2.
押し入れを開けた。
死を報じたものばかりを詰め込んだ段ボールを取り出す。そんなに量はないが、それなりの大きさで扱われている。
まず新聞を読む。そして週刊誌を読み、彼の遺稿が掲載された雑誌を読んだ。
刷り上がったばかりの雑誌を渡してくれた片桐さんが、まぶしそうに目を眇め俺を見たのを思い出す。まるで目にするのも辛いなにかを前にしているようだった。
乾いた紙のにおいが、止まっていた時をゆっくり押し流してゆく。
蓋をしていた世界が立ち現れる音がした。
俺は間違った方法で、これを認める痛みから逃げを打っていた。
すべてを先送りにしたまま、俺はどこへ行けるというのだろう。
だめなのだ。
アリスがいたことも、いないこともひっくるめて世界はできている。
メールもこれきりだ。
電話も鳴らない。
フィールドワークにも……もう。
泣くまいと思っていたのに、流れ出るものを止められなかった。
アリスが笑うから。
この空の下で、俺からの返信を待ってるんじゃないかって思うから。
最後見たのは、あわいミントグリーンのパジャマを着ていたアリス。
眠たげに濡れた瞳、鎖骨のくぼみがパジャマの襟元から覗いて。ふいに襲われた甘い感情に、ろくに言葉もなく出ていった。帰りの車中で何度もあの歌のサビを口ずさんでいた。
”愛してる”ってフレーズ、余韻に残るあの幸福感。
「……言わせろよ、アリス」
決壊した涙腺はコントロールを離れて、嗚咽で噎せるほど泣いた。
うまく声が出ない。
絞り出すように涙を流して頭が痛い。
3匹の猫は気配すら見せず。
だからもう少し泣くのを許した。
涙がかれる頃、未明の街へ車を走らせた。
夕陽が丘に行くのは形見分けの日以来だ。
あの日は、置きっぱなしにしてあった私物を引き取りに行っただけのはずなのだが、彼の両親が『一番の親友やったんから、何かもろうてって』と俺の袖を引いた。
ひとつの通過儀礼と思い、慎んで拝受することにした。
生前愛用したなにかを、と母親は次々息子の私物を取り出していった。収納事情を知らないようで『いやだあの子ったら、クローゼットに土鍋置いて』と驚いていた。下手すると、息子より諸々の配置には詳しいのだが黙っておく。
どうかしらと、あてられた服はサイズが合わない。マイセンの工場で奮発したとかいうカップ&ソーサは、コーヒーがまずくなりそうで辞退した。腕時計も、上質な革製の名刺入れも。
一緒に選んだ羊革のコートには少し心が揺れたが、やはり違うと感じた。
ふいにこれならば、と腰を上げた俺は書架の前に立ち、迷わず一冊の薄い洋書を引き抜く。
『すいません、アリスの宝物をもらっていいでしょうか』
息子のいた業界に疎い両親は、『そんなんでええの?』としきりにほかのものも並べてくれたが、俺にはこれで十分だった。なにせアリスのコレクションでも随一の稀少品だ。
譲ってもらったとかいう故真壁氏所蔵の、” Locked Room MurdersーーーーAdey ”。
犯行現場でこれを見つけた時、事件の渦中にもかかわらず目を輝かせていた。
それは、はじめてアリスが俺の助手になった日でもある。
「一番の友人」が潜ませた欲深さを、二人は知らない。
いま向かっているマンションは彼の覚悟だったが、密室ーーー延いて推理小説は、彼の魂だ。
高速は見通し良く、老馬は強靭に駆けた。 それにも関わらず、道のりを長いと感じた。
ようやく馴染み深い夕陽が丘の街に入る。
あえてマンションの脇を行き過ぎ、少し離れた道路脇に車を止めた。処分された702号室はもう不動産屋の管理下にあり、合鍵などもとより返却していたからだ。
ベランダ側がよく見えるところから部屋を望むと、カーテンのかかっていない窓は洞のように闇を飲んでいた。まだ入居者がいないらしい。
ああも殺風景だと、いっそサバサバした気分になる。ほかの誰かが居るよりマシだ。
白いTシャツも、はきこんだジーンズもひるがえらないベランダに、また少し込み上げるものを感じた。もうバカみたいに涙は出ないが、部屋を暖めていた存在が恋しいのはどうしょうもない。
午前4時の住宅街は静止画像のようだ。
火をつけた煙草が燃える早さで、火村の世界は回りはじめているのに。
きっと夜が明けるまで、すこしハンデをくれているのだと思った。羽を濡らした悲しみのために。
いま飛び立つから。
「じゃあ、行くから」
あの日の朝、言いそびれた。
やり直しなんてきかないとわかっていても、この言葉しか思い付かなかった。
もう来ないから 「またな」は、なしだ。
月はこのうえなく西に傾いていたが、朝の気配はまだ遠い。
ならば、東に向かってゆくだけだ。
俺のいるべき場所へ。
動画は、SDカードやCD-R、ブルーレイと保存先を変えながら生きつづけた。
そして毎月壊れてないかチェックした。
ただの記憶媒体、マテリアルだというのに、二回もアリスを失うのは耐えられそうにない。
あの時の携帯電話は修理に修理を重ね、メーカーがお手上げ状態になるまでショップに持ち込んだ。そのあとは、知人を通じて懇意になった、精密機械のエンジニアだという人物にメンテナンスを頼んでいる。
通信機器としてはガラクタだが、パーツを替えながら再生だけなんとか長らえさせている状況だ。
小さな修繕を重ねることは、欠けたことを慰めるのに似ていた。
肌寒さを感じて、体を起こす。
窓の外は午後の斜陽にうつろう。
ノックもなく扉が薄く開いた。
隙間に現れた、細い影がビクッと固まる。
彼にはいつもある既視感を感じていた。
「勝手にすいません、手帳、探してるんですが……ひょっとここで落としたのかと思いまして」
古びた扉を押しあけたのは、さっき眠りの入り口で俺を引き止めた、二人組の片割れだ。
森から受ける既視感は、いくぶん明るい髪の色のせいかもしれないし、皮肉さえ軽妙な大阪言葉のせいかもしれないし、快活な笑顔のせいかもしれない。
「今日はご苦労さん。いいよ、入って探してみなさい」
「はぁ、すいません」
眉尻を下げて、彼は低くはない背を縮めた。ミントグリーンのシャツが、沈んだ色の書架を背にまぶしいばかりだ。
見つめ過ぎないよう床に視線を落とす。
目地のすすけた床の上に、手帳らしきものはない。
「どんな形だ?」
「オレンジ色の、B6よりも小さいサイズで」
「こっちにはないな……」
キャビネと机の間は? と、座っていた回転椅子を逆方向にまわしたとき、一瞬間を置いて、甲高い破壊音がした。
「あ!」
叫んだのは森だ。
俺は声も出なかった。
ヘッドセットのコードが背もたれに引っかかって、本体が床にダイブしたらしい。
アンティークの電子機器がいかに脆いか承知していた。学生の前で取り乱すほどの動揺はないが、舌打ちくらいは許されてもいいはずだ。
「ああ、やっちまった。ついに総入れ替えコースかな」
立ち上がって拾い上げる。裏蓋が外れ特注のバッテリーがぶっとんでいた。
2メートル向こうの壁際にそれを見つけ、拾いあげる。
セットしてみるが、電源がうまくつかない。
「だめか……」
「すいません。俺が探しにきたせいで、先生巻き込んでしもうて」
「森君のせいじゃない。私が迂闊だったんだ」
「でも、それかなり大事なもんやないですか? 直らんかったら……」
こちらを見上げた目が、困惑にかき乱されていた。
ああこの顔か、と思った。
青く、脆く、透明な。
恐れずありのままを透かして見せる、こういう一途な顔がよく似ている。
「確かにその通りだが、モノは壊れるもんだ。俺には腕利きの修理屋がついているから気にするな」
今度はぽかん、とした顔で見返される。
つい口調が50を過ぎて分厚くなった指導者らしさから逸脱していたことに気付く。まあいい、落としたことを含めて、そういう時もあるさと思った。
「どうやら探し物はないようだな」
「諦めます、残念ですが」
膝のほこりをはらう音が名残惜しく響く。
「失礼します」
軽いノックと共に、相方の林が顔をのぞかせた。
林倫太郎というフルネームで呼ばれることを殊の外嫌うほかは、性格温厚な好男子だ。なかなかの論客で、こちらの耳を傾けさせるものがある。成長に期待。
軽く黙礼をすると、弓ダコができた指でスラリとオレンジ色の四角形を掲げた。
「あ」
「バカもの、俺の鞄に入ってたぞ」
「ホンマ!? うわぁ最悪……」
「よかったじゃないか」
喜ぶのもつかの間、火村をおそるおそる伺う。もし森に尻尾がついていたなら、今確実に垂れていた。
ごめいわくおかけしましたっ、と勢い良く振り下ろされる茶色い頭。
すいません、となぜか林も頭を低くする。
気まずげに踵を返した森だが、ひた、と振り返って言った。
「あのっ、差し支えなければお尋ねしたいのですが」
「なんでしょう?」
「そのケータイで、何を撮ってらっしゃるんですか」
幾度となく投げかけられた質問。
この年代物の機械は、もはや本来の機能を果たしていない。進化した通信技術にハードがついていかないのだ。そうとわかって何故持ちたがるのか、よくも悪くも興味が集まる。同僚の中には懐古趣味の者もいるが、そういう輩にはよく「中身生きてるのか?」と好奇の目を向けられた。
そうした相手なら「教えない」で終わっていたが、ガラクタの存在理由に、この新世代の子たちは単純に興味があるのだろう。そう思えば吝嗇もなりをひそめた。
それにこの子たちなら、とも思った。
「星さ」
薄茶の瞳が、ゆっくりと驚きを表す。
「星の画像、ですか?日本でそれ、みられへんのですか」
「そう。小さいムーヴィーだがね。生きてるうちにはもう見られない。どこからも。誰も知らないし、記録もこれと、ウチのPCにしかない」
ぱくぱくと、眼前のくちびるが空回りしている。森の気性は良く知るところであり、この回答にツッコミどころが多いことは自覚済みだ。
「……それ20年以上前から、お持ちになってるんですよね」
いっそ感心、といったふうにため息を吐かれた。
「見ただけでよく分かったな」
「その機種と、色違いのものが親戚の遺品にあったんで」
森は、若者らしい紅顔に猫のような笑みをのせた。
「推理作家の、有栖川有栖ってご存じですか?」
今度は俺が瞠目する。
親戚とは言えゼミの一学生だということも忘れ、たっぷり3秒も見つめてしまった。
さっきの笑みは、チェシャ猫の遺伝子がなしたものか。
「先生?」
「ああ。彼とは友人だったよ、学生の頃からずっと。君はアリスから見て何にあたる」
「僕の母の従兄なんで、従妹甥やと、思います……」
「なんだ自信なさげだな。あってるよ」
「間違ってたら社学の名折れですから、そりゃ緊張します」
「で、彼の家で遺品の携帯を発見したのかい?」
「あー、そう。そうなんです。伯父の遺品に混じっているのを見て。それまさか一緒に買うたんですか?」
さらっと、アリスの父の訃報を聞かされた気がするが、とりあえず脇に置いた。有栖川家の墓の場所なら知っているから。加えて最後の質問にまた驚かされたが顔に出すほどではない。
「ノーコメント」
「じゃあ最後に。有栖川…のおじさんの最後の本を読んでピンときたんですが、あの献辞は先生に向けてのものになるんでしょうか?」
指しているのは、この俺がたった300ページを10日もかけて読んだ単行本のことだろう。発売されたのは死後だった。
『永遠の遊戯に寄せて』と誰に向けてのものか知れない献辞があった。
ロジックに、パズルに、トリックに遊び生きることを楽しんだ作家を偲ぶに相応しいそれが?
「なぜ」
「え、でも……こうあったじゃないですか?」
オレンジの手帳を開き、さっとペンを走らせる。
『友誼』
「……そんなはずは。それは初版本か?」
「最近親戚にそういう人がいたって知ったんで、あまり詳しくないんですが、初版はえらい売れたそうなので、うちに回ってきたのは二版目だと父が言ってました。先生、御覧なります?」
「いや、いいよ」
絶筆で終わる最後の作品は、俺が渡した資料を参考にしていた。 単純な誤字なのか、第二版から訂正されたのか、もはや知る由もない。
森はいっそ楽しげでさえある。アリスもなにか奇想天外なことを考えては、「聞いてくれ火村」とよくこんな顔で話しはじめていた。そんなところがますます似ているように見え始めて、一瞬本当にアリスのようだった。
「悪戯か本気かどちらか分からないが、少なくとも俺にとってアリスは永遠の友人だよ」
おしゃべりな口が引き結ばれ、意外なほど真摯な瞳が返された。
呼び水が呼んだものが、思ったより深かったせいか。
足下を濡らした『過去』の河にいつまでも若者をさらす気はなく、
「とりあえず、君はいま待ってくれてる友人を大事にしなさい」
と、軽く肩を叩いて退室を促す。
西日に、まぶしさを堪える表情までよく似ていた。
机上にはパルスをとめた携帯電話。今度こそ駄目かもしれない。
この機械にもそれなりに思い入れはあったはずなのに、格別哀惜はなかった。
物ではなく、修理することに意味があったのだろう。
時間の作用は不思議だ。自分が、今そんなふうに思えるなんて。
後片付けをすませ、ジャケットを引っ掛けて鞄と鍵を手に取った。扉に向かおうとして、開きっぱなしのカーテンを思い出す。
「やれやれ」
自分も忘れっぽくなったもんだ。
薄いリネンのカーテンを引くため窓辺によると、何気なく望む西の空は燃えるような朱色をしていた。
そして眼下を行く二つの影は、その先になにがあるのか少し駆け足で門に向かっている。
正門よりもはるかにささやかな植樹のアプローチを、弾むように、じゃれあうように。
かつては自分達も歩んだ、同じ季節を通り過ぎていく。
ーーーーーあの、背中は。
彼は、違う。
わかっている。
ミントグリーンのシャツが、伸びやかな動きにあわせて夕映えを吸い込む。
自然に、隣を歩く黒っぽいシルエットの肩を掴んで笑いあっている。
まるで最後にあった日の続きを見ているようだった。
春色のシャツに着替えたアリスが訪ねてきて、俺は気まぐれな作家先生とこれから飲みに行くところ。宵まで待てずに、桜を愛でる散歩をしながら。
自販機で買った酒、乾杯の音頭は
ーーーーー永遠の友誼に 乾杯
どうして、いつも時間差なんだ。
最後の単行本を渡された時、いや今日だとしてもせめて家で知っていれば。
帰ろうとしていたのに、しばらく出ていけそうもないじゃないか。滲む二人の背が、学生だった頃のアリスと火村の影をまとう。
『火村ーーー』
なんの気構えも必要としない、透徹した瞳。
あのころから、彼は俺にとってかけがえのない存在だった。
風であり雨であり空気だった。
本当に深呼吸をして、生きていけると思えた。
呼ぶ声は、いつも軽やかに俺の肩へ舞い降りて、今もなお守られていることを知った。
人生の伴侶には、ついに巡り会わなかった。
アリスが欲しくてたまらないときは、「遺伝子を残すつもりがない」などとケレン味ばかりを含んだ言い方をしていたが、それでどうして伝わろうか。
女性嫌いも、独身主義にも嘘はない。
愛しているただひとりに、告げられなかった焦燥が言わせていただけのことだ。
お前に逝かれてから、幾つかの情を交わした。時には、女性の中に希望を見いだそうと試みたものもあった。それは成功するかと思えたが、『家』を作り損なった。
俺が無意識に引き寄せた住処の設計図には、いないはずの人間を迎えるドアがあるだけだった。
生者はノックもできない。描かれたドアの前で立ちすくむばかりだ。
それ以来、欠陥だらけの『家』に帰り続けている。
リビングと、寝室兼書斎のある、小さいけれど眺めのいい部屋。
晴れた日にはこんな夕景が見えた。夕陽が丘の名に相応しくーーー
身寄りのない俺を、婆ちゃんは臨終のときまで心配してくれた。それだけが申し訳なく思うけれど、後悔はない。
ただ関係しているだけが、伴侶ではなく。
あの、深呼吸する感覚をくれた相手がいたから、自分はここにいる。遺伝子を残すことはできないけれど、俺にとっては替えのない存在なんだ。
だから、婆ちゃん心配しないで。
なんど世界を奪われても、彼をなくしても、自分はあるべくしてある。
やめることは、もう一度世界を壊すことになるから。
俺はまだ、ちゃんと呼吸できているよ。
いつの間にか、二人の影は消えていた。
胸のポケットに手を入れて、携帯電話を握りしめる。
まだ『星』は輝く。
時を止めた歌声は何度でもよみがえる。
小さな修繕を重ね、小さな回復を繰り返す。
手の中と、この胸の中と。
どちらが先に逝ってしまうかわからないけれど、アリス。
友情でいい。
ありえざる永遠を誓ってくれたなら、それだけで俺は満たされる。
一秒ごとに想い。
今も底のない容れ物に注ぎ続けている。
お前も一緒に居るはずだった、フィールドを歩いている。
いつか、お前からもらった歌の、終わりなき再生が終わる日まで。
|