エッセー集


 記念誌等に寄せられた原稿の収録ページです。
 過去を振り返ると共に、今後の協会の歴史を刻む一助となれば幸いです。
 原稿をいただいた皆様、ありがとうございました。特に許諾はいただいていませんが、趣旨ご理解の上ご了承下さい。
 なお、誤字、脱字等お許し下さい。
 また、人名等当て字の可能性があります。お許し下さい。

(木村)

目次
故工藤先生のご意志に沿って  佐藤 マツイ
設立40周年に寄せてーー父の想いでーー  前大分市議会議員 足立文子
視覚障害者協会50周年を迎えて  大分府内山岳会 佐藤 善則
30年前の記憶  毎日新聞社「点字毎日」編集長・眞野哲夫
点訳と私  大分市点訳友の会 会長  白石 勝代
視 協盲女性の未来に  婦人部長  堤 江美子
初代会長工藤勉先生の思い出 〜大分県点字図書館の生みの親〜  顧問 牧野 末喜
IT社会に生きる  副会長  木村 幸二
点字と出会って  稲摩 明美
60周年に寄せて  羽田野 慶夫
冨森さんへの思い出  副会長  柳井 憲和
「メモリンピック」から「ウォークへ」  梶原 悟
九州盲女性研修会に参加して  大分市   磯 田  翠
むくどり文庫雑感  副会長  木村 幸二
恩師へ・・・  大分市点字図書館 むくどり文庫  麻生 雅代

故工藤先生のご意志に沿って

佐藤 マツイ


 大分市視覚障害者協会創立40周年おめでとうございます。
 さて、私が大分盲学校に在学2年生のときの担任が工藤勉先生でしたが、授業中はとても厳しくよくしかられたものでした。
 昭和14年に卒業はしたものの、呼吸器をひどく犯され、医者に行くにも金がなく、困り切って工藤先生宅に行ったら「なんだその咳は、医者に行ったか?」「いいえ、金がないので行かれません」「では鍼をしてやるから毎日来なさい」といって、毎日学校から帰られてお疲れなのに治療してくださり、元気になったが「あんたのその体であん摩をしたら1年持たないから、鍼の技術を磨き、鍼灸専門で開業しなさい」と諭してくださったので、鍼灸専門の三重野石太郎先生に4年間師事し、自信を持って開業(今の末広町)したが、戦争が激しくなり借りた家も強制疎開で壊されて困っていた。
 今の都町に九州ライトハウス盲女子ホームが設立され、鍼灸部・英語部・手芸部の3部で盲学校を卒業した方たちが、さらに勉強し、新職業開拓を目指した。そこで、私に鍼灸部を担当し舎監も兼ねてほしいと頼まれ、8年間勤務した。
 その建物の1室に工藤先生が点字の図書を集め、先生の蔵書もいっしょに置いて点字図書館として工藤幸子さんが勤務し、貸し出しを始めた。これが今の大分県立点字図書館の前進である。
 話は元に戻り、昭和22年8月15日に大分県盲人協会の発起人会を行い、続いて創立され工藤先生が会長に就任した。同じ年に九州盲人会連合が創立され、いずれにもお手伝いをさせてもらった。翌23年に日盲連が創立された。
 26年に盲女子ホームを社会福祉法人の認可を得るために私は上京して社会事業短期大学の教室で受講して主事の資格を習得したが、ホームの建物の不備のため認可が下りず残念だった。しかし在京中に厚生省に行って当時の厚生課長松本征二様に盲女子ホームのメンバーの要望と現状をお話ししたら「あなたはよいことをお話くださいました。私たちは皆さんのようぼーを聞いて、それを実施するのが仕事です。
けれどもあなたや少人数の声ではできないのです。団体の声でないとできないから、婦人部をつくってもらいなさい」と教えてくださった。
 それから岩橋武夫日盲連会長に婦人部をつくってくださるようにお願いしておいたら、28年11月3日に日盲連婦人部が大阪ライトハウスで発会式があげられた。
 それから、婦人部大会を毎年開き、大会の決議を陳情書にして関係当局に陳情している。その成果が盲婦人家庭生活訓練事業である。これは九州婦人部から各ブロックに花嫁学校のようなものを作ってくださいと陳情したのが通り、形は違うが費用が支給されるようになったのである。
 次に、九盲連婦人部から日盲連婦人部大会に「心身障害者対策基本法」は私たち三療を業とするものにとっては不利だから心身の上の「心」を除けるよう要望提案した。
 これは、工藤先生がご逝去される1ヶ月前に、私たち同級生がクラス会を開き、ささやかながら先生の米寿のお祝いをしたとき先生が
 「皆さんに頼みがある。みんなよく勉強して鍼灸をしっかり守っておらんと晴眼者が多くなるからがんばってくれ、頼む。それから心身対策基本法の「心」と「身」を分けるように運動しないと大変なことになると思うからよろしく頼む」
 と申されました。私はこの先生のお言葉を先生の5遺言と思い、何回も繰り返して提案陳情し、厚生省に行って厚生課長板山賢治様にやかましくお願いしたら
 「あなた方のお気持ちはよく分かっているのですがねえ」
 と困らせたものでした。
 さくねんの12月3日に障害者基本法と改正されたことを足立文子先生(工藤先生のお子様)にお話ししましたら「早速父の霊前に報告します」と喜んでくださったので、私は肩の重荷を下ろしたようにうれしく思いました。
 去る2月14日、宮崎で村谷日盲連会長が記念講演でそのことを話されたのに、私は急いで帰り挨拶もしなかったので手紙を出しましたら、お忙しいのに点字で手紙をいただきましたので、全文を次に記します。

佐藤 マツイ様
2の28日 村谷昌弘
 宮崎でお遭いしましたが、いつもながらのお元気な様子に安心しました。
 小生も長年の活動ですが、お互いに戦後間もなくからの活動で、昔が懐かしく思い出されます。
 障害者基本法のこと、法律ができようとした昭和45年当時極力反対したが及ばず、心身がつきました。それ以来、なにかにつけて解消を要求し、今回の改正に当たってようやく受け入れられました。
年金も、福祉年金から基礎年金に変わり、金額が拠出性と同額となり、また来年から所得制限こそ無くなりませんが、給付を受けるものと受けられないものが逆進すると言う不合理が、一定の枠内で半角給付されるようで、運動は一気に行くものもあれば何十年もかかってようやく要求が通るものもあり、ならぬものもあり、運動は気長にしなければなりません。
 いっそうご自愛、ご健勝で過ごされるよう記念します。

 私が今のように元気でおられるのは「人の病気を治そうとするものが、自分の体を治せないでは」と言って治療をしてくださった先生のご意志に沿うように、自分で鍼や灸を続けているおかげです。
 終わりに、本会の益々のご発展と会員皆様方のご健康とご多幸をお祈りしながら失礼いたします

(平成6年4月10日「設立40周年記念誌」より)

設立40周年に寄せてーー父の想いでーー

前大分市議会議員 足立文子

 大分市視覚障害者協会創立40周年おめでとうございます。
 戦後の混乱期、路頭に迷う障害者の暮らしをなんとか立て直し、「健常者とともに肩を並べて生きる喜びが味わえる」そんな世の中を作るために視覚障害者がしっかり手を繋いでがんばろうと誓い合ったあの日から40年の歳月が流れ、今、大分市盲人協会は大分市視覚障害者協会と名も新たに21世紀に向け「完全参加と平等」を実現させるのだ!と言う息吹を感じさせるような新たな1歩を踏み出そうとしています。
 会員の皆さんの努力で成し遂げた「大分盲人チャレンジマラソン」をはじめとする諸活動に父、工藤勉が生きていたならどんなにか喜ぶであろうと想像しながら、40周年を心からお喜び申し上げます。
 さて、大分市盲人協会は昭和29年3月15日、大分市永池町(現在大手町)の工藤勉宅で、大分県盲人協会の一番大きな屋台骨を支える組織、大分市盲人協会として発足しました。
 失明予防と失明者の視力回復をはかり、失明のやむなきにいたったものの相互扶助、生活の安定、文化の向上、その他福祉増進に寄与する。と言う目的の下に第1歩を踏み出し、工藤の2階がずっと市盲協の拠点となりました。
 大分市独自の活動は、会員相互の親睦を図りながら、福祉の増進に、また他の障害者団体に呼びかけて大分市身体障害者協議会を発足させるなど、他の障害者団体と連携しながら啓蒙運動などを続けて参りました。
 しかし、それにも増して、大分県盲人協会発足とともに会員の中心的役割を担い活動して来た即席をつづってみたいと存じます。
 昭和21年3月疎開先から大分に帰って来た父は、「大分まで出て来たが帰りの汽車賃が無くなった!」とか、「帰りのバスに乗り遅れて泊まるところがないので・・・」とか言って頼って来る視覚障害者の姿に、なんとか盲人協会を再建して、盲人福祉運動を起こしたいと、小野田先生や諸先輩を訪ね歩き指示を仰いで回りました。大塚 茂雄先生には十分ご支援をいただいたのでしょう、たびたびおたずねをし、なんでもご相談申し上げておりました。
 人を招いて相談するのではなく、自ら出向いて行って相談に乗っていただく、父のこの姿は後の私の生き方に大きな影響を与えてくれました。
 昭和22年8月15日、各地区の代表者が集まって、盲人協会の再建を申し合わせ、準備委員を作って結成に向けて歩み始めました。
 役員に再選された方々へ協力をお願いして県下を飛び回りました。
 22年11月6日、大分県立盲唖学校講堂において大分県盲人協会結成総会を開催し、大分県知事を総裁に、会長工藤勉、副会長森田まさと(中津)、永はじめ(ひゅうしょう)とする役員体制で出発しました。当時は予算とてなにもなく、全て役員の手出しで活動が行われておりましたので、介添えをようする盲人は二人分の運賃を支払わねばならず、この負担の軽減運動が、現在の運賃割引実施への源となりました。
 こうした運動をするために、九州が一つになってーー。全国の盲人が力を合わせてーー。と働きかけ、22年12月15日には、九州各県の代表を大分県に招いて九州各県連絡協議会を開き、「九州盲人会連合会」を結成し、自らが事務局長となりました。
 23年4月18日には大阪毎日新聞社において「日本盲人会連合」の結成準備会を開き、23年8月18日大阪錦浜海洋道場において「日本盲人会連合会」をついに結成。総会の運びとなりました。海洋道場のハンモックに寝た日のことが懐かしく思い出されます。
 翌24年8月17日「第1回九州盲人大会」を別府市公会堂で開催し、この年24年12月1日に大分県教組の「ヘレンケラー募金」配分の5万円をいただいて点字文庫を開設しました当初は「ライトハウス」に置きましたが、後盲学校の2階に置いていただき、点字図書館建設運動の導火線となりました。
 24年12月3日県盲人協会結成以来、全国の同朋に呼びかけて陳情誓願を繰り返して来た「盲人福祉法」の制定運動が身を結び「身体障害者福祉法」となって臨時国会を通過成立しました。
 25年2月5日長年要望して来た盲人に対する国鉄運賃の割引が実施されました。
 これに先駆けて大分バスが全国で初めて運賃割引を行いました。
 この年の夏、栃木県塩原温泉(明治天皇御用邸跡)で開催された「全国盲人大会」に国鉄運賃割引を作って森田、永両副会長夫妻と、父のお供をして参加し、帰途、国会に村上勇衆議院議員をお訪ねし、陳情した日の感動が今も私の脳裏に焼き付いています。
 26年5月25日別府市国際観光会館で「全国盲人大会」を開催しました。
 こうした大会を盛り上げるために、また全国からあるいは九州から集まった人々のお世話をするために、大分市・別府市の会員の家族は献身的に働きました。これが大分市盲人協会の結成の機運となりました。
 27年大分大学に入学するまで私が学校から帰ると、患者さんの治療の切りをつけて「文、行くぞと県庁に日参するような日々でした。私の試験勉強は、父の話が終わるのを待つ間、横で覚えられるようにカードに整理し、このカードをめくることでした。お昼時、地下の食堂からぷーんと広がるカレーライスのにおいにお腹が空いて泣きたくなることもしばしばでした。知事室の前をおろおろしていたら、父の姿に気づいた細田知事が「工藤さんが通った。なにかようじゃろう呼んで来なさい」と秘書課も通さずに、先客を待たせて面会をしてくださったこともありました。
 細田知事時代は、行事の後、「今日はお疲れだったでしょう」と知事後者をお尋ねし、知事さんの肩を揉みながら視覚障害者の実態や問題点を、世間話をしながら訴えていました。「楽しい話、笑いながら相手の心になにかを印象づけてくる」そんな父の会話を聞きながら、知事夫人やお子さん型と楽しいひとときを過ごさせていただき、知事さんの作ったキャベツをいただいて帰ったことなど、心温まる想いでも数々です。
 29年3月15日盲人協会結成。この年、私は津久見市立茅渟小学校に「大学でのおなご先生」として迎えられました。
 30年3月20日、大分市において「社会福祉講演会」を開催し、「欧州の社会事業について」細田徳寿大分県知事。「欧州の盲人福祉について」日盲連会長鳥居 篤治郎並びに日盲連事務局長岩橋英行氏のヨーロッパを視察しての講演をお聞きし、引き続き「九州盲人大会」を開催しました。
 31年5月31日、長年の苦労が実って「大分県点字図書館」が落成し、その事業運営を委託されました。
 翌6月1日には「点字図書館落成祝賀大分県盲人大会」を開催し、盲人文化の電動ができたと喜び合いました。
 県盲も市盲も事務所を点字図書館に置き、総会や役員会もしばらくはここで開催しておりました。
 しかし、まだ福祉法人認可を受けていなかったために、県立図書館として館長は盲学校長、事務局長は県盲と言うことで、森田副会長(音楽・芸術に堪能な方)が勤務と言う形で出発したため、いつしか盲学校の図書館と言った形態を強くし、ついには、盲人協会の図書館建設要請の運動も、資金作りの苦労も図書館の歴史の中から消されてしまったことを、後に父は非常に悔やんでおりました。
 建設資金作りには、各市町村の役員さんはもとより、肢体障害者の児玉さん(大分市在住)、神田さん(故人)、宮川さん(故人)のお三方が、鉛筆を売ったりしながら県下を走り回り、ご苦労くださったことが忍ばれます。
 32年11月6日血清10周年記念大分県盲人大会を盛大に開催。
 33年、通常国会で「国民年金法」が成立し、父が23年以来、全国に呼びかけ陳情、誓願して来た盲人の年金制度が「傷害福祉年金」として規定され、翌34年11月から実施されることとなりました。
 35年3月31日、苦労の末、社会福祉法人大分県盲人協会として法人認可を受け、名実ともに社会福祉団体として出発するまでの苦労の歴史を知る人も少なくなりましたが、この日、盲人ホーム「喜明園」が竣功し、盲人協会の事務局も中島の「喜明園」に移りました。
 トキハの文化ホールで芸能大会を開いたり、第1回の九州盲人野球大会を催したり、九州盲人音楽家演奏会を開いたり、数々の九州視覚障害者活動の歴史の出発点ともなりました。
 50年春、病床の中で、立木知事さんに書いた手紙が実って、私が再び事務局長に戻り、大分県盲人福祉センターの竣功まで、こうした運動の中心的役割を担って父を支え、ともに歩いてこられた大分市盲人協会の皆様、また今は無き先輩の皆様に、父に代わり心から感謝申し上げる次第です。
 大分県盲人協会の歴史はイコール大分市視覚障害者協会の歴史であり、父の想いでは盲協の歴史の中にこそ強く存在するものであり、その歴史の一端を綴らせていただきました。
 あんなに必死に叫び続けた傷害年金も、自分は1銭も手にすることはなく、「僕は自分の力で生きられる、困った人にもっと厚くしてほしい」と健常者と肩を並べて生き抜いた父。命の灯火が消えようとする中で、輸血も、点滴も、「後幾ばくもない僕にそんなものはもったいない、若い人のために使ってください」と拒否し続け、痛むと皆さんにマッサージをしていただき最後まで自分で腹や胸に鍼を挿したまま気持ち除ヶに眠り、静かに眠るようにこの世を去って行きました。「石の上にも3年」父の口癖でした。粘り強い努力の上にしか花は咲かない、と言うことでしょうか。「不可能」と言う言葉は父の辞書にはなかったようです。やればできると信念を持ち続け、この世を去るまで青春を謳歌し続けた人でした。

(平成6年4月10日「設立40周年記念誌」より)

視覚障害者協会50周年を迎えて

大分府内山岳会 佐藤 善則


 視覚障害者協会結成50周年記念おめでとうございます。
 協会結成当時は終戦後間もない時代で、初代会長さん、役員、会員の皆様の苦労を察せられます。
 今日まで50年。半世紀の歴史を作り上げた事は、一朝一夕に出来ることではありません。まさにお一人おひとりが視覚障害者協会の足跡を残してこられ、一枚一枚のレンガを積み上げる様な仕事の上に今日の輝かしい協会の50周年を迎えた事と思います。
 この間、障害者に対する福祉、介護は厳しいものであったと思いますが、平成に入り支援団体が行政に働き掛け、交通機関を利用、安心して出かけられる様なバリアフリーが整備されつつあるのが現状です。
 私は、平成3年から始めた視覚障害者支援登山を通じて、目の不自由な方との交流が始まり、13年のお付き合いをさせていただいております。私は視覚障害者支援登山にかかわってから考え方が変わりました。今までは目の不自由な方とお会いしても、挨拶を交わす事も手助けも出来ませんでした。しかし登山を通じて腕を組む事も会話をする事も初めての経験をしました。家族の事や世間話を交わしながら登る楽しさにも気付きました。
 そして勇気と希望をいただきました。信号待ちをしている目の不自由な方にお会いしました。挨拶を交わし信号が青になりましたよ、一緒に渡りましょうと腕を組み渡りました。はずかしい気持ちと、人の目を気にして渡り終えました。ありがとうございましたとお礼の挨拶をいただきました。小さな事ですが、自分にとって大きな自信がわいてきました。
 そして目の不自由な人達は家にこもりきりの人が多いと聞いておりますが、お世話してあげたい、手を差しのべたい人達が大勢いますので、家を飛び出して、買い物や公園へ散歩に出かけましょう。人と人との交流が始まり感動が生まれます。
 最後に諸先輩が築いた輝かしい大分市視覚障害者協会創立の精神、そして視覚障害者協会の輝かしい軌跡の上に、これからの新しい50年に向けて第一歩を踏み出すことをお互いに確認をし、私の挨拶といたします。
(平成16年11月7日「設立50周年記念誌」より)

30年前の記憶

毎日新聞社「点字毎日」編集長・眞野哲夫


 大分市視覚障害者協会の50周年、そして大分盲人マラソンが20回大会と、それぞれ節目を迎えられたことを心よりお祝い申し上げます。そんな話を伺って、大分にまつわるずいぶん前の記憶が蘇りました。
 話は30年ほど前にさかのぼります。舞台は大分県の佐伯市付近の国道。大学の後輩と2人で歩いていると、サイレンを鳴らしたパトカーが2台、追い抜きざまブレーキ音をあげて急停車したのです。ドアが開くなり中から刑事たちがバラバラと降りてくるなり、連行されて車内で事情聴取。刑事ドラマの1シーンのようで、ただ呆然としていました。
 その時、宮崎市から若戸大橋まで約350キロの徒歩旅行中でした。刑事によると、「民間人から通報があった」とのこと。昼食を取った食堂の店主が、赤い野球帽で薄汚れた風体を見て、当時世情をにぎわした赤軍派と勘違いしたのが、この逮捕劇(?)の真相のようでした。宿泊した中津のユースホステルで披露すると、爆笑となってしまいました。
 2人で歩いた徒歩旅行は、1日30数キロ、最高で60キロを超える旅程でした。宮崎から大分に入って北上。足にマメはでき節々は痛みます。それに2人旅は難しいもので、何日も歩いていると、互いのペースが違うため、相手が先に行っても、遅れても腹が立ってくるのです。互いエゴが出てきて、牽制し合って歩くことになります。それでも全行程を踏破し、若戸大橋にたどり着いた時の達成感は何ごとにも代えがたいものがありました。
 マラソンにしてもタンデム・サイクリングにしても、風を切って走る壮快感と、走り終えた達成感が魅力だと思います。この夏に開かれたアテネ・オリンピックや、それに続くパラリンピックに出場した選手たちも、多分この壮快感と達成感を求めているのでしょう。水泳の北島康介選手ではありませんが、「超気持ちいい!」と叫びたくなる達成感は自ら汗をかかなければ得られません。これは何もスポーツに限ったものではないと思うのです。
 障害のある人とない人が共に作り上げる社会。2人3脚の道程は時に息が合わないこともあるでしょう。だからと言って相手に反発していても決してゴールの方から近づいてはくれません。
 視覚障害者を取り巻く環境は大きく様変わりしてきました。しかしながら今後益々改善され広がっていくかと言うと、必ずしもそうではないように思います。国・地方自治体の財政事情、経済状態を考えると、これからの福祉は決して楽観できる状態にはないことはご承知の通りです。多くの視覚障害者が従事している鍼灸マッサージ業を取り巻く状況、にしても無免許者の急増などで加速度的に厳しさが増しています。
 加えて、福祉を支える人々の意識が鍵となります。他者を思いやる心が障害者の社会参加にとって不可欠でしょう。この点で言えば、むしろ後退しているようにさえ感じられます。他者への思いやりは、残念ながら精神的、経済的な「余裕」が大きな要素となっているのも事実です。そうした社会全体を見る視点が今、障害者の側にも求められているように思うのです。
 言い換えれば、1歩踏み出す「自助努力」と生き方のセンスが問われてくるように感じられます。自ら汗をかき、風を切る楽しさを味わいながら、障害のある人もない人もともに達成感が味わえる、そんな社会になってほしいと切に願います。

(平成16年11月7日「設立50周年記念誌」より)

点訳と私

大分市点訳友の会 会長  白石 勝代


 私が、点訳ボランティアを始めて5年になります。
 きっかけは、大分に住所を移して目にした市報の小さな記事です。この記事を見た時にふと思いました。私が読んでいる本を同じように目の不自由な方が読めれば、本から得られる感動や興味、いろんな思いを共有する事ができる。点字を打てるようになれば、いろんな本を点訳することができる、それに私にも勉強になると・・・。
 1年間の講習は、年齢を重ねた私には大変なものでした。ただ点字を覚えればよいだけだと思っていましたが、とんでもないことです。点字を見たことはありますが、6点で構成されているとは、まったく知りませんでした。この6点の文字を覚えるだけでたいへんです。それを読むことなど考えただけで恐ろしくなります。これを目の不自由な方は指で読むのですから、私が打った点字が本当に読めるのだろうかと不安になってきます。
 点訳には「分かち書き」という読みやすくするための規則のようなものがあります。ただ「打てればよい」だけではないのです。今でも一番苦労するところです。
 パソコンが一般的になってきた現在、興味と意欲があれば、誰でも点訳をすることができると思います。それに、音声で聞くこともできるようです。
 私は、この点訳というボランティアを通して多くの人達に出会えたことが一番の収穫でした。視覚障害者の方、点訳という同じ目的を持った仲間。年齢差を越えて知り合えたことは本当に有り難いことです。
 ここで、私たちグループが参加している「点訳友の会」について書いておきたいと思います。
 昭和57年に市の社会福祉協議会が点訳養成講座を始めました。その時の講座修了者が、グループ間のコミュニケーションを図るために「点訳友の会」を発会させました。この会も今年で23年を経て、現在、登録グループも16を数えます。
 グループごとそれぞれに活動していますが会としての活動は、大分盲人チャレンジマラソン大会のお手伝い、そのための資金集めのバザーが主たるものです。マラソンも今年で20周年を迎えます。マラソン当初から参加されている会員も少なくありません。本当に頭の下がる思いです。
 最後に、私はここまで指導してくださった富森先生を始め、関係者の方々、先輩、そして私が所属するグループ「ユーカリ」の皆さんに感謝の意を表したいと思います。
 今では、私にとって点訳とは生き甲斐だと言っても過言ではありません。良いものに出会えたと思っています。これから先もできる範囲のことを、気張らずに長く続けられればと思います。

(平成16年11月7日「設立50周年記念誌」より)

視協盲女性の未来に

婦人部長  堤 江美子


大分市視協センターの1室。10畳ほどの畳の部屋に丸いテーブルが置かれ、7,8人の女性たちが楽しそうに笑いながら話し合っている。
「みなさん、この次は何をしましょうか」という問いかけに
「社交ダンスを習ってみたいな」
「おいしくて簡単な料理はどうかしら」などとあちこちから声があがる。
「私はお茶のお稽古をしてみたいわ」と言った自分の声に驚いて目が覚めた。
生け花やお茶、手芸や料理、ダンスや卓球などのできる部屋。音楽を聴いたり楽器が触られる部屋。図書室から借りてきた本を読んだり、お茶を飲みながら談笑できる部屋。私たちがいつでも自由に使える、そんな視協のセンターが欲しいと願っていることを夢が実現してくれたのでしょう。
建物がなくても活動はできる。
でもそれは課外での活動である。すぐに限界がきてしまいます。20年近くの私たちのあゆみがそれを物語っています。
図書室や音楽室、調理室や体育館、多目的の和室やホールなど、備えた視協のセンターが、仕事を離れた時間の私たちに憩いの場、リフレッシュの場となるとともに、施設をフルに活用して、かつて盲女性が活発に動き、活気にあふれていたあの雰囲気をもう一度取り戻したい。
そして、九州各県の盲女性と交流を重ねて多くの人々と出会い、経験と知識を生かした活動の場を広げていきたい。
私は視協盲女性の未来に、こんな夢と希望と期待を強く持っています。
みなさん!私たちの明るい未来へ足並みそろえて第1歩を踏み出しましょう。

(平成16年11月7日「設立50周年記念誌」より)

初代会長工藤勉先生の思い出 〜大分県点字図書館の生みの親〜

顧問 牧野 末喜


 終戦の翌年昭和21年、会長が疎開先から大分市大手町に治療所を移し、その後、その年の秋だったと思う。
 鍼灸会の金池校区の会合に出席した折、会の終了後会長から
「牧野君、うちの治療室の隣の部屋に図書室を設けた。まだ図書の冊数は少ないが、あんたの読みたい本があったらいつでも持って帰って読んでもいいぞ。いいか、牧野、戦争は終わった。そして日本は負けた。これからの日本を背負って立つのは君たち若い者だ。目が見えないからと甘えてはだめだ。教養を身につけ、実力を発揮しなければだめだ。それには本をよく読みなさい。わしは大分に点字図書館を作る。何年かかるかはわからないががんばる。」
 その時会長はそうおっしゃいました。それからは会長の家の図書室へ通いました。
 それから年々図書も増え、専門書・小説その他図書の種類も増え、会長の家の図書室も狭くなりました。
 その2、3年後だったと思います。昭和7年に盲学校を卒業した 瀬尾真澄先生が大分市田町(今の都町)に大分市ライトハウスをたてられ、その一部屋を借りて図書館を開館しました。その時の図書館の貸し出し事務は、会長の長女幸子さんが引き受け、毎日出勤しておられました。
 それから図書も借りる人が増え、そしてだんだんと図書も増えていきました。その後ライトハウスの部屋も狭くなり、3年後ぐらいだったと記憶しておりますが、図書館をライトハウスから盲学校の本館の1室に移し、すべての事務を会長のお嬢さんが引き受けてやっておられました。その頃から図書館そのものも表に出てきたようで、県立点字図書館の設立に話が進んでいったのではないかと思います。
 その後昭和31年5月31日に県立点字図書館として県立盲学校の校内に完成しました。本館にある点字図書すべてを図書館に移し、また事務員も新しく増やして貸し出し業務が開始されたのです。
 工藤会長は、図書館が完成したとき、
「僕の長年の夢がかなった。これで大分市の視力障害者の夢と希望がわく」と喜んでおられました。
 昭和17年、工藤先生が我々中等部2年の担任になって毎日先生と会うようになりましたが、どうしたことかその年の7月に急に辞めるようになって、盲学校を去り、長池に治療所を開設されました。
 工藤先生のご功績については、「道ひとすじ 〜昭和を生きた盲人たち」という本にも詳しく紹介されておりますが、昭和の初期から盲人福祉運動ひとすじに取り組み、現在の障害基礎年金の支給や乗物料金割引制度の基礎を築いた方です。私たちはこのような先人の偉業を語り継ぎ、それを励みとしてこれからの皆様にもがんばって頂きたいと思います。

(平成16年11月7日「設立50周年記念誌」より)

IT社会に生きる

副会長  木村 幸二


 昨今、ITという言葉があたりまえのように聞かれるようになった。Information Technology、日本語に訳せば「情報技術」とか「情報通信技術」となるのだそうだが、パソコンやこれに関連する機器が使えないとなにか社会から置いてきぼりをくっているような気すらしてくる。
 私とコンピューターとの出会いは、今から20数年前のことである。おぼつかなくではあったが、やっと画面の音声化プログラムが開発された頃で、私は、住所管理や活字での文書処理を自力でしたい一心で使い始めた。そして現在、今やパソコンは、私を含め、視覚障害者にはなくてはならないものとなった(と私は思っている)。
 現在の私のIT機器の活用状況としては、点字・活字の文書処理、メールによる情報交換、ニュース閲覧、ショッピング、テレビやラジオ番組のチェック、飲食店や宿泊施設の電話番号・住所の確認、ホテルの予約、インターネットバンキングの利用、住所管理、年賀状の作成等々である。
 平成12年より総務省は、IT活用を広く国民に普及させるべく、障害者や高齢者に対するIT講習会を積極的に行ってきた。また、障害者情報バリアフリー化支援事業の一環として「視覚障害者のためのパソコン周辺機器等の購入費の助成」を、「当分の間」という条件付きではあるが始めた。さらに、携帯電話にあっては、まだ十分とはいえないが、操作案内の音声化がされる機種が開発されて以来、視覚障害者の携帯電話利用は格段に増大してきた。「もしもし」「はいはい」の電話から、文字による情報交換・情報収集へと、電話の利用範囲も広がってきている。
 このことからもわかるように、IT機器の開発・普及は、視覚障害者にとって一番のバリア(壁)であった情報の格差を一気に縮めようとしている。さらに、これを完全フリーな環境にするためには、視覚障害者自身が大いに機器を活用し、その中から改善点の声を大いに挙げることであると思う。そのことが、いずれ健常者と変わらない文化生活、社会参加実現へと繋がって行くのだと思う。
 私は、このような時代がやってきたことを非常にうれしく思う。近い将来、宇宙にいけるのも夢ではないと思うし、視覚障害者単独でも車の運転ができる日もそう遠くではないと思う。私は、そのためにも大いにIT機器を活用し、IT社会にどっぷりつかって行きたい。

(平成16年11月7日「設立50周年記念誌」より)

点字と出会って

稲摩 明美


 この度は、大分市視覚障害者協会(視協)の発足60周年おめでとうございます。
 振り返れば、私が点字と出会って四半世紀が過ぎました。小学校高学年時、尊敬していた人は、医療活動で献身したシュバイツアー博士と、三重苦の身ながら生きる希望を伝えたヘレン・ケラーでした。当時近眼で、度の強いメガネを掛けていたので、目の不自由さは少しですが感じていました。時が経ち家庭を持ち、子育てをしながらのある日、市報の点字講座募集の文字に目が止まり、昔の尊敬していた先人の足下にも及ばないけれど、「千里の道も一歩から」と言うことわざがある様に、その時私にも何か出来る事が有るかもしれないと、自分なりに一歩踏み出し、応募したのが契機だと思います。
 1982年森講師の元、点字講座2期生として当初は33名の仲間と中島にあった社会福祉センターに通いました。ルイ・ブライユと言うパリの訓盲院の生徒が、1825年に考案し、30年余り後フランスでの採用を皮切りに世界中に広まり、日本では1890年に、盲学校教員石川倉次さんが翻案し普及した事、それは凸面6点の組み合わせによる表音文字で、それらには一定のルールや約束事があり、色々な手段として用いられている事等を知りました。発明された人もさる事ながら、指先で文字を読み取れる凄さに感激しました。講座の終了時、いつまでも細々とでも長く灯を点して行こうと、グループ名は「ともしび」となり、本の点訳に特定せず盲人の方の身近な生活に沿ったものにしようと、くらしの豆知識、料理のレシピ、カレンダー等に取り組みました。手探り状態でしたので、センターの方々に大変お世話になりました。活動の拠点は、センターから錦町のビルの一室に移り、その頃には毎年点字講座を卒業されたグループが点訳友の会として、視協と共に活動、むくどり文庫の開設もあり、声の市報録音(アイサービス)等していました。当時の一番思い出深いのは、1985年より20年間続いた「盲人チャレンジマラソン大会」です。県内外より多くのエントリーがある中、盲人の方と直接ふれあう機会があり他のグループとの交流もあり、大会を通して人の思いやりや優しさ、走者の逞しさや達成感を肌で感じ忘れられない行事でした。
 またその間に拠点は、金池小学校一室に移動、更に現在はホルトホール内へ。我がともしびの活動は、古切手の整理、新着本や話題本の紹介録音等もしておりましたが、一人となった今、カレンダー作成のみとなっています。今まで見守り支えてくれた家族と、辞めても尚、精神面で協力して頂いている方々に感謝すると共に、これからも友の会の一員として、ともしびとして、人との関わりを大切に、自身の生涯学習の一環として、微力ながら続けていきたいと思っております。よろしくお願い致します。
 最後になりましたが、貴協会のご発展とご永続をお祈り申し上げます。そして、様々な場面で交流指導頂きましたが、昨年惜しくも物故されました冨森寿弘さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

(平成27年1月11日「設立60周年記念誌」より)

60周年に寄せて

羽田野 慶夫


 60歳といえば、「還暦」。年月のたつのは誠に早いものだ。
 大分市視覚障害者協会(盲人協会)創立60年だとは。
 そこで、このたびは、我々の大先輩である「永富 豊」氏の活躍について紹介させていただくこととする。
 永富氏と知り合ったのは、私が木上に来た40年前のことだ。もう、十数年前に亡くなったが。
 永富氏は元県盲会長の「工藤 勉」先生と同年配で、しかも腹心の友であったようである。
 ここで、永富氏が工藤先生に進言したことをそのまま引用させてもらう。
 「『工藤君』今、世の中には眼が見えなくて『納戸』の隅で巻いてるめくらがどれくらいいると思うかい。そういう人たちに対して国がいくらかでも金を出してくれるようにしよう」
それに対して、工藤先生は
「それは無理だよ『傷痍軍人』とでもいうんなら別だけど。」
 永富氏
「しかし、やって見なけりゃわからんだろう。出してくれなくてもともとだから。是非、このことを全国大会で提案してほしい」といったそうだ。
 それを受けて、工藤先生が大阪で行われた日盲連大会で提案し、強く主張したそうだ
 いうまでもなく、それが引き金となり、30年代になって、支給されることとなった「障害福祉年金」である。
 稙田にこのようなすばらしい先輩がいたことは、我々の誇りであるとともに、先輩の意図するところを受け止め、後輩にしっかり伝えて行かなければならないと想う。

 永富 豊氏のプロフィール:永富氏は、旧稙田村「岡」の生まれ。40歳を過ぎて失明。しかしながら、その後も農業を続けるとともに、盲人福祉活動についても人一倍貢献し、県下に類を見ないような「稙田地区会」を立ち上げ、その運営にがんばっていた。
 人の話によると、永富さんは、眼が見えていたら、おそらく稙田村の村長になっていただろうと言っていた。

(平成27年1月11日「設立60周年記念誌」より)

冨森さんへの思い出

副会長  柳井 憲和

 冨森さんの思い出を語り尽くせば、大変長い話になりそうです。
 学生時代から行きましょう。
 昭和41年夏、香川県高松市で行われた全国盲学校野球大会に招待され、1回戦で地元香川に大敗したものの、その年の秋の九州大会(大分大会)では、見事優勝。冨森さんはライト、私は3塁でがんばりました。練習中、ユーモラスな野次を飛ばして、チームを和ませてくれました。
 卒業後、再会したのは、盲学校演劇部OB。私は、演劇部とは関係ないのですが、衛藤良憲氏に勧められ、入会、「劇団ふくべ」を結成し、(昭和52年)老人ホーム慰問や、盲人協会の行事などで上演し、まずまずの成果を上げることが出来ました。
 昭和58年、大分県盲人協会が文化祭を企画することになり、劇団「ふくべ」に何かいい出し物はないかということで、当時青年部長だったと思いますが、冨森さんにお願いして、オリジナル創作劇「モーツァルトの耳」が完成しました。ストーリーは、視覚障がい者の新職業開拓にスポットを当て、ピアニストを目指して生きようとする1青年の苦悩を描いた作品でしたが、団員仲間でいろんな意見が出たものの、練習を重ね、無事文化祭を終えることが出来ました。
 思い出は、平成になり、当時、OBSで「ほのぼの5・7・5」という番組があり、冨森さんから私に電話があり、「俺が1句出来たから、おまえの名前で応募してくれ。ちなみに、ラジオネームは柳井無精(無精は、筆無精の無精)、俳人の松尾芭蕉(ばしょう)を文字って無精(ぶしょう)になったと思います。その日のお題は「いちゃいちゃ」。早速応募しました。
 「妻の里 社交辞令で いちゃいちゃし」
 その日の司会は、「ビンビン」「バンバン」。特に、司会の「バンバン」こと植木伴子アナにばか受け。スポーツタオルの賞をいただきました。
 それから、川柳の虜になり、冨森さんと私が発起人で、当時、光明塾で点字の勉強に来ていた大分市番傘会員の岡部富久市先生に講師をお願いし、大分市、別府市の有志に声をかけ、平成5年5月、大分市むくどり文庫(当時錦町勉強堂4階)で、第1回目の例会を開き、この会を「五月会」と命名。あれから21年、五月会は、国民文化祭や、県内の大会に参加して、まずまずの成果を上げるまでになりました。
 「すれ違う 人それぞれに 風がある」
 この川柳は、冨森さんが湯布院で行われた第10回国民文化祭で「風」というお題の中の入選句です。
 平成5年、冨森さんは、大分市の会長となり、私は、それ以来、副会長として、早20年が過ぎました。
 冨森さんは、私には、あまり難しいことは言いませんでしたが、読書と野球談義だけは、波長を合わせてくれました。66歳という若さで生涯を終えられ、まだまだやり残した仕事があるのではなかったかと思うと、残念でなりません。
 今後は、天国で、持ち前のユーモアを振りまいて下さい。私は、もう少しだけ自分自身と社会に貢献できるよう微力ながらがんばりたいと思います。

(平成27年1月11日「設立60周年記念誌」より)

「メモリンピック」から「ウォークへ」

梶原 悟


 大分盲人マラソン大会に引き続いて、体力向上、視覚障がい者、健常者の交流を目的として、新たな行事を実施することとなりました。本年で10回となりました。少し振り返って見ましょう。皆様の記憶に鮮明に残されているものも多いと思います。
 まず、平成17年から3年間はメモリンピックとして大分市営陸上競技場や金池小学校で実施しました。100メートル走やソフトボール投げといった障がい者スポーツ大会並みの競技を行った年もあります。おもしろい所では「県内対抗綱引き」だったでしょうか。また、翌年が大分国体ということもあり、平成19年は、金池小学校で「アトラス」対「選抜チーム」でグランドソフトボールを行いました。
 続いて、平成20年から3年間はタイムを競う大会として田の浦海水浴場の歩道を使って実施しました。4キロほどのコースを、みんな真剣に歩いていましたが途中で雨降りとなり、「風をひかないか」と心配した年もあります。
 それからの4年間は、「故郷の自然を楽しもう」という流れもあり、「ふるさとエンジョイウォーキング」として実施することとなりました。
 平成23年は大分県農業文化公園に行き、ウォーキングの後、公園内の化石なども触ることが出来ました。
 平成24年は住吉浜リゾートパークに行きました。しかし、この日は終日雨、午前中はホテルでレクレーションとそれなりに楽しいバス旅行となりました。
 平成25年は湯布院の散策を計画しましたが、前日より降水確率50%の予報により断念、当日は小雨が降ったそうです。皆さんに風を曳かせなくてよかったと安堵しました。 本年はくじゅう花公園に行きました。当日は絶好の遠足日和となり、大自然の中を少し汗をかきながら、自然を満喫することが出来ました。昼食はブドウの房が下がっているガーデンタイプのレストランで、道を隔てた風上には牛馬の小屋があり、豊かな香りの中、昔を思い出した人も多かったと思います。
 年々、ボランティアさんの参加が増え、下見や手引きなど大変助かっています。今後もエンジョイウォーキングは大分市視覚障害者協会の秋のイベントとしてさらに継続、充実させて行きたいと考えています。どうぞ、ご参加をよろしくお願いします。

(平成27年1月11日「設立60周年記念誌」より)

九州盲女性研修会に参加して

大分市   磯 田  翠


 7月27日・28日の二日間、九州盲女性研修大会が鹿児島で行われた。県外での研修会に参加するのは初めてであったため、鹿児島に到着するまでかなり緊張していた。しかし、日盲連女性協議会会長の信条さんをはじめ、他県の女性部員の優しい言葉に緊張が解け、心が和んだ。
 一日目の1部では、鹿児島国際大学教授の蓑毛先生による講演、2部では各県の代表者によるレポート発表が行われた。
 1部は、「出来ることを見つけて楽しく生きる」との題で行われた。その中で、蓑毛先生自身が男性合唱団、水泳など、いろいろなことに挑戦されており、こちらまで元気になるようであった。また、会場全体で童謡や唱歌を歌い、楽しい雰囲気で心温まる講演であった。
 2部では、8人の代表者による発表で、中でも印象に残ったのが北九州の女性の発表であった。多発性硬化症を煩い、歩くこともままならず視力まで失ってしまった。それにもかかわらず、伴走者や家族の支えによりフルマラソンを完走したという内容である。私は、その勇気と最後まであきらめないで挑戦する彼女の姿に深く感動した。
 2日目は、「命の大切さ」と題して、九盲連の衛藤会長による講演が行われた。内容は、いじめについて、災害時の対応についてであった。
 いじめの話題では、自信の家族を例に挙げ、命の尊さについてしみじみ語っており、涙が出て来た。
 災害の話題については、「災害時にはまず、自分の身を守ること」、「災害に備えて、隣の家の人たちと仲良くなること」の2点が重要と語っており、大変参考になった。
 九州盲女性研修会に参加して、皆それぞれ夢を持ち、それに向かって積極的に活動している姿に深く感動した。また、たくさんの勇気と元気をもらった。
 北海道登別出身で、並も知らない、誰も知らないままに大分に来て、早3年になる。当地に来て、半年後くらいに、これまであまり関心のなかった、大分市視覚障害者協会の存在をしった。松山旅行に参加したり、生涯学習教室に出席する中で、「自分は一人ではない」という安心感が芽生えた。視覚障害者協会に入って、私の考え方が大きくかわった。特に、総会や研修会に参加した際、県内全ての視覚障がい者の生活を保障するために出来ることをみんなで話し合っている姿に感銘を受けた。例えば、会員人数確保のため、市の役員を中心に呼びかけを行ったり、市役所に交渉するなど、どれも強い団結力なしでは出来ないことである。その光景を目の当たりにしたとき、「視覚障がい者のために、出来ることから挑戦してみたい」と思うようになった。
 現在、大分県女性部は、2ヶ月に1回お花を生けて楽しむ研修会を行っている。今後は、部員の皆さんが少しでも自分の趣味を見つけ、活躍の場を広げられるよう、活動内容を考えて行きたい。そして、県外の研修会で一つでもレポート発表が出来ればよいと考えている。

(平成27年1月11日「設立60周年記念誌」より)

むくどり文庫雑感

副会長  木村 幸二


 むくどり文庫が錦町に開設して25年、過去の歴史を記録と記憶を頼りにつづってみました。
 むくどり文庫は、ひとくちにいって、故、冨森寿弘さんの結晶であろうと想います。
 彼は、「自分たちの手で点字図書館を運営したい」「俺は、点字本の中に埋もれていたい」というのが口癖でした。そして今、名実ともに、大分県点字図書館が民営委託となり、大分市点字図書館むくどり文庫が誕生したことは、彼にとっては最高の喜びであったと想います。願わくば、両図書館の運営が軌道に乗るまで元気でいてほしかった!!

1.むくどり文庫開設まで
大分市社会福祉協議会は、昭和55年より、1年コースの点訳者ボランティア養成講座を現在まで継続して行っています。これまでの講座修了者は300名を超えています。講座では、例年、終了記念の点訳本を作成し、社協に納めていました。社協内の1室には点訳本が増えるものの、私たち視覚障がい者の手に触れられることはありませんでした。そこで誕生したのがしののめ文庫です。
 昭和58年6月 大分市社会福祉協議会所蔵の点訳本を、大分県盲人協会内に設置された「しののめ文庫」に受け入れ、点字使用者に読んでもらえることになりました。一番最初に受け入れた本は、「クラシの豆知識」(全5巻)であるとの記録があります。

2.錦町時代のむくどり文庫
 平成元年10月4日 大分市錦町2丁目12−7 佐藤ビル401号に、大分市盲人協会事務所(むくどり文庫)を開設。合わせて、県盲の「しののめ文庫」内の市社協分の点訳本を受け入れることとなりました。毎週2日程度(金曜と日曜、木曜と日曜)の開館と変則ではありましたが、本会の拠点が持てた喜びで、冨森さんをはじめ、役員全員に活気がみなぎっていました。当時の受け入れ本は42タイトル116冊でした。
 佐藤ビルの1室ををお借り出来たことについては、当時、点訳ボランティアであった、田嶋さんのお力を忘れてはならないことを書き添えておきます。
 ある日冨森さんの同級生である三島誠一さんがむくどりを訪ねて来たことがあります。互いに、読書が好きな二人です。学生時代は、読書感想文コンクールでは最優秀賞や優秀賞を取ったり、取られたりの友でありました。「ついに、俺たちの図書館が出来たよ」「小さくてもいい。これが、俺たちで運営する図書館や」と冨森さんは6畳二間の部屋の真ん中で、胸を張って自慢していたことが昨日のように、思い出されます。
 平成4年4月12日 「大分市視覚障害者協会」に名称を改めた当時は、蔵書数211冊になりました。
 大分合同新聞社からご寄贈いただいた点字プリンタで印刷しながら畳にひっくり返って眠ってしまったこと。冨森さんの強い希望で、焼き肉パーティーをしたこと。マラソンの打ち上げや身体障がい者スポーツ大会の選手慰労会をしたことなど、今では懐かしい想い出です。
 平成8年4月から10年間、大分県総合社会福祉センターで、夜間点字教室を開催。講座修了者は50人ていどでしょうか。日中、仕事をしている方が多いからか、組織としてまとまることは難しいようでした。この時期、蔵書数738冊という記録があります。

3.金池小学校時代のむくどり文庫
 平成11年6月17日 むくどり文庫は、金池小学校内の余裕教室の1室をお借りして移転開設しました。この時期、蔵書数は1千冊を超えています。
 現在の地に移転するまで、14年間を、小学生の元気な声と、懐かしいチャイムの音を聞きながら過ごしたことになります。休み時間には、突然小さな子が飛び込んで来て、冨森さんに抱きついたり、日曜日に「オセロゲームをしたい」とやって来たり、賑やかな14年間でした。
 この時期から、金池小学校を初め、隣接の小学校の児童が総合学習の中で、視覚障がい者について学ぼうという活動が起こって来ました。むくどり文庫を見学して、点字を触って見たり、テーブルに顔をぶつけてけがをしないようにと、四隅にクッションを両面テープでくっつけてくれたり、マラソンの歌を体育館で全員で合唱してくれたりと、冨森さんはモテモテでした。
 平成12年7月2日に第1回目の運営委員会が開かれ、名実ともに現在に繋がる活動が開始されました。
 当時の活動内容を見ると
   1.点字図書の作成・貸し出し
   2.音訳図書の作成・貸し出し
   3.点訳・音訳ボランティアの育成
   4.プライベートサービスの実施
   5.アイサービスの実施
   6.読書会・ビデオ鑑賞会の実施
   7.視覚障がい者相談事業の実施
となっています。まさしく、現在の活動そのものです。
 「アイサービス」は、冨森さんの銘々です。代読、代筆サービスを行う業務です。
 平成13年5月からは、パートの職員を置くこととなりました。これにより、毎週月〜金・日の開館となりました。
 平成16年 大分市視覚障害者協会設立40周年を迎えたころの蔵書数は2千冊を超えています。

4.むくどり文庫のいま
 平成25年6月15日 むくどり文庫は、ホルトホール大分内に移転開設。「大分市点字図書館むくどり文庫」と名称変更されます。7月20日からむくどり文庫業務開始。蔵書数3600冊を超えるまでになりました。
 同年10月1日には、大分県点字図書館と大分市点字図書館むくどり文庫の館館協力調印式が行われ、今後、両図書館は、相互の長所を活用することで、広く県内外の視覚障がい者の読書環境を中心とした福祉センター的役割を果たすことを確認しました。
 平成26年3月31日現在、むくどり文庫の蔵書数は784タイトル、3727冊となっています。
 今後は、これまでの活動をさらに充実発展させることは言うまでもありませんが、特に、CD雑誌の発行や、音訳図書の制作を推し進めて行くことが近々の課題です。ボランティアさんの協力をいただきながら、大分市に根ざした雑誌を発行したい。そして、地元大分で活躍する作家たちの音訳図書を制作したい。これが、現段階での私が考えるむくどり文庫像です。

 私の手元に、 平成12年7月27日に発行された「むくどりだより第1号」があります。当時、むくどり文庫の館長であった冨森さんは、挨拶のなかで、私たちを叱咤激励するかのように、むくどり文庫の意義を語っています。この文を紹介して「むくどり文庫雑感」を閉じます。


                            挨拶
                                                  館長 富森寿弘

 昨年の6月17日、関係各方面のご理解をいただいて、金池小学校内の余裕教室に活動の拠点を得てから、早1年が経過しました。
 この間、アクセスの便がよくなったことにより、来館者数は従来に比べて格段に増えたものの、蔵書や各種サービスの利用率は頭打ちと言った状況です。
 これは、1週間に2回しか開いていないと言う決定的な不便さにもよりますが、一般社会における文字離れ・読書離れと言う現象が、私達の間にも波及している小差とも言えるでしょう。
 私達は、対行政折衝や各種アンケートなど、折あるごとに情報量の格差是正や活字図書と点字図書の価格差保障などを訴えておりますが、価格差保障を例にとって見ても、実際にある制度や機関の利用率は決して上がっていないのです。これではいくら新しい制度を要望しても、説得力が弱いと言わざるを得ません。
 むくどり文庫には、現在約70名のボランティアが登録しており、約1300冊の蔵書の全てがこうした皆様の手作りによる貴重なものです。ボランティアの皆様は「視覚障がい者の皆様のお役に立ちたい」と言う一途な気持ちで日々点訳活動に励んでおります。このような人たちの気持ちに応えるためにも、また私達の知的好奇心を満足させるためにも、むくどり文庫の利用はぜひとも上げて行かなければなりません。
 先般の総会においてご承認をいただきましたように、このたび正式にむくどり文庫運営委員会を発足いたしました。さっそく先日第1回目の会合を開き、今後の活動計画について話し合いをしました。映画鑑賞会や、新聞雑誌を読む会等肩の凝らないものばかりです。皆様のご協力をよろしくお願いいたします。

(平成27年1月11日「設立60周年記念誌」より)

恩師へ・・・

大分市点字図書館 むくどり文庫  麻生 雅代



「麻生さん、僕たちの仕事を手伝ってくれませんか?」
私と視協との出会いはこの言葉から始まりました。平成14年立春を過ぎた頃でした。
ちょうど点訳者養成講座の終了点訳も佳境になっていました。
最初は1日3時間程度で、パートさんと言われ、軽い気持ちでお受けしたら・・・3時間は最初の3カ月で、後はほとんど朝から夕方まで点字資料と向き合っていました。毎日毎日点訳に明け暮れ、「本当にこれでいいのだろうか?」と自問自答する日もありました。
むくどり文庫での私の仕事を振り返る時、忘れてはいけない事・・・ 恩師との出会いと別れ、そしてたくさんの仲間の支えです。「仲間」とは、すべての視協の行事に関わられている会員さん、ボランティアさんです。
私の性格上、というか、中途半端な事をしないようにとオーバーワーク気味の時もありました。そんな時、恩師は「今できる事からすればいいよ」と気遣ってくれたり、まったく関係のない事や得意の「おやじギャグ」を言って笑わせてくれたり、また同じ失敗をすると時には小言を言われたりと、気がつけば13年の長期にわたってお世話になっています。時の流れを感じます。
その間にマラソン大会やメモリンピック大会、ウォーキング大会と、視協の成長と共に時代の先駆け(?)をお手伝いすることができました。この文を書くにあたって、前回50周年の記念誌をみると、日中はマラソン大会、夜は記念祝賀会と大変だったんだなあと視協の皆さんのチームワークに感激した事が昨日の事のように思い出されます。
また、むくどり文庫も錦町のアパートから金池小学校に、今ではホルトホール大分に居を構えるまでに成長しました。私がお手伝いを始めた金池小学校時代は点字の本は1,500冊程度でしたが、あっという間に2,000冊を超え、事務所兼点字図書館として借りていた小学校の教室1室では点訳本が納まらなくなり、理科準備室の半分を借りて図書館業務を行いました。昨年の7月、ホルトホール開館と同時に移転して1年過ぎた今では3,800冊を超える蔵書数を抱えるまでになりました。
立地の場所や条件、また時代とともに高齢化も進み、図書館の仕事も多岐にわたり、色々な方のニーズにあわせて一緒に考える仕事も増えた様な気がします。
むくどり文庫はこれからも皆さんのニーズにこたえていくため、また私も恩師に言われた「みんなのために」を忘れず、精進していきたいと思います。

(平成27年1月11日「設立60周年記念誌」より)



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