■10.君がためをしからざりし命さへながくもがなと思ひけるかな(050)
(あなたに逢うためなら惜しくないと思っていた命、逢瀬を遂げた今は、生き続けたい。いつまでもあなたと愛し合いたい。)
■オリキャラあり。事件風味ですが、あくまでフレイヴァーだけで。
最後の一曲
1
『シモソノカワ アヤトのDNAが検出されました』
科研からの報告を受けた捜査本部は揺れた。7か月間追ってきた連続殺人事件被疑者が、現在行方不明中の大阪地検の検事であった揺るぎない確証を得て。
「……私にある考えがあります。奈良県警に連絡を取っていただけますか。おそらく、」
下薗川は養父母の元に行ったはずです。
火村はそう口火を切った。
そしてまるであらかじめ用意してあった台詞のように、淡々とその根拠を説明しはじめる。会議場内にいる殆どの人間が耳を傾けざるえないほど、強い語調で。
一言も発せず、火村の推理を咀嚼し終えた船曳警部の口元が是の形を作ると、鋭く反応した鮫山警部補が受話器を引っ掴んだ。
それから先は現場の人間の領分。
1時間もたたないうちに養父母が、生駒の自宅で惨殺死体にて発見されたという報告を、堅いパイプ椅子の上で受けた。
火村は指を口元に寄せ、フィールドワーク中によく見る仕草で思考の淵に沈んだ。
下薗川礼人は6歳で養父母を得て以来、9年しか彼等の元で生活をしていなかったという。
京都の高校を選んだ彼は、四条河原町のマンションで独り暮らしを始めていたのだ。
幼くして実の両親を亡くしていた彼は、ほかに身寄りがなく、そして早成の少年だった。
奈良の進学校を蹴って京都の英都大高等部を選んだ理由は、孤独を求めてのことらしい。
同大学同学部で机を並べていたとはいえ、アリスにとっては住む世界が違う男だという印象しかない。
下薗川は社学の火村と双璧を成す法学の秀才で、あの頃知らぬものは少なかった。滅多に講義ノートを貸さないということでも有名だ。
意志を感じさせる眼差し、端正な風貌。
聖人然とした面差しは、他人を拒絶する冷たさを含んだものだった。
ストレートで司法試験を突破するに至って、ますます世俗離れした存在になったと言われていた。いずれ中央の機関に呼ばれるだろうとも。
同窓会の席で噂をしていたのは、転びまろびつ法曹界に食い込んだ某同輩。
それを聞くまで何も情報を得てなかった自分が、このような場で彼等より濃く、下薗川に接近していることの奇異を改めて感じた。
フィールドワークに呼ばれると、思わぬところで他者の深部に触れてしまうものだ。被害者も加害者も、侵さざるべきプライベートには変わりないので、自然外では口が堅くなる。
車中の雑談で聞いたのだが、森下刑事は飲み会で寡黙な男になってしまわないよう、仕事以外の話題づくりに励んでいるようだ。
『後ろめたい仕事してるわけじゃないんですけどね』と、精勤する彼は苦笑していた。
他人の闇に触れることを生業としているものと同等か、それ以上に慣れてしまった友人は、今できることと自分の体力とを秤にかけて帰る方を選んだらしい。立ち上がって警部に声を掛けに行くと言うので、アリスも同意した。
「もう俺たちの出る幕はない、次呼ばれるまではな。とりあえずお前の家で仮眠を取らせてくれ」
声が掠れぎみなのは、疲労と乾燥で痛んでいるからだろう。
むろん休息をとってもらいたい。やっと捜査本部を覆っていた暗幕が取り払われたのだから。
若い森下刑事などは、被疑者確定の光明を受けて生気を取り戻した目をしている。
なのに君は、ここ数週間ですっかり年をとってしまったみたいだ。
白いジャケットが陰りを帯びているのは、窓の外が真っ黒な暗雲と豪雨に塗り込められているせいなのだろうか。
最初の犠牲者は、ナイフで切り刻まれ背中にフランス語を書き散らされ山林に捨てられた。
以後、無差別に犠牲者を選んでは何の感情も現場に残さず葬ってきた。その犯人が警察と火村の手によって、ようやく裁きの場に引きずり出されるのだ。
記者会見を前に、課長級以上の人間は忙しくなるだろう。
検察にとって最悪の事実が転がり出た午後に似合いの嵐だった。
11月の雨はひどく体を凍えさせる。
二人は交代で風呂に入り早めの夕食を摂った。しかしアルコールには一切手を付けなかった。体は強いスピリッツを欲していたが、そうするには奈良のことが気にかかり過ぎた。
あの下薗川を相手に、あえて言うなら「たった」7か月でここまで漕ぎ着けた臨床犯罪学者は疲労困憊していた。
だが目の色だけはぎらぎらと底光りしている。
アリスにはそれが痛々しい。
天上から罪穢れごとに雷を落としてきた検事の、あり得ざる狂気の沙汰。
彼が否定し、親和し続けてきた闇の門が、下薗川の手で大きく開かれたのではないか。
アリスはその考えが芽吹くと、一気に飲み込まれた。
検事は、法と公正さばかりではなく、悪にも鍛え上げられた人種だ。
だから悪に強い。潰すだけではなく、治めることにも通じている。
そうした裁く側の者でさえ、失墜を止められないと下薗川は嘲笑している。
女性を7人、男を2人、自分の養父母さえも手にかけた。
血のにおいのする手で、手招きするな。
正義など無意味と嘲るな。
火村を連れて行くな。
火村、連れて行かれるな。
俺が何処にだって付き合うから、だから行ったりするな。
心の中で呼びかける。
友人はいつものようにソファで寝息を立てているのに、ここには居ないような心持ちがして。いや、ほんとうにいないではないか。
ソファには黒い絹の手袋だけ抜け殻のようにある。
火村はいない。
心臓の割れる音が喉から迸った。
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