■予告時の題(仮)アンフィニ→未完の青空に変更しました。ストーカーものというほど事件性はありませんが、そういう内容を含みます。オリキャラの苦手な方御注意。
■ヒム&アリはプラトニックです。


  
 
 
 
未完の青空



 

1




その男はヤリミズというあまり聞かない姓だった。
彼は私のことなど知らない。私も多くは知らない。
当時は国立大学に通う同年の学生だということ。
十余年前の夏に独居するアパートで自殺未遂をしたこと。
やつがいわゆるストーカーだったこと。
対象が火村だったこと。
 

 
私たちはまだ二十歳で、その事件があったのは、紅色のオシロイバナが咲くころだった。 
出会ってから、初めての夏。


 
 
 
事件の前に、母校の廊下で火村と対峙しているのを私は見ている。
前期末のテスト期間中のことだ。常より人の行き来が多くなった学舎には緊張と弛緩が充満し、そのなか健全なレースに学生が取り組む中、廊下で睨み合う二人の男がいた。
 
 
 
火村と、見知らぬ男。
二人を取り巻く異様な空気に、通りかかる学生の視線が縫い止められる。
嫌な感じだなと、直観的に思った。
膠着状態が続くならば、いらぬお節介承知で助太刀致す、と一歩足を踏み出したところで、氷室もそこまで寒くはなかろうにというほど冷厳なバリトンが、相手もろとも場を斬った。
 
 
 
「話にならん」  
 
 
吐き捨てた火村は、私の立っている方に向かって足早にやってくる。  
 
 
(火村)
 
 
呼びかけた視線は完全に絡んでいたのに、彼は私に声をかけることもなく何処かへ立ち去った。
尖った瞳の黒さだけ残して。
 
 
 
正直足が竦み、竦んだことに腹が立った。彼にあんな、物みたいに見られたことはない。
彼を追いかけなかった私は、青白い顔に絶望を浮かべた相手に目が向けた。
成熟しきってない丸顔をゆがめた男は、子供っぽい仕草で床を蹴りつけると、呪詛のように何かを呟きながら何処かへと去っていった。
火村の拒絶をまともに食らった彼の背中は、卑屈に丸まっている。汗シミの滲むそこを、思いきり蹴りつけたかった。
 
 
 
あいつに立ち入ったりするなよ、お前。
 
 
 
後から思えば八つ当たりも多少混じっていたが、男に対する嫌悪の衝動がめらりと立ち上った。それが止まっていた足に勢いを与え、黒い影を追わせた。まっすぐ廊下を走り抜けて突き当たり、非常口を出てすぐ広がる中庭の、いつもの喫煙コーナーに姿を見つける。とてつもなく苛ついた様子で煙を吐き出しているが、そんなのにはもう怯まない。

 
 
「火村、なんで無視すんねん。感じ悪いで」
「……へぇ」
「おいなんやその反応」
「割と直球なんだと思って驚いた。怒ってるのか?」
「そういう自惚れたことを言うな、東京弁。余計イラっとする。それとも質問に答えたくないん?」
 
 
 
言いながら、ああこれじゃ火村にまとわりつこうとしては失敗する女子学生と同じ責め方だと、頭が痛くなってきた。
このシーンをカットできないものかと不可能なことを願い、こめかみを伝う汗を手で払うと、同じタイミングで火村は煙草を吸い殻入れにねじ込んだ。
 
 
 
「有栖川の大阪弁も大概喧嘩売ってるようにきこえるぜ。無視したかったわけじゃない。聞こえたんだろ? あの気色悪い会話とか」
「お前が『話にならん』言うたとこなら」
「あー……。なんだ、ならいい。気色悪い会話については聞いてくれるな」
「そういう前提があったから居たたまれなかったんやな? はーん、了解した。ちなみにあの変な男だれや。ゼミ生か?」
「バイト先の同僚でヤリミズ セイイチ。ここの学生じゃねぇ。最近付きまとってきて鬱陶しい思いをしている、以上」
 
 
 
吸い殻入れに視線を流したままだけれども、火村はしっかり質問に答えた。

 
 
「さよか。災難やな」
「……感じ悪くて悪かったな。こんな顔で」

 
 
火村は半袖シャツの胸ポケットから二本目を抜き出し銜えた。一見無表情だが、全然うまそうに煙を吸い込んでない。少しすねた風にも見える、つたない仕草。
アリスはちょっと虚をつかれた。質問には答えてもらうつもりだったが、これほど剥き出しの言葉を貰えるとは思わなかったから。

 
 
「いや、ようあるすれ違い、誤解っちゅうことよ。なまじ目鼻ついとるのも善し悪しやな」
「ああ、いっそのっぺらのほうがマシだった」

 
 
落語のネタに乗ったかと思えば、横顔に少し本気が滲んでいる。


 
 
 


 
 
今日受けるべき講義を終えて、バス停まで一緒に行くことにした私たちは、狭い歩道を並んで歩く。
通りには、古い町家に混じって立て替えられた家もあるが、風景になじむ木の色や漆喰の白がよく使われている。角のタバコ屋さんの前に、リヤカーで行商をするお婆ちゃんがやってきた。大型スーパーでは見かけない、京野菜とやらが乗っているのだろうか。バス停とは逆方向の道をいったところに、美味そうな豆大福屋さんがあったけれど、今の季節ならところてんって気分だ。

 
 
歩いていてもこんな風に飽きないので、火村の無口は気にならない。言葉数が少ない理由は重々承知のつもりだ。平気を装っているが、火村の眉間の皺が微かに寄って不快を示している。

そんなことにも気付いてしまうほど、私は火村を観察していた。物書きを目指すからには、どんな人間でも一通り頭からつま先まで齧ってみなければ気が済まない。これはすでに無意識の動きで、アリスにとっては右手で箸を操るのと変わりない。
その観察癖を一歩はみ出したところで、友人の一挙手一投足に、首筋の裏辺りで反応してしまっている。
 
火村は見た目どおり不可触領域の広い男だとアリスは考えていた。
2か月前に知り合ったばかりにしては、頻繁に言葉を交わし顔を合わせている相手だが、表層的な価値観の見せあいからして自分と『ご同類』の匂いが濃厚だ。
友情の力で困難をどうこうしてやろうなんていう発想はないので、聞くなということを聞いたりしない。降り掛かる火の粉はおのおのが払いのける。

 
 
確かめなくても分かる、彼は全身でそう主張しているから。火村とどれほど距離を置くか、まだ試行錯誤の最中だった。相手の全てに興味があるという原初的な衝動と、自分に本位を置いて居心地のいいところだけ相手と重ねあいたいという計算とが、整理されず混在する。

 
 
なにせまだ二十歳なのだ。
それでも、おそらくこれは例外中の例外だな、と火村から引き出したプライベートを脳裏に刻んだ。
天を仰ぐ拍子に見えた友人のつむじが左回りという発見をした頃にはバス停が見えた。
 
 
 
 


 
 
 
 
 
やがて太陽の軌道は高く近くなって、光が街ごと影を焦していった。
熱線に支配される季節の到来で、朽ちかけの果物がその腐敗の速度を早めたかのように、火村とヤリミズの関係は蓋をされた箱の中で悪化していたらしい。
 

 
 
その日は北白川の下宿に上がり込み、火村と貧乏旅行の計画を練っていた。蒸し風呂のような京都を脱出できれば、日本海側でも山奥でもどこでも良かった。

 
 
「火村君にお客さんえ」

 
 
階下から大家さんの声がかかり、火村が立て付けの悪い木戸を開くと、既に見知らぬ壮年の男が立っていた。
ずいぶん不躾だな、とこちらも居住まいなど正さず、むき出しの脛を立てたまま顔をあらためる。この暑いのに男の顔は少し青白い。「ヤリミズの父親や。あんたが火村くんか」と許可も請わずに半身を入れてきた。
火村のムッとした様子は、背中を向けていてもわかる。

 
 
「ご用件は」
「セイイチとは、あんた、一体なにがあった? あいつ、昨日死のうとしたんだ」

 
 
7月の廊下で垣間みたあの顔が、皺を刻む皮膚の上に重なった。地獄の釜の底のような小部屋に、死という単語はあまりにおあつらえ向きで、悲壮さよりも奇妙な納得をもたらす。
アリスは腰を上げるのも忘れた。
他の住人の耳を避けるために木戸は閉じられたが、招き入れることを由としなかった火村は、そのまま会話を続けた。



 
 
つまり。
どのような諍いが、軋轢が、摩擦があったか、息子から詳しく聞ける状況ではないが、日記に火村の名前ばかりが書き付けられていたことから、父親は我が友人に何らかの要因があったのではないかと訴えに来たのだ。
自殺未遂の引き金は、あんたじゃないのかと。
10分ほど黙って相手の言い分を聞いていた火村は、相手が疲れはじめたところで「そのノートを見せてはもらえませんか」と切り出した。
そのつもりだったと、すべて吐き出して燃えかすのようになった父親はおとなしく差し出した。

 
 
私はぎょっとした。
日記を見せるなんて、もし自分なら絶対に拒否したい。火村を自白させる物証とでも考えているのだろうか。
書き付けられたものは個人そのものなのだ。裸の心に手を入れられるなど……おそろしい。

 
 
いや、ヤリミズにとっては本望かもしれない。
言えずにいた内面を、相手の中に注ぎ込む絶好の機会なのだから。

 
 
その想像は私をより不快にさせた。吐露するものの不幸と、汚物を投げ込まれるものの負担とを思うと。
たった数分で、何十時間分もの個人の記録に目を通した火村は、

 
 
「やはり、彼だけが答えを持つ問題です」

 
 
と、最後通牒を言い渡した。息子を失いそうになって、我を忘れていたのだろう。蒸し暑い部屋の中、徐々に自分を取り戻した父親は、互いに得るものがなく、火村を徒に誹謗しただけだったことにも気付かず、この場を後にした。
 
目と鼻の先でやり取りされたことなのに、私は完全なる部外者だった。友人という呼称すら頼り無い幕間、どんな相応しい言葉も思い付かないまま、ただその背中が遠いことを思い知る。
 
 
 
「『火村君ゆるしてほしい』と日記に書きなぐっている。何があったか、知らんわけがない」
 
 
先刻火村に向けられた言葉は、憐憫よりも嫌悪を呼び起こさせるものだった。
重力に逆らって、熱い奔流が足先から首筋へ一気に駆け巡り、耳が燃えそうだった。頭の奥で砂が落ちる音に、ああ、自分は物凄く腹が立っているんだと思った。
 
 
アリスの耳には、随分たるんだ認識のもと火村に駆け込んで訴えているふうにしか聞こえなかった。軟弱な腕でも、振り回されたナイフが当たれば痛い。火村は多少痛みに強いようだが、全く痛くないわけない。
無表情は諦観に近いように思われる。下手くそな注射を我慢するくらいのつもりかもしれない。

 
 

 
 
見ているこっちが苦しい。
なぜこんなにも、彼に降り掛かる災厄を見ると苦しいのか。
his business、が自分と彼のスタンスのはず。請われない限り、手は出さない。でもそれは、ぎりぎりの距離を見極められないから、あえて遠くにいるというだけの消極的な姿勢でもある。

 
 
請われても、見合った力で手を握り返せるだろうかという、未知の瞬間へのためらいにも似ていた。

 
 
少しくらい確信が欲しい、火村はこの手を必要とするかどうか。
重要度が下から三番目くらいのことでも、人の手なんか借りたりしないって顔してる。
スタートラインでバトンを待ち続けているみたい、もどかしい。でも悪くはない。
友情でもなく、言葉にならない何かが、じりじりと私を突き動かす。

 
 
 
 
差し出したい手は、机と距離に阻まれてしまうのかな。 
 
 

 
 
 

 


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