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もうすぐ槙野冬貴の四十九日だと、珀友社から貰ったカレンダーを下ろしてから気が付いた。
トラックのヘッドライトを見ると動悸が高まる、という軽いショック状態から抜け出てからこっち、意識的にあの日のことを頭から追い出していた。
一人で思い出すには、少し重い。 ニュースではもう、下薗川の話題も下火になっていた。いや、皆無だ。
年末年始の交通規制、密になった取り締まりにも関わらず、異形の魚は網に引っかからないままだった。


 
 
作家仲間の忘年会を断った手前、新年会まで顔をださないというわけにはいかなかった。
気の置けない友人の強引な呼び出しに喜んで出かけたアリスは、ほろ酔い気分で帰宅した午前1時過ぎ、見上げた部屋が明るいことに気付き口元を綻ばせる。
案の定、扉を開けるとキャメルの残り香が漂っている。

「なんや、来とったんか」
「おかえり。勝手にやってた」

リビングのソファに起き上がるスウェット姿の上半身は、少し眠そうだ。
火村は律儀にも上掛けをたたんで脇に置く。

「ええよ、いつものことやん」

心地よくぬくもった部屋にほっとする。アリスは冷たいミネラルウォーターのペットボトルを直飲みした。これで少し風呂にでも入ればすっきりする。

「どうしたん? またこっちで何かあったか」

飲み屋臭いコートやジャケットをスタンドハンガーに引っ掛けて、風呂場に向かう。

「まぁな。取りあえずこの種々雑多な匂いを落としてこいよ」

ついてくる火村にはぐらかされた。ちらと火村を一瞥したが、頼んでもないのにアンダーシャツを脱がそうとするので、とりあえず脱衣所から追い出す。



さっぱりしたアリスがソファの下で水を呷る頃、火村が一枚の写真を出した。
夜の港と思しきところ、ハロゲンライトやサーチライトなどに照らし出された、1台のトラック。
その周りに集まる作業服姿の男たちは、ビニールシートを広げている。窓枠が歪んだ車体は、雨天でもないのにぐっしょりと濡れそぼっていた。

「今日の夕方、大阪と和歌山の境界で漁船が水没車を発見した。引き上げが完了するまで1時間もかかったらしい。これがその現場写真」
「よう持ってかえって来れたな。じゃあまだニュースにもなってないか。船曳さんに呼ばれたんか?」
「ああ。4トントラックで、引き上げる側も往生していた」

コールータールのような海から浮上するトラックのイメージに、アリスはある予感を持った。ペットボトルをローテーブルに置いて、火村に体を向けた。

「それで?」
「後ろからは簀巻きにされた男性。連絡がつかないということで、一昨日から会社社長名で捜索願いが出されている人物と思われる。身寄りがないんだとよ」
「難儀やな」
「そうでもない。運転席に犯人が乗っていた。司法解剖の結果待ちだが、船曳さんいわく下薗川に間違いないらしい」
「下薗川が運転手殺して、トラックごと投身自殺した言うんか……?」
「俺の考えでは、順番が少し異なる。もう確かめる術はないが、ひょっとしたら槙野を轢いたのが下薗川ではないかと思う」

淡々と言う友人の顔を、驚きをもって仰ぎ見た。
目が合った彼は、眠たげに目を半ば閉じているが平素と変わらぬ顔だ。血に塗れた槙野を抱えた時の、冷徹に似た執念は鳴りを潜めている。









あの夜救急病院で、槙野のマネージャーや家族、そして船曳警部以下のメンバーの間を、アリスと火村は目の回る忙しさで行き来し、経緯を説明した。
やはり槙野は助からなかった。
我々は、最初で最後のプーランクを心から惜しむことで冥福を祈った。
同時に、火村が確認を求めていた下薗川との関係は薮の中に消えてしまった。


帰りの車中で、火村はポツポツとこぼした。
下薗川のことを調べるうちに、精神的に病んでいたのではないかと疑いを持つようになったが証拠がなかったらしい。警部たちの協力をあおいだが、診察を受けたとされる全ての病院から、そうした情報を得られなかった。
そのために当時下薗川と交流があったと目される槙野の証言が、必要だったという。

『コクトーはどういう質問なんや』
『一番目の殺しのとき、あいつは悪趣味なプレゼントを現場に残した。インターネットで検索をかけたら、一発でコクトーの詩からの引用と分かった、それがラディゲをモデルにしたこともな。最初は耽美趣味のサイコパスを想定していた。だが、これを見て少し考えがかわった。写真にすると見づらいがわかるか?』
『スケッチブックに絵が描かれとるんやな? 下薗川のか』
『高校時代のだ。全部横顔を描いている、モデルの名前だけあったが、卒業生の中にない名前だった。こんなに描き倒しているんだ、誰だか調べてみる価値はあると思ったのさ』
『どうして突き止められた?』
『スケッチブックの絵が教えてくれた、あんまりにも写実的だったからな。森下さんに京都中の高校を当たってもらったら、音楽のおじいちゃん先生が覚えてるとかで、ビンゴ』

槙野は13の時から、フルート奏者でもあるこの高校教師に師事していたという。
そして同じ教室に、下薗川は一年だけ通っていた。


話は更に遡った。
最初の犠牲者は、運送事業会社部長だ。大阪に拠点を持つこの会社は、船舶を使った物資の輸送で栄えた。アジア方面への進出も華々しい。
ここで、25年前のある小さな事故について深く追求しなかったことで、下薗川に辿り着くのが遅れたと火村は苦々しく言った。
部長がまだ一船員だった頃、貨物船の補修中に事故が起こった。船底内部の錆び止めを塗っていた作業員2名が閉じ込められ、海水に満ちた密室で溺死したのだ。
この事故は、なぜ作業終了の報告があったにもかかわらず、船底内部に二人がいたのか謎のままだった。
いや、その報告さえも曖昧な供述しかなく。
その区画を管理していた作業員は確認を怠らなかったはずだし、ベントを開く制御担当も、他の船員の目のあるところで操作をしていた。


誰のミスなのか、当時の関係者は皆語りえなかった。
結局事故死扱いになった葛目明、葛目和子という夫婦の塗装屋が、下薗川の両親だった。
彼は奈良に引き取られて後、正式に縁組みを行われて養父母の名字を貰っていた。



火村は連続殺人犯の、プレーの意識がどういう方向を向いているのか模索していた。
殺人のための殺人に見えるが、行為の根底からほとばしる悪意は、被害者の何かを狙って周到に放たれている、これは予謀殺人だ、と。










「下薗川には起爆装置がついていた。火をつけたのは、最初の犠牲者としか考えられないが、なぜこんなに長い時を経てから暴発したのか……」
「鍵は見つかっていた?」
「たぶん、あれが安全装置だった、というのはある」
「コクトーか?」
「お前までリリカルな発想になってくれるなよ。複合しているが、中心に槙野さんがいたことは間違いない。上手いこと忘れていられたんだろう。甘いお菓子と、高すぎる目標とで」
「逃避行動が極端すぎるわ」
「遂に逃げ切られちまった。ざまあない」

詩。横顔だらけのスケッチ。コクトーがモデルにした相手はラディゲ。

ラディゲとコクトーの関係はいうまでもない。不眠症の二人は、眠れる薬にすがりついていた。

15年前に縁が切れていた二人は、何を隠して行ってしまったのか。薬物の不法入手だけではあるまい。

なぜ下薗川は飛んでしまったのか。


惜しむべくは、槙野にもう少し早く接触できればよかった。
彼だけ、アドレスにも手紙の束にもノートにもメモにもパソコンにも残っていない友人だった。下薗川の関係者のうち誰も知らなかった存在。
槙野の家族も、下薗川の名に何の心当たりもないという。





今日のことは、明日の朝刊で大きく取り上げられるだろう。
鑑識がトラックから、奇跡的に轢逃げの痕跡を見つけられたとしても、どこまで行っても轢逃げ犯の死を報告するしかない。
家族が慈しんだであろう少年時代のことまで、探る手を我々は持たない。
繰り返し横顔をなぞる高校生の下薗川。
白いブーケを手に駆け出した槙野。
これは作家的想像力かもしれないが、この二人には何が取り交わされたものがあったはずだ。




「どこまでいっても虚構やな」

想像の手を伸ばしても引いても、そこにあるのはフィクションだ。事実のスクラップに、眺めるものが意味を与えてしまうに過ぎない。
槙野はきっと、本当に欲しい慰めは生きている誰からも受けられない。ともに嘆き、悲しみを分つ相手も持たなかった彼は、握りしめた薔薇をガーゼなどと共に捨てられた。
事切れる瞬間まで何に心を捉われていたのか、自分達がどれほど想像力を豊かにしても、真実まで永久の空白地帯がある。


追いかけた相手との間にさえ、埋められなかった距離がある。


やりきれなさに捕われて、ソファの座面に載った節高な指を、アリスは自分のそれと絡めた。


「真実を知りたかったか? アリス」
「いや。あえていうなら、薬物の情報をどこで仕入れたか気になるが」
「チッ、あえて聞くな。情報提供者との約束だから言えない」


いまは深い微笑をたたえ、黒い光彩がアリスを映しているが……
下薗川を叩き落とすといったあの目が、まだ焼き付いて離れないのだ。



自分は追いついた。
これからも、そうありたい。



「フィールドワークて、秘密が多くなるな」


考えたこととは別の思いが口をついたが、火村は絡めた指と手を、同意以上の意志を込めて握り返してきた。

 







2007/3/6
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