 若い君主というのもあってか、孫権にはこういった悪戯な逸話も多数残されているようです。クロードも悪知恵というか皮肉というか何と言いますか、知恵を使った冗談を好むタイプですので、ここにも二人の共通点が見えるような気がしました。



 
 ・日和見なイメージがある呉

 前述したように、呉は状況によって魏と同盟を結んだり、蜀と同盟を結んだりするため日和見なイメージがある勢力でもあります。
「赤壁(せきへき)の戦い」では劉備と共に曹操と戦ったものの、その後は荊州を奪うために曹操と組んで関羽を撃退。かと思えば再び劉備と同盟を組んだり……といったように、与する相手がころころと変わり、何をしたいのか判然としません。
 紅花ルートではクロードを逃す選択を選ぶと、帝国軍に領地や将兵を明け渡し、フォドラを去ると約束してから物語の舞台を降ります。これは、クロードを擁立する残存勢力の台頭で戦争が激化するのを防ぐための選択でした。
 また、蒼月ルートでは自領を帝国軍に攻撃されて窮地に陥った際に、一度は敵対したディミトリたちに救援要請を送るという賭けに出ます。その賭けに勝って救われた後は、自分たちの領地をファーガスに返還したのちにフォドラから姿を消しました。
 いずれにせよクロードは帝国とも王国とも徹底抗戦という形は取らず、必要とあれば助けを求めたり交渉を試みたりします。戦況によって与する相手が変わる同盟軍の柔軟性は「一貫性がない」とも感じられますが、そういった点も呉の方針に通じるところがあると感じました。 



 
 ☆余談……フランシスと呂蒙

 無双のカスパルとドロテアの支援会話では、勉学に励むカスパルに対してドロテアがフランシスという将軍の話をします。
「時の皇帝は彼にこう命じたわ。学問を修めよ、でなければ兵は率いさせん。彼は皇帝の意に応えて、必死で勉強したの。特に軍略の才が花開いたとか。その結果、彼は戦争でも大いに活躍し、最終的に軍務卿にまで昇り詰めたってわけ」
 この話の由来となったのは、おそらく呉の呂蒙(りょもう)という人物でしょう。
 若い頃の呂蒙は武力に優れていたものの、教養のない人物でした。そこで孫権が呂蒙の潜在力を見抜いて学問を勧めたところ、彼は日夜勉学に励み、卓越した知性を身につけます。やがて呂蒙は大都督(軍の最高司令官)となり、関羽を討ち取るなどの功績を上げました。
 この逸話は「男子三日会わざれば刮目して見よ」という慣用句にもなっています。ドロテアが口にした「日が5回上って、5回沈めば、男の子も立派な男になる」はこの慣用句が元ネタなのではないでしょうか。
「帝国軍を担う将は、腕っぷしだけじゃやってけねえ」と勉学に励む無双のカスパルや、軍務卿となった紅花ルートのカスパルの姿は、まさにこの故事をなぞらえているようですね。





 
 ●ベレト&ベレスと司馬昭&司馬炎

 司馬昭は三国時代の終焉の立役者と言える人物です。「晋(しん)」という国の建国者であり、「文帝」の異名を持つ知略に優れた英傑でした。司馬炎(しばえん)はその孫であり、「武帝」の異名を持つ晋の初代皇帝です。



 
 ・魏を滅ぼした司馬昭と、呉を滅ぼした司馬炎

 50年におよぶ三つ巴の戦いの末、最終的に中国を統一したのは曹操でも劉備でも孫権でもなく、晋の皇帝である司馬炎でした。263年に司馬昭が蜀を滅ぼし、280年に司馬炎が呉を滅ぼしたのです。
 当時の魏を率いていた司馬昭は、度重なる北伐(魏への侵攻)によって蜀の民は疲弊し、財力も尽きたと判断すると、一気に攻撃して滅ぼすことにしました。蜀の皇帝である劉備はこれに降伏し、三国の一角が遂に崩れたのです。その後、司馬昭の跡を継いだ司馬炎が呉を滅ぼし、晋は中国統一を果たしました。
「三国のうちどの勢力の王でもない者が最終的に国を統治する」という司馬炎の立場は、銀雪ルートにおけるベレト&ベレスの立ち位置に近いと感じます。



 
 ・もともとは魏の将だった司馬昭

 晋はもともとは魏なのですが、曹操の死後に曹一族が衰退すると、曹操の軍師であった司馬懿(しばい)の一族がクーデターを起こして政権を奪いました。その後、司馬懿の跡を継いだ司馬昭が「晋」という国に改名したのです。
 ベレト&ベレスが新たな教主となる銀雪ルートは、黒鷲ルートから派生する分岐ルートであり、ベレト&ベレスは数節を共に過ごしたエーデルガルトと敵対することになります(よく考えると数節って深い絆が芽生えるには短い気もします)
 もともとは魏の将でありながら曹一族と敵対することになった司馬昭は、銀雪ルートにおけるベレト&ベレスを想起させるように感じました。



 
 ・セイロス教会と漢王朝

 漢は紀元前206年から紀元220年まで、実に400年も続いた王朝です。帝国、王国、同盟が魏蜀呉であるとするなら、セイロス教会はこの漢王朝に該当するでしょう。
 曹操、劉備、孫権たちも最初から中国を統一するために戦っていたわけではありません。彼らは漢のために生き、漢の皇帝を護り、漢という国の再興を目標に掲げて戦っていました。漢の存在なくして、彼らの存在意義や行動指針などはなかったのです。
 ですが、やがて漢王朝の支配力が弱体化し、儒教の教えが蔑ろにされるようになると、曹操は漢王朝を廃した新しい統治を目指すようになりました。いっぽうで、劉備は漢王朝の復興を掲げることによって民心を得ようとしたのです。
 貴族や紋章などの宗教的価値観を廃するためにセイロス教会と対峙したエーデルガルトと、セイロス教会の助力を得て帝国と渡り合えるだけの戦力を得た紅花ルートのディミトリは、そんな魏と蜀の関係に近いものを感じました。





 
 ●風花雪月と三国志の戦いの類似点

 風花雪月と三国志には、前述した設定だけでなくシナリオ上で転機となる出来事や戦闘にも類似点があるように見受けられました。この項目ではそれらに関して記述してみます。


 
 ・かつての同胞が三つの勢力に分かれて戦争に

 曹操、劉備、孫権の三勢力は始めからいがみ合っていたわけではありません。農民反乱を煽動する宗教団体である「黄巾党(こうきんとう)」を鎮圧するために共闘したり、暴君である「董卓(とうたく)」を討つために「反董卓連合軍」として共に戦うこともあったのです。
「黄巾の乱」では後漢政府が義勇兵を募ったのですが、そこで集まったのが曹操、劉備、孫堅(そんけん/孫権の父親)の軍勢です。その後の反董卓連合軍でもこの3人は協力関係にありました。更に、三国志に名を連ねる袁紹(えんしょう)、公孫瓚(こうそんさん)、馬騰(ばとう)といった武将たちも志を共にしていたのです。
 しかしやがて三国は鼎立し、三つ巴の戦いが始まりました。この「かつての同胞たちが三つの勢力に分かれて戦争をする」という展開は、「風花のモチーフには三国志も含まれているのでは?」と感じた最初の部分です。



 
 ・三つの勢力が衝突した「グロンダーズの会戦」と「赤壁の戦い」
 
 三国志の中で最も有名な戦いが、映画「レッドクリフ」の題材にもなった「赤壁の戦い」ではないでしょうか。
「赤壁の戦い」は、天下統一を目指して南下した曹操軍を孫権・劉備の連合軍が迎撃した戦いです。その結果として諸葛亮の構想した「天下三分の計」が実現し、曹操の魏、劉備の蜀、孫権の呉の三国が鼎立する三国時代となりました。
 三国志を代表する英雄が一同に介するというスケールの大きさや、曹操が率いる20万の軍勢をたった5万の兵力で撃退するというドラマティックな展開に加えて、曹操軍の船団が孫権軍の計略によって大炎上するという視覚的な華やかさなどが、「赤壁の戦い」が人を惹きつける理由かと思われます。三つ巴の勢力図は、その後50年に渡って続きました。
 風花雪月ではそれぞれの勢力が「グロンダーズの会戦」で衝突し、ここから三国での本格的な戦争が始まります。挿入されるムービーや「鷲と獅子と鹿の戦い」で使用されたBGMのアレンジといった演出などからも、シナリオ中におけるこの戦いの重要性が窺えますね。
 また、「グロンダーズの会戦」ではエーデルガルトがマップの中央にある砦を火計に利用します。「赤壁の戦い」における火計とは状況がかなり異なりますが、「グロンダーズの会戦」が「赤壁の戦い」を意識したものなのであれば、故意に挿入された演出なのかもしれません。



 
 ・つわものどもが夢の跡……な三国志の結末と、「風花雪月」という言葉を表した銀雪ルートのシナリオ
 
「司馬昭&司馬炎とベレト&ベレス」の項目で触れたように、50年におよぶ三つ巴の戦いの末、中国を統一したのは晋という国でした。
 曹操、劉備、孫権といった三国志を代表とする英傑たちは既に亡く、彼らが守った国もすべて滅びました。この「つわものどもが夢の跡」という言葉を想起させるような虚しさもまた、三国志の持つ魅力であると自分は思っています。
 風花雪月のタイトルにも使用されている「風花雪月」という言葉は「春の花・夏の風・秋の月・冬の雪など自然風景や、そこから生じる情緒」を意味する中国の四字熟語です。美しくありながらも儚く失われてしまうそれらの事象は、戦場で散ってゆく数々のキャラクター達や国を想起させますね。
 風花では、紅花、蒼月、翠風のいずれかのルートでは主役となる国がエンディングまで残存しますが、銀雪ルートではどの勢力も最終的には滅びてしまいます。王国軍と同盟軍にいたっては「ディミトリが戦死」「クロードが行方不明」というテキストを最後に登場しなくなってしまいます。
 こういった部分もまた「風花雪月」と「三国志」に通じるところではないかと感じました。


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