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「い……リス、アリス」
がくがくと体側が揺れる。
「あ……? ひむら……」
おぼつかない焦点をなんとか枕元のシルエットに結んだ。
耳に届く声は間違いなく友人のものだ。
最低の寝起きで体が重い。四肢がちぎれてベッドに沈みそうだ。
「なんや、喉いたい……」
「そりゃそうだ、長いこと唸ってたからな。夜驚症は3つまでに直しとけよ?」
「疲れとるのにすまん。俺は至って手のかからん子やったらしいのに、そんな騒いだのか?」
「ぐずぐず言ってたと思ったら突然爆発した、という感じだ」
「うわ。なんか寝言ゆうてた……?」
躊躇う形で、火村の口が結ばれた。
え、どうしよう。なにか恥ずかしいことを夢の中の俺は並べ立てていた気がする。
表情を窺うにも、闇が濃くて見えやしない。
早うなんか言え。
すべては無意識の産物、俺の与り知らんことや!
ショック対応姿勢をとるアリスの上に、大きなため息が落ちてきた。と同時に無防備な額に軽い痛み。
「リスニング不可能」
デコピンされたらしい。
「なんや、もったいぶってからに。デコピンとは子供か君は」
「馬鹿」
「ばかいうな、ア」
ホ、という言葉は唇の中でかき消された。
キスされていた。
夜明け前、自宅の寝室で十余年来の親友に俺は。
認識して、音がしそうなくらい全身の血が引いて満ちた。
肋骨の中がじわり、熱くなる。
アの形に開いていた歯列は、あっさり舌の侵入を許してしまい、施されるそれは喉が鳴りそうなほど深くて濃い。
肩にかけられていた手に体重が乗って、気が付けば逆の手で喉から顎を撫で上げられている。
気持ち悪いとは正反対の感覚をもたらされ、「嫌」より「何故」に支配される。
なんでなんで、なんできみは……
ちゅっ、という唇ごと唾液を吸い上げられる音に俺は半ば脅えていた。
揶揄うにしては念が入っている。
火村の本気を感じる。
なんの、本気?
「な、なんや、おやすみのキスはいらんぞ」
逃げを打つ台詞も、笑う声も、腰が抜けているので空まわり。
「混ぜっ返すなよ。わかるよな? これが、おやすみのキスなのかどうかぐらい」
友人は重々しく告げた。
「……うそやろ。俺、男やぞ」
「そうだ。同じく男の俺にされたら気持ち悪いと思う。申し訳ないとも、な」
「や、えーと聞きたいところはそこちゃう。君、ゲイなん? あ、これもちゃう」
アリスは混乱していた。
この事実が示す先の整理をしようとして。
火村は俺に、キスして申し訳ないとかいう同じ口で、こってりキスしてきた。
こいつは両手指に余るほど、女がいた過去がある。
あかん。疑問符の嵐……。
「アリス、先に言っていいか」
「その前振りこわいやん。お手柔らかに頼む」
闇になれた目は、火村が少し笑った表情を捉えた。
それはとてもじゃないが、穏やかさからはほど遠く。
「下薗川が逃げるのなら、俺は叩き落としにいく。場合によっちゃあ、領分を、越えるかもしれない」
心臓が凍っているのかと、疑いたくなるような声で火村は言った。
オブザーバーの立場から外れて飛ぶものを落とす、という意味かと聞いたら是だとも。
その答えは現実離れで、アリスには理解できない。
「俺は一介の学者やって、自分で日頃ゆうとるやん。できるわけない」
「追いつめた先、罠にかかるのは向こうかこっちか、わからない。そういう奴を相手にしている。知らないうちに、崖っぷちに立ってるかもしれない」
「君一人で戦ってるわけやない」
そう言うと、無頼を気取るつもりもなければ驕っているわけじゃない、とむしろ謙虚な口調で続けた。
「知らないうちに人を孤立させ、ドン、と付き落とす手管を持っている。アレは」
追いつめられたビルの屋上、
空中にひらめく白いジャケットを想像させられ、脇に嫌な汗をかいた。
火村は下薗川の実力を、それほど高く見積もっているのか。
それが誤算であることを願わずにはおれない。冷静さを欠いているのではないかという疑念も、アリスの中にはあった。
どこかに消えた下薗川を見つめる目は、講義中のような語り口に反し、地獄の業火を呼び寄せているではないか。
駄目や。
そんな目、したらいかん。
「それで君はキスの相手、男でもええって妥協したんか?」
言葉で横っ面をたたくように、わざと莫迦にした口調にした。
釣り人が水面に放ったテグスの先を伺うように、火村のシルエットが揺れる。
昏い双眸が色を変えた。
「違う。これが最後でいいから、キスをしたかったんだ」
アリスはすこし打ちのめされた。
なんていう囁き。
この男が、ひどく繊細な声も出せることを、いま初めて知った。
いよいよもって、喚きたいような衝動に駆られる。
いつにも増して身の危険を感じていること。
なにがあっても下薗川を追い落とすこと。
本気でアリスに惚れているということ。
触れたままの肩に込められる力なんてなくても、火村の本気が何なのかアリスはすっかり理解した。
その上で、これが最後だという君は、俺の気持ちなど聞くこともしないなんて。
「嫌なことに付き合わせたな。忘れてくれ」
素っ気ないくせに、指先が惜しんでいる。
こんな分かりやすい火村は珍しい。
あれほど君が嫌うヒロイズムたっぷりの台詞が、その口から溢れ出て、しかもめちゃめちゃ似合ってるって自覚あるか?
せっかく取った鬼の首なのに全然笑えない。
このまま逃がすものか。おもしろくない冗談を許してはいけない。
忘れないし、忘れさせない。
見返りなどいらないと思っていた。
知ってもらわなくてもいい。
自分だけの為に咲く、秘すべき花なのだと。
もし咲かせて見せる機会が今なら、散ってしまっても諦めがつくというもの。
眠ったまま枯れてしまえるか。
「火村、行くな」
半身を起こして火村の手首を握った。
ぴたり、とベッドサイドから立ち去りかけた腰が留まる。
「俺は寝言で、こう言ったんやないか?」
「……」
「夢の中で、俺は君を呼んだ。下薗川が連れていこうとするから、渡したくなかった」
「……」
「嫉妬したんや。下薗川に、あんまりにも君が惹かれてるから」
微かに洩れ入る外の灯りが、目を眇める火村の表情を教えてくれる。
どうせ夢の話だ、なんて疑うなよ。
俺の言うことを信じろよ?
「これが最後やなんて、縁起でもないこと言うな」
軽く手を引いたら、思いっきりベッドに押し倒された。
男やからって容赦ないな。
「生半可な誘いならやめとけよ?」
最低音域で吹き込まれる脅しに、悔しいけれど心臓が落ち着かない。
この土壇場でまだ疑っている。
冷たい目は、純粋なものしか欲しくないと、アリスを値踏みする。
厭な男だ。
死にそうな顔で『最後でいいから』とか言いやがったくせに。
勝手にキリをつけて、独りで闇の門戸を開くのか。
誰に見送られることもなく。
長年の友情も顧みず、眠らせておいた恋の萌芽も踏んだままで行かせない。
冷たい目は、自分の欲するものが余りに得難いものと知っているから。
同情混じりの恋愛ごっこでは満たされないほど、欲が深い。
だから、
言葉なんか幾ら積んでも勝負しない、
体を差し出しても指も触れないのだ。
インクルージョンだらけなのが人間だろ?
認めろ。
自分の臆病と、目の前の俺を。
こんな疑り深い男に、果たして俺なんかのキスは届くのか。
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