長きにわたり守られてきた幕府体制も、時代の流れとともに衰弱の一途をたどっていった。鳥の後、西日本の諸藩は、いち早く
新政府側へつき、東への進撃を開始。各道の各藩は「恭順参戦」か「佐戦守」かの決断を迫られた。長岡藩ではさまざまな論議
が起こり混迷を極めたが「武装中立」を真意とす佐幕論を唱える河井継之助を中心に、次第に藩論は統一されていった。ほどな
く軍事総督となった河井之助は、新政府軍監・岩村精一郎と小千谷で会談し、中立を目指す藩の真意を伝えるが聞き入れられ
ず決裂。越後における全面戦争の火ぶたは、切って落とされた。
1868年1月3日 鳥羽伏見の戦 4月26日河井継之助軍事総督に 5月2日 河井・岩村小千谷会 5月6日 奥羽越列藩同盟
5月10日 榎峠で開戦 5月11日 朝日山の戦 5月19日 長岡城落城6月2日今町の戦 大黒の戦 7月25日八丁沖戦にて
勝利 長岡城奪回 7月29日 長岡城陥落 9月25日 長岡藩米沢にて降伏
会談の間
長岡藩参戦のきっかけとなった「河井・岩村の小千谷会談」は、滋眼寺の一間を借りて行われた。河井にとっては藩の命運を
かけた重大な話し合いの場であったが、一方岩村にとっては「戦うか否か」を問いただす場でしかなかった。河井は「進軍をし
ばし留めてほしい」との藩主の嘆願書を差し出し、中立を目指す藩の意趣を申し述べたが、岩村には聞き入れられず会談は
30分で決裂した。
小千谷会談決裂後、継之助は長岡藩の諸隊長をここに集め、新政府軍に対する開戦の決意を演説したという。5月19日の落城
までの間、藩の本陣が置かれた。
大黒村(現大黒町)周辺は新政府軍の最前線基地が置かれ、幾度となく激闘が交わされた。戦場跡には記念碑が建てられ、
海軍中将時代の山本五十六の書が刻まれている。
八丁沖は長岡の東北郊外、百束・大黒あたりから、南は富島・亀貝にいたる南北約5キロ東西約3キロにわたる大沼沢地で
した。河井継之助は、長岡城奪回のため、長岡全軍の力を一つにして、この八丁沖を密かに渡り、一気に城下へ突入するこ
とを計画しました。
そして慶応4年(1868)7月24日午後7時ごろ行動を開始、全軍600余名声をひそめて潜行し、7月25日未明に富島へたど
り着き、大激戦にすえ宮下の新政府軍前線基地を占領しました。さらに、全軍を四手に分け、長岡城をめざして猛進撃に移り
ました。不意を突かれた新政府軍は、必死に防戦したが昼すぎには勝敗は明らかとなり、長岡城の奪回に成功しました。
継之助のこの八丁沖渡河作戦は、この方面の防備が手薄なのを察知し、巧みにその虚をついた作戦として現在でも高く評価
されています。この作戦の功労者は、鬼頭熊次郎でした。
慶応4年(1868)5月19日、榎峠の攻略が難しいと判断した新政府軍は、大島・槇下から信濃川を渡河し、直接長岡城を
攻撃してきました。この時、新政府軍の侵攻を城下に知らせるため、一藩士が鐘楼にかけのぼり、この鐘を乱打したといわ
れています。長岡の歴史にとって、近代の夜明けを告げたことから「維新の暁鐘」と呼ばれるようになった。
長興寺 栄涼寺
長興寺には、長岡藩大隊長として活躍した山本帯刀をはじめ この栄涼には、長岡藩軍事総督として北越戊辰戦争の指揮を
長岡藩士家族の墓があります。その中で、稲垣平助は長興寺 とった河井継之助をはじめ、12代藩主牧野忠訓や北越戊辰
を興し、長岡藩家老職でした。また山本五十六元帥もここに眠 戦争後、廃墟となった長岡の復興に尽力した、三島億ニ郎ら
っています。 の墓があります。
悠久山の蒼紫神社内にあって、戊辰・西南戦争の戦没者が眠っている。
この普済寺んは、三間豊蔵や牧野金太郎など、北越戊辰戦争において、若くして散った少年隊士の在名碑があります。さらに
寺の裏山の石段を上ると市街地の眺望がきくところに、初代藩主牧野忠成公の墓があります。