■9.おもひわびさても命はあるものをうきにたへぬは涙なりけり(082)
思っても仕方の無い人を好きになり、それでもこうして命は長らえているのに恋のつらさに涙は流れ落ちてゆきます。
■死にネタです。アリシストごちゅうい。
■火村は助教授〜教授かつ30代〜50代の捏造描写。
■ちらりオリキャラ。





Recovery



1.


 
 
 

今も底のない容れ物に注ぎ続けている。
 
 
 
 
 
 
 
「火村教授? ……あぁ……」
「どないした」
「シー。おやすみ中だ」


クスクスと忍び笑い。


「お? えらい古い機種やなぁ……いわゆる『ケータイ』か」
「機械的にも電子的にも前世代の遺物だな。いつ朽ちてもおかしくないぞ」
「ヘッドセットついてるわ。何を聞いてたんやろ」
「さぁ……グールドかな。好きだって言ってたし」
「資料ココおいて、今日は帰るか」
「ちょっとまて。書き置きする」


あれで声を抑えたつもりだったのだろうか。
口数の多さからして、修士2年目の森と林だ。
冗談みたいな名前のコンビは、なぜか憎めない子たちだった。
まだ幼さを残した声が遠ざかる。



青くて、脆くて、透明な。あの曲の男みたいな。
彼が大好きだったあの声みたいな。










アリスがまた歌っている。
最近のお気に入りらしい。
元来マニアックな洋楽趣味を持っているのだが、珍しくヒットチャートを走る邦楽ロックバンドに食指が動いたようだ。
昨年から売れだしたそのバンドの曲が、アリスの心を長く強くとらえていた。



火村はその歌を覚えた。
バンド名も。
CDがローテーブルに積まれた堆積物の、常に天辺にあったから。
メロディが好みで歌詞が良くて声がいい、と気に入って繰り返し歌うから。



うちの学生みたいな若い男が、切なさに切なくなって歌う。
耳がとらえたのはそんな印象だった。
青い、壊れやすい、透明すぎる。
もっと厚みがないと自分には物足りないな、と思った。
自分の城で、自分の好きな曲に浸っているアリスはそんな評価など知ったことではない。
昼でも夜でも口ずさむ。


「無気味だ」


と言ってもなんのその。
風呂の中でも、トイレでも。
もう癖になっている。


「どうしてそんなに惚れ込んじまったのかねぇ」


ベランダで洗濯物を干しながら歌っているので、手伝う火村が恥ずかしい。隣に筒抜けだ。中断させるべく挟んだ茶々だ。


「うん? なんやろうねぇ……俺にとってのブースターなんかな」
「それはロケットの補助推進用エンジンのことか?」
「そう、気分を上げていくための推進装置や」


アリスはパン、と白いTシャツを伸ばした。口角を上げた横顔に、浅く笑みがあった。
そういえば最近少し筆の進むスピードがバラついている。そのような時期はままあり、長い作家人生を走るならアリスの望む方法でロケットを上げればいいと、わかったつもりでいた。



ある日、否応なく刷り込まれてしまった火村が、気まぐれにあるワンフレーズを歌うと

「君にはさわやかさがない」

と爆笑された。
本当に、ひーこら笑う人間を見ることになる。
以来アリスの前で歌うのをやめた。
ボーカリストに軽く嫉妬していたのもあり、愛の歌が舌に馴染まないせいもあった。
歌詞カードに並ぶ、今流の愛の言葉。こんな語彙は火村にない。あれば、と思ったことも今までなかった。
アリスがそれを好んでいることが、ますます火村の心境を複雑にする。


 
 
10年続いた友人関係。
この先の10年も、この調子で続くのか。
年貢のおさめ時だと、配偶者を得て新しい生活に彼は身を置くのか。
先のことなど分からない。



火村はいつも、現実とすこし距離を置いていた。
それは習い性のようなもので。
この日常が手放せなくなるほど、深入りはしない。
社会人の事情と、自分の研究を本道に走らせ、脇に彼との旅行や食事を伴わせた。
そう明日のことさえ分からない。
想いに任せて、自分の中のスタビライザーを傾かせてはいけないのだ。



日常とは大気と水のようなイメージだった。
一定の条件下で大気が雨になり、落ちた液体は固まったり流動したり、もしくは温度に左右されて空気中に再び還る。
何事もそれなりに辻褄があい、例外もありながらうまくいく。
半分は正解で、半分は誤謬だった。
失って、初めて、彼が引き寄せてくれていたと気付く。
心地いい距離、舌戦の空気感、認識の温度差。
この世界に自分がフィットしている実感で、日常は作られていたのだと。



『忙しいとこ来てもろうて、ありがとう』



確か作品の参考資料を届けたついでに近場で飲んで、泊まっていった日の翌朝のことだ。
玄関先で、歯ブラシを口にひっかけたまま俺を見送ったアリス。
俺は『ああ』とかなんとか言ったかもしれないが、覚えていない。
それが最後の記憶だった。











鯨幕に居並ぶ参列者は、見知ったものもいれば、どういう関係なのか判じかねるものもいた。
遺影は、いつになくキチンとした身なりをしていて、ちょっとばかり拍子抜けした。下手したら文房具で髪をまとめていたりする、あの無精者が。
馬子にも衣装だな。
からかうにも、花に縁取られた顔は少しもこちらを見ない。



精進落としの席で、式の間は気丈にも涙を見せなかった両親から、思い出話をせがまれた時でさえ俺は冷静だった。
全て話が過去完了形で、すこしくどく聞こえるのではないかと妙な気を回してしまった。アリスの母親は、聞きながら俺の話に涙を流した。つい堪えきれず、といったふうに。
俺は語りかけながらも、昔見た映画の話をするような心地がしていた。遠く、手触りが不確かで、ひたすら美しく過去が流れていく。
この中にアリスと自分が本当にいたのだろうかと、疑いたくなるほどだ。

 
 
 
彼の死の瞬間のことは、なるべく情報を頭の中に置かないようにした。
報じたニュースは遠ざけ、週刊誌は買ったきり開かず、新聞は段ボールに突っ込んだまま。
こうしなければ、逆に徹底的に調べたかもしれない。
あえていおう。
自己防衛手段として、前者が手っ取り早く、楽だった。
むしろ字も理解できず、言葉も聞き取れず、『イノセント』であれたらと生まれて初めて願った。
心の底から、願った。



それでも十分苛まれた。
はじめのひと月は地獄だった。
自分の中で逆巻く言葉を全部吐き出すために、誰に見せるでもない文章を書いては焼却炉に放り込んだ。
この世界を表象する言葉を欲し、うまれた端から棄てたかった。閉め出す意識の隙を見ては過去のフィルムが回りだす。独りでいては却って煩わしく、この数週間で出町柳のバーの常連になってしまった。



自分はもう、アリスに最後のお別れをしたというのに。
かるい、しろい、落雁のようになった最後の姿に。




 
 
 
 
例年どおりの時期に桜は咲き、新年度を迎える。
フィールドワークに、ゼミ生の指導にと否応ない忙しさが、助教授としての生活を豊かにし、いくぶん私人の火村を救っていた。



自分の誕生日など、気が回っていなかった。
真夜中、論文の草稿を書き上げていると携帯電話が震えた。
普段なら無視だ。しかし点滅するブルーグリーンの光が蛍みたいに呼ぶので、つい手に取ってしまった。
スクリーンに示される4月15日の表示。
まさか。
受信箱を開くと、有栖川有栖からのメールが1件。
その一行に総毛立つ。
そんなばかな。
見直す。
やっぱり、ありすがわありす。
驚愕の後は、奇妙な笑いの波に襲われた。
オカルトでも、サイコホラーでも、あなたの知らない世界でも何でもこい。今だったら神の存在も信じてやろう。
脊髄反射的な動作でメールを開くと、本文を埋めるのは動画の在り処を示すURLだけ。
この時点で火村は現実に戻ってきた。
おそらく生前に送信日を設定して、サーバに待機させていたメールなのだと。機械音痴なのに、トリックに使えそうな機能だけはよく知っていた。試しにと、2MBもの画像が送られてきたこともある。
それでも。
この動悸は少しも小さくならない。
角が食い込むほどケータイを握る手をどうにもできない。



『誕生日おめでとう。君に歌をおくります。聞け』



音のない部屋にあふれだしたアリスの声。
ディスプレイに映るのはアリスではなく、窓越しに望む夕景。ノイズ越しに歌声が聞こえだす。
おかしいくらい、音量を上げる手が焦った。ああこれはアリスだ。



”君を思う”
誰しもが抱く蓋然性の高い感情を歌った詩が、アリスの口移しにより色を変える。男友達の誕生日に送るような歌じゃない。



ラブソングの形をとって伝えられるメッセージは、もっと普遍的な輪郭を帯びて変容した。媒介をひとつ通過させて、素人の鼻歌はひとつのクリエイションとして存在し物理的な場を得る。そして狙い打ちされた受け手は、現前する電気的に処理された記号に、永遠へ続く空中楼閣を見いださざるえない。

 
昼も、夜も。
風呂で、トイレで、居間で、キッチンで歌った。
いろんなアリスがひとつの歌を。
ぞんざいに扱ってきた日常の中、それらは心地よく行き渡っていた。
歌い手よりも、火村の奥に入ってくる声。
鳩尾が鉄を飲んだように重い。
勘弁しろよ。
よりによってこの曲だなんて。
一番鮮やかで、一番数多く、一番好きな顔したアリスばかり思い出すじゃないか。
ディスプレイの風景が流れて、アリスの顔を捉えた。
黄昏よりも、ずっと俺の中で普遍的な。
自分のためではなく、相手のために歌われた、それは。






『……ここまで聞いてくれてありがとう。君が歌ったのも好きや』



ぶつん、と声は途切れた。
最後の『君が歌ったのも好きや』が聞き間違いではないかと再生してしまう。
喉が詰まって、猫みたいな咳払いをした。
俺にもブースターを、いや、もっと優しい何かを送り続けてくれていたんだな、アリス。
 



好きだと告げたら、どうしていただろう。

 
 


今まで忘れていたが、もし時が満ちたら、告げてみようと思っていた。
もうそんな日はこない。
手のひらからこぼれ落ちたものは元に戻らない。
 
 



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