3.




林のデータの修復は急を要するものだった。
彼は週明けすぐのゼミでレポーターを勤めるのだが、その時レジュメに入れるはずだったデータが含まれているからだ。
今日は金曜日。
公休日、大学に出てくるのはちょっと避けたい。
夕方、もう帰宅すると言う助手の桑原から鍵をもらって、今夜そこだけでも絶対回復させるんだと覚悟を決めた。

「鍵は9時までに警備室に返しておけば大丈夫だから」

軽いスプリングコートを羽織った桑原はそう言うと、椅子に座って見上げている俺達におもむろに身を寄せた。

「でもね10時まで北階段脇の非常口は開いてるんだよね。ここに警備員が見回りにくる時間は12時の1回だけ。あ、これ秘密だよ二人とも」
「なんでそない泊まりこむ事を勧めるんですか」
「だって終わらないだろう? その量」
「まさか。今夜全部やるつもりは無いですよ。なぁ林君」

ちらり、と隣席を横目で見やると、林はウンともスンとも言わずに頷いた。
今日はレジュメに必要な箇所だけ出来ればいいとか思っているんだろう。俺は今夜この作業が終わればひとまずお役御免だが、彼はレジュメを家で仕上げなければならない。
土日を使えば、一見余裕を持って仕上げに入れるのではと思うが、矢野との会話を漏れ聞くところ休日はバイトで忙しいらしい。時間の猶予はさほどない、と推測しうる。

「ま、二人とも無理しないでね。林君」
「はい?」
「あんまり森君をいじめてやるなよ?」
「いじめてませんよ」
「仲良くね」

そんな事を言われるのは幼稚園児か小学生以来ではなかろうか。

「……桑原さんこそ俺をいじめてません?」

笑顔でのたまう桑原に、実に嫌そうな顔で林は応じた。




二人分の手が動く音しかしない部屋は、思いのほか居心地が悪くなかった。
小一時間ほど無言で作業していると、手と目を動かす機械的な作業に意識が飽きてきて、思考が自分の内面へと滑り落ちて行く。


トイレに立つついでに、母に電話を入れておいたことから思考が引き出されてゆく。夕飯は必要ないと伝えるためだ。
今夜遅くなると母に電話を入れる習慣がついたのは、ここ2〜3年の事だった。母一人子一人で回してきた小さな家庭だ。
仲がいい方だとは思うけれど、十代の頃は理由のつけられない閉塞感から、よく連絡もなしに遅くまで外を出歩いていた。
悪い遊びをしていた訳ではなく、年上の友人と缶ジュース片手に公園で話し込むのに夢中になっていた。
家庭や子供時代からの友達だけで築かれていた世界が、ゆで卵の殻のようにポロリポロリと剥け、とっくに馴染んだと思っていたはずの現実というものが、急に色や温度を変えて直接肌身にぶつかりだしたのだ。


その新規な感触に『これは何?これは?』と幼児返りしたみたいになって、夜歩く習慣がついてしまった。
あの頃、語りあうには夜しか時間がなかった。
商売と付き合いで忙しかった母は、放任主義を自称し息子の行動を黙認していた。
それをいいことに、ある日ついに真夜中まで家に戻らなかったら、さすがの放任主義者もキレて大変な目にあった。
フラフラするうちに国立どころか、希望する関関英立ランクからもこけそうな成績に落ち込んだことも、自分に危機感を抱かせた。


これは不味いと反省の意味も込めて、夜歩きの代わりに本を読みはじめた高2の秋。
海外のクライムノベルが気に入って、犯罪学の専門書まで読み漁るうちに英都の社学に潜り込む事に成功し、こんなところまで来てしまった。
『なぜなに』の衝動も、無闇なものから道筋のあるものになり。
母に電話を入れるのは、かつての無軌道極まりない子供ではないんだぞと、脛かじりなりの筋を通すためである。



制限時間付きなので、おやつも口にせず突っ走ってきたせいか、7時を回る頃には空腹がピークに達しようとしていた。

「さっきから腹の虫がうるさいぞ。なんか食って黙らせないのか」

ちらりと目線だけこちらによこした林が、手を止めずに言う。
自分の腹が絶えず鳴っているのはわかってる。ずっと聞こえてたのだろうか、それにしても大きなお世話だ。

「俺かて切実にそうしたいところだが食いもんがない」
「じゃあしょうがないな」
「冷たい。せつない。はぁ……美味いラーメンと餃子食いたい。トンカツでもええ、天津飯でもええわ。今どれかを差し出されたら俺は確実について行く」
「ちょっと静かにしてくれ。あ、間違えたじゃないか」
「そんなん俺のせいにするなよ」
「横でわぁわぁ言われたら気が散るだろ」
「やからー、俺のせいやないっちゅうに」

今まで溜め込んだものが、気泡のようにポコンとポコンと浮き上がって口から出てゆく。
内容はともかく会話が成立している事に感動した。

「もう、黙っててくれよ」
「はいはい」
「返事は1回」
「指図すんなっての」
「指図じゃない……確かに言い方が悪かったところがあるかもしれないがな」
「ふぅん。言い方悪いんはわかっとるんや」
「お互い様だろ。そっちこそ、口の悪さを自覚してほしいね」
「ほんま、自覚ないように見える?」

言いながら、にっこり笑ったのはわざとだ。
珍しく林が言葉に詰まっている。その隙にぱっとモニタに向き直った。手を止めず、もう一押し。

「もうすぐ今日の分は終わるから。したら王将でメシ食うていかん? 今の時間やったらダチがバイトでおんねん。餃子オマケしてくれるかも」

ちょっとさもしいことを言ったので、またイヤミが飛んでくるかなと思ったが、それはなく。
横目で伺うと、林は戸惑ったように表情を波打たせていたので、ちょっとびっくりした。
眉間がすこし顰められているのは、額の奥がせわしく働いている証拠である。いつも見せる、辺りをなぎ払うような眼光の鋭さはない。
俺を扱いかねて困っているのだ、たぶん。
珍しく優勢になったせいかつい気が緩んで、彼をまじまじと見ていたらしい。背もたれに体を預ける林が一瞬目を伏せたから、それに気づく。

「お前ってさ、顔の割に剛胆と言うか強引だよな」
「さては、童顔やからって舐めとったな」

仕上がったので保存をし、メールで林に送るべくイントラネットの画面を開く。

「最初に舐めたのはそっちだ」
「は?」
「覚えてないのか、森樹。俺のフルネームをネタに、この研究室の数人でバカうけしてただろう」
「は? なんやそれ?」
「思い出せないなら力づくで思い出させてやっても良いんだが?」
「やめてっ。きみ武道経験者やろっ。暴力ふるったらあかんのやで!」

樹はキャスター付き椅子のポテンシャルをフルに引き出して、半分わざとに、おもいきり遠くへ滑って逃げた、つもりだった。

「わっ!」

床を這うケーブルカバーにキャスターの1つが突っかかって、派手に転ぶまでは。
床上1センチの段差を甘く見てはいけない。わずかな読み違えで、人はかくも容易く転がる。
ついでに助教授が積み上げていた本の塔を崩した。

「いてあてうててて」
「なにやってるんだ、馬鹿ものめ」

呆れた口調と裏腹に、樹の頭上へ降り注いだ本を取り払う手は早かった。
それに一瞬感動しかけたが、林は樹にかまわず本の塔の復元にとりかかっている。
ああそういうことですか……いや、ある意味頼りになるけどさ。

「本当に殴る訳ないだろう。耳にタコができるくらい、思い出すまで言ってやるかもしれないけど」

ばしっと積み上げた塔のてっぺんを手のひらで叩く。
確執を持つと粘着になる質なのだろう。きっとA型だ。俺もA型だからよくわかる。

「きみの目は本気の目やった。おかげで思い出したわ、リンリンタローって笑うてしまった事をな。去年の夏に……」
「音読みするな!」
「ギャッ! 新聞の束を投げつけるドアホがおるかっ」

A型はだいたいにおいて慎重で温和だが、衝動的にヒステリーを催す。
証明するかのように、半月分の読売新聞が飛んできた。当たると痛いので慌てて転がりながら立ち上がる。

「好き好んで妙ちきりんな名前になんじゃない。おまえみたいなちゃらい坊ちゃんにはわかるめぇよ。この名前と女顔のせいで『りんりん』などと嬉しくないニックネームをつけられたり、名字は何処までですかとか馬鹿な質問をされたり。おい、笑うな」
「ひ、ひょっとしてそんなこと根に持っとったんか思たらなんや、情けのうて。俺、なんで君に嫌われとんねんかわからへんかった」
「そうか。じゃあわかったんだな」
「うん。くだらんくてびっくりした。おい、ムッとするなよ? でも、俺も『モリキさん下の名前は何ですか?』て、よう言われたん思い出したわ。ごめん。林はいややねんなぁ、ネタにされるの」
「お前の事は……それほどでもないから喜べ」

すこし黙った後、林は傲然とそんなことを言った。

「それどういう日本語やねん。さっぱり文脈わからへんで。それほどでもないって何にかかってんのや」
「王将行くんだろ、さあ、とっとと送信してくれよ」

これが答えだ、と言わんばかりに言い捨てて、林はずかずかと席に戻っていった。
さっきの林の発言の中に、訂正したい箇所があったが、とりあえず今は作業を済ませる事を優先させる。

「女顔とは思わへんけど。凛々しい言われるんちゃうん? 自分でもイケてる思てんちゃうん?」
「そのねばっこい大阪弁やめろ」

今度は足でふくらはぎを小突かれた。叩き癖があるのだろうか、危険な男だ。


中途半端に入力していたパスワードを入れてエンターを押すと、見慣れないカラー設定のブラウザが立ち上がる。
おかしい、枠色はブルーの設定のはずなのに。
なぜかシルバーグレィに変更されている。スクロールして、気づいた。
なぜか火村助教授のページにログインしてしまったらしい。

「まだメールがこないんだが」
「やや、ちょちょ、まってや」

原因はわからないが、IDがダブっているなら問題だし、システム内のトラブルならどこまで被害が及んでいるのかわからないからメールも心配で送れないし。
しかも、あと10分で9時になろうとしていることに、今更気づいた。

「おい、早くしないとやばいぜ」
気づいた林がせっつくもんだから、ログオフのつもりが新着メールのアイコンをクリックしてしまった。

「ぐは」

差出人アリス、という女名にどぎまぎする。
しまった。侵入がばれる。わざとじゃないんです。
できるものなら開けなかった事にしたい。
せめてプライベートを窃視するような下品な真似をすまいと、あわててバツ印をクリックした。

「おい、大丈夫か」
「あ、ああ。ちょっとシステムの調子が変やわ」
「ちゃんと動作してたじゃないか。アリスさんて人からのメールも開く事が出来てただろ」
「読んだんかい!」
「中まで見てないから安心しろ。ほれ、データは?」

ええとたしか、当初の望みとしては『ありがとう』と感謝されるため、圧倒的な知識と経験で林の度肝を抜くはずだったのだが。
それどころか使役されているではないか。
下心なんて持った自分が悪かったのだと思い、言われるままにログインし直した。
『3let0』がパスワードだ。
let30という名前でアマチュアバンドを組んでいたので、簡単なもじりを施した。意味はない。


このPWがどうして火村助教授のページに認証されたのか。
そしてアリスという名前にも引っかかる。


女性だと思い込むところだったが、メールの送り主が有栖川有栖氏である可能性は高い。先日親しげに買い物なぞしていたではないか。
ウン年ぶりに会った友人を、ウインドウショッピングに巻き込めるのは女性くらいのものである。
男は気に入りの喫茶店でコーヒーを飲みながら近況を語らったりと、割と静的である。したがって、あれは頻繁に顔を合わせている証拠とみなすことができる。

「でるぞ」
「おう」

どんなミスタッチが認証に繋がったのか、わからないままドアを閉めた。








ゴールデンウィークを前にした学内は、長期休暇の過ごし方をあれやこれやと口にする学生たちの会話で空気が弾んでいる。
朝露で洗ったような緑がまぶしい。
データ修復の旅も終わりに近づいていた。


あの日うっかり開いてしまった助教授宛のメールの件は、当然ながら不問である。
助教授はモニタの前で少しばかり首を傾げていたようだが、システムに関しては門外漢の彼である。いきなり原因究明など始める訳もなく。
面倒くさかったのか、情シスに問い合わせすらしていなかった。


今日は助手の桑原、二人の先輩である柳瀬玲がいた。図書館にろう城中の矢野の席に座って、今日も資料をめくる。
単調さに寝そうになるので、なるだけ隣人に話かけるようにしていた。

「なぁ、林君」
「なんだ」
「はやしクンちゅうのも他人行儀やから、林って呼んでええ?」
「ご自由に」
「ホンマはリンって呼びたいねんけど、あかんか」
「それもご自由に。俺はフルネームでなけりゃ寛大なんだ」

心底興味無さげにキィを打っている。話し掛けられても愛想のひとつもない。そんな顔でも額は秀逸、顎のとんがりは優雅だ。
これであの口の悪さがなければ、とも思うが、毒っけがないと物足りない気もする。
この感受性、なにかが末期だ。

「ありゃ」

にてちんなとyちのち……

よそ見していたら、画面になぞの文字の羅列があるではないか。
何の事はない。変えた覚えはないが、かな入力になっているせいだった。

「誰やねんもう、かな入力のままや」

今時おんねんやな、と呟いてると

「さっきMO開くのに火村センセがそこ使ってたわよ。センセってかなの人なのよね。ワープロ時代の名残ですって」

柳瀬女史が入れたての紅茶をサーブしてながら、回答してくれた。
わお、今日はマリアージュの『ボレロ』だ。華やいだ芳香が鼻腔をくすぐる。

「言っちゃなんですけど、世代を感じますね」
「火村先生ってあれで妙に懐古趣味よね。コンサバなのかしらん」

本人がいないから言いたい放題だ。
桜貝色に彩られた指先が、テンキーではなくキィボードの3を押す。
モニタに『あ』の文字。

「……あ……!」

閃光のように、ある考えが体を貫いた。

「なに? どうしたのよ森君」

かな入力のモードのまま、自分のイントラのPWを綴ってみる。
『ありいかわ』

だいたい思った通りの並びになったが、まだ完全ではない。

(ミスタッチしたから認証された。)
(かな入力だと『い』と『す』は隣り合っている。)

それを考慮して、ある意図を込めて修正する。
『ありすかわ』

うわぁ……。
認証キィ、いわゆるPWは半角英数のみで作れと言われている。
かな入力ユーザが作ると素で暗号化できる。
それをいいことに、さくっと明文している。
ローマ字入力が当たり前で、ほぼブラインドタッチできる俺の世代は絶対気付かない。毎日触れていても、キィなんかほとんど見ない。だから十中八九安全。
でも気付いちゃったじゃんよ、俺が。いいのか助教授、そんな単純で。

「森君、なに赤くなってるのよ?」

柳瀬女史に背中を突かれて我に帰る。

「ありすかわ? これがどうしたの」
「いや、かな入力のままだったんだぁ。いやだなぁ、スペルミスだ」
「3lrt0の方が意味通んないわよ。なにか面白い事やったかったんでしょ?」

なんでもないです、と10回くらい繰り返し言うまで、彼女の追求の手は緩まなかった。


言えるものか。
3let0が3lrt0とミスタッチしたばっかりに、師のトップシークレットを言い逃れを許さないところまで暴き、突き止めてしまったなどと。
昨日すでに布石は置かれていた。日没直前の、あれは堂島の路上だったか。
我が師のものとおぼしきベンツの車中で、見間違うはずのない白ジャケットと見覚えのある薄紫色のシャツの人物が、ありえないほど接近していたなどと。
さらに時を遡行して、証拠をあげつらっても良い。
あの夜、間違えて開いた助教授宛のメール。
一瞬目に飛び込んだ件名が『会いにこい』だった、などと。








ただの見間違いかもしれないが、助教授の姿を見るたび体中がむずむずしてくるので、ゴールデンウィ−ク明けにPWを変えてみた。
もう2度と間違ってログインしないように。盗み見の趣味はないし、あれは心臓に悪い。


さりとて日々これ好日。林はさいきんマトモに目を合わせて口をきいてくれるようになった。昼もたまに一緒だ。学食のうどんを食べながらさぬきうどんの旨さを語っている林は、善良で親しみやすい気の良いふつうのあんちゃんだ。


わが研究室のツートップが入会している学会が、隔月毎に発行している業界誌というものがある。8ページくらいの小さな新聞だ。
今日はそれが回覧された。
ほかの研究室はどうしているか知らないが、うちは何でも回し読みする主義らしい。
今回は3面あたりに付箋がちょんとついていたので、どれどれとめくる。降旗教授が小さなコラムを寄稿していたので、研究室のトップに対する礼儀を払うべくちゃんと読む。最後のセンテンスに入ったところで、甲高い電子音が真横で鳴った。


響いた『first love』はすぐに途絶えた。見ると林がぱちりと携帯電話を開いて、メールチェックをしている。
助教授だけでなくお前もか、その似合わない、いや意外性に富んだ着信音設定は。
つられて何となく自分の携帯も開いてみる。
気づかぬうちにメールが届いていた、オカンからだ。

『今日は遅くなります。ごめんな、お夕飯一人で食べといて』
「あー……今日何食おう……」

アテにしていた夕食が流れて、少し途方にくれて携帯を閉じる。
もちろん自炊なんてお茶の子さいさいの俺だが、今日はやる気ゼロだ。どうしようか。

「腹が減ったな」
ぱき、と使い捨ての抗菌目薬のキャップをひねったとき、林が帰り支度をしながら突然口を開いた。

「そうやな」
「森はまた王将か?」
「うん。今度は野菜炒め食おう。うまいんやで」
「お坊ちゃんのくせに。チープな中華ばかりだと太るぞ」
「だからお坊ちゃんないねんて! 訂正しそびれてたけどな、俺んち母一人子一人、ぎりぎりの母子家庭やねん」

林は少し目を開いた。

「あー……」
「意外やった?」
「いや。でも、いっつも小綺麗だから」
「おかんの商売、服屋やもん。肉屋が毎日トンカツ食えるのとおんなじ」

正確には同じではないが、まぁ似ている。

「箸の使い方もちゃんとしてる」
「それだけ?」
「中学生のときからパソコンが家にある」
「ぷっ、なんやのもう。おかしなことばっかり見てる」
「ありがとうって自然に言える」
「リンの褒め言葉はかゆいなぁ! もうええで、ありがとさん。俺十分うれしい」
「もういいのか。謙虚な事で」


うだうだと喋っていたら、誰もいなくなり、また最終の退室者になってしまった。
リネンのカーテンに手をかける。
窓の外はまだ明るく、初夏の訪れを空の色に見つけた。
戸締まりを確認して振り向くと、来月シンポジウムに持っていく資料を掲げた林が

「森。連休明けにデータが揃ってありがたかった。助かった」

と、笑った。

それは綿雲がちぎれて西の空に吸い込まれるのとおんなじくらい自然に、この心に届いた。
そうして、自分はこの人から好意を持たれたかったのだとようやく気づいた。








ネオンライトで、一番星が掻き消された大阪の夕暮れ。
黒く影を落とす信号機を映したフロントグラスの下で、小さな危険を冒していた、助教授と推理作家。
誰にでも説明できるような恋しか選んでこなかった樹には、それだけで固定観念が一部倒壊した。
正直びっくりして、ちょっと引いて、それでも拒絶する気持ちはなく。
何か、自分の中で、あるひとつの夜明けを象徴しているように思えた。
だけど、この事は誰にも秘密だ。









今また、ジャングルのスコールのように、新しい概念が降り注ぎこの肌を叩く。
熱狂じみた世界の転回が始まろうとしている。
人が何かを語り合うには夜しかない。
夜明けに向かって歩くなら、夜歩き始めるしかない。


「今日は一緒に飲みにいかん?」
「王将の後でか」
「そんで、よかったら君んち泊まってええか? 始発まで転がしといて」
「だったら最初からうちにくれば。あ、うるさい酔っぱらいはたたき出すからな」
「なるべく良い子でおるわ。行こ」


ドアのそばで、君を待ってる。



最後までおつきあいくださったみなさまに大きな感謝を。あいこ様ありがとうございますv(8/14加筆修正)
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