長岡市には、大手通とか殿町・城内町・弓町・稽古町など城下町の名残りをとどめる町名がたくさん残っている。長岡城は平城で
本丸・ニの丸・三の丸(詰の丸)からなり、規模はそれほどでもないが、要害の地形をしめた堅固な城で″苧引形兜城″とも″八
文字構浮島″ともいわれた。城は戊辰戦争で落城し、そのあとはいまなにも残っておらず。長岡藩主牧野氏は三河国牛久保(愛
知県豊川市)の出身、小領主として周囲の諸勢力におびやかされながら苦難のなかを生きぬいてきた。これが質実剛健の藩風を
つくりだすことになった。長岡藩では三河以来の家風を伝える「牛久保の壁書一八ヶ条」があり、そのなかに「常在戦場」の四字が
ある。この藩風を伝承した人物が河井継之助と山本五十六です。
河井継之助(1827〜1868) 山本五十六(1884〜1943)
江戸に出て佐久間象山に学び、備中松山を訪ねて 海軍大将、連合艦隊司令長官。海軍大学校を卒業
山田方谷に師事。長崎を見学して西洋の実情を知 し、米国に駐在。ロンドン軍縮会議に出席。日華
り、攘夷論に反対した。長岡藩の上席家老として 事変がおきるや日独伊三国同盟に反対。日米戦争
藩政を改革し、戊辰の戦いには中立を唱えたが入 の回避を叫んだが太平洋戦争始まる。太平洋上の
れられず遂に抗戦。会津に逃れる途中悲運の最期 機上で戦死。元帥の称号を受け、国葬に浴した。
を遂げた。
長岡の地は、信濃川上流から運ばれた土砂によって造られた。両岸に広がる河岸段丘には、旧石器時代から人が住んでいた
形跡があり、縄文中期(約四千五百年前)にむらが定着して、現在につながる人々の生活が始まったとみられている。火焔土器
に代表される長岡の縄文文化は、この地に世界に誇りうる豊かな文明が存在していたことを示している。
古代に各地を結ぶ道が通ずると、頚城からの道、蒲原への舟継ぎ、魚沼への街道と、長岡周辺は、交通・物流の拠点となった。
中世には南北朝争乱の中心地となり、やがて古志長尾氏が蔵王堂城や栖吉城を根城として中越を冶める。その後蔵王堂城に
入封した堀氏は、現在の長岡駅付近に長岡城を築き、のちに入封した牧野氏によって完成をみる。長岡は、七万四千石の長岡
藩の城下町として牧野家十二代、二百五十年間にわたり治められた。
幕末維新の動乱では、軍事総督・河井継之助率いる長岡藩は中立の道を探りつつも北越戊辰戦争へ突入。激烈な長岡城攻防
戦を繰り広げながら最終的には敗北、城をはじめ町のほとんどを焼失した。藩はかろうじて再興を許されるが、人々の生活は困
窮を極めた。その折、支藩である三根山藩から見舞いの米百俵が届けられたが、大参事・小林虎三郎はそれを人々に配らず、
売却代金を国漢学校の整備のために注ぎ込む。この「ひとづくりがまちづくり」という考え方は米百俵の精神と呼ばれ、その後の
長岡の教育理念として脈々と受け継がれている。
明治半ばには東山油田の開発で石油景気に沸き、商業も発展。大正期には近代都市への基盤整備が着々と進められ、昭和の
軍事産業は工業都市としてのさらなる発展に寄与することとなる。終戦直前の長岡空襲は、それまで築かれてきた都市基盤のほ
とんどを焼き尽くし、1460余人の尊い命を奪い去った。残された人々は戦争の悲惨な悲しみを復興へのエネルギーに換え、都市
機能の回復に都市計画の理念を織り込んだ新たな近代都市の構築に兆んだ。復興祭として始まった長岡まつり(8月2・3日)は
今や多くの観光客を集める一大イベントとなった。