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それから1か月後。
二人が再会を約束した場所は、T市民会館だった。
二人の目的は、T市内にあるフルート教室のミニ・コンサートだ。
教室のオーナー講師である槙野冬貴に用があった。下薗川の周辺を洗っている中で浮上した、縁のあったもののひとりだという。
検察関係でも、学校絡みでもない彼は、15年前に縁が切れた顔見知りだという。
府警の面々はもう面談をしているが、火村はその時ちょうど仕事が入っていた。
だから今日初めて実物を見ることになる。
写真で見た印象は、『30歳のフルート講師?』と疑いたくなる容貌だったそうだ。
アーティストというよりも、エージェントといった顔つきらしい。『例えるなら、韓国の、徴兵に応じる青年たちを報じたニュースでよく写る風貌』って分かるような分からないような。
捜査の方は、船曳警部達の尽力にも関わらず膠着状態が続いていた。
フリークライミングのように、どんな山も登り続けたら、次の手、次の足、と何らかの取っ掛かりが見つかるはずだが、今回はクラック一つない壁面を眺めている心境らしい。
被疑者が浮かび上がった時の高揚を思い出すと、辛い。
未だに下薗川の行方は掴めていない。府警の強行犯係は連日睡眠時間4時間でかけずり回っているというにもかかわらずだ。火村は単独で動き、繋がりのある人物の証言を取る機会があれば府警に赴いていたようだ。
できれば着いて行きたかったが、年末進行という魔物との決戦の最中で、火村もマンションに立ち寄るのを控えてくれていた。
そうこうしている内にあちらは期末試験期間に入って、教育者としての本業に専念せざるおえなくなり、指一本触れあわず34日間が過ぎたのだ。
指一本。
それどころか、余すところなく触れあった34日前を思い出すと、アリスはたまらなかった。
あの日は白々と夜が明けるまで、火村と情を交わした。抱かれた、というのは抵抗がある。
上も下も考えたことがなく、火村が自分に入れてくれとは言わなかったので、お願いされるままに許した形になる。
とはいえ、体を交えた感触としてはお互い男同士、抱くも抱かれるもない。
とんでもない啜り泣きをあげさせられたとしてもだ。
『ぅ……は……ぁん』
貪りあう口付けだけは、完全にアリスに分が悪かった。
最中に入れられたりしたら、そのうちもっと拙いことを言い出しかねない。
あのキスは合法ドラッグだ。使用場所限定、持ち出し不可……用法用量を守って正しくお使いいただかなければ、困る。
今日は現地集合とした。火村は火村は槙野と対面する前に絶対調べておかなければならないことが残っているとかで、遅れるからだ。
アリスものんびりと赴き、演目が半ばを過ぎる頃会場入りした。
知らない相手だったので花束に添えるカードをどうしようか迷ったが、とりあえず『槙野様へ』とだけ書いて、受付に預ける。
曲の切れ目に、防音扉を押す。発表会が行われている小ホールはほぼ満員だった。
最後列の端に二人分の席を見つけ腰を落ち着けたところで、次の演奏者が舞台に上がる。メンデルスゾーンの清冽で甘い旋律がほとばしった。
へぇ、うまいもんだな。
しかしアリスが明瞭に耳を傾けていられたのは、たった15分だった。
「アリス」
左腕に体温を感じて、意識が浮上する。
閉じていた聴覚も開いて、慎ましやかな拍手がホールに弾けていることを知った。
すぐ隣には、煙草のにおいをまとう前髪。
「よぉ、久しぶり」
「とりあえず講師殿の演奏には間に合ったようだ。見ろよ」
指し示された先を見ると、驚くほど小作りな頭が乗った若い男が舞台に立っている。
ピアニストと軽くチューニングをする彼のまとう衣装は、光沢豊かな黒絹のシャツと、細身の白いスラックス。どこぞの助教授と双子のような衣装ではないか。
遠目で見る限り、武闘派というより頭脳派のエージェント、といったところだ。細面の、光を弾く肌の色をしていた。
そして紡がれる音に、再び驚かされる。
甘い、まるで消えいりそうなため息であり、そして情熱的な歌声のようだ。
正確無比なフィンガーワークは生硬な見た目によく似合っているが、唇からこぼれるあの情緒はいったいどこに仕舞ってあるというのか。
最後を飾るにふさわしい演奏を、火村も私も、黙って聞き入った。
エントランスロビーに流れ出た客の多くは若い女性だった。プログラムに載っている生徒の名が、8割女性ならば当然か。男は家族か、稀にボーイフレンドがちらほら。
ためか、素性の知れない男二人組というのは、目立つために来たような格好になる。
おまけに火村は派手な花束を抱えている。なんで受付に預けて来んのやと指摘すると、本人に近寄る口実さ、とウィンクされた。
おいおい。あらゆる人の視線が全身に突き刺さって恥ずかしいぞ。
まんじりとせず、出演者がハネるのを待っていたら、一番に講師が出て挨拶をはじめた。
「本日はお忙しいところ、私どものささやかなコンサートにお越し頂き、重ねて御礼申し上げます」
槙野は、主宰らしく生き生きとした笑顔で口上を述べている。
見るたび印象が変わる男だ。
火村はそんなことに頓着せず、さっさと喫煙コーナーに向かい煙草に火をつけている。
仕方がないのでロビーを行き交う人の流れを、ぼんやりソファセットから覚える気もなく観察した。
失敗した箇所を笑い飛ばす妙齢の女性と、それを取り巻く友人の華やかな一団。
おしゃまなドレスを着た女の子に暖かな笑顔をむける家族。
フルートケースを大事そうに抱えて、母親と恥ずかしそうに話す少年。
火村と観用樹の影から垣間みる世界は喜びに満ちていて、陰惨な事件の関係者にこれから接触するだなんて、まるで作り話のようだと思った。とうとう客らしき人間がいなくなるまで、火村とソファに身を埋めた。
「行くぞ」
いつもそうだが、出番をあらかじめ知っているかのように火村は動く。
バイオレット系でまとめられた腕の中の花園が、場違いなほど艶っぽい。
黄昏を吸い込んだ薔薇と、カシスみたいな暗紫色の実。ほとんど黒に近い赤紫のカラーは、禍々しい美しさ。
迷いなく近付く男に何か感じるところがあったのか、槙野は撤収作業の輪から外れて火村を出迎えた。
見知らぬ男たちと花束を、慎重に見比べる。
熱烈なファンなのか、よからぬ類いの客なのか判じかねている様子だ。
「槙野冬貴さんですね。初めてお目にかかります、英都大学で教員をしております火村ともうします」
すばらしい演奏でした、と俳優のような長身を折り、そつのない挨拶に添えて花を渡す。
槙野はなにか納得したように頷き、「ありがとうございます」と小さく頭を下げ、我々を見上げた。
「犯罪社会学の先生ですか。楽しんでいただけましたか?」
気障なやつめ、花束に名刺をさしているではないか。
彼は意外に小柄だったが、意志の固そうな目は写真の通りだ。後ろを忙しなく舞台照明屋が行き来している。
「これでもクラシックは好んで聞いてるんですよ。先生のプーランクを聞いて、その良さを思い知ったところです。趣味が偏っているので、視界が開けた思いがしました」
「お褒めに預かり光栄です。そちらの方も、今日の演奏は楽しんでいただけましたか?」
「はい。久しぶりに生の音に触れて刺激を受けました。ご挨拶遅れましたが、有栖川と申します」
「なるほど。お二人のことは船曳さん、でしたね? その方から伺っています。失礼ですが、私としたいのは茶飲み話ではないでしょう? 申し訳ないのですがまた改めておいでいただけますか、今夜は少々疲れてまして」
なるほど、国境線の防人か。
音楽で口を糊している人間にしては、匂いが無機的に過ぎた。
玲瓏な音色を演出した衣装も、手にした禁色の花束も、その白面に冷たく映る。
奇妙に鼎立した我々は、遠いスタッフの視線を誘っていた。主宰の指示を待っているようでもあった。
「わかりました。槙野さん、不粋を承知で最後に一つお伺いしたいのですが」
それすらも火村が狙うところなのか、見えない檻を槙野に降ろす。
これに答えてくれたら何の面倒もかけないといった、捕獲者の顔で。
「どうぞ」
「コクトーをご存じですか?」
「……コクトー、詩人の? はぁ……今はまったく興味ないですが、昔はよう読んだ気ぃします」
彼にとって突拍子もない質問だったのだろう。
切れ味の良かった語調に、人らしい淀みが現れた。
初めて聞く関西アクセントに、アリスは鉱物男への近しさをようやく感じられた。京都育ちのはずなのに、火村と同じ調子の東京言葉だったのが、実はものすごい違和感だったのだ。
火村はそんな変化にも用はないらしい。
丁寧ながら、先を急いで問いを重ねる。
「関連のある質問なので、続けて尋ねるのを許して下さい。下薗川とあなたは、十代の頃に四条河原町で会っていましたね?」
「よう……調べましたね。それがどんな関連が?」
これにはアリスも驚く。聞いてないぞ、そんな情報。
「推測の域を出ませんが、下薗川は、その年代に病に罹っています」
よく通る声を、押し殺すようにして続ける。しかし至近距離で槙野を打ち抜くには十分だった。
「病など、ありもしないことを言わんといてください」
「確かに。医者にも、施設にも記録はない。実際行かなかったのかも知れませんね、この病、いえ『中毒』は日本では違法ですから」
「……火村、そりゃ」
口が開いたが、固有名詞が出るのを寸でで押さえた。
それより、それが一体なんだというのだ?
「アリス、説明は後だ。……槙野さん、」
槙野に峻厳な火村の手が伸びる。
こんな時、手入れの悪い若白髪さえ、臨床犯罪学者の端麗な横顔の線を乱しはしない。
「起爆装置が、あったと思うのです。下薗川は25年前の事故を無意識下に覚えていたと、推測します。そして何か分からずに不安定になっていた。彼は完璧主義であり同時に循環気質の傾向があります、もしかしたら精神的に、正体不明のものに追いつめられても、それを常にねじ伏せてきたのかもしれません」
槙野のガラスの様な透き通った目に、微かな気泡が入る。一瞬、物言いたげに瞳が揺れた。
「私は捜査する立場ではなく、下薗川の行動を考えるのを本分としています。私はこれから起ころうとしている事にしか興味はありません。そして私が敵対するのは、行動を起した者だけです。モラルも、好悪も、優劣も、その対象にはなり得ません。私は捜査権もない一介の研究者ですが、行動を起こした者を必ず叩き落とすのを義務とし、目的は達成したいタイプです」
いっそ穏やかに、火村は脅していた。
少し肩を強張らせていた槙野だが、たった一つの吐息で、自分に絡まる見えない蔦を払った。
「わかりました。少し、撤収が終わるまで待っていただけますか」
これには火村も異論はなかった。
追及の手を退いた助教授は、とりあえず狙ったところに布石を置けて満足らしい。機嫌良く手洗いに向かった。
アリスは臨床犯罪学者ではなく、花束を抱きかかえる細い背中を見送る。
不思議な印象の男だ。
鉱石のようで、冴えた刃物のようで、たおやかな花の樹のよう。
彼は、贈られた花束を並べた向こう側のソファセットに歩き去った。
ひとつひとつ、アシスタントの子と一緒に花を段ボールに入れている。
ふいに、まっすぐ通った背筋が微動だにしなくなった。何か読んでいるのか?
ほどなくして戻ってきた火村に、気になることをそのまま口に乗せる。
「火村、コクトーってなんや? 25年前の事件ってなんや?」
「公衆道徳を愛する俺たちには、特に読む必要のない詩を書いている」
「雑感はいらんわ。会うてたて? しかも、クスリか? 下薗川と彼が。一体いつそんな」
続いたアリスの言葉は、横殴りの風に途切れた。
火村が勢い良く走り出したからだ。
その先には、真っ白いブーケを持ってエントランスを駆け抜ける槙野。
二人は口を開けた自動扉から、禍々しい闇にダイブするように飛び出した。
アリスは遅れて続いた。暗さに目が慣れず、上下前後の感覚がまだ覚束無いのだ。走るというより、闇雲に足を繰り出していた。
黒いジャケットの火村は、まるで彼の影とレースをしているようだ。T字路で迷わず一対のシルエットが右に傾く。
二人に続いて曲り角を曲がったとき、視界が強烈な光に切り裂かれた。
そして鈍い打撃音と、耳を覆いたいほどの轟音。
トラックが脇を通ったと理解すると同時に、見なれた後ろ姿が右の壁に張り付いているのを見た。
「うそやろ……」
そしてアスファルトに投げ出された白いスラックスが、どす黒いものに染まっているのを。
火村はコンクリート壁を横様に叩いて、月を落とすような声で叫んだ。
「槙野さんっ!……ックソ!」
激情に襲われたのは一瞬で、火村は携帯電話に噛み付かんばかりの勢いで会話をはじめた。救急車を呼んでいるが、間に合うのだろうか。
私はネジの切れた人形のようになっていた。
ゆっくりと、打ち捨てられた体に視線を巡らす。
オイルのように、夜目に黒く映る液体がゆっくりとアスファルトに広がってゆくのが分かる。
血だ。
一体どれほど流れている。
さっきまであんなふうに話をしていた人間が死にゆく様を見るのは、1本1本針を飲まされるような心地がする。
「船曳警部ですか、火村です。参考人の槙野冬貴がトラックに跳ねられ重体です……、ええ逃走しました。場所は……」
こんな日に限って月光は眩しいくらいだ。
たった今起きた惨劇を隠しもしない。
火村が駆け寄り、不自然に体を折った槙野を抱える。
「槙野さん! 槙野さん、槙野さん……」
ひしゃげたブーケ、フルートを支えた細い指、握りしめられた薔薇。
それは、赤が滴る白い薔薇。
忘れられないだろう。
先々この花を見るたびに、えもいわれぬような喪失感が呼び覚まされる。
なぜ彼は飛び出していったのだろう。
トラックの前に身を躍らせてしまうほど慌てて。
「アリス、それを取ってくれ」
火村が2メートル先を指差す。
道の真ん中に転がるブーケを拾い上げると、密に寄せられた薔薇の間に予想したものが埋まっているのを見つけた。
槙野をそっと横たえた火村は、血にぬれたジャケットで彼の上半身を覆い隠した。正直、配慮に感謝した。その死に顔が惨たらしい表情であることは、闇の中でも微かに見て取れたので。
「火村これ見ろ」
「……やっぱり」
かすかな外灯を頼りに摘んだものをかざした。
『S to M』 とサインの入ったカード。
「筆跡鑑定にかけるまでもない。悠々と来て帰ったわけか」
「おい、ちょっと待て。その納得はなんや、着いていかれへん……お前まさかこのことを想定しとったとかゆうたら殴るぞ。なぜ府警は槙野さんマークしてなかったんや」
おもわず火村を責める口調になって、しまったと思ったが取り消すことなどできはしない。だがそれを受け止めた火村は、筋合いのない叱責に痛痒を感じた様子もなく、静かに、アリスを見返した。
「なぜか、それは今夜話す用意があった。俺だって何でもお見通しじゃない。うっすらと見えていたものが、拾い上げる前に半分消えちまった」
きっと最後の一曲のとき送り主はホールにいた。
その意味も、『追いかけた』槙野の気持ちも、今はまだ本当のことはわからない。
閑寂としたホール周辺は、野次馬が通りかからなかったのがせめてもの救いだった。
サイレンがこの闇を叩き割るまで、火村とアリスは傍らに立ち尽くした。槙野の痛ましい眠りを守護するように。
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