6. 「お前で熱くなりたい」と頭の沸いたことを言う火村を浴室に叩き込み、解凍完了するまで出てくるなと指差した午前1時40分。 窮屈なネクタイを解いたら気が抜けて、靴下も脱がないでベッドに倒れ込んだ。そこがどんな体位でもどんとこいのダブルベッドなのは、ラブホだからだ。 そう。躊躇いをかなぐり捨てるには、おあつらえ向きの。 壁に設えられた大きな嵌め込み窓から、バスタブに沈む火村が見えた。 湯が勢いよく注がれる音よりも、少し高めの鼻歌が切れ切れに耳に届く。それは日本でもとても有名なナンバーだ。 「……takes thougt and…………make a poem……」 は、ん。こんな歌口づさんでからに。 俺を高みへ連れていけーーーいかせてくれってアピールか? アリスの口元が緩むのは、滅多に聞けない歌声のせいか、甘やかな歌詞のためか。 ラブソングだなんて、酔い過ぎじゃないか君。 「Fly me to the moon, And let me play among the stars……」 (俺を月へ連れていきな、そして星たちに取り巻かれて遊ぶんだ) 心地よい旋律に誘われ、アリスも声を重ねる。 「……In other words:Hold my hand! In other words……」 (言い換えるなら、手を繋いで、ってこと。と、いうか) 気分良く歌っていると、浴室の火村が何の前触れもなくアリスに視線を傾けたので、ぴしゃりと口を結んだ。こういう他愛もないことほど、妙に照れくさい。 1曲歌い終わらないうちに解凍が完了したらしく、バスローブを纏った長身が部屋に戻ってきた。 「どうしてやめる?」 地獄耳め。 「……歌詞、忘れた」 「すぐに思い出すさ 」 横になったアリスを、覗き込むように火村は言った。 前髪から滴る露に目を閉じたら、後を追うように額がこつんと合わさって、唇が触れあって。 貪らない奪わない、決して深くを暴かない優しいキスは、快楽ではなく安堵を受け渡す形になる。 しっとりと舌を重ねて、互いの体温を味わった。 それは言葉をゆっくりと紡ぐ速度に似て。 歌詞を忘れたというのは、あまりにもとぼけ過ぎだったか。歌うかわりに、唇で答えてしまっている。 『In other words:Darling kiss me!』 (というか キスして、ってこと) 「ドリス・デイのバージョンを歌ってたろ」 「ああ。アリスも?」 「ん。ていうか、君が貸してくれたバージョンしか知らんし」 これ以上深くなる前に、とキスから抜け出してシャワーを浴びにいく。 酒と脂の匂いを落として出たところで、火村に待ちかねたとばかりに脱衣所で全身拭き取られ、かっさらうようにベッドへ連行された。 あの夜みたいに激しい快楽が訪れるのかと一瞬背中が固まったが、押し倒す腕は思いのほか優しかった。 枕に半乾きの髪を委ね、さっきの続きのような、スキルを試しあわない穏やかなキスを交わす。 アリスの方がじれったくなるほどだ。でも舌先を触れあわせるうち、深いところで納得した。 そう、二人はこれから逃げ場がないところで抱き合うのだから。 「ーーーーーん……」 前回は『一夜限り』と、時間で切った。だから性急に事が運ばれたとすると、今夜ひどく丁寧なキスになったことにも頷ける。 気持ち的には、これが最初の夜になるのだろう。 そんな扱いは慣れなくて、こちらからも仕掛けるべしと、すべらかな素肌を愉しむように、手のひらで脇腹から肩甲骨をスルリ辿るように背中を抱いた。 びくん、と敏感な反応を返されて嬉しい。 好きの重みが、自分と同じくらいなのが嬉しい。 アリスも、左の頬に手を添えられているだけなのに頭蓋全体がじんじんと快感を得ていたから。 「アリス、いいのか?」 「……なにがや」 鼻先に、まぶたに、食むような軽いキスを落として火村がつぶやく。 充実してゆく雄同士が触れあって、腰がざわついている。分かりきった欲望が目の前にあって、語ることは何もないではないか。 「ここでしたい」 乾いた指が、まだ噤んだままの最奥をやんわりつつく。 なるほどと冷静に思う一方、それだけでざわっと鳥肌が立った。目敏く感じ取った火村が指を引っ込めて、分かってるよと言いたげに苦笑する。 違うんよ? 酔った勢いで、壊れることを望んで、侵入を許しただけではない。 確かにあの時、恋ではなかった。 けれど、もっと深い場所で君になにもかも投げうってた。 それは二人が抱えた闇の隣にある、『裏切りのない部屋』のような気がしてならない。 アリスは自らゆっくりと両脚を割って、火村を引き寄せた。 照れを隠したがるぞんざいな語彙は不思議と鳴りを潜め、いっそ静寂と例えてもいいほど肉欲を認める気持ちが調っていて。 「ええよ。おいで」 瞬間、息もつかせぬ力で抱きしめられた。 「夢かよこれ……触ってるだけでイけそう」 耳を打つ切なげな囁きに、火村のほうがより重篤なことに気付かされる。 そういえば初めてのキスで硬直していた。 繋がる時施された目隠しは、アリスに恋情を知られないための処置だったかもしれない。 どれほどの時間を、自分の気持ちと向き合って過ごしたのだろう。 たった一夜だけ、なんていうのは何もないより酷い誘惑だ。 今のアリスには、事後の飢餓感がいかほどだったかよく理解できる。 それについて、やっぱり謝ることなどできなくて。 天にかかる月が欠けたからといって、真円になるよう盆を継ぎ足すみたいなものだ。 何時でも月が満ちていないように、心だって欠けることの方が多い。暗闇で見失う時もある。 それでも、そこに細くとも確かな希望が生まれて、徐々に本来の姿を取り戻し穏やかに輝く。 月より速く、気持ちは満ちることができるから。 (In other words:Please be true!) 「っていうか、正直になれや」 原文に反して命令口調なのは、多少照れが混じるからである。ご容赦あれ。 それが歌の続きであることを飲み込んだらしい火村は、ようやく彼らしくにやりとした。 「心のままに動いていいと?」 「触るだけで、満足か? 火村は」 「いや。おまえン中入りたいね。もう癖になってる」 「アホ」 「ムードねぇなぁ。もうちょっと言い様があるだろ? In other words……?」 鳥肌が立ちそうなほど美しい発音で、先を促されて、 「……、ってこと」 ジャパニーズ・イングリッシュを披露するのは業腹なので、こちらは美しい日本語を選んだ。 謎掛けじみた言葉遊びなど、二人の間ではよくやることで。 分かりきった答えなど、軽く微笑んで空欄に当てはめればいい。 原典をそのまま訳した『愛してる』のひとこと。 思いのほか、火村への威力は大きくーーー言葉を失った彼に、アリスは胸を詰まらせた。 この夜の情交は、緩慢な毒を飲まされたかのように、ずっと肌が蕩けて痺れっぱなしだった。 「あ、は…ッ」 卑猥さでは前の方がずっと上なのに、火村と深いところでからだを噛み合わせただけで、おこりのよう全身がひどく震えて止まらず。 「ーーー…ひ…む…ッ…あーーー…!」 「ん…イイぜ? こんなん、ッ…ねぇってくらい」 自分の肩に涙を擦り付けるように首をよじって、歓喜の喘ぎを飽きもせず零し続けた。 「よもや、原稿データやポジを持ったままのアホはおらんな? 酔い潰れて無くしたド阿呆が、過去におらんでもないからなぁ。よっしゃ。ほな来月はみんな元気で前倒し進行、よろしゅうに。乾杯!」 あまり笑えない課長の音頭の後、其処此処で「おつかれ」の声が上がる。 お盆の進行を前に、ホテルのビアガーデンで鋭気を養うのが営業4課の恒例行事だった。 梅雨が去り、突き抜けるような夕空を見せる屋上の風景は初夏の香りに満ちている。 上司と仕事上の打ち明け話をするもの、同僚と『ここだけの話』に興じるもの、後輩の相談にエラソウかつ情をもって語り入るもの。 全員ワイシャツの第一ボタンを外しているのが、まるで宴会のルールのようでおかしい。 ただひとり、伊達男のスタイルを崩さないのはアリス直属の上司だ。 彼はなぜか、アリスの目の前の席で黒生を煽っていた。 「有栖川は、仕事やってて楽しいか?」 質問まで黒い。 「楽しいからする、って仕事はないんやないですか」 枝豆を含みながら、まじめに答える気のないアリスは玉虫色の回答を考えた。 「は。結局は腰掛けのつもりなんだろ? わかってんだぜ」 妙に自信のある態度で言うではないか。もし作家稼業を始められるなら辞めるだろうから、腰掛けといわれれば確かにその通りだが、なぜだ。 「なんですその根拠は」 「おまえさ、珀友社ミステリ大賞の候補に残ったことがあるだろ。去年か?」 この瞬間、ローラーか刷毛でさーっと顔面の色を変えられたに違いない。白か青に。 書いていることは課内の誰にも漏らしたことがない。なぜだ、なぜだと問う前に、あちらから答えを提示してくれた。 「あぁ? 情報管理室に小説オタクみたいなのがいて、有栖川有栖っていう変わった名前の人間が審査に残ってるって教えてくれたんだよ。そんな名前、二人といねぇし」 「どうして去年のことなんか、今頃いうんです?」 「今年でお前と組んで2年目だ。最初の一年目で音を上げなかったのに、感心したよ」 「どういう意味です」 「そのまんまだ。でも、デビューしちまったら辞めるんだろ、会社員」 なるほど。そういうことか。 それにしても、やっぱり物言いがムカつく……。 握りこぶしを固めたところで、 「そういうの寂しいな。営業を担ってって欲しいのによ」 と、ありえない言葉をかけられて、返答に窮す。 寂しい? 担う? 期待でもかけてたのか。いや、そんなの受け取れないし。 ていうかアンタ、その割に部下にひどい仕打ちし続けてないか。 「それはどうも」 今日までのムカムカがぶわっと蘇って、生ビールのおかわりを装い席を立つ。 ついでに、野村から離れた場所に席を移し、気の置けない同僚と飲むことにした。 「アリスの苦行も、今月限りだな」 そう含み笑いされる理由にピンとこず、小首を傾げていると、アンチ野村派が寄り集まってきて教えてくれた。 野村は父親の介護の為に、とりあえず1年休職することが決まったらしい。 『仕事だけには、誠実だったからなぁ』と、嫌み半分同僚が言っていた。 そんな情報が入った後で見る彼の姿は、季節を惜しむような、寂寥感に満ちているようにも見えた。 父親はまだ若く、定年前だという。脳疾患か、癌か。 『腰掛けのつもりなんだろ?』の一言がリフレインする。 他人に対して、まず批判からしか入っていけない上司を哀れんだのは、これが最初で最後だった。 「カラオケは?」と宮本に袖を引かれたが、約束があると小さな嘘をついて1次会で抜け出す。 誰かと会う約束なんかはない。 電話ボックスのドアを押す。 「今かまんかった?……うん、そう………いまからや。もちろん……ああ、ああ。わかっとるって……君こそレポートなんぞ片づけときや。……中で待ってて」 2週間前手を絡めたきりの、恋人に逢いたかった。 花冷えの残る頃始まった恋は、恋になるまで勘違いやすれ違いの連続で。 切っ掛けは1本の電話。 今みたいに、四条河原町を目指す赤い列車に揺られていた。 思いを遂げるという意味さえ深く知らず、許されるのを知って随分ひどいことをしでかしたものだ。 アリスはまだ自問自答し、確かめ続けていた。 《愛してる》の言葉で、熱く甘く自由を奪われて。 体を重ねる関係になっても、本質的な繋がりを見誤ってはいないはずだ、と。 時々こんなふうに思う。 粉雪が頬にキスする速さで落ちてしまう恋もあるけれど、雪上の足跡を俯瞰して軌跡を知るように、視点を変えてそれだと気付く恋もある。 アリスの場合は後者だ。 何度も行きつ戻りつして、それでも火村に辿り着く道を、ずっと選び続けていた。 というのは、あまりに甘すぎる視点? 幾億の分岐点にぶつかり、核心から遠ざかるように歩いているときでさえ、俯瞰すれば1つの通過点にすぎず。 よくここまで来れたものだと、ため息が出る。 どうやって辿り着いたのか自分ではわからない。 ただ、小説を書き続けていた。 暗い繭の中で光を夢見てる私の耳に、彼の声が一番長い間、一番近くで聞こえていた。 彼にとっても、私の存在とはそうであってほしい。 私の小説はまだ道の途中だ。 何度も行きつ戻りつ、ままならない道行きだけど、音を上げず歩き続けたい。 自ら投げ出さない限り、辿り着くべき場所は見つかると信じて。 無明の闇の中、たった1つしかない命を運んでゆく。 偶然を、必然に近付けてゆくその過程と結実。 それを人は運命と呼ぶのかもしれない。 列車は、ヘッドライトで夜を裂くように疾走した。 |
完結。最後までお読み頂きまして、本当に本当にありがとうございました。(『Fly me to the moon』:物語中に出てきたくだりの訳はスイ好みの言葉を当ててるので、御注意を。妄想意訳。)junemama様、これでご納得いただけましたでしょうか、ど、どきどき。 |