太古のロマン

            昭和十一年の大晦日一人の青年が関原町馬高の丘で発掘をしていた。青年の名は近藤篤三郎。この日彼によって発見さ

            れた土器の破片はひとつひとつ丁寧に接合され一個の独特な形状を待つ土器へと復元された。それこそが、のちの縄文文

            化の象徴として世界に知られることとなった「火焔土器」であった。のちの発掘や研究によって、縄文時代中期(約4500年

            前)には新潟県全域で火焔型土器が流行し、特に信濃川流域でめざましく発展を遂げていたことが分かった。新潟県域はま

            さに”火焔土器のクニ”であり、長岡周辺はその中心地のひとつだったのである。

   

   

馬高・三十稲場遺跡

              馬高・三十稲場遺跡は関原南方に発達している信濃川左岸の河岸段丘上に小さな沢をはさんで東に馬高・西に三十稲場と分かれて所在して

              います。馬高は火焔土器を出土した県内でも最大級の縄文中期の集落址でその規模は東西150m、南北250mである。この遺跡は近藤勘

              治郎・篤三郎父子による調査をはじめとして、これまでに多くの調査が実施され、多数の住居址とともに火焔土器・王冠型土器玉などの装身具、

              大型土偶などの生活や信仰に関係する遺物多く発見されています。

              馬高で生活した人々は次ぎの縄文後期になると三十稲場に生活の場を移しました。三十稲場は近藤父子やオランダ人グロードなどによって調

              査が行われてきました。この遺跡は馬高と同じ規模をもつ大集落址で、ダルマ形の石囲炉住居址、それに多くの出土品は馬高に勝るとも劣らな

              い内容をもっており、馬高とともに新潟県を代表する遺跡です。

   

   

   

   

  縄文人世界・暮らし 

   

   

縄文土器

   

土偶

藤橋遺跡

              藤橋遺跡は、信濃川中流域の河岸段丘上に所在する縄文時代後期から晩期に至る集落跡です。住居址や土壌等多数の遺構と越後・会津

              地方の標式とされる藤橋式土器(晩期)・石鏃・板状石器・石斧等の多種の石器等の遺物の他、ヒスイ、その他の玉類の未完成品等が発見

              されています。ヒスイその他の原石を加工していた集落と推定され、数少ない玉作りの遺跡として重要です。

   

縄文の家

   

掘立柱柱住居址を露出

   

                             住居内の生活

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