5.







昨夜布団の上に横たわってもなかなか寝付くことが出来なかった僕は、原稿用紙を前にしても落ち着かず、生まれて初めて眠るために酒を求めた。


そのせいで寝起きは最悪だった。
首になにか重いものが巻き付いたかと思うほど、体はだるいし頭がふらつく。食欲も振るわない。
朝食を抜いた僕は、キオスクで缶コーヒーを買いホームで飲み干した。久々に口にしたそれは甘ったるい清涼飲料でしかなく、ちゃんとしたものを昼に取らねばと思った。



空腹を抱えて学食に行く。その途中、待ち合わせ場所にしていた通路に月岡さんがいた。
こんなときに限って火村はいない。居ても困るというか怖いというか。彼女と僕は遠慮がちに挨拶をしたが、これから返事をすると思うと少しトキメキとは違う種類の動悸がしてきた。
断る腹づもりだったから迷いはないけれど、あまり振った経験がないので余裕なんか保てそうにない。
ある種の男は、『いい女をソデにする』という事に対してロマンティックな幻想を抱くらしいが、失礼にも程があるよな。
こんな場面で相手の自負を傷つけるような幻想はできない。

「うん、わかった。気にしないから、有栖川君もそうしてくれると嬉しいかな」

思いのほかカラッとした笑顔でそう言った彼女は、「いままでありがと」と軽く手を振って去っていった。
あまりにあっけなかったので、思わずその背中を見送った。するとその視線の先、柱の影から見知らぬ女の子が現れた。こちらを振り返ることもなく、ふたりは何事か言いあって笑いながらいずこかへ歩いて行く。


健康的だ。
あんなに華奢で儚げで庇護欲をそそられるのにタフだ、僕なんか考えが及ばぬ程タフなんだな。
打ちのめされたと言うと表現がおかしいが、なにやら燦然と輝く「経験の差」とやらを見せつけられた気がする。
呆然としていると、背後から何者かの手が伸びてきて僕の後ろ髪をくしゃくしゃとかき回した。

「よくできました。メシにしようぜアリス」

誰や、と聞くまでもない声に、おさまったはずの動悸が二倍返しで戻ってきた。

「あーっ、あーっ! セットが崩れるやんかっ。火村のアホウ」
「もともとしてねぇだろ」

この野郎いつから立ち聞きしてやがったのか。
無性に恥ずかしくなって彼の手を振り切るように体を反転させた。誰かに変な目で見られたらどうするんだ。
不自然にならない程度にじりじり距離を取って触られたところを宥めている僕を、呆れたように眺める火村の視線が今日ばかりは痛い。


痛いと言うかむず痒いと言うか、彼のことをまっすぐに見ていられない。
腰履きしているブラックジーンズや、色褪せた紺色のポロシャツあたりに視線を彷徨わせながらついて行った。




そして生協で買い込んだパンを中庭で広げた。日差しがきつく、日陰にいても喉が渇いた。隣り合っていると昨日のことなどまるでなかったかのように穏やかに時間が過ぎ、夏期休暇の計画などで会話が埋まる。
でも火村の口が動くたび、座る姿勢を変えるたび、返答を迫られているようで胸が詰まった。


どうしてこのままではいけなかったのだろうか。
火村のことは好きだし、面白いから傍を離れ難いし、気が合うから長く付き合いたいのに。
……友達でええやんか。付き合うとかそういうのナシで。


と、一蹴してしまいたいのにそれができない。
告白されたという事実があってなお平気な顔で友人を続けられる自信が無い。火村は出来そうだが、僕はどうだか疑わしい。 同性としてあらゆる意味で『意識』している故に。
学内の華やかな女性陣を押しのけ、いつも僕のお付き合いリストトップスリーに現れるだけあって、火村はやはり魅力的な男で。


一晩考えてわかった。
なんのマジックかトリックかわからないが、突き詰めて想像した結果、彼の好意に嫌悪感はわかなかったのだ。
それさえも理解したいと、そういう方向に心が傾く。
この気持ちはいけないことだろうか。興味本位と思われるだろうか。中途半端だろうか。

「気にするなと言っても無理か?」

会話が途切れた隙をつくように、さらりと問われた。
心臓が跳ねた。

「きみがそれを言うんは変やろ……また言いっぱなしか?」
「そんなこと言っていいのか? 何か求めていいのかよ。困るだろ、返事しろとか迫っても」

人の輪から外れ、大樹の下で膝を抱えている僕らはどんなふうに見られているだろう。ちらりと視線を巡らせて(気が小さいとか言わないでほしい)誰も注意を払っていないことを確認する。

「 ……困るわなぁ。こんなん、初めてやし」
「そうだな。今日はこれで満足しとくか。メシ一緒に食ってるくらいだから、嫌われたわけじゃなさそうだし」
「ま、満足て」
「そりゃ、やっぱりちゃんと向き合ってもらいたいからな。ホモのくせに贅沢ですか?」
「そそ、そんなことはないと思います。って、調子狂うわなぁ、ホンマ。それにホ…モのくせにとかやめろよ。
 卑屈なの嫌いや。似合わへんぞ」

両足を芝生に投げ出し、だらし無く座った火村は、その様子に似合いのひどくリラックスした笑顔で僕の言葉に耳を傾けている。僕はどんな顔をしているだろうか。唇が尖っているのは間違いない、小声になっているから。

「言葉のアヤだよ。おまえ揚げ足取るの好きだよな。ったく、拗ねるなよ」
「拗ねてへんわ。ええかげん言いにくい話を大声でする気にはなれんのや」
「誰も聞いちゃいねぇよ。あ、予鈴だな」
「あかん! 教室遠いからはよ行かんと……」

こんな軽い緊張状態で慌てて何かをするとろくなことがない。
立ち上がったとたん目の前が真っ暗になった。ああ、脳貧血や。寝不足の上栄養失調とくれば結構強烈なものだった。
ふっと見えざる糸に上体が絡めとられたように傾いで、踏みとどまろうとした足も縺れた。パンが入っていたポリ袋を踏んでいる、アホだ。
あっという間にみっともなく転けた、と思った。

「いってぇ」
「っつ! す、スマン」

苦しげに呻いたのは僕ではなく下敷きになった火村のほうだった。
ポリ袋のせいで倒れる先を誤ったらしい。筋骨のカタマリをモロに受けて、彼の肋骨は無事だろうか。
離れようとしてもがいたが、その瞬間、ものすごい力で引き寄せられる。
上と下、重なりあった体がある行為を暗示しているようで、ドッと汗が出た。
こんなこと想像しているのは自分だけだと思いながら、それでも羞恥心にかられて殊更声高に笑う。

「はははは! こらー、プロレスはやめぇや」
「誰に向かって言ってんだよ。もう誰もいないぜ」
「火村ァ……、わかっとるんなら」
「まぁ折角だし?」

何が折角なのかわからない。じたばたしていると、抱きしめる腕の力を軽く緩めた火村は「夕方、自転車とりにこいよ」とわざとらしく耳に吹き込んだ。ザッと走る鳥肌に激しくもがくと、ようやく解放してくれた。
この男はアホだと思った。
そんな小細工が通用すると思ったら大間違いだと、ぽかりと頭を殴ってから立ち上がる。


まだ背中を芝生に預けたままの火村は、ふっきれた様子で笑っている。何を考えているのかを無視したら、そのままビールのCMにでも使えそうな絵ヅラだ。
残念なことにこのアホ男を気持ち悪いとは思えない。僕ってなんだ。

「アリス、来たら上がってこいよ」
「は? 勝手に持って行くで」
「おれのチェーンに繋いで保管してるから。鍵、いらねぇの?」
「勝手に繋ぐな。うわっ、今の本鈴やんか。火村のアホウ、覚えとけ!」
「忘れませんとも」

なにを忘れないというのか、問いただす暇もなく逃げ出すように走り去った。




ドタバタと遅れて入ったゼミは、遅刻を厳しく咎められるし質問は答えられないしメッチャクチャだった。
あの掠れた低音が後から後からリフレインし、僕を動揺させるせいだ。
悔しいが、きみの思うツボかもしれない。
危険な傾向である。











嬉しくもない七夕の日、おれは天国と地獄を往復した。
長く緊張状態、というかお預け状態にあったおれは「月岡さんと付き合えへん」とアッサリ言い放ったアリスに、何か「よし」の合図を貰ってしまったと思い込んだのだ。そうとしか考えられない。
でなければ、あれほど不用意な告白をするはずがなかった。


気付けば、アリスの色気のないのっぺりした手に縋り付いて告白をしてしまっていた。
なんてことを!
言ったそばから軽卒を悔いたが、アリスの瞳に微かなゆらめきを見つけて心臓が止まりそうだった。
おれは遂に自分に都合のいい幻覚を妄想しはじめたのだろうかと目を疑ったものだ。


引き止められているアリスは逃げもしないが何も言わない。
沈黙に何かが了承されていると直感し、この告白を冗談にされないよう唇を落とした。おれは既に冷静になっていたから、狙って決定打を出した。
イツミにされていたキスの分も上乗せで、手の甲に顔を寄せて。
そしてそっとアリスを覗き込むと、今度こそ本当に目がいかれたかと思った。


どうしてそんなに、羞じらうように身じろぐんだ。目を逸らすんだ。
いつもなら回りすぎるくらい回るアリスの舌が、凍り付いたように言葉を忘れて口中におさまって。
月岡某に告白されたと言っていた時以上に、アリスはひどく色っぽい顔をして。




多分、箍が外れてしまったんだと思う。
おれはその時からアリスに恋心を見せるのを止められなくなってしまった。






この後、講義が重なる日に会う習慣はなくならなかった。避けられることも想定に入れていたので、これは思わぬ僥倖だ。
以前と変わらず「図書館に行くか?」と誘いをかけるし、コンパに行こうと誘われる。
今まで通りの日常の中で、少しずつ増えているのは軽い接触。
肩を寄せあって文献を探すこともあるし、酔っぱらった弾みで体を抱くこともある。
アリスは親友同士の枠内だと思っているのか寛容な態度でおれのすることを許している。


この前は、ちょっとお高い日本酒でとろりと緊張が解けていたところに、軽いキスを仕掛けた。唇を摘むくらいなら、どうかなと。さじ加減を慎重に計ったおかげかどうか知らないが、目を閉じて応じてくれていた。
単純に眠かったのかもしれない。


一連のスキンシップを見て、アリスはおれを待ってるだなんて、勘違いしてはいけない。
あいつは冷静だ。告白されたと騒いでいた時だって、あっという間に冷めていった。そんな理由で月岡某を振るか?と内心呆れたものだ。
頑固なんだ。おまけに、どこまで計算なのか知れないが狡い。
一ヶ月経っても返事を寄越さないのに、このおれが、笑顔ひとつでそれを封じられるなんて。
不利な状況である。













「火村、何ぼさっとしてんねん」
「おまえと一緒にするな。社会学的哲学的思索に耽ってるんだ」
「意味わからん、ただの野暮ちんやんか。大体おれの何処がぼさっとしとるっちゅうんや。さっきからイツミと小気味よい会話を繰り広げとったやろ。聞いてへんの?」
「聞いてるよ。おまえの好きなバンドの話だろ」

と、火村氏は言って、これだからプログレマニアはと肩を竦めてバカにしきった表情をアリスに向けている。こんな漫画じみた顔もするのかと驚き、おれはしげしげと眺めた。


わが城、『焙煎珈琲こうじ』のカウンターに並ぶふたりの会話は、悪態をつくか盛り上がるかの両極端なのだ。
夏の暑さのせいかもしれない。


何時したかわからない約束を果たす気になったのか、地獄の季節にふたりはやってきた。
盆前の京都は歩くだけで茹だりそうだ、というと誇張表現はなはだしいが、暑さに弱い人は頷いてくれるに違いない。
京都に来て3年だという火村氏も例外ではないようで、食欲はないわ、さりとて素麺とザルソバに飽きてきているわで、少し頬が痩けている。

「中学の時も、イツミとはこんな話ばっかりしとったなぁ。きみくらいやったもんな、話が合うの」
「……せやなあ。いや、春日井さんもよう話しよったやん」
「あ、なぁ、ひょっとして春日井さんやない? 前の話に出てたん、おれ、彼女しか思い当たるフシがないんや」

一瞬、クーラーの設定温度を下回るブリザードが駆け抜けたが、有栖川は気付かない。そんな不用意に、ニコニコ言わんといてほしい、隣の御仁が、ちらっと嫉妬の吹雪を見せたぞ。まったく、この空気読まない様には苦笑するしかない。

「そうや。やっと気付いたか」
「ああ、惜しいことしたなあ。実は春日井さんも、たまーに、可愛いなと思っててん」
「たまに、って本人聞いたら怒るで。殴られろ」
「誰ですかそれは」

割って入ってきたにこやかな火村氏というのも、なかなか見応えがある。目が笑っていない。
わざとか、わざとなのか有栖川。おまえが悪いんや、と心の中で付け足して答える。

「昔々あるところに、有栖川賛美をしていた女子がおりましてねぇ。もうべた惚れで、聞かされるこちらは当てられっぱなし。そうそうこないだ外でおうたんやけど、今有栖川くんはどうしてるかなぁ、て言うてたよ?」
「「えっ」」

電気を仕込んだ椅子じゃないのに、ふたりは5ミリくらい飛び上がった。
火村氏は血相変えて、有栖川は驚きに目を見開いて。
春日井さんも、おれと同じく同性しか好きになれない性癖で、再会した場所もそういうパーティだと言ったら、もう1センチくらいは飛び上がるだろうか。全く、何が心配だというのだろうかこのふたりは。

「彼女も今更きみに声かけへんわ、そんな、付き合うてますオーラ振りまいてるきみら見たらソノ気も失せる」

誰だってそう思うんじゃなかろうか……アレを見れば。


今度は「は?!」と有栖川だけが驚いているのに対し、火村氏は平然としている。成る程、教えてやらないのか。


アレというのは背後の壁の中程に帯状に貼られている鏡だ。その存在を失念しているらしい有栖川は罠にはめられていることに気付いていない。


ちょうど、おれの立ち位置からはよく見える。
時々火村氏はカウンタの下で、有栖川の指に自分のそれを絡ませるのだ。

「まさかソッチはまだなん? 有栖川」
「ちょっ待て待て。妙な指示語を使うな、怖いやないか」

慌てて隣席の人の手から逃れ、わざとらしく両手をカウンタについた有栖川の顔は赤い。その顔色がふたりの距離を物語っている。今日明日中には食われること必至だな、南無、と幸せな恋の虜囚に運命の扉を示す。

「どうぞ、サービスです」

それは、手のひらサイズのフォーチュン・クッキー。おれだけが籤の中身を知っていて、あえて同じものを差し出した。
割り開いたふたりの顔をそっと伺うと、憮然、を装ってはいるがそれぞれの思惑や焦りや迷いが浮いていて、なんだか羨ましい。



紙片に擦られている文言はこうだ。







『裸足になってみれば?』


真夏なのにコンバースで包んでいる足を、どんな場所で晒すかはおふたり次第ということで。








end







 


■a trick of fortune:運命の悪戯

ヤマダ様リクありがとうございました〜〜〜。結局健全でハピエン?……?疑問系になってますが…ぬるいでしょうか。お待たせしてすみませんでした。汗

back

menu