2.
木戸を閉めてこちらに向き直った火村はというと、「話が中断したな、どこまで話したっけ」と伏せていたムックを取り上げる。
もう彼の中で出来事は終わっていた。
確かに、先ほどのやり取りで、一つの人間関係が終局へ流れ着いたかに見えた。
靴底で粘っていたガムがようやくとれたのに似ていて、なぜ踏んでしまったのかなんて問いただすかどうかは、当事者との関係性によるだろう。
彼等にとって不本意なしがらみは、時に第三者に話しづらいエピソードをはらんでいたりするもので。
不愉快な記憶を辿らせることは、柔らかな暴力に思える。吐き出したいと彼等が望まない限り。もしくは血を流して彼等を産んだ存在なら、その傷に手を延べる衝動を許されるかもしれない。
火村はそのような存在が身近にいない。
友人としての付き合いが日ごとに濃くなってきているアリスはというと、ついこの前『聞くな』と言われてしまった。
とはいえ、その壁は厚くはなく。けれど無造作に押してみる気にもなれず。
そうした距離感を測っているところへ、垣間みるというにはあまりにも露骨な核心と結論だけを取って出されてしまった。
こちらが問えば、火村はいっそ他人事のように経緯を話してみせるかもしれない。しかし問う意味を火村と自分の間に見つけられない。
自分だけに意味がある行為に思われてならないのだ。
ムックのページが繰られて、流れを訪問前のものに戻そうとする雰囲気が生まれたが、いまいち手もとに集中しきれない自分がいる。
「なんだ間抜けな顔して」
「間抜けとはなんや。もうちょっと言い様があるやろ、当惑とか逡巡とか……」
「とか? 文語調での表現は却って不自然だぜ」
「火村、この微妙で繊細な心の表れを間抜けって言われたらやりきれんで。干渉はせんが関心がないわけやあらへんからな。目の前で友達が、やいやい言われとったら俺かて胸が痛む」
「有栖川が気にするな。聞くに耐えんものはあるがな」
聞くに耐えない。
そう切り捨てていても、火村は見た目よりずっともっと感性が敏感な男のように思える。
ゴールデンウィーク明けのあの日、昼食を共にした時から感じていた。言葉に対する厳密さや鋭さは、語彙の豊かさもさることながら、感度の高さにも支えられているんじゃないだろうか。
感じやすいと、いろいろ徒労も多くなる。1メートル以上離れた物体さえ感知して、開いたり閉じたりと忙しい自動ドアみたいに。
ただ人間はその扉に認証ロックをつけられる。だから誰もがナイフを持った存在を、易々と中に入れたりしない。手前で判断して、サクッと排除できる。
だが機械的に制御されているわけじゃないから、あっさり通してしまうときもある。
不意打ちで、自己愛すら理にまぎらせるから質が悪い。
出来がいいセンサーほど、丸ごと感受してしまうのではないだろうか?
おそらく火村は、負の感情には危険なほど鋭敏で、実はかなり不器用だ。
後者については間抜け呼ばわりされたゆえの評価ではない。
「まったく見るに耐えんわ」
悪意に慣れた、なんて顔するなよ。
それすら無自覚なんだろうけど。
ふたりとも苦笑いひとつなく、沈黙が落ちた。言葉が見つからない。 階下で物音がした。また火村に招かれざる客かと、耳を澄ませど誰の気配もない。ふと窓辺に顔を寄せたら、網戸越しに大家さんの細い背中が見えた。打ち水をしている。
その所作にひらめくものがあったので、すぐ口に出してみた。
「火村、塩撒こ、塩」
「なんだって?」
「折角の機会、いや、面倒な厄介ごとがリターンせえへんように」
「迷信のために捨てるなんてもったいねぇよ」
「捨てるんやない、仕切り直しや、景気付けや。塩くらい恵んだるから来い」
言い放った勢いにまかせて台所から勝手に塩を持ち出し、火村を階下に引っ張っていた。我ながら古典的だと思うが、何かを投げるというのは、精神衛生上とても良い気がした。
「あら、ふたりでお出かけ?」
「ちゃいます。あのー妙な客が来たんで、塩撒いてええですか?」
大家さんは一瞬、まぁ、と驚いたがすぐに快諾してくれた。
「さっきの方どすか。あれまぁ、堪忍え火村君」
「婆ちゃんのせいじゃないよ」
「さあさお浄めでっしゃろ。やったらよろしおす」
「な、やっぱり俺が正しかったろ?」
「正しいかどうかはそれぞれだ。大体、その容器に入ったままの塩振りまいてお前正しいと思うか?」
そう、無断で拝借した塩は某メーカーの、卓上用容器に充填されたものだった。たしかに、中空に向けてサッサと振っても何がしたいのかよく分からない。
「て、手に取って撒くんや。ほら、手え」
心底嫌そうに手を出したが、大家さんの手前悪態はつけない。汗でべとつく手のひらに振りかけ、撒くというより無理矢理払い落とした。
ふたりで2、3回繰り返したら、道を通りがかったご近所さんが物珍しそうに近付いてきて、大家さんとの和やかな会話が始まる。
それを潮に二人は中に戻ることにした、何せ外は暑い。立ってるだけで汗が吹き出す。
階段途中で瓶をかざすと、白い結晶がずいぶん目減りしていることに気付いた。
「おい階段で仰け反るな、あぶねぇ」
「あ、ごめん。半分になってもうたなぁ、と思って」
「恵んでくれるんだろ? 塩分不足で倒れる前に持ってきてくれ」
「それについては二言はないで。どっかの外国のお高い岩塩とかは無理やけど、愛媛でとれたなんとかって塩がうちにあってな。今朝キュウリ切って、塩振って揉んだらめちゃうまかった」
いつもならすかさず、「なんとかって何だよ」と突っ込みが入るはずなのに、いらえがないので背中が寂しい。
すぐ後ろを付いてくる火村をふと振り返ると、なにか言いたげな目とぶつかる。この階段を下りたときの剣呑さは立ち消えて、まったく逆の色を含んでいた。
だらんと下がった手首を掴まれて、軽く逆手に捻られた、痛くはない。でも解けない。そこに火村の顔が伏せられた。
一瞬蝉の合唱が遠のく。
「な、……」
なにやってん、と言おうとして、言えなかった。
あきらかに濡れた舌が、手のひらの真ん中を縦断するように舐めあげたからだ。チロっ、じゃなくてベロンって感じで。
アイスキャンデーみたいに硬直していたアリスのことなどつゆも気にせず拘束をほどき、
「確かに、うまそうな塩だな」
と、頓狂な発言をした。
そういえば舐められた方の手は食卓塩に触れていない。汗の味見をしたとでもいうのか。
アリスは先刻の動揺から素早く立ち直ると、「既に性質ちゃうやろボケ」と舐められた方の手のひらをごしごしとジーンズに擦り付ける。
そうしないと、嫌悪からじゃない鳥肌が二の腕まで駆け上がってしまいそうだった。粘膜はまずい、粘膜は。
どちらかというと、野生動物みたいに他人との身体的接触を反射的に避ける方だと思っていたので、あらゆる段階をすっとばしていきなり味見されたりした日には、ライオンの前で生肉になったインパラの心境だ。
まだまだ火村の理解が足りないせいにして、濡れた感触を覚えてしまった運命線のあたりを握り込む。
その日の夜は、そうめんを山ほど湯がいてネギばかりの薬味でいただき、大家さんに差し入れしてもらった夏野菜の揚げびたしで野菜不足を補った。
普段は買い置きしている焼酎を、ソーダやサワーで割ってぐだぐだと飲みに入るのだが、昼間あんなことがあったせいで進まなかった、旅程を埋める作業に集中する。
長野県まで新幹線、有料特急を使わずに行くというある意味贅沢な旅だった。たったの7時間くらいで、なんとかなる、はずである。
「新幹線が使えたら、名古屋までのロスが埋まるんだがな」
鉛筆をクルクルと回しながら、時刻表片手に火村が言った。
「それをせんのが醍醐味なんや。始発で行こ、日の出めっちゃ綺麗やから」
「山間、山間、また山間のコースの日の出ねぇ。トンネル多そうだぜ」
「涼しいからえいやん。昼前につくからチェックインしたらどっか行こう」
「渓流下りとかやりたいんだろ。なら先にやってる時間帯調べて、予約も入れとけばいい。それを軸に後の予定を詰めてこうぜ」
火村との会話は、彼独特の言い回しに慣れれば実に快適だ。先回りしてツッコミが入るので、こちらはアイデアを軽快に繰り出せる。
「ユースホステルからちょっと遠いけど、次の日は山も登ってみたい」
「まさかアルプスに挑むなんて言い出すんじゃねぇだろうな?」
「それも魅力的やけど、自分の体力はようわかっとる。主には山荘が見たいんや」
「そして誰もいなくなった、か。7時間もかけて辿り着いた土地でも推理バカに感染されるのか、やれやれ」
「俺はクイーンの名著を思い浮かべとったんやけど。まだまだ感染具合が足らんようやね」
「勝手に染めあげるな。俺にはワクチンが必要だな、白血球だけじゃ抵抗しきれねぇよ」
「心配するな、もう抗体はできとる」
「いつ?」
「5月7日に空気感染、きみはアナフィラキシーもなく経過良好や。もういっくら感染っても大丈夫」
「……お前と話してると、何をしたかったのか忘れそうだ。長野でネタを考えたいわけだな」
「主目的はきみと青春の旅立ちやけど? ほら、このコースなら途中までバスが通っとる。重いザックを担がなくとも、最近のアルプスは間口が広なったから、軽装備で入れてくれるんよ」
家でドッグイヤーの目印をつけていた旅行雑誌を、火村の膝の上に広げる。
「ホテルを出て、この路線使うて……この駅からバスが出てるから」
火村はもう何も言わず、タイムテーブルにさらさらと書き写している。
切符はもう、生協で買ってある。例の、あるシーズンになると年齢制限有りで売り出される格安切符だ。
埋まっていくスケジュールは、若さに任せてやや暴走気味だけど、倒れたってやりたいことがある。それをできる時間がある。付き合ってくれる相手がいる。
火村の長い指がシャープペンシルを走らせて、白い紙に私の言葉を写し取っていた。
未来の予定を織り上げる作業。過去に手を貸してはやれないけれど、これからのことなら顔を合わせて言葉を交わせて、気付けば手のひらも近寄って。
笑ってくれるならそれがいい。
早送りで過ぎてゆく日々の記憶が、思いがけないところで現実を補完することがある、こんな風に。答えは既にあって、埋められるのを待っていた。全てがそうであるならばと考えなくもないが、問題と回答の順番は普遍的にままならないものだからしょうがない。
「火村と旅行すんのはじめてやけど、なんかうまくいきそう」
「どうかな。案外電車の中で喧嘩したりするかもしれないぜ」
「きみが寝過ごして、大慌てするん」
「駅弁に目がくらんだそっちが乗り遅れるとか」
「付き合うたきみも右往左往したら、あっさりはぐれるなぁ。どないしよ、駅の掲示板に伝言書いてもうたりして」
「普通に書けよ? 暗号はいらねぇ」
とっときの暗号残すから、解けたら信州牛おごる。と言うと、火村はにやりと人の悪い笑みを浮かべた。
本気とも冗談ともつかない応酬、こういうお遊びをできる相手なら、きっと喧嘩になんかならない。
心が浮き立ち、こんこんと湧きあがる透明な泉のように中から潤う。
でもその底には、まだ、ヤリミズという名の黒い石が沈んでいる。
ヤリミズはずいぶん長いこと火村に執着していたようで、聞きもしないのにあの父親がベラベラと言い捨てていった。
それは恋情妄想に似て、そうと認識のない親の口から聞かされるのは苦痛ですらあった。男同士でそんなことがあっても驚きはしないが、語り得ぬことというのは世の中にある。
巡り合わせが悪いといってしまえばそれまでだが、彼は火村と、確かになんらかの繋がりが欲しかったのだろう。
こんな風に旅行の相談をしたり、酒を飲んだり、バカ言ったり。
もし、アリスがヤリミズの立場が逆だったらどうだろう。
どんなに傍に行きたくても、あんな目で見られるのだ。どんなに笑いかけても、横顔さえ見せてはくれない。
そして言葉では言い表せない、心細くて肋骨が軋むような感覚を、常に抱えなければならないだろう。
自分は孤独でも、向こうが笑っていてくれたらいいなんて。
あ、いやだな。
「どうした?」
膝の上の雑誌に顔を向けたまま、急に黙り込んだアリスを不審がる呼び声に意識が浮上する。
睫毛を持ち上げるようにして、正面の火村を見あげた。
そんな風に聞かれると、どうにも、苦しい。
「きみには解けん暗号、考えとった」
造形の良さが祟って冷たい印象を持つ双眸の中で、不安そうに小さくなっている自分の像に笑いかけた。火村はすこし顎を引いて、困ったような顔をしている。なんだろう、掲示板の暗号を本気にしたのか?
このもの狂おしい気持ちは、自分すら解くことができない。
いまは。
まだ語り得ぬことだと、そっと口をぬぐった。
頭をつきあわせて旅の予定を埋めていく、二組の指がさす方角は同じ。
おぼろげに繋ぎあわせた短い旅路だが、手をたずさえるという意味に限りなく近く。
ふたりの偶然が、運命に染めあげられるまではまだ遠く。
すべてはまだ伏せられたまま、未完成のまま。
ブルーシートに包まれたまま、ほんとうの青を待っていた。
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