a trick of fortune
1.
英都大学法学部講義棟の出入り口で、僕は「これからどうしようか」とつむじを掻いた。
午後イチに入れている民法が突如休講になり、昼以降はお役目御免とあいなったのだ。
火村なら1分1秒を惜しんで図書館に寄りガツガツ勉強していくだろう。1分1秒は言い過ぎかもしれないが、兎に角とても生き急いでる男なのだ。下手したら朝から日が暮れるまで大学にいる時もある。将来の進路は学者。わかるわかる。
そんな志のない僕は、くるりと自転車置き場の方へ足を向けた。いざゆかん、珈琲と活字のめくるめく時間へ。愛するあまり自分でも書きはじめてしまった推理小説の世界にどっぷりつかるのだ。
ああそうだ、その前に火村の顔でも……っておいおいうぉーい。
さっきから火村火村、火村って。
彼は僕の大学生活において、もはや欠かせないメインキャストとはいえ、心の中で呼び出し過ぎだ。
華やかな女性陣を押しのけ、いつも僕のお付き合いリストトップスリーに現れるその男の名は火村英生。
同い年、僕とは何の縁も所縁もない社会学部に在籍している。
怜悧な顔の裏に収まった灰色の脳細胞は、間違いなく優秀でクレバーである。ゆえに毒舌、ということが出会ってすぐに定着したわかりやすい人物像だ。
周囲には「顔はすこぶるいいが、斜に構えた、いけすかない男」だと噂されている。
言いたいことはわかるが、それを言い出すと結局比較論だし、立場とか価値観の違いだし。
火村はそれだけの男じゃない、側面だけでは言い切れないと思うようになるまで、僕は彼との付き合いを薄いながら重ねてきた。
法学部生の僕が彼と知り合ったのはちょうど1年前になる。10年はネタにできるだろう妙な出会いと、それに合わせて畳み掛けるように合い縁奇縁が続いた。
書いた話を読ませてくれと言われたり、感想を聞かせろと頼んだり。
コンパだと言っては飲み会に引っ張って行ったり、誰それの本を読みたいと言われて貸したり。とまぁ、ごくごく普通のお友達だ。皆が言うほどお高い男でもない。
強いて気になるところを挙げるとするなら、たまに真夜中に布団の中で不審なうめき声を上げていることだが、それも僕が勝手に心配してるだけで彼は表面上毅然としている。言葉をかけられないほど殻が堅い。
火村は、それもひっくるめて魅力的な男だ。少なくとも僕にとっては。
だから構内でちょっと時間を持て余すとついついヒムラヒムラなんて唱えてしまうわけだ。そこで、はた、と気付く。
彼は午後にゼミが入ってる筈だから、誘うのはNGだった。
僕は彷徨いかけた足を方向転換させ、最近手に入れた自転車に乗って校門から飛び出た。
「飛ばすでレオパルトー」
名前はドイツ戦車だが、実態は中古のママチャリだ。
大学から一駅分ほど北東に走ると、商店街と住宅が立ち並ぶ通りに入る。北白川に向かうようでいて、遠ざかるルートだ。
古色蒼然とした酒屋や床屋の前を走り抜け、ゆったりしたカーブを曲がると目的の場所に到着した。
二階部分の壁面に取り付けられたネオンサインには、古ぼけたボックス型のそれに黒文字で『焙煎珈琲こうじ』とだけある、通りに面した小さな店だ。
近隣の商店と同じく古めかしい外観で、かつては白かっただろうモルタルの壁や、ピカピカだったろう薄いレンガ葺きの軒先は煤け、年月ぶんだけの傷や染みを背負った老兵のごとくである。
平成になるまえからずっとこれですといわんばかりの、傷だらけの樫の扉を押し開くと、ドアベルの音を聞きつけた店主が奥の間から分厚い樫のカウンタに出てきた。
店主は僕の中学時代の友人で、小路乙味(こうじいつみ)という。この店より早く生まれたかどうか…という若さだが、『顰みに倣う』を地でゆく憂い顔で、不思議とレトロな店の雰囲気に馴染んでいる。今風に髪を染めず、黒髪をさっぱりとカットしているせいかもしれない。
「いらっしゃいませ……ああ、有栖川やないか。ようきたな」
「ごぶさた、元気そうやな。外は暑いくらいやで……アイスを。今月のおすすめは?」
「ブルマンはどうや?」
「好きや」
「ええお客やわ、有栖川は」
まぁ座りやと促す何気ない微笑に、客を捌いてきた経験が滲み出ている。なんというか玄人っぽい。
見回せば、奥に4つあるボックス席はがらんどうだった。珈琲屋だがお茶を挽いていたらしい。僕はカウンタの隅に腰を落ち着けた。
幾ら昔なじみとはいえ、ここは帰り道でもなければ、コーヒー代が安いわけでもない。
なのに月2回弱のペースで自転車を駆ってまで来るのにはわけがある。
「なぁ、今日はこっちの棚見てええ?」
「どうぞ。ホンマ好きなんやなぁ、それ」
そういって視線を滑らせた先はカウンタに横付けされた本棚。お目当ては上段の週刊誌や漫画などではない。
棚の最下段にきちっと並べられている、70年代以降発刊されたペーパーバックである。
元々雑食の僕はハマっている。マイブームなのだ。
当然すべて英語なので貪るようには読めないが、子供が歩くぐらいの早さでは読める。
イツミはホイールの中を疾走するラットを見るような眼差しで、ペーパーバックに齧りついた僕を見遣った。
注文の品を待つ間、古い木とヤニとコーヒーの香りが漂う空間でペーパーバックに没頭していると、ここが現代の京都である事を忘れそうだ。くすんだモルタル壁にかかっているビアズリーの複製画も、コーヒーテーブルも、20年前のまま時が止まっている。
本当に一瞬僕の時間は止まっていたらしく、ふと顔を上げるとテーブルにはいつの間にか琥珀色で満たされたグラスが置かれていた。アイス珈琲が珍しいわけではないが、つい頬が緩んだ。
彼のドリップする珈琲は格別美味しい。始めて口にした時、一杯の珈琲にこんな豊かな風味が詰まっているのかと驚かされた。
その時なんてうまい豆だと思って買って帰り、自分でもやってみたがあの香りには遠く及ばなかった。そこで初めて、どれだけ彼が研鑽を積んだことだろうと素直に感服したものだ。
そしてグラスの傍らには、頼んでいない焼き菓子が小皿に載せられていた。きつね色に焼かれた薄焼き煎餅は、半月型の真ん中をぎゅと摘まれており、かさ地蔵の笠に似た不完全な円錐形をしている。挟まれたおみくじがちょっとはみ出ている様子がやけに無造作だ。
その大振りの餃子のような菓子が、3つ山を為して皿に載せられていた。
「サービスやからご遠慮なく。フォーチュン・クッキーいうん。聞いた事はある?」
「知識だけは。アメリカのチャイニーズ・レストランでメシを食うと、最後におまけで出てくる菓子やねんな。
元々日本発祥のもので、東北では大昔から『辻占煎餅』ゆう名前で土地に根付いていたんやそうや。
それを萩原某いう日本人がサンフランシスコ万博の際に持ってった。そしたら向こうのチャイナタウンで広まって、
今は定番のデザートになってしもうた。だから中国発祥みたいなイメージが定着してるんよな。それ東北土産なん?」
「これはアメリカ土産や。オヤジが行っててな。しかし、よくもまぁスラスラでてくるもんやなぁ」
「買い付けに行った先って、ブラジルやなかったか」
「壮大な寄り道をしよったんや……」
元々の店主であるオヤジさんはそつのない息子に店を預けて弾けてきたらしい。ていうか50過ぎてアメリカ大陸縦断してまうんか。
イツミの憂い顔の理由が透けて見えるが、それさえも家族団欒であろう。
僕はアメリカ経由で京都に流れ着いた菓子を摘む。この菓子がここに出されるまでの経緯を想像し、ちょっとどきどきしながら真っ二つに割って、スルスルと小さな籤を引き出した。籤には英語で、
『今日をイケてる日にしたいなら、まず初めに自分自身を見つめて』
とまるで退屈な文が書いてあった。
あっと驚くような言葉がかいてあったら!なんて、ほのかな期待を寄せていたらしい僕はちょっと醒めてしまった。
しかし言葉というのは不思議で、読んでしまうと捕われる。
なんとなくごく近い過去を振り返っていると、明日の朝イチに必要なノートを、火村の部屋に置きっぱなしにしていたと気付く。
あれがなくてもやり過ごせるが、しばしば前の講義でやった範囲まで遡る癖がある教授なので、あったほうが安全だ。
「早速ツイてるやん」
「へぇ、それ当たってるのか?」
「大当たりや」
「おれも面白いのひいたよ。『与える喜びの中に愛が生まれるでしょう』スケールでかいやろ?」
「どんだけドラマチックやねん。理想を言えばそうであればええんやろうけど……まさかそれ当たってん?」
「そうやな……当たりといえばそうかもな」
グラスを拭き上げる手を止めたイツミはそう言って、口元だけで何かを含むように笑った。やらしいやつや。
時間を忘れて没頭した僕は、すっかり日が傾いたころ本を置いた。
ビニル袋に入れられたクッキーの余りを桃太郎のように下げ、足取りも軽やかに店から出て、駅へ向かうルートを外し北白川へと自転車を走らせた。
*
すっかり火村が在室しているつもりで尋ねたら、今日は家庭教師のアルバイトに出ており、9時に戻るとのことだった。
あの部屋の扉が開くまで1時間以上かかるというわけだ。
不在の火村のかわりに部屋へ招いてくれたのは、今春からここに入居しているマレーシアから来た留学生で、名を衛大龍という。おっとりした風情でとっつきやすい。座布団をすすめる所作は商家の優しい番頭さんといった感じだが、実際はホテル業を営む家のお坊ちゃんだ。礼儀正しく、育ちの良さを感じる。
「おいしい紅茶が送られてきたのですが、ひとりで飲むのは勿体ないと思っていたところなんです」
「ええな、紅茶の本場が近くて。それでは遠慮なく、ごちそうにあずかります」
「あずかる? のですか」
「あ、荷物を預けるのあずかるちゃうよ。この場合は、うーんと、分け前をもらうっていうニュアンスかな」
「なるほど、勉強になります」
勉強なんて言われると少し照れる。大龍の日本語のほうが余程正しく美しいのに。
彼は同い年だろうが丁寧に言葉をあやつった。お手本に忠実すぎてちょっと面映いが、だんだん馴れてきた。
相手に気を遣わせまいと言葉を選ぶ姿勢も、彼の場合自然と身に付いたものなのだろう。どつくと本気でへこみそうな繊細さが伺えるが、それは美点でもある。僕も下宿の人間も彼には好感を持っていた。
火村の部屋とは比べ物にならないほど整頓された彼の居室で寛ぐ。やがて、香り高いダージリンティと小皿が目の前に並んだ。
小皿の上には薄紫色の、花と思しき形をした菓子が並んでいる。干菓子だと言われ驚いた、渋すぎだ。
「お茶のために作られたお菓子ですよね。綺麗で美味しいです」
「実はこっちも面白いお菓子持ってるんや。お礼にもならんけど、余興と思って楽しんでや」
僕は所持していたフォーチュン・クッキーを、おずおずと干菓子の横に置いた。
「チャイニーズレストランのデザートですね」と反応したので、イツミにした説明をもう一度ここでも展開する。マニアックで申し訳ないが、大龍はニコニコとクッキーに手を伸ばしてくれた。ああ、火村にこの百分の一ほどの愛想があれば。
彼のひいた籤には、『たった1度で、世界が変わる』と若干意味不明な言葉が記されていた。
その言葉を受けた大龍は「ううぅん」と悩ましげに紙片を見つめては唸っている。
ほんのり顔が朱いような……ははぁん、好きな子がいると見た。おくてな外見に反して惚れっぽいのだろうか。にやにやしていると、彼は取り繕うように「意味が深い言葉ですね」と、そこまで折るかというくらい小さく籤を丸めた。
美味しいお茶をいただき、時を忘れ雑談で盛り上がっていたら廊下がミシミシ鳴る音が聞こえてきた。
「帰ってきたようですね」
「ここは大概のことが筒抜けやな。どうせ風呂とか済まさなあかんやろから、もうちょい後……」
と、言っているとミシミシは真っすぐ部屋の扉の前に来て、ノックするやいなや軽く壁が揺れるような振動とともにずいっと木戸が開いた。
果たして、無遠慮に足を踏み込んで来たのは火村だ。
自転車をこいできたのか前髪が後ろに跳ね上がっており、ボサボサ頭に拍車がかかっている。
無礼者は大龍に挨拶もなしに、じろっとこちらを見て言った。
「ふたりで何やってんだ、こんな時間まで」
「ご挨拶やな。ごめんな大龍こんな礼儀知らずが隣人で」
「これが下宿流のようですから。僕も慣れましたし……」
出会い頭からつっけんどんな会話をする僕らの間を、大龍が柔和な笑みで取りなした。まるで喧嘩しているようだと初回にドン引きされているので口を慎まねば。
「そういうことだ。アリス、どうせ忘れ物を思いだしたんだろ。おれの部屋に移れよ」
「うわ。相変わらず悪魔のようにまるっとお見通しやな。大龍ごちそうさんでした。名残惜しいけど、寛ぎ度20%の部屋に行ってきます」
「悪かったな。そこを更に荒らして帰りやがるのはどこの誰だったっかな」
「おれひとり飲み食いした跡がなんぼのもんやねん」
「へぇぇ。大龍、こんなこと言うやつ、もてなしても甲斐がないぜ」
「わわわなんちゅうこと。そういうつもりやないんや大龍。火村に言うたんや、さっきの火村限定!」
「わかってます、わかってますから有栖川さん」
再び大龍に火村と僕の仲を心配されながら、彼の部屋を辞去した。
それにしても……僕と火村の掛け合いにそろそろ慣れてもいいのでは、と思うのは一方的な押しつけだろうか。
入れよと背中を押された火村の部屋。
同じ6畳間なのに大龍の部屋はお茶の間で、ここは狭くて在庫が多い古本屋に似ている。積まれた本のタワーを縫うようにして、畳んだ布団と座卓とオーディオ類が無理矢理配置されている。汚いというか、とりとめがない。
そっと足を踏み入れ、本を押しやってスペースを作る。
「これ以上片付けたら作業にならん。寛ぎたければ慣れてくれ、おれは寛いでいる」
「別に。あんなん冗談やん。散らかってるとは心底思うけど」
実はちょっとこの部屋の有様を反省していたりして、と見遣ると火村は片頬だけで笑い軽く肩をすくめた。
どういう反応だろう。片付ける気はないという意思表示か。その証拠に鞄とウインドブレーカーをポイとラックに引っかけていた。
彼は、台所でちょこちょこ動いたと思ったら珈琲を入れて持ってきた。座ったまま受け取ったマグは、火傷の心配がない温度だ。主は長い足で僕の前を横切り、定位置である文机の前に座った。
「で、忘れ物ってアレだな」
「せやせや、この前君に貸したノート。明日要るから回収に来た」
「電話くれれば持って行くのに。明日だったら1限からずっといるし」
「おれも朝イチやけど、ムリムリ。待ち合わせできるほど早よう起きられへん」
「どんだけギリギリで登校してんだよ」
火村は迷うことなく見つけたノートを差し出し、その手で煙草に火をつけた。独特の香りが漂うのを鼻で感じ、寛いでいる自分に気付く。
部屋には実はもう慣れているし、だらだら寛いでいるが、どこか弛緩できないのも確かだ。
彼の視線や言葉は、ナイフを潜ませたワインのようである。
つい目を奪われる形の良い瞳や、淀みのない理屈は口当たりの良いワインのようにするすると僕の中に入るけれど、そこに潜む鋭い何かが僕を刺激する。ナイフは、ささいなことでも真実を見極めたいと思う気持ちのあらわれ。
そういうのにあてられるのは不快じゃないし厭じゃない。つまり寛ぎ度20%というのは褒め言葉なのだ。
たまに凝視する場面じゃないのに僕の顔をじっと見つめたりするのは、よくわからない癖だがそれはそれで慣れた。
「そういやアリス、今日は午後フリーだったんだろ? どこほっつき歩いてたんだ」
今まさに、そんな会話じゃないのに見つめられている。尋問とは言わないけど、アメリカのホームドラマのパパと息子って感じだ。いままでなにをしていたんだ言いなさい。てなもんだ。
もうちょっと楽しげに聞けんのかなぁ。『どっかいい店知ってる? おれも誘ってよ』とか。
「例のダチの店にずっと居ってん。あそこのペーパーバック読んでたら日が暮れとった。せや、君にもあげる」
空気を変えたくて、袋の底に残っていた最後のひとつを差し出すと、余り物を睨むようにして受けとった。
「アぁ? これはどうしたんだ」
「フォーチュン・クッキー。珈琲頼んだらついてきたんや。余ったのをお持ち帰りしてん。折角やし、さあさあ割って運命の扉よひらけゴマ」
「こんなもんで開かれてたまるかおれの運命。しかも選ぶ余地ゼロかよ」
ぶつぶつ言ってるが、甘い物好きなのは知っている。うるさいから仕方なくといった顔で、砕くように割ってクッキーを口に放り込み、籤を取り出した。
一瞥し、まるでやる気のなかった表情のど真ん中、眉間が僅かに寄る。
横から覗き込みたいのをちょっと堪えて見つめていると、ぽい、と畳にそれが放られた。期待通りの反応をありがとう。
「なになに……『あなたの幸せは身近なところに、すでにあります』愛少女ポリアンナみたいや。よし、今日君は愛少年ヒデオだ」
「愛はやめろ、つか少年じゃねぇし」
「無垢からほど遠そうやもんな……。そのセンタクはどや、当たってる?」
「おまえこそ腹真っ黒だろ。こういう占いは自省する事で成り立っているから、なんとでも読めるもんだ。
当たったと言えば当たってる」
「うっわ意外、全否定するかと思ったのに。ま、自省を促すと言う意味ではハズレなしやな。ノートの件を思いだしたのも、この籤が切っ掛けやし」
「ということはアリス、こんな遊びをしなけりゃ、ノートのことを思いだすのは明日の朝だったかもしれないって?
そりゃよかったなぁ。それより無計画なのを自省するといいと思うんだけどさ」
にやにやと小馬鹿にした笑いを向けられる。くそ、口が滑った。
「今朝まで覚えてたんやけどな、今日いっぺんも君の顔見んかったし。一目見れば違ってたかもしれへんで?」
こう言うと、火村の顔をメモ代わりにしているようだが実際そうだった。思い浮かべるだけでは駄目だったらしい。
聞き様によっては「顔が見たかったんや」と言わんばかりでもある。斜めに切り返したかったとはいえ、男相手にはちょっとシュールだったかもしれない。
えへへ、と誤魔化すように笑うと、火村はゴーヤジュースとバニラシェイクを交互に飲んだような、表現し難い苦笑いを浮かべた。
「……おれだって顔を隠してたわけじゃない。あっちこち探してたってのに、とっとといなくなっちまったってわけか」
そんな笑いを浮かべられたまま徒労を嘆かれても、そんな日もあるわとしか御応えしようがない。
そうこうしているうちに、気付けば時計の針はすでに10時を指していた。
お互い翌朝はつつがなく登校したいと願っているので、酒には手を出さず速やかに下宿を辞去した。
来客の、ほっそりした後ろ姿が夜道に紛れる前まで門前で見送っていた影が、誰にも聞こえないくらい小さく告白する。
「愛少年なんかじゃねぇよ、ばか」
自転車を軽やかに走らせて行った彼のジーンズを視線で追うだけで、喉の奥にぴりりとした疼きが走って胸の奥が詰まってしまう。
理性ではどうしようもないなにかが、むせ返るような草いきれの匂いに煽られるように体を駆け抜けて行った。これが幸せというのなら、あまりに愚かしい。
心のどこかが欠けたように不安定で、苛立ちに似た熱を抱えて、もどかしさに言葉が縺れているではないか。
追いかけて、泊まって行けよと、理屈にあわない事をあいつに押し付けたくてしょうがない。
今日、思いがけず来てくれたことが、何か特別の出来事のように思えるなんてどう考えてもおかしいし、笑顔や含みのある言い回しひとつで気分が浮き立ってしまうなんて変だ。
自分のことが説明できない、本当のことはわかってるくせに。
出会ってから今日まで何百回と出くわした感情が、また体の奥で火を噴く。
どこれもこれも思惑の外。まるでおかしなバグだ。おかげでパフォーマンスが3割減だぜ、どうしてくれよう、元々そんな上等なもんでもないけどな。
最近の付き合いに物足りなさを感じているところに、ひょっこりやって来られたら、同じところをループしちまうだろうが。
「不毛だ」
うじうじと切なくなりながら見送ったのち、憤りに近い感情を額に貼付けて部屋に戻った火村は、ペンやらクリップでごちゃつく小引き出しから、小さなマッチケースを掘り出した。
それを見つめ、彼はある事を決意する。
幸せとは、さまざまな愚行の総称かもしれない。