[品川正治憲法講演・文字化 2007.6.2 和歌山]
品川正治氏講演会「戦争・人間・憲法九条」
[開催概要]
[内 容]
(司会)金原徹雄(「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」)
小野原典子(「守ろう9条紀の川市民の会」)
開 会
司会(金原徹雄、小野原典子)定刻も過ぎましたので、ただいまより、「戦争・人間・憲法九条」と題して品川正治さんの講演会を始めたいと思います。本日の司会を務めさせて戴きますのは、「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」の金原徹雄と、紀の川北岸に居住する和歌山市民で作る「守ろう9条紀の川市民の会」の小野原典子です。どうぞよろしくお願い致します。(拍手) それでは、まず、両主催団体を代表して、「九条の会・わかやま」呼びかけ人で、紀の里農業協同組合代表理事・組合長である石橋芳春さんから開会のご挨拶をお願い致します。
開 会 挨 拶
石橋芳春氏石橋でございます。主催者を代表しまして一言ご挨拶申し上げます。 1年前に「九条の会・わかやま」の呼びかけにより、皆さん方の力で、澤地久枝さんを招いての大集会を成功させました。そして本日、会場いっぱいの集会大成功であります。心より感謝申し上げます。 「九条の会・わかやま」が発足して1年8ヶ月、呼びかけに応えていろいろの立場、いろいろの階層、いろいろの職業の方々が立ち上がり、今では70を超えて組織が生まれています。全国でも無数の組織が生まれ大きな「うねり」となってまいりました。 国民の80%の人々が現在の憲法を支持している中で、安倍内閣は60年前の戦後の「新憲法草案」は外国から押しつけたれたものと宣伝し、今「新しく憲法をつくるべきだ」と主張し、過日、国会で「国民投票法案」すなわち「憲法改悪手続き法案」を強行採決しました。国民不在のもとで憲法を変えようとしています。 日本国憲法の世界的にすばらしいのはその前文にあると言われています。「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」とあります。これは、日本の国民だけの法ではない。私たちは戦争の悲惨さを体験した人民として全世界の人々が平和の中に生きる権利を、高らかに宣言し、発信したのであります。 だからこそ世界の誇れる法、だからこそ国際的にあがめられる法であります。今こそこのすばらしさを再確認し、学習する必要があります。そして、この運動の輪をもっと大きくしていきたい。 本日は、スペシャルゲストとして大変お忙しい中、品川正治さんにお越しいただきました。品川さんは、経済同友会終身幹事で財界のリーダー。異色の存在であります。戦争体験者として、財界出身者としての「9条を守る」見方があり、思いがあります。 このご講演をお聞きし、明日から決意を新たに、この運動の輪を大きく展開していこうではありませんか。このことを訴えて開会の挨拶と致します。(拍手)
講 師 紹 介
司会(小野原典子)それでは、本日ご講演戴きます品川正治さんのご経歴を簡単にご紹介致します。 品川さんは、1924年(大正13年)に神戸市でお生まれになりました。旧制第三高等学校、現在の京都大学在学中、1944年(昭和19年)12月に20歳で召集され、一兵卒として中国大陸の最前線に送られました。 1946年に復員して、東京大学法学部で学業に復帰され、在学中の1年間、東京都渋谷区立上原中学校で社会科の教員を経験されました。 同大学法学部政治学科をご卒業後、日本火災海上保険(現在の日本興亜損保)に入社され、同社の社長、会長を経て、1993年から97年まで、経済同友会副代表幹事・専務理事をされ、現在は、経済同友会終身幹事、(財)国際開発センター会長をなさっておられます。 それでは、品川正治さんに、「戦争・人間・憲法九条」と題してご講演をして戴きます。どうぞ、よろしくお願い致します。(拍手)
講 演
品川正治氏ただいまご紹介戴きました品川でございます。この会場は本当に熱気あふれるばかりでございます。私はその熱気に応えられるかどうか、今日はきわめて率直に私の気持ちをお話申し上げて、皆様方のそのお気持ちに何とかお応えしたいというつもりでございます。よろしくお願い致します。(拍手)
旧制高等学校での思想形成
先ほど私のプロフィールに関しましてはご紹介ございました。そのとおりでございますが、今日のお話の信条って言いますか、どこから私はそういう信条を得たのかとか、そういうこともご紹介するつもりで、自分の口から自己紹介かたがた、その信条の根源というものをまず最初にお話してみたいと思います。今ご紹介あったとおり、私は1924年の生まれでございます。この7月で83歳になります。福沢諭吉の言葉を借りるなら、一身にして二生といいますか、大日本帝国憲法下で22年、それから日本国憲法下で61年の生活をした男でございます。で、年齢からもお察しがつくように、正真正銘の戦中派なんです。この正真正銘という意味は、もう私は、軍隊にとられますときには、自分の思想形成期をはっきりと自覚しておりました。何も分からずに戦争に行ったとか、熱に浮かされて行った、そういう経験ではございません。当時の私たちの時代は、旧制高校に入るというのがいわゆる受験勉強だったんです。そういう意味では、私も当然受験勉強をして神戸の中学から京都の第三高等学校に入ったわけですが、入ってみますと、今までの受験勉強っていうのは勉強じゃないっていう位の強い印象を受けました。あと2年しか生きられない、2年、長くて2年半、勉強出来るのは、学問出来るのはそれだけの期間しか残ってない、そういう気持ちは全員が持っておりました。従って、死ぬまでにどうしても読んでおきたいという本のリストをほとんど全員の方は胸内ポケットに入れておりました。他の授業に出なくても、その自分が死ぬまでに読んでおきたいという本を読むために、努力してるっていうことは、先生の方も知っておられました。ですから、自分の授業に出てこないからっていって、「けしからん男だ」とか、そんなことは一切仰らなかった。あの男は何に取り憑かれている、何に凝ってるのか、何を解明したいのか、先生はそういう目で学生を見ておりました。私の場合、自分の口で言うのも変ですが、全くとんでもないリストを作っておりました。カントの「実践理性批判」を原語で読んで死にたい、そういうつもりでした。しかし、ドイツ語の「ド」の字は、高等学校へ入って初めて学んだ訳ですが、その私の希望を「よし、かなえてやる」と仰った先生がおられます。「2ヶ月間で文法を完璧に教えてやる。そのあと一生懸命読め」そういう風な形で授業をやって戴きました。夏休みには、原書(レクラム文庫)を買ってきて読むことができました。そういう意味では、率直に言って、必死に勉強するっていう姿は、いわゆる苦行僧、学生というよりも苦行僧のようなそういう生活の仕方だった訳なんです。そういう点で、非常に切羽詰まった感覚で学問に取り組んでおりましたが、片時も頭から離れないのは、国家と国民のあり方だった訳なんです。国家が起こした戦争の中で、国民としてどう生き、どう死ぬのが正しいのか、それの結論を得たい、それが私自身の学問に最初取り憑かれた時の基本的な立場だった訳なんです。これは、あとでまた申し上げますが、私の場合は、まだその問題の結論が出ない2年生の秋、軍隊に現役召集という形で入りました。
現役召集を受けて北支戦線へ
で、私は鳥取の連隊に入った訳なんですが、そこでは、たった2週間おっただけです。その時に非常に、入隊した最初のその日にですね、強い衝撃を受けました。それはあの、私たち現役部隊は、入りました時に、全員営庭に並べて連隊長が連隊の全員に向かって訓辞された訳なんです。私たちは、その全連隊の兵隊の前に並べられました。「この男たちは死にに行くんだ。手を出した男は俺は絶対許さないぞ」そういう言葉を吐かれた訳なんです。言われた我々は、覚悟はしてましたけど、軍隊内部でも、そういう形で見ておられたということに関しては、強い衝撃を受けました。おかげでと言ったら何ですが、私は軍のいじめというのを一度も経験したことありません。これは割合に珍しいことなんですが、五味川純平さんだとか野間宏さんが、あるいは軍隊に関しての小説なり文学なりでは、軍のいじめっていうのは、非常に強く書かれておる訳なんですが、私の場合は、本当に一度も経験してない。内地で2週間おりました。いきなりもうそのまま中国の北部、北支戦線に投入されました。明けても暮れても、戦闘部隊としての立場で作戦に参加しておりました。
様々な「戦争体験」
ここで皆さん方は、戦争体験を持ってる男、これは全員同じような体験をしたんじゃなかろうかという風に思っておられますが、これは全く違います。日常の平時の体験の相違よりも、戦争体験の違いの方が、ずっとずっと大きいんです。これは、空襲ひとつをとってもらえたら、皆さん方ご理解出来ると思うんです、想像出来ると思うんです。空襲の恐ろしさというのは、空襲を受けた人は全員同じ恐ろしさを感じております。しかし、空襲の、その空襲で家を焼かれ、親を喪い、兄弟を喪ったという方と、家は助かった、両親も助かった、兄弟も無事だったと、同じ空襲を受けても、その空襲の思い出す思い出し方は、あるいはトラウマは全く極端から極端に違うのですね。戦争体験も全く一緒なんです。私は中国の戦線で戦闘に参加し、負傷もし、それでも前線から後退せずに終戦を迎え、俘虜収容所に入って帰ってきた、そういう戦争体験の持ち主なんですが、私の戦争体験なんていうのは、例えば、南太平洋のニューギニアとか、あるいはフィリピンのレイテだとか、ビルマのインパールの戦線で戦われた人たちの前では、おこがましくて言えないんです。あの方たちは、多い人は8割と言います、大体7割は餓死なんです。人間、餓死をするところまで追い込まれるというのは、とてつもない悲劇なんですね、悲惨なんです。あの戦線で亡くなられた方、皆戦死とは呼ばれてますけど、餓死なんです。食物を探す気力、体力もなくなった、それで餓死をした。こういう戦争体験がひとつあります。それから、2つ目のカテゴリーとしては、硫黄島とか、沖縄、あるいはサイパン島、アッツ島、そういう戦争体験をお持ちの方は、これは玉砕するしか前途はないという、圧倒的な敵の火力の下で、最後は玉砕しか道は残ってないっていう体験をされた方なんです。この戦争の体験というのは、まさに人間としての最高の悲劇だったと思うんですね。そういう方たちの前では、私の中国戦線における戦闘体験っていうのは、これまたおこがましくて言えないんです。ただ、オーラルヒストリーということがよく言われます。この戦争経験者は、歳も取り、正確に戦争の記録あるいは歴史を後世に残すべきだ、伝えるべきだ、私自身もその気持ちははっきり持っておりますが、今申し上げたような戦争に参加された方は、口を開かれません。「あなたはなぜ助かったの」という一言が、いつも頭の中に残ってる訳なんですね。「そんなに全員が亡くなったのに、どうしてあなただけ助かったの」、答えようがない訳なんですね。だからそこで本当の意味のその一番激しかった戦争の歴史を残すということは、これは非常に難しいことなんです。私も含め、生き残った人たちには、ある種の後ろめたさが、亡くなった戦友に対してもどうしても消えないんです。その人に無理にこの戦争体験を、告白って言いますかね、そこまですること自身は、非常に難しいだろうと思うんです。 ただ、私の場合は、中国で、中国には当時100万の日本陸軍がいた訳なんです。その100万の内の1人って言うよりもですね、100万の軍隊の内の90%までは戦闘軍じゃなかったんです。占領軍だったんです。あの広い中国の北京、天津、上海、杭州、武漢、それからまた広東、香港、そういう大都市という大都市は、ほとんど全部日本軍が占領していたのです。戦後のことをご記憶の年配の方ではお分かりでしょうけど、日本は、マッカーサーの米軍に占領されておりました。全国至る所にアメリカ軍が駐留しておりました。しかし、中国の広さっていうのは、ヨーロッパ全体よりももちろん広いのです。そこに日本軍は100万軍隊を置いていた訳なんですが、大部分は占領軍としての日本軍だった。私たちの戦闘軍っていうのは、最初から区別されておりました。一番少ない時は4〜5万しかいませんでした。大きな作戦をやる時には10万、それが戦闘軍だった訳なんですが、私自身は、最初からその戦闘軍としての前線に張り付いておりました。先ほど、軍のいじめというのを受けたことがないと申しましたが、私たちのような前線部隊の場合、私は擲弾筒の筒手でした。身体に12発の手榴弾を巻き付けてる訳なんです。そんな男、殴れないんです。その夜、戦争が始まったら、その男の側に近寄れないはずなんですよね。私は短い期間ですけど、着いた、本当に着いたそのすぐから、戦闘部隊としての戦闘に参加しておりました。で、私の場合は、西安という、中国の昔の唐の都の長安なんですけども、その近辺にあった、あとで分かったことなんですけども、アメリカ軍の飛行場、それを攻略するための戦闘で、私自身は、負傷した訳なんです。それが私の戦争体験です。戦争体験というのは、人によって様々です。 もう一つ、皆さん方の回りにいらっしゃる方でもおられるのは、関東軍と称して、旧満州国の地域にいた精鋭部隊なんですが、この方たちは、戦争体験=シベリア体験なんです。戦闘というのは、11日に、8月の11日に始まって15日に終わってるんですね。当時のソ連軍との戦闘っていうのは。それでシベリアに抑留されて、シベリアで激しい肉体労働をさされて、その体験っていうのがシベリア体験。戦争体験といっても、ものすごく違った体験のはずなんですね。 それからもう一つ、これも皆さん方は、あまりご存知ないことなんですけど、私たちの戦闘軍っていうのは、中国で武装解除されたのが11月なんです。8月に終戦になっております。中国軍は、日本軍を武装解除しないんです。日本軍を武装解除すればそこは空白地になってしまう。それは、イコール共産軍の支配地域になってしまう。そういう意味で、私たちの武装は解除しない。先日、「蟻の兵隊」という映画が封切られております。あれは、私たちの隣の地域、山西省の日本軍の、8月15日以降の戦闘を描いてる訳なんですけど、そういう意味では、この戦争が終わったっていう感じは、私たちは武装解除されて、俘虜収容所に入れられた時にそれを感じた訳なんです。それまでは、完全に武装していたのです。重慶政府は、日本軍に対して弾薬を嫌というほど補給してきました。ただ私は、助かったのは、私の隊長が、極めて優秀、人間としても優秀な人で、復員で帰ってきた後、日本の超大会社の社長にまでなられましたけど、その方は、弾薬の補給を受けた晩には、凄い夜間演習を命令され、私たちは、凄い規模の夜間演習をやりました。それは、国府軍、あるいは共産軍、両方とも見ておる訳なんです。こんなもの凄い部隊に攻撃をかけたら、とんでもないことになるぞって思わせるような夜間演習なんですけども、そこで「全弾撃ち果たせ」っていうのが命令なんです。「1発も残すな」「中国に、国府軍であろうと、共産軍であろうと、中国軍に向かって1発も弾を撃つな」そういう指導だった訳なんです。そういう方の下におりましたために、私たちは、8月15日以降、襲撃も受けたこともないし、こちらから攻撃したこともない。しかし、現実の姿としては、8月15日以降中国の北支戦線で亡くなられた人だけで5,000人いるんです。これは、終戦後の戦死っていうのは、戦死にならない訳ですね。誰のために戦ったのかっていう問題にもなる訳です。そういう意味では、内地におられた皆さん方には全く秘匿された色々な軍隊のそういうことがございましたけども、いずれにしましても、私たちは11月には武装解除を受けました。
「敗戦」か「終戦」か
それで、鄭州という、今の河南省の省都なんですけども、この鄭州の郊外に、広大な日本の軍隊を収容する俘虜収容所ができました。多い時は数千名、日本の将兵がそこで起居をともにしとった訳なんですが、そこでもの凄く激しい論争が起こったんです、日本軍内部で。陸軍士官学校を卒業された将校、あるいは北支派遣軍総司令部だとか、そういうところで勤務されとった、それこそ血気盛んな日本の将校の人たちが中心で、日本政府を弾劾するっていう、その弾劾文の署名運動が始まったんです。何を弾劾するか。「終戦」という言葉を当時からずっと日本政府は使って、「敗戦」という言葉は使わなかった。「卑怯だ。これからの大和民族の生きる生き方というのは、国力を回復して、この恥を雪ぐっていうのが我々の生き方じゃないのか。なぜ、『終戦』っていう呼び方をして、その点をごまかそうとするのか」という、その政府に対する弾劾文なんです。それで、署名運動が一斉に始まりました。署名運動って言っても、今の署名運動じゃないんですよ。自分の血で、自分の指を切ってその血で名前を書くという、血書なんです。それに対して、私たちのような戦闘部隊の経験者は、真っ向から反対しました。「何を言ってるのか」と、「これからの日本の生き方が、そんな生き方を我々がして、やっていくつもりは毛頭ない。政府が『敗戦』と呼ばずに『終戦』と呼んでること位は分かるじゃないか。神国不滅だ、この国は絶対つぶれない、神国不敗っていう精神教育を徹底してやってきた国としては、『敗戦』って呼ばずに『終戦』って呼んでること位のことは、こらもう百も承知じゃないか。それよりも何よりも、戦友300万を失い、中国の人たちを2000万殺し、そのあとの、我々の生き方っていうのは、どの面下げて中国人に顔を合わすことが出来るんだ。『終戦』で結構だ。ただし、2度と戦争をしない国にするっていう意味での『終戦』だ、これが、我々のこれからの生き方なのだ」 この両派の間には、血の雨も降りました。しかし、徐々に全体のその収容所内の空気は「終戦」派、2度と戦争をしない、そういう国を作りたいっていう、そういう「終戦」派が大多数になりました。
日本国憲法草案との出会い
ところで、私たちは、その収容所からは、翌年の5月1日、山口県の仙崎という港に復員した訳です。船は、もっと早くに着いておりました。しかし、私たちの部隊はもともと山陰の部隊でその山陰に着いた訳ですから、遠くの人を先に上陸させ、私たちは2日間ほど懐かしい本土を眺めながら上陸は許されなかった。しかし、その船内で、全部隊に新聞が配られたのです。新聞といっても、今日出たとかっていう新聞じゃないです。民家からかき集めてきた古い新聞なんです。「日本国憲法草案」が発表された日の新聞なんです。その新聞を全部隊に配られました。「お前たちはこれから帰る、国に帰るんだ。この国の憲法草案、こういう形で発表されておる。どういう国になるか、それを十分知った上で国に帰れ」そういう趣旨で配られた訳なんです。新聞を見た途端に全員泣きました。あの憲法前文、今の憲法の前文が、「前の文」ですね、前文から9条まで読んで、皆泣きました。我々の生き方は、それしかないと思っておったけども、よもや国家が憲法で戦争放棄を明確にする、国の交戦権を認めないっていう、そこまで書いてくれたか、これなら生きていける、これなら中国の人たちにも贖罪の気持ちを表せる、亡くなった戦友の魂に対しても、「こういう国になるんだ」っていうことを我々言えるようになる、そういうのが私自身の憲法、現憲法に接した一番最初の日なんです。その思いだけは、私自身、それこそ忘れることができません。
国家ではなく人間が起こす戦争
そういう形で私は、憲法体験をした訳なんですが、ここでもう一つ、戦争体験の中で得たものとして、最初に三高の学生のころの話をしましたが、国家が起こした戦争の中で、国民がどう生きるのが正しいかっていう結論は、はっきり出ました。その結論というのは、「国家が起こした戦争」という問題の出し方が間違っておったっていうその自覚なんです。戦争を起こすのも人間なんです。それを許さないで止める努力が出来るのも人間だ、なぜそれに気が付かなかったのか。戦争をまるで天災地変のように考えておった自分が、国家理性がどうだとかっていうその観念論にとらわれてやっておったことが全く間違いだった。戦争を起こすのも人間ならば、それを許さず止める努力が出来るのも人間だ。これが私の戦争で得た最も強い体験なんです。 その後私は、経済人として活動してきましたが、経済に関しましても、それとパラレルな論理が私自身を支えてるんですね。例えば、今、市場原理主義というのが政策の基本に据えられておるような形です。小泉内閣以降は、特にその線が強くなっておりますが、市場、全てが市場で決めるんだ、こういう考え方が非常に強くなっております。教育も福祉も医療も環境問題も、そういう問題まで市場に任せようという動きが強くなっておる。私は、断じてそれに同調できません。今挙げたような種類の問題は、全て人間の努力なんです。教育にしろ、福祉にしろ、医療にしろ、環境問題にしろ、それを人間の努力という観点を失って、市場に任せるっていう、その今の経済政策の基本にある考え方には全く同調できません。私は、先ほど言いました、戦争を起こすのも人間だ、それを許さず、止める努力ができるのも人間だ、教育や医療、福祉、環境に努めるのも人間です、人間の努力です。これの先頭に立つのが本来の政治なんです。それを、市場に任せるっていう形で言い出した途端に、全てがおかしくなるんです。私は、だから戦争で得たその体験と信条とを、経済界で活動する時の信条、これは、ある意味では、パラレルなんです。
戦争を許さず止める努力が出来るのも人間
今だったら、この国で誰が戦争を起こそうとしておるか、これは皆さん方もすぐ頭に思い浮かぶんですよ。ところが、本当に戦争が始まりそうになったら、「やれ北朝鮮がこうしたから」とか、「中国政府がこうしたから」とか「台湾がこうしたから」とかっていう格好にすり替わってしまうんですよ。今は一番分かり易い時なんです。誰が戦争出来る国にし、誰が戦争を命じ、誰が戦争を欲しているのかっていうのが、今だったら一番分かり易い。本当に始まってしまったら、その問題は、問うことさえできなくなってくるという難しさがあるんです。その意味で、戦争を起こすのも人間なら、それを許さず止める努力が出来るのも人間だっていうのは、今こそ、皆さん方にはっきりと自覚して戴きたいと思うんです。お前はどっちなのか、その問いを絶えず自分に向けて戴きたい。これが、今日お話する前座であり、同時に一番基本的な、皆さん方に訴えたい問題なんですね。もう一度申し上げます。戦争は、天災とか地変じゃございません。戦争を起こすのも人間なら、それを許さず止める努力が出来るのも人間なんです。そこのところを、明確に自覚して戴かないと、この問題、何を論議しておるのかっていうことになってしまいます。で、それだけの前置きを置きまして、この私が今日題を「戦争・人間・憲法九条」っていう形にして戴いた、その「人間」っていう意味は、その意味なんです。この点をはっきりと確認した上で、話を進めていきたいと思うんですが、ただ、先ほど私は、復員船の中で全員が泣いたという言い方で、あの9条2項の受け取り方を申し上げましたが、これは何も我々戦地から帰った男だけの例じゃないんですね。その私が見た同じ新聞、毎日新聞だった、私の場合は、アンケートが出てまして、9条2項の支持は何と80%ございました。当時の国民は、やはりあの血を流し、最後は広島、長崎の原爆で一瞬のうちに二十数万の命を亡くした、この気持ちの中で、戦争を2度としない国としての日本の規定に関しては、8割を越える方が支持された。しかし、ここで難しい問題なんですが、日本の支配政党って言われる政党は、この60年間、一度もそんな決意はしなかったんです。2度と戦争をしない国になるっていう決意は、一度もしなかった。ただ、国民の決意が強いために、憲法を変えることはできない。そのために、解釈改憲と称して、そういう手法を使って、憲法の範囲内でも許されるじゃないかっていう格好で、次々と自衛隊を作り、有事立法を作り、日米のガイドラインを作り、特別措置法を作り、ついにイラクにまで自衛隊を派遣するに至った訳です、9条2項を持っておりながら。その意味で、9条2項というのは、もう旗はボロボロです。あれ以上破れるかなと思う位ボロボロになっております。しかし、旗竿は国民がまだ握って離さないんです。そこが、今の日本の憲法問題の中心なんです。あの9条2項の旗はボロボロです。作った最初の時の状況とは全く違った形になってしまった。しかし、国民は、いかにボロボロになろうと、戦争はしないっていう旗竿だけは握って離さないんですよ。それをこの5年以内に離さしてみせるっていう風に政治が進もうとしている。先に申しましたように、支配政党は、一度たりとも国民と同じ決意は持たなかった。これは、世界史の上でもね、本当に珍しいんです。これだけの知識水準の高い国で、国民と支配政党が一番基本的なところで捻れたままでその政党の存在をずっと許し、政権権力を持ってることをずっと許してきた、どちらに責任があるかっていうのも難しい問題です。しかし、少なくとも世界史の上で言えば、極めて稀な現象なんです。今の憲法状況というのはこういうものです。ただ私は、先ほどから私の信念とか、信条だとかっていうのを、自分の戦争体験の中から掴んだ訳なんですけどもね。
戦争体験を若い世代に伝えるために
若干私事にわたりますが、私には1人息子がおりましたが、その夫婦とも亡くなって、孫を私に託されました、孫娘を。小学校の時から、私はずっと自分の娘として育ててきた訳なんですが、もう今や大学に入りまして、その大学に入ってる娘に向かって、どう戦争っていうものを説明すべきかっていうのは、私は、義務のような感じも持っておりまして、戦争体験だけで話をして分かるもんじゃないっていうことを、何度も経験しました。第一、言葉が一切分からないんです。「おじいちゃんの脚に入っているのは、どんな弾が入ってるの?」「擲弾筒て、どんな物なんですか?迫撃砲の弾が入ってるって、迫撃砲ってどんな物なの?」言葉が一切通じません。そういう意味では、何とか戦争というものを、その年代の人たちに伝える義務があるんじゃないかっていう感じから、私は三つの大きな指標を、戦争というものはこういうもんだよっていう形で言い続けてきました。一つは、戦争というのは、価値観を転倒させてしまう。勝つためということが、最大の価値になってしまう。自由とか人権なんていうのは、人類が長年血を流して獲得してきた一つの理念なんです、価値なんです。しかし、勝つためっていう価値の方が、その理念をも追い越してしまう。戦争中に流行ったスローガンで、「欲しがりません、勝つまでは」っていうのがありました。仮に、自由、人権に関しまして、「その話は勝ってからだ」っていうことになる訳なんです。これが戦争なんだ。それに耐えられるか?そういう風に話します。「命」っていうのが、最も人間にとっても最高の価値だろう。しかし、この「命」っていうのが戦争の場合には、敵の「命」であろうと、日本国民の「命」であろうと犠牲にして勝つ、それが戦争っていうもんなんだ。価値観は完全に転倒してしまうんだ。そういう風に説明致します。それが第一点ですね。 第二点は、戦争というのは全てを動員する。動員から免れるものは出てきません。もちろん、労働力だとかそういうのを動員するっていうことは誰でも理解出来ると思います。学問も動員します。あの戦争ごとに、大量殺戮兵器が生まれるのは当然のことなんです。物理学、化学、生理学、生物学、医学、そういうサイエンス系統の学問は全て動員されます。しかし、もっと我々にとって嫌なのは、人文科学とか、社会科学が動員されることなんです。日本の国は、イザナギ、イザナミの尊から豊葦原の千五百秋の瑞穂の国として生まれた。神武、綏靖、安寧、懿徳っていう天皇の名前は、全員が暗唱、それが神国日本なんだ、その歴史以外のことは、学校で教えることが出来ないどころの騒ぎじゃありません。歴史家として、世に問うことさえ出来なかった。また、あのゲーテを生み、カントを生み、ヘーゲルを生み、ベートーヴェンを生んだドイツ民族は、世界で皆さん方も理性的な国民、文化的な民族としては承認されるだろうと思います。しかしそのドイツが、あの戦争中にホロコーストと称して500万に及ぶユダヤ民族を殺した訳なんです。ナチスが勝手にやっただけじゃないんです。ドイツ民族自身が、それに荷担してしまったんですね。これが戦争なんです。 三つ目の指標としては、これは、平時においては、というよりも、国の在り方としては、司法、行政、立法の3権っていうのは、厳然と分立している。国の権力機構というのはそういうもんなんだっていうのが常識なんですが、戦争ということになれば、戦争を指導する部門が権力の中枢に据わらざるを得なくなる。それを、司法、行政、立法にどう分けるか、これは色々、今日は弁護士の先生方もたくさんいらっしゃいますが、この点に関しては色々あるでしょうが、少なくとも、国家の権力構造の中心に入ってくるっていうことは間違いない訳ですね。それが戦争だよっていう風に話をする訳です。大学に入った孫娘にとっては、価値観といい、学問の動員っていうのが、やはり説明するのに有効な訳なんです。私自身も、それは他の席でも説いております。
戦争をしている国・アメリカと戦争をしない国・日本
ただここで、ここから少し話の仕方が変わるんですが、戦争っていうものをそう捉えた場合、アメリカがその戦争をしている国だということを、これが一番大切な認識なんですね。アメリカは、戦争をしてるんです。ところが、日本は、アメリカと日本が価値観を共有してるっていう人たちが政治・経済・マスコミ・思想界の主流を占めておる訳なんです。ここに、全ての問題の転倒が行われてしまってる訳なんです。世界でたった一つ原爆を落とした国、それはアメリカです。たった一つ落とされた国、それは日本なんです。しかも、日本は、憲法9条ではっきりと戦争を放棄している国、アメリカは今戦争をしている国なんです。その両国の価値観が一緒だっていう格好で、問題の根拠に置いてしまったために、今行われている政策、論説、全てが大混乱してしまってる訳です。今申し上げましたこの日本とアメリカの価値観が一緒だっていうことを沖縄の人に言えるのか、長崎や広島の人に言えるのか、到底言いようないんです。しかし、価値観を共有してるっていう言い方の中で、アメリカに擦り寄って行ってるのが、今の日本の政界であり、財界であり、思想界である訳なんです。私は、この問題に関しては、マスコミの責任が一番大きいと思っております。なぜ「違う」と言えないのか、「違う」と一言言ってしまえば、全く違った選択肢がいくらでもとれるのに、「一緒だ」と言ってしまったために、物事は全部複雑になってしまった。
アメリカの戦略用語としての「グローバリズム」
同じようなことが、経済にも起こっております。先ほど、戦争っていうのは、全てを動員すると言いました。超大国のアメリカは、単にアメリカの国内の動員だけじゃございません。世界を動員しようといしている訳ですね。これは、例えば、今度スキャンダルで辞めるっていうことになりましたウォルフォウィッツ、彼は、イラク戦争のおそらく歴史の上では張本人の1人という風に明確に書かれる男だと思いますが、そのウォルフォウィッツを世界銀行の総裁にしておる。それから、国連につべこべ言わせることは絶対反対だったという立場だったボルトンをアメリカは国連大使にしていた訳ですね。世界の動員っていうのが始まっておる訳なんです。一番たくさんアメリカの国債を持ってるのが日本と中国なんですよ。しかしアメリカは、ちっともそれに関しては気を遣ったりすることはないんです。世界中の金は俺の金だっていう感じなんです。世銀は押さえてる、IMFは押さえてる、デリバティブは押さえてる、ヘッジファンドは押さえてる、こういう形で世界経済も動員してる訳ですね。従って、グローバリゼイションってことが、グローバリズムっていう形で進めておられる経済政策なり何なりは、私は、経済用語だとは思っておりません。あれは戦略用語なんです。アメリカが世界経済を動員するための用語なんです、やり方なんです。それをグローバリズムと呼んでる訳です。アメリカにとって不利になるような政策をグローバリズムと称してとることは絶対ありません。その意味では、あのグローバリゼイションっていうことも、アメリカが勝つための戦略用語という風に理解された方がいいと思うんですね。それが今の真相ですね。そのアメリカと日本とが価値観を共有している、アメリカの敵は日本の敵だとまで小泉さんに至っては言ってしまいました。
修正資本主義のどこが間違っているのか
小泉さんという方は、もの凄く信念はお持ちの方なんです。しかし哲学はゼロです(笑)。政治に関しては、もの凄く良く知っておられます。政局はどう動くか、どうすればどう動くかということに関しては、おそらく日本の現在までの政治家の中では、最高の部類に属すでしょう。しかし、政策はゼロだったんです。本当の意味でゼロだったですね。それで、竹中さんという人に丸投げしてしまった。竹中氏は、それこそ名うてのシカゴ学派のフリードマンに学び、今のアメリカのネオコンと呼ばれる人たちとは、最も意思疎通も出来、また思想的にも思想系譜から言っても近い人だった。資本原理主義っていうのに、これほど当てはまる人はいなかった訳なんですが、その人に経済政策は全部丸投げされました。そのために、資本主義の型っていうものが、日本の資本主義の型は純粋じゃない、純粋な資本主義っていうのはアングロサクソン型なんだ、アングロサクソン型にどれだけ近づけるかっていうのが経済のこれからのあり方なんだ、そういう形で経済政策を実行してこられた訳なんです。日本は、戦後あの無一物の本当の廃墟になった、当時の世界のGNPの1%を切っとったあの昭和20年から、日本の努力によって、国民の努力によって、経済は世界2位になりました。1人当たりのGNPは、先進国と比較すると世界1です。特殊な小国は、これは別として、先進国、いわゆる大きな国の中では世界1です。しかし、日本は、日本の資本主義の型は、過ちであり、それを直さない限りは世界経済の成長から取り残されるっていう認識を示されたのが竹中さんでした。どこが間違ってるのか?日本の場合は、成長の果実は国民で分けるっていう資本主義だったんです。そのどこがいけないのか?アングロサクソン、アメリカ・イギリス型の資本主義っていうのは、成長の果実は資本家のものなんだということなんです。そっちの方が正しいって言うんですね。一体日本のどこが悪かったのか?そのために成長できなかったなんていう問題がどこにあるんだ。世界2位の経済大国を全く違う原則で作り上げてきた国なんですね。だから、片一方は正しくて、片一方が誤っとったっていう論理は、それ一つだけでもあり得ない訳なんです。ところが、今申し上げた形で、日本の資本主義っていうのは本物じゃない、修正資本主義なんだ、純粋の資本主義、グローバリゼイションでこれから行われる資本主義というのは、アメリカ型のアングロサクソン型の資本主義なんだ、それに近づけていくんだ、全ては市場が決めるんだ、成長の果実は一遍は必ず資本家のものになる、それをどう分けるかっていうのは別だ、しかし資本家のものなんだっていう形を正面から押した。日本の成長の場合には、あの戦後の高度成長の日本を導いた思想の中には、経済大国にするという国民の熱意と、指導者の熱意はこれは強かったです、しかし、資本家のための大国にしようとは誰も考えてこなかった。私自身、会社の経営をずっとやっておった時期があります。私たちのDNAには、社員の給料を削ったら自分の給料が上がるんだ、リストラすればするほど自分の給料が上がるんだなんていう、そんな経営者は、1人もいなかったと言っても過言じゃないと思います。社員の給料を下げる時には、まず自分のを下げてからでしかそんな提案をしようがないじゃなないかっていうのが日本の経営者のDNAだったんです。それが今すっかり変わってしまった。雇用が滅茶苦茶になってしまいました。たった数年の間に日本の雇用っていうのは無茶苦茶になってしまった。 しかも、資本市場、市場に任せる「市場」は、資本市場のことなんですよね。日本は、マーケティングという意味の市場に関しては、ベテラン中のベテランなんです。だからこうやって、貿易立国、輸出立国が出来た訳なんですね。しかし、資本市場に関しては、日本の経営者は、非常にナイーブでした。皆メインバンクがあるんだから、お金はメインバンクに出してもらうんだっていう感じで、株式市場がどうなろうと、別にそれは自分の企業の死活問題にはならないっていう、そういう感じで経営はやってきたんです。優秀な経営者というのは、まず社員のことを考え、取引先のことを考え、私の場合は損害保険会社ですから代理店のことを考え、そういうステーク・ホルダー(注:株主、従業員、取引先、地域住民など、企業に関わりのあるあらゆる利害関係者の総称)の、みんなから信頼される人でない限りは社長はやるべきじゃない。それが日本のDNAだったんですね。資本家のために経営してるっていう意識は、私の時には少なくとも持っておりませんでした。ステーク・ホルダーの一つとして扱ってた訳です。それが、今の市場原理主義は、全てが資本の言うとおりにやるべきだっていう形になってきておる。市場っていうのは、今の資本市場です。これはアダム・スミスの時の資本と労働という意味の資本じゃありません。事業をやるために必要な資本でもありません。もの凄く過剰な資本が利益を求めて動き回っていて、それが表現されるのが株式市場であり、債権市場になってる訳なんです。為替市場にもなってる訳なんです。それに振り回されてしまってる訳なんです。この点に関しては、竹中さんは知らないなんていうことはあり得ないんです。資本市場がどれだけ変質してきたか、デリバティブが出来、ヘッジファンドが出来たために、どれほど荒っぽい動きをするようになったか、無論百も承知だろうと思うんです。にもかかわらず、なおかつ、修正資本主義を変えて、日本の今までのやり方は変えて、アメリカ型の資本主義に近づくのが正しいんだっていう感覚でずうっと政策をすすめてこられた。今の経営者は、私の口から言うのは変ですが、可哀想です。本当に株価に一喜一憂せざるを得なくなった。また良い技術を発明すれば、乗り取り、M&Aの、ヘッジファンドか何かがその会社を乗り取りにくる心配をせざるを得ない。そういう状況に置かれてしまって、なおかつそのやり方の方が正しい?マスコミは、本当はそう思ってはいないと僕は思うんです。しかし、日米が価値観を共有してるっていうことを、いわば国是のような形にしてしまったから、それに関しての抵抗が出来るような論理を国民に与えようとしない。この点は、私は非常に経済の上でも大きな問題だと思っています。
誰のための「規制緩和」か
今、この資本原理主義と言われるもののやり方の中で、スローガン的に言われてるのが「規制緩和」なんです。規制緩和っていうのも、全く小泉内閣以降、変質してしまいました。「改革なければ成長なし」と言い出してからの規制緩和は、全部大企業のための規制緩和になってしまった。大企業がもっと自由に、もっと権力を振るえるようにいろんな規制を廃止するっていう方向に、全てそういう形で行われるようになってしまった。最初の段階では、日本は、戦争中の総動員法以来の日本の計画経済的な要素が強く残っておったために、それは出来るだけ、経済的規制は出来るだけなくしていこう、社会的規制は残すけど、経済的規制はなくしていこうと言った。その論議を起こした段階では、それほど間違ったスローガンではなかった訳です。しかし、「改革なければ成長なし」と言い出してからは、あの「規制緩和」は全て間違ってると僕は思います。「規制緩和」という言葉が、権力からの自由じゃなくて、今使われてる「規制緩和」は、権力への自由になっている。権力に力の行使をし易くなる、そういう形になってしまってる。全てを「効率」という問題に還元して見るようになる、緩和した方が効率が良いか、規制を残した方が効率が良いのかという観点から論議されるようになった。これじゃ地方の企業と中央の企業が競争しようもないんです。また、大企業と中小企業、これも競争しようがないんです。その状況をずっとここ数年続けてきてる訳ですね。私はあまり使いたくない言葉ですけど、「勝ち組」はますます勝ち、「負け組」と言われる立場の企業は、ますます苦しくなるっていう、それから逃れる道はリストラ以外はないっていうところまで追い込まれていってる。こういう状況になっておる訳で、「規制緩和」っていう言葉も、誰のための「規制緩和」かっていう、これは皆さん方に一つ申し上げておきたいのは、どんな政策を新聞で読まれる場合も、「誰のため」という言葉を一つ入れられることが新聞を読まれる時の一番大事な視点だと思います。
「大きな政府」という欺瞞とすり替え
もう一つ、「大きな政府から小さな政府へ」っていうのが、これは今日の新聞でも、いわゆる官僚機構の改革として取り上げられております。確かに、官僚にもいろいろ市民の目から見た場合に問題はあったと思います。しかし、今言われてることは、全くすり替えです。決して論理的な、経済論理的に説明できるような政策じゃないです。第一、日本は、「大きな政府」じゃないんです。先進国中、人口当たりにしますと、中央・地方の政府の人員っていうのは、先進国中最低です。私は、外務省の顧問のような仕事をしてます。日本の外交政策上、せめてイタリア並みの外交官の数を持ちたいっていう風に考えれば、1000名足りません。フランス並みにしようと思えば、倍にしないといけない。それからまた、対GNPで言って、国民の福祉に使われる比率は、アメリカと最低を争っております。決して「大きな政府」じゃない。ところが、桁違いに「大きな政府」と言われるところがあるんですね。それは借金なんです。(笑)政府の借金は、これは桁違いなんです。随分奇妙な国なんです。その政府の借金は、これは財政を圧迫しております。だから、何とか減らしたいという形で問題は進んでる訳なんですが、その政府の借金は、一体誰のために借りたの?誰から借りたの?その質問が出るのが一番嫌なんです。バブルの崩壊の時に、企業社会が崩壊しかけたのに対して、政府が個人の家計部門からお金を動かそうとして、それで国債っていう形をとった訳なんです。だから、小渕さんの時代に、小渕さん自身がはっきりと自分で言っておられました。「世界の借金王だ」と。GNPを1%上げるためだけに、100兆近い金を個人の家計部門から動かそうとした訳なんですね。それが、今の政府の国債として、日銀が持ち、各銀行が持ってるっていう格好になってる訳なんです。その問題を、今私が申し上げたようなことを言った場合、皆さん方から見たら、企業は今史上最高の利益を上げてる、それじゃあ企業から返させれば良いじゃないかって思われるのがごく自然ですね。しかし、それはやろうとしない。その財政再建も、全て個人の家計部門の負担でやろうとしている訳です。年金を減らし、健康保険料を上げ、そういう形の中で財政を再建しようとしている訳なんです。 だから、もう一度言いますが、「誰のためなのか?」それを問われることに関しては、最も政府としては警戒している訳です。それが分かった場合には、財政再建に関しては、国民の協力は真っ向から得られないということは当然ですね。そのために、官吏の給料が高い、人数が多いっていう問題にすり替えてしまった。そこが、今の問題として出てきてる訳なんで、決して、問題を正しく出して、正しい回答でやろうとしている訳じゃないんです。一度謝ったらいいんですよ。日本は、企業社会と市民社会とがずっと乖離してしまっていたんですね。バブルが壊れた時に、市民の生活はあんまり変わらなかったんです。当たり前になったんじゃないか、今までのバブルの方が変だったんじゃないかっていう感じだったんです。その証拠に、個人の家計部門のお金は、1000兆から全然動きませんでした。バブルの時代の方が変じゃないか、あれが壊れたのは当たり前じゃないか、1個1万円のメロンがどの果物屋にも並んでるっていうのはおかしいじゃないか、中国の1ヶ月分の給料が1万円、それがメロン1個だ。それこそおかしいんじゃないの。そういう感覚が庶民の感覚だったのです。ですからきちっと一度謝るべきです。全てを役人の給料と人数とに、それを解決すれば全く全部解決するような、そんな物の言い方は、完全なすり替えとしか私は思えない。
今こそ「国民の出番」
まあ、以上長々とお話してきましたが、たった一言なんです。日本とアメリカとは価値観が違います、資本主義の型も違います、それをはっきり言ってしまえば、選択肢は一杯出てくるんですが、それを言わないために、色々な問題が次々起こってくる。アメリカが戦争をしてる国だっていうことを明確に考えるなら、アメリカが日本の憲法9条2項が邪魔になるとアーミテージが言ってるのは、隠しようもないことですよね。だから変えてくれ、変えてもらう前に時間がかかるから集団自衛権を論議してくれ、その通り実行しようとしている訳ですね。これに対して、私は、はっきりと、日本とアメリカとは、戦争という問題をめぐって、憲法9条を持っておる国として、価値観が違うと言い切るべき時期がきたと思うんです。これをいつまでも延ばしておれば、ますます深みにはまっていくだろうと思う。しかし、ことは憲法なんです。これは、いくら横暴な権力でも、きちっとした手続をとり、国民の意見を問わざるを得ない問題なんですね。もし国民投票で、国民が「NO」と言ってしまえば、「改憲はNO」「日本とアメリカとは違う」「日本は戦争をしない国だ」それをはっきり言ってしまえば、アメリカはどうも手の打ちようがないんです。世界戦略を変える以外に方法はないんです。はっきり「NO」と言ってしまえば、中国と日本との関係も変わります。アジアにおける日本の位置も変わります。ということは、基本的には、日米の関係が変わります。前に私は、外務省の役人だけを集めたこういう会合がありまして、その方たちの前で今と全く同じ話をしました。「それであなたたちに変える力は、変えられますか?」っていう風に伺いました。一斉に「品川さん、それは私たちには力には及ばない」と言われた。その次の言葉が大事なんです。「変えられるのは国民だけだ」って言われたんです。「国民が『NO』と言ってしまえば、全てそういう問題は変えられるんだ」「じゃあ、国民の出番ですね?」「その通りだ」今ほど日本の国民が、世界史を左右するようなそういう問題に正面からぶつかってきた時っていうのは、日本の歴史で初めてじゃないかと思う。あの国民投票で「NO」と言ってしまえば、世界史が変わる。そういうものにぶつかったのは、今回が初めてじゃないか。ベルリンの壁が崩れたどころの騒ぎじゃない。世界史全体が変わっていく。しかも日本は、それを「NO」と言い、「その平和憲法を持ってる国に相応しい経済はこれです」っていう風に言い切ってしまえば、本当の意味で全てが変わるんだ、その寸前まで来ておるんだ、そういう議論をその会合では結論として得ました。外交官の方たちは、「我々には出来ないけど、国民だけが出来るんだ」そう仰った、これは皆さん方に是非お伝えしないといけない事柄、「国民の出番が来てる」っていうのは、そういう意味で私は使っておる訳なんです。もう私も83歳でございます。生きながらえて、そういう時期に、世界史のそういう時期にぶつかり得た、しかし、自分でその情勢を見ることが出来るかどうか、これは私にはかなり無理な注文だろうと思う。皆さん方に、是非その気持ちで、そういう国として日本を残して戴きたい。これは、戦争に参加し、負傷した私からの心からのお願いでございますから、一つ、この九条の会を中心に、今の申し上げた「国民の出番」っていうことを、そういう世界史的な今時期なんだっていうことをご確認願って、これから運動を進めて戴きたいっていう風に思っております。長々と話を聞いていただきましてありがとうございます。(拍手)
質 疑 応 答
司会(金原徹雄)どうもありがとうございました。かなりスケジュールも押してはおりますが、若干質疑応答の時間をとらせて戴きたいと思っております。大変場内混み合っておりますが、一応マイク係が、手を挙げてくださって私が指名した方のところに飛んで行きますので、皆さんご協力よろしくお願いします。それでは、講師の品川様に是非質問したいという方がいらっしゃいましたら挙手お願い致します。はいどうぞ。
質問者1(男性) 若い人に問題意識を持ってもらうために
品川正治氏あの、今のご質問っていうのは、私自身もかねがね、このままで今の若い人たちがどこまで自分の問題として考えてもらえるかっていうことに関しては、非常に私自身も問題意識を持ってる訳なんですね。それで、先ほど言いました価値観だとか、動員だとかっていう言葉を、「学問の動員」なんていう言葉を使ってこう言ってる訳なんですけども、ただ、もう一つ、今もう少し功利的に、功利主義的なものの言い方した方が分かるかなって思うこともあるんです。 それは、一つは、戦争で儲かる人がいるっていう存在を教えることが一つあると思うんですね。これは、私は国際開発センターっていう仕事をやっております。で、これは、世界のアフリカ、それから東南アジア、中南米のいわば貧困者を救済してる事業なんですけども、このアフリカの場合なんか全く良い例なんですが、国境が全部直線に引かれてますね。民族が直線的に住んでるなんていうことはあり得ないんです。宗主国の植民地だった時代に、宗主国は、大きな民族を固まりにすることを嫌がった訳なんですね。それで切った訳ですね。それから、一緒には絶対なりたくないっていう民族もある訳です。宗教が違う、何を聖なるものと崇めるかっていうそれも違う、ましてやあの部族の人に自分の親が殺されたとかっていう、そういう紛争はいくらでもある訳です。私は、理想主義者じゃございませんので、紛争がなくなるっていう前提でものを言ってるんじゃないんですね。紛争があるけども戦争にしないっていうのが日本の憲法の精神、ところが、紛争を戦争にした方が儲かるっていう勢力は、いわゆる武器商人、これは軍産複合体としてそれぞれの国で権力を持ってる。 それともう一つ、アフリカではいくらでも部族間の紛争があるんですけど、戦争になる国っていうのは、ダイヤモンドが出るか、石油が出るか、ウランが取れるか、この三つが全然ないとこは「勝手に喧嘩しろ」っていう感じなんですよ(笑)。その背景には、メジャーの石油資本がおり、大資本がいる訳なんです。それは、戦争にした方が儲かる、だから功利主義的にものを言った方が今の若い人には分かり易いんだというなら、私は、そういう論理をはっきりと申し上げる訳なんですけどね。 もっと嫌なのは、今戦争請負業っていうでかい商売が出来てきたんですよ。イラクにおいても、今アメリカ軍の死傷者よりもそっちの方(の死傷者)が多いはずですね。そういうものが戦争請負業なんですから、これは戦争がなかったら、事業としては全然成り立たない訳です。そういう風に、戦争の方が儲かるっていう人が戦争を起こそうとする。それと、一般的に、政治の統治に失敗して外に目を向けさせるっていう、これが戦争を起こす力になる訳なんですがね。その点では、仰るように、あまりきれい事ばっかし言わないでね、功利的にものを言った方が良い相手の場合には、私は、戦争で儲かる人が戦争を起こすんだっていう言い方を、戦争を起こすのも人間だ、それはどういう人間かっていうと、こういう人間だっていう言い方で答えてる訳なんです。 学生さんがいらっしたら、反論があるかもしれませんが。(笑と拍手) 司会(金原徹雄) はい、ありがとうございます。和歌山大学の学生さん、来ていらっしゃいませんかね。(笑)他に質問のある方はどうぞ、どんどん。はいどうぞ。
質問者2(男性)
国際開発センターとは
品川正治氏国際開発センターってのは、先ほどちょっと和歌山の大学の先生にも申し上げたんですが、私は、会長としては4代目でして、初代は土光、2代目が大来佐武郎、3代目が河合三良という、私の経済同友会でも専務理事として先輩だった人がやって、私が4代目なんです。それで、そんな大きな規模じゃございませんが、一つはっきりしてるのは、例えばアフリカの難民を助ける時に、どちらが正しいとかっていうことは、これは問わずに、一番困ってる人から順番に助けていくっていう主義をとっておるんです。これは、外務省とかなり対立するやり方なんですね。「政府を助けろ」という言い方に、国連で理事国に立候補したりする時には、アフリカの政府といえども1票持ってる訳なんで、「政府を助けろ」っていう言い方になるのに対して、我々は、政府が正しいか、反乱軍が正しいかは問わない、この一番困ってる、それで被害を受けてる人から助けていくのが我々だっていう格好でずっと続けてきてる、そういう団体でございます。
私は孤立していない
それから、第二の質問の方の問題に関しては、私は、ちょっと違った角度からお答えしますと、私は経済界の中で孤立してません。(笑と拍手)これは、はっきりその点は皆さん方に申し上げとかないといけないんじゃないかと。私自身、例えばこの近辺で言いますと、大阪倶楽部だとか、あるいは関西倶楽部で同じ話をします。これは、経済同友会っていう東京の場合、工業倶楽部っていう場合も、同じ話をします。で、その時も拍手も出ます。それから、私を、ある意味では吊し上げたいと仕組んだ会合もありました。私の意見への反論を期待していたようですが、その質疑が全部執行部に向きまして(笑)、それで質疑打ち切りということになったことも経験しとります。そういう意味では、私自身が孤立してるっていうことは、はっきり言ってないっていうこと。それからもう一つ、もっと客観的に考えますとね、日本の今の産業構造は、もう6割がサービス産業なんです。それから、99%が中小企業なんです。ところが、企業社会っていうのは、はっきりとヒエラルキーが出来上がっています。だから、国民投票のような1対1じゃないんですね。名前を挙げて失礼ですけど、例えば、トヨタ自動車の販売会社の社長が1票とすれば、豊田章一郎さんは10万票位っていうのが、ヒエラルキーとして出来上がってる訳なんですね。しかし、国民投票っていうことになれば、1対1なんです。 私自身、孤立意識っていうのは全然ないっていうのと、それから国際開発センターっていうのは、そういう格好で海外で仕事をしてるから、9条2項というのがもの凄く大事なんです(拍手)。 司会(金原徹雄) ありがとうございます。そろそろ時間も押してきましたんで、あと1人位ご質問がございましたらお受けしたいと思いますが。いらっしゃいませんでしょうか。得難い機会ですので、あ、どうぞ。
質問者3(女性)
彼らはなぜ憲法を変えたいのか
品川正治氏今のご質問、極めて率直なご質問だと思いますし、またどうしても答えないといけない問題とは思うんですが、ただ非常にその意味では難しい質問でもある訳なんで。なぜ今、日本の政治家とか経済人が表立って憲法を変えようとしてるのかっていう問題の中では、それこそ多くの問題が含まれてるんですが、一つは中国の台頭っていうのがあるんです。中国っていうのは、政治大国であることは間違いない訳ですね、安全保障理事会の常任理事国なんです。それから核も持っとりますね。しかし、経済的には、世界の舞台に出てくる、アジアのヘゲモニーを経済の上でも日本と争うような国になるとは、日本の経済人、誰も思ってなかったんですね、ついこないだまで。ということは、衆議院議長の河野洋平さんの言葉を借りて言いますと、「中国は、今までダグアウトにいただけなんだ。本当にプレイしだしたら、あの力っていうのが当たり前なんだ」それを、何かこう、突然変異みたいな形で見ていくのは過ちなんで。だから、中国と今後ヘゲモニーを、アジアのヘゲモニーを争うためには、日本も対等な形で論議できる態勢を作りたい。だから、経済人にとっては、平和憲法を武器にしてやるんじゃなくて、平和憲法があることが欠陥だ、日本の国の欠陥だっていう感じをその人たちは持つ訳なんですね。その点は、私とは全く立場を異にする訳なんですけども。私は中国が専門なんです、本当は。しょっちゅう行っております。中国は今極めて丁寧な外交を世界中とやってるんです。これはオリンピックをひかえ、万博をひかえてるっていう言い方でマスコミは言いますけども、基本的には、もの凄く丁寧な外交をやってるんですね。全部をパートナーシップっていう名前で呼んでるんですけど、日本とだけ呼べなかったんです。いくら呼びたいと思っても。ところがこの間、安倍さんが行ったために、戦略的パートナーっていう言葉をやっと使えるようになった。これが現状であって、私自身は、中国っていうのは、極めて丁寧な、外交に関しては極めて丁寧にやっている。それともう一つは、やっぱりいくら成長、国富が増えたと言っても、まだまだ近代化っていう点でいえば、遅れてるんですよ。ところが、日本は、とっくにその近代化は終えてるんですね。終えてる日本が、もっと近代化、もっと近代化って言ってる。で、終えてない中国は、近代化という言葉は使わないんです。現代化って言うんです。現代の問題は何なのかっていう格好で問題をさばこうとしている。で、小康社会っていう言葉を今使ってるんですね。そこそこに生きていけるためにはどうしたら良いかっていうのが、人民代表者会議っていう、日本でいう国会なんかの、討論の基調に入ってる、そういう実情から考えますとね、先ほど言いました中国に対しての日本の経済人のあり方っていうのは、投資をしてるからそれを守りたい、あるいは急変されると困るから、対等に論議をしたい、そのためには軍事力を欠いては駄目だと考えている、それともう一つは、ASEANが中国の方を向き出した、この流れを阻止したい、というわけですね。しかし、もし日本が本当にそういう格好で中国とやり合うとすれば、日本の後ろにはアメリカがいるからそういうことをやってるんだとASEAN諸国は全部見るでしょうね。で、これは最も得策じゃないんです。将来の日本のあり方を考えると。そういう点では、先ほどのご質問、極めて真っ正面からのご質問なんですけども、経済界、政界の読みが浅いとしか本当は言えないと思うんです。お答えにならなかったかもしれませんがご勘弁ください。(拍手) 司会(金原徹雄) どうもありがとうございました。まだまだ質問したい方もいらっしゃるかもしれませんけども、相当時間が押しておりますので、一応質疑応答はこれまでとしたいと思います。それでは、あらためて本日ご講演戴きました品川さんに感謝の拍手をお願い致します。(拍手)
司会(小野原典子)
閉 会 挨 拶
月山 桂 氏今ご紹介にあずかりました月山でございます。主催者の1人と致しまして、閉会のご挨拶を申し上げたいと思います。品川先生には、遠路、非常にご多忙の中、私どもの願いをお聞き届け戴きまして、本日このように盛会裡に先生のご講話を承ることができました。厚くお礼申し上げます。ありがとうございました。(拍手) また、ご参加戴きました皆様には、私どもの意のあるところをご了解戴きまして、先生の貴重な体験を通じてのお話を最後まで熱心にご静聴戴きました。これもまた、主催者と致しまして、非常に感謝に堪えない次第でございます。 時間が押し迫っているところ、私ごとで恐縮なんですけれども、私も先生と同じような歳、私の方が一つ年上でございます。私は、先生よりも甘い戦時中を過ごした、例のあの学徒出陣っていうので、昭和18年の6月から12月まで、満州の経理学校、教育隊の方におりました。ところが、原隊復帰っていうことで、早く日本に帰ることが出来ました。で、内地勤務となりました。そういう関係で、先生が体験されたような戦争体験っていうもの、戦闘体験と申しますか、そういう風な体験を全く持っておりません。従って、戦争の時の話、苦しみっていう風なことを話す資格は全くない訳でございます。確かに早く復員することが出来ました。また、復学することも早かった訳で、その上に、司法試験もですね、火事場泥棒と申しますか、(笑)火事場泥棒というのは、例えば憲法にしましても、新憲法は出来たてのほやほやで、教科書も出来ていないという風な状態ですね。それからまた、よく出来た同僚、これらがまだ復学してきていない。(笑)相手は、こんなこと言って非常に恐縮ですけども、まさに火事場泥棒。そういう風な中で、第1回の司法試験に合格致しました。 そういうことで、それも幸いして、判事補としまして、東京地方裁判所に職を得まして、そこでですね、いわゆる戦後訴訟って言われるものに色々関係することが出来ました。先ほどちょっと先生のお話にも出ましたけれども、戦争による利得、戦時利得、こういうものが許されるべきじゃないんだというような趣旨のこともお話あったかと思いますけれども、それに見合ったようなものとして、戦争中に、中島飛行機が第一軍需工廠というものになりまして、戦争が終わると同時に、第一軍需工廠というものが、これが元の中島飛行機に還った。その間に、軍の援助でですね、非常にたくさんの施設・物資で太っておった。非常な利得を得た。そういう風なところから、戦時補償特別措置法っていうのが出来まして、その利得というものを税金の形で国が取り上げていった訳です。その戦時補償特別措置法っていう税金訴訟にも関係することが出来ましたし、その判決も書かせて戴いた。 また、刑事の面では、皆様方としてはご承知かどうか、もう昔のことになりますけども、皇居前のメーデー騒擾事件というのがございました。あの事件では、非常に被告がたくさん逮捕されていまして、何百人といた、そういう関係で一つの部で、一つの法廷で審理することが出来なくって、八つの部に分かれて審理しておった。そういう風なことで、中の一つに私も関係させて戴いたというようなことも記憶しております。そういう風なことで、いわゆる戦後訴訟っていう風なものに、私も関係することが出来まして、先ほど先生が色々とお話されていることを伺いながらですね、かつて裁判官として日々仕事に追われながら、判決書きに追われながら、その下でなおかつ新憲法での訴訟制度のあり方、あるいはまた憲法自体を一生懸命勉強した。かつては、本もなかったですから。 そういう風な勉強をしておった当時のことを非常に懐かしく、先生のお話を承りながら、思い出させて戴きました。そして、あらためて憲法への思いというものを熱くさせて戴いたというようなことでございます。立場は違いますものの、今日お越し戴きました皆さん方も、品川先生のお話を伺って、非常に深い感銘を受けられたという風に私は思います。また、今日先生からお教え戴いたところを、それぞれの活動におきまして、日常活動におきまして、あるいはまた、我々の九条の会の取組にあたりましても、活かして戴くようにする、このことが、先生がわざわざ今日お越し戴いた先生のご苦労に対するご恩返しだという風に思います。是非とも皆様方も、先生のご期待に添うように、私ももちろんそういう風に頑張っていきたいと思いますけども、みんな一生懸命頑張っていこうじゃありませんか。(拍手) 先生におかれましては、どうぞくれぐれも健康にご留意賜りまして、今後とも憲法9条を守る取組につきまして、とりわけ、先生が仰った9条2項、軍隊を持たない、日本はもう軍隊を持たないぞという風な決意の下での運動、闘い、これにつきまして一層ご尽力賜る、ご指導賜るということをお願い致しまして、この私どものお礼の言葉、そしてまた、本日のこの会の閉会の言葉とさせて戴きたいと思います。どうも大変ありがとうございました。(拍手) 司会(金原徹雄) ありがとうございました。これで滞りなく本日の講演全て終了致しました。どうも長時間、立錐の余地もない中、最後までお聞き戴きましてどうもありがとうございました。気をつけてお帰りくださいませ。 【文字化記録作成:金原徹雄・憲法9条を守る和歌山弁護士の会事務局長】 | |
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