澤地久枝さんはこんな人
毎日新聞 2005年12月27日 東京夕刊 特集WORLD から
 ■人物略歴
 ◇さわち・ひさえ
 1930年東京生まれ。49年に中央公論社入社。63年、「婦人公論」編集次長を最後に退社。著書に「妻たちの二・二六事件」「火はわが胸中にあり」など。86年、「滄海(うみ)よ眠れ」「記録 ミッドウェー海戦」で菊池寛賞受賞。
[記事全文]
貫く 澤地久枝さん 昭和の原点
 ◇人なければ国はない
 土曜日の昼下がり。東京・恵比寿の自宅に訪ねたノンフィクション作家、澤地久枝さん(75)は藍色(あいいろ)のかすりの着物に白地の帯をきちっと締め、優しいまなざしで出迎えてくれた。
 ●大きく試された
 「私が75年生きてきた時間、親たちから聞いたり、小さい時の体験を含めてこの75年を振り返ってみて、政治がこんなにひどかったことはかつてない、というのが今年の実感です」。通された居間で語り始めた澤地さんの目は、一転して鋭い光をたたえている。
 「総選挙の結果にあきれ果てたんです。この国は滅びるな、と思ったし、自分は何をしているのかという気持ちにもなりましたが、そこから気持ちを立て直しました。これで終わりじゃなく始まったんだという気持ちに、自分をきちっと置き直せたという意味で、大きく試された年だったと思う」
 日本が戦争をした時代の「昭和」を見つめ、名もなき人の声を丹念に拾い、一貫して戦争を、国家を問うてきた作家である。私は尋ねた。「戦前よりひどいですか」
 「もちろん。今は憲法があって、主権は選挙民の側にあり、私たちに自由選択の余地がある。そういう中での、この政治状況です。民主主義が根付くには一人一人が人権意識を持ち、自分の考えで政治判断をしなければならないのに、個の確立も弱かったわね」
 答えは明快だった。確かに、有権者として、投票前に考えるべきことは山積していた。憲法、自衛隊、福祉、年金……。郵政民営化法案の参院での否決を理由にした衆院解散への疑問もあった。しかし、解散・総選挙は強行され、小泉純一郎首相自身も「予想以上」という空前の勝利を収めた。
 「大事なタイミングだったんですよ。どこかで小泉さんに『あなたの政治の方向に賛成できません』と言わなければ、暴走するのは分かっていたのに。マスコミ、特にテレビが果たした役割はとっても悪かったと思うんです。大声で乱暴なことを言う人が勝ちで、その人が言っていることが真理になったのよ。政治の根本が狂う時は、あらゆるものが劣化して腐っていく。怒るべき時は怒るべき、正すべき時は正すべきです。でも、みんなノーマルな反応をしない。そこまで追い込まれたのかと思うと悔しいし、複雑です。今年はできることをやったつもりだけど、この暮れにすがすがしく自分はいい答えを手にしたとは言えないわ……それは残念です……」
 やりきれなさのこもる深いため息が、その場を満たした。
 ●焼き付けられたもの
 鋭いまなざしとやりきれない思い。「あの時」もそうだったのだろうか。澤地さんが「昭和」を書き続ける原点となった、14歳での敗戦体験である。4歳の時に家族と渡った旧満州(中国東北部)・吉林での敗戦。その目に何が映ったのだろう。「このごろ『国がなければ、人の生活はない』という政治家がいますね。私が敗戦を迎えた時、国なんて一夜でなくなったわよ。人がいなくなったら国なんてない、見事にさっと消えたのよ。指揮官はいち早く南下し、在満邦人は見捨てられました。置き去りにされた兵隊さんは、手もなく捕虜になったわ。一個人、一家族で生きていかなきゃならないわけですよ。何も保護してくれない。国や軍隊がどんなに無責任か。そのことが私の原点です」
 難民生活は1年に及んだ。澤地さん一家5人には、兵舎の残がいの一角があてがわれた。大病をした後だった両親に代わり、小さな体にてんびん棒を担いで水をくみに行っていた澤地さんの背中は全体がはれ上がった。冬には毎日、窓から「白い枯れ木のようなもの」を積んだそりが裏山に向かうのが見えた。やがて「枯れ木」が人の死体であることに気づいた。
 「私にとって実にいい学校でした。中国人も朝鮮の人たちも人情があって助けられましたよ。ロシア人が全部悪かったわけでもない。でも、母国・日本は何もしてくれなかった。難民生活で早くも自分に絶望していたと思いますね」
 多感な少女の目と心に焼きついたものが、やがて一本の道になる。
 ●棄民ばかり
 日本に引き揚げて中央公論社に入り、働きながら早稲田大第二文学部で学んだ。
 「言論に携わりたい気持ちがあった。戦時中の私は何も知らず、言われた通りに戦争を正しいと信じていました。見たこともないアメリカ人やイギリス人を憎んだことを、とても恥ずかしいという気持ちを持って生きてきたんです」
 翌50年、朝鮮戦争が始まった。山手線の線路に近い恵比寿の自宅で、軍需物資を運ぶ列車の音を聞きながら、「この国が戦争に加担している」と実感したという。
 編集者として、ジャーナリストとして時代を切り取ろうと働いたが、持病の心臓病の再発をきっかけに退社。五味川純平さんの小説「戦争と人間」の執筆を手伝う資料助手になったのが63年のこと。
 「この時から、本格的に昭和の勉強をしました。そのうち、この国の政治はなんて『棄民(きみん)』ばかりしてきたのかと腹が立ってきた。気がつくと、忘れられた人のことばかり書いていました。偉い人はどうでもよかった。『妻たちの二・二六事件』も、大きな事柄に巻き込まれながら黙っている人のことを書こうと思った。何千という概数で組み込まれ、忘れられていく人のことです」
 棄(す)てられた多くの民は、戦争でのつらい体験を持っていた。そんな人たちと同じ目の高さで寄り添い、長らく封印されてきた話に耳を傾け、それをつづってきた。
 「それぞれの家族に戦争でのつらい話があるのに、いつまで昔の話をしてるんだ、と言われるかもしれないと遠慮していたのね。でも、語り継ぐべきです」
 ●曲がってしまった
 その澤地さんが「一番ひどい」とおっしゃる今。
 「あー右へ振れる、右へ振れると感じていたわ、ずっと。時代が変わる瞬間ははっきりしなくて、気がついたら温度がちょっと違うなと感じるものなのね。60年安保が腰砕けになって、日本の戦後の方向が決まりました。それから経済が発展し、カネが万能になって国民性までおかしくなりました」
 そのバブルがはじけ、不景気は長く続いた。
 「長い不景気で露骨に曲がり始めましたね。アメリカは日本をくみしやすいと思ったし、日本の政治家、官僚、財界人はアメリカにくっついて軍需景気があるのがいいと思ったのよ。潜在失業率がひどくても、世の中が悪いと怒るんじゃなく、戦争でもやろうかという動きに惹(ひ)かれている。戦争をしないと世界経済は動かないと思う人が増えたあたりで日本の大きな曲がり角へ来て、今年は曲がってしまったんじゃないでしょうか」
 曲がり角を曲がったこの国。私たちはどうしたらいいのだろう。
 「おかしいと思っている半分以上の人たちと気持ちを通わせ、人のつながりを強化することです。人の心が重なれば、見えない砦(とりで)ができる。それ以外に、こんな悪政の大洪水には対抗できません」
 一貫して戦争を問い、国家を問うてきた澤地さんは、憲法9条を柱に改憲の動きに反対する市民グループ「九条の会」の呼びかけ人の一人。昨年6月の結成後、活動は各地に広がっている。
 「みんな戦争は良くないって言いますよ。でもやめない。戦争は最も地球環境を汚染する。いろんなことを考えて交戦権を捨て、武器を持たないと決めた日本の憲法は時代の先取りもいいところ。お見事です。あの時、戦争は二度とやりたくないと思った気持ちに、あれ以上ぴったりの憲法はなかった。その扇の要が9条。人権、思想の自由もそのほかも9条がなくなったらバラバラになる。だから九条の会なんです。私たちは世界に誇ることをしているんだから悲壮になったりせず、にこやかにやっていくの。顔引きつらせ、髪振り乱す時代ではないから」
 14歳の体験から始まったその人生はジグザグ、らせん状、時には立ち止まりながら、気づくと一本の道になっていたという。「自分の心が望まないことはやりたくない、何か少しでも世の中に役に立つ人間でありたいと、気がついたら今の私がありましたね」。今、自分の考えと同じ考えを持つ人が自信を取り戻すことに希望を託したいという。
 「より良くなると思わなきゃ、生きられないんじゃないかしらね」
 無から立ち上がった人の強さがそこに見えた。【本橋由紀】
<戻る>