4.






「いらっしゃいませ」

綺麗に営業用の顔になったイツミと正反対の、絶対零度の無愛想さでいる火村と、まともに視線がぶつかる。
何か約束をすっぽかしてしまっただろうか。時間に遅れてもあまり怒らないが、虫の居所が悪かったりするとご機嫌をとるのが大変だ。だが、記憶をさぐれども火村との予定はない。
どうしたことか。

「なんや、景気悪い顔しよって」
「悪いが珈琲を飲むのは今度だ。聞きたいことがあって探してたんだ。ちょっと出られるか?」

なんだ、そうだったのか。こちらの都合を訊ねる形だったので、僕も態度を軟化させる。イツミとは十分話をしたというのもある。

「ぜひ。お待ちしております」
帰り際、イツミの視線は火村に注がれていたが、火村はわざとなのか明後日の方向を見ていた。




午後5時過ぎなのに空はまだ色を変えない。夏めいてきたのは陽気だけではない。
外の気温は少し高く、知らず冷めていた体が熱にふわりと包まれる。
自転車を押しながら火村に用事を訊ねると、真っすぐ立てた首を傾げもせず言った。

「おまえさ、月岡さんの気持ちって知ってるんだよな?」
「……見てたらわかるで? んなことハッキリ言わせんな、まぁそういうことやねん」

いまさらそんなこと聞くなよ。
そう思いながらお茶を濁して言うと、テトラポットを越える高波のように、一瞬にして火村の機嫌が悪くなった。そして実に嫌そうに口を開く。

「実際、どう思う? おれはもう、どっちだっていい。アリスがいいなら」
「アホか、ジブンの問題やろ。率直に言って月岡さんはめちゃええ子やと思うで。
 ……なあ、話があるんやったら君の下宿でもええやろ。なにも天下の往来やなくても」
「いや、下宿は……まずい。それと、もうひとつ。イツミさんがゲイって知ってて付き合ってたか?」
「はあぁぁいぃ?」

僕は高波に押し流された木っ端のように、混沌とした質問の海を激しくアップダウンした。漫画だったら頭上にWHATの手書き文字が乗っかってるところだ。
ふざけとるんかな、いや顔は大マジだ、ということは大マジでからかわれとるんや。

「知ってるも何も、おれそういうのちょっとわからへんねんけど、でも、イツミはええ友人やと思うし、
 立派に独立した一人前の男や。ゲ、ィ、とは知らんかったけど、なんで君そんなことを」
「小耳に挟んだんだ。ひょっとしておまえ付き合っ」
「ちょおまて!」

自転車のハンドルを持っていなかったら、両手で火村の口を塞ぎたかった。居たたまれないと言うか、白昼堂々恥ずかしいというか。
とりあえず静止の声に火村は反応してくれてよかった。いやよくない。

「だっ、だれがそんな付き合ってるなんて」
「たまたま聞いた話だ」
「たまたま聞かんやろ」
「話を止めるなよ。どうなんだよ、そこが聞きたいんだよ」

と、イライラした眼で僕の方を向き直るやいなや、結構な握力でこの貧弱な肩をわしづかみにした。
火村は声を抑えはしているが、感情が高ぶっているのか畳み掛けるように言う。

「その手を離さんかい、さ、酒屋のオバちゃん見てんで」
「答えたら離す」
「何様!? イツミが誰と何処で何しようがas you like it . buuuuuut! おれとイツミは友達、
 ピュアな友情で繋がってんねん。これで満足?」

と血管切れそうになりながら否定すると、火村は喉に引っかかっていた魚の骨が取れたような顔で溜め息をついて、手を離した。オレンジ色の逆光を受けた火村は、愁眉を開かぬままじっと僕を見つめ続けている。いまだかつて、こんな顔は見たことがない。
火村さんちの英生君なんだか少し変や……。僕は気圧されるままに言葉を待った。

「……アリス、友達だったら、キスされてもいいのか?」

待って損した。

「ええい聞き苦しい。思いだしてみぃ、あの程度のことコンパでもするやん。それともなんや、ホモこわいんか?」
「違う。いい、わかった、もういい」

そう言って火村は手を振り、僕に見向きもせずその手をポケットに突っ込んで歩き出した。
なにが違うで、なにがいいのか、さっぱり読めませんけど、もういい、っていう意味だけはよくわかった。ドタバタと出てきて用事はこれだけかと思うと相手にするのが嫌になる。疲れた。
目的もなく大学方面に歩いていた足をぴたっと止める。
僕は自転車を押すのをやめて、サドルを跨ぐ。

「なんなんやもー、意味分からんで。用済んだんなら帰るからな! じゃ」

俯いた背中を追い越した後ちらりと振り向いたが、火村は構わず長い足を前へ投げ出すように歩き続けていた。











今日は閑古鳥が軒先に止まっているのか、午後イチで客がはけると客足はパタリと途絶えた。

ここ『焙煎工房こうじ』店主としての仕事がなくなったので暇つぶしに東欧の旅行記を捲っていると、火村氏によく似た青年を見つけた。
何かに飢え渇いたように肩をいからせて歩く様がそっくりだ。


この間見た姿はそうだった。ドアを開くなり『ちょっと出られるか?』と、果たし合いでもしかねない勢いで有栖川を連れて行った。
(何事や。)


火村氏の顔色にピンときたおれは顛末が非常に気になっていた。
その翌日に彼は姿を現した。有栖川が来たとしても、彼が来るとは思わなかったので驚いた。
彼は

「昨日は失礼」

とまぁなんと涼しい顔でカウンタに座って何でもない顔でオーダーし、珈琲を飲みながら世間話をはじめる。まるで台本を読んでいるような時間は半時も続いた。
芝居をする彼の肩は、僅かに上がっていた。
何のための芝居なのか、おれはわかっていたが即興に付き合い続けた。仕事をしている風にしか見えなかっただろう。彼は飽きたのか諦めたのか、珈琲を飲み干すと立ち上がった。


韜晦しっぱなしかよ。
火村氏は存外慎重居士らしい。満たされなかった自分の中の何かが欲求するままに呼び止めた。

「火村さん。細部までくっきりはっきりすれば快いかと言うとそうでもなく、人間ってあまりに細かく映像で見せられてもついていけんらしいですね」
「は?」
「突然すみません、ハイビジョンテレビの話です。大阪の友人と言ってたんですけど、あれは線数が多いけど細密すぎて却って目が疲れそうだし、色数も何百と再現するけど人間の眼でそれをいちいち識別することはできへん。と、そんな話になりまして」

嘘である。
おれは客がいたらこんなこと言わなかっただろう。
彼の肩を言葉で押さえるような真似も。

「結論として、彼はハイビジョンがええといいました。アイドルの顔にいっぱいあばたがあるのまで見えて、抱いてきた幻想が壊れるかもしれへんのに。そんなふうに見ないようにしてきたものがハッキリしてしまうことを、恐れながら、どこかで求めてるんでしょうかね?」

前の文から、主語である「恋」の一文字をわざと抜いた。
黒革を張ったスツールの向こうに立つ彼を見て、おれに言わせるハラだったのかと疑った。
いままでの芝居はこの楽屋オチのためだったといわんばかりに、にやりと笑い返したからだ。
爽やかさからはほど遠い。

「隠した上で成り立ってた幻想は、子供騙しのレベルです。逆に、たとえばジョーダンのエアウォークは違うでしょう? スターが見せる幻想ってのは、こっちの分別を破壊する」
「ほんま歩いているわけやないと皆わかってても、物理の法則を持ち出す人間はいませんね」
「ええ。見せたうえで勘違いさせてナンボなんでしょうよ。おれのような凡人は、いくらでもトリックを利用しないと」
「そうですか。火村さん、あなた意外に、いや見た目通りや。ひねくれてはる」

おれも営業用でない悪い笑い声を喉の奥でならした。
愛し愛されたいと言えばいいのに、勘違させると言うあたり、彼も厄介な性格をしている。

「素直ですよ。固定観念なんて幾らでも曲げるつもりはありますが」
「されど固定観念ですやろ。勘違いは吹き零れた想像力です。相手を火傷させては……」

前提として、結婚と言う枠組みのない我々は、ふたりでいる理由を確認しあうため、いつも想像力が必要だ。
だが逆に、過ぎたるはなんとやら、でもある。
あなたは今なにをしてるんだろう、あなたの中にわたしはいますか、どんな風におもってますか
彼を思い、思われる。思いの中で、たまに吹き零れがおこる。勘違いはやはりエラーなのだ。
けれど、想像力なしに恋なんてできない。彼は、それだけ想いが強いのか。

「ご忠告どうも」

小うるさい言葉に不快を表すこともなく、むしろ苦しげに彼はそう言うものだから、それ以上話を接ぐことはやめた。本音を言うと有栖川のことが惜しいが、じたばたするくらいなら譲る。


有栖川は、こっち方面の嗜好はないかもしれないが、純粋にこの男に夢中だ。絶対にそうだ。
そりゃ、ちょっとくらいは切ないよ?
望み薄だとは思っていたが、こっちは有栖川に抱かれたかったのに、彼が有栖川をどうにかしてしまうかもしれない、そんな可能性を想像するとね。


ひどいふられかたでなければと思う。
有栖川を傷つけたらしばくで。











イツミと火村が与り知らぬところで鍔迫り合いをしていた、その数日後。
有栖は目の前の現実に唖然としていた。


「こんなんあきれると思うんやけど、自分でも今日まで考えつかへんかったことなんやけど、
 気付いたら、有栖川君のことが……」

火村の言っていることは、あの日本当に意味がわからなかったのだが、こんな形でいきなり知ることとなったのだ。

「好きです」
「えっ、僕?」
「うん……有栖川君が」

一生懸命に心変わりを羞じらいながらもすっくと立って、月岡さんが僕に告白している。
誰もいない大教室の窓際。外の光が燦々と降り注ぎ、月岡さんの髪は夏の花のように赤く透けた。


くらりとする。
目が眩むのは、光のせいではない。
むき出しの肩の白さに戸惑うのも、欲情しているわけじゃない。むしろ逆だ。恐れをなしている。いきなり引き込まれた恋愛ゴトのまっただ中で僕は立ちすくんでいた。


何が、どうして、どうなって。
驚愕と疑問と喜びが、渦潮のようにグルグル腹の中でステアされて心臓が飛び出しそうだ。
火村のことはどうなったの、とか間抜けなことを聞きそうになってあわてて口を噤む。金輪際ないであろう、「火村に恋していた女の子」を振り向かせる(そんな意図はなかったが)ことに成功しているらしいから。
今日は7月7日、曇ることが多い七夕の日だが、今年は綺麗な晴天だ。
長いこと出番のなかった彦星は、突然渡ってきた織姫に「明日まで時間をください」と言って、ぎくしゃくと教室を後にした。


だって『告白』やで?
青春の一大イベントであり、プライドを賭けた勝負やんな?


僕が当事者になった回数は、この21年間のうちに木星が公転した数ぐらいかもしれない。つまり、えーと、2回くらい?
だから、アドレナリンがこれほどの勢いで出ることに慣れていない僕は、吸い寄せられるように自転車置き場へ向かい、外へ飛び出した。
まだ4限に講義があったことを思いだしたが、今日は頭の中がそんな場合じゃない。


告白された、告白された、されてしまった。
勝手に手足が動き、気付けば火村の下宿前に来ていた。
火村に報告したかったのか? 馬鹿だな、つい先週イツミの店に駆け込んできた火村の様子を忘れたのか。


あの日から、昼はなんとなく別々にとることが多くなり、講義で会っても必要なことしか話さない。聞きたくても今はどこに居るかも知れない。彼はこうなることを知ってたのだろうか。


そのうえで、たとえば火村は態度に表せなかっただけで、月岡さんのことを好きになりかけていた、と仮定してみよう。
その中で月岡さんの気持ちが僕に傾くのを知ってしまった火村は、思いあまって僕の気持ちを確認した。
しかし結果として、月岡さんが僕に告白するのを止められなかった。


いや、この考えには難がある。
何も考えず「よしじゃあ告白してみるか」と火村はいっちゃえばいい立場なのだ。
月岡さんだって願ったりかなったりだ。僕への好意は友情だったのと思い直せば矛盾はない。
(自分で考えておきながら切ない……。)
だから、今日みたいなことになるのは何かの間違いなのではないだろうか。


おいおい、何かの間違いって、確かな事実を否定してどうする。気を確かに持て。ということは火村は告白しなかったのかもしれない。
じゃああの日の質問は何だったのだ。意味がない、まるで意味がない。
そういえば火村は、月岡さんとイツミを並列して『どっちが好きなんだ』と聞いていたのを思いだす。この並列が気になる。


僕は精一杯相関図をひっくり返して考え、ある可能性に辿り着いた。
最終兵器的なそれとして火村はイツミ狙いだった、というのはどうだ。
ゆえに牽制して「行くな」と僕に言い、頬にキスされたシーンを見て心穏やかではなかった……
『おまえは月岡さんが気になってるんだろ。イツミとなにを疑似ホモしてんだよ』と。


真実を確認するまでわからないが、綺麗にロジックが通ったことに僕は下宿の門前であることを忘れて戦慄した。
両の手に握りこぶしを作り、向かいの家の屋根瓦に向かって「……おお……!」と感嘆の声を上げる。
かように夢中になると周囲のことにまったく気がまわらないのは生まれつきだ。
だから、『ポン』と、音もなく背後に忍び寄った影に肩を叩かれてようやく我に帰った。
振り返る前に、ぐいぐいと腕を引かれ、前につんのめりそうになりながら歩かされた。

「わわっ」
「アリス、ご近所の目がある。どこかへいっちゃってないで、用があるならさっさと入ってくれないか」

声だけで相手は誰だかわかったので、素直に従った。





自室の定位置に座った火村はいつもとかわりなかった。
皺の寄ったTシャツに褪せたブラックジーンズ。長い脚を持て余すように片膝を立てキャメルを銜えた。その姿から過日のような感情の乱れは見られない。無かったことにしてしまったのだろうか。
僕は柄にもなく気後れしながら、さっきまで浮かれていた頭を少し落ち着かせるように、畳の縁を見つめながら口を開く。

「なぁ、ちょお聞きたいんやけど月岡さんとイツミやったら、どっちが好き?」

息継ぎもせず一気に言い切ると、火村は鳩が豆鉄砲食らったという表現がぴったりな顔になった。
答えが返ってこないので、もう一度繰り返す。
火村は眉間にこれでもかと皺を寄せて、聞きたくないとばかりに手を振った。紫煙をかっはーと吐き出すその目にを見ただけで後悔した。

「何を知りたいのかしらねぇが、イツミって男は限りなく他人だぜ? 好きか?って質問の意味がわからん。
 次に、月岡さんとは付き合う気なんかねぇよ。もういっそおまえがそう言っといてくれないか? オトモダチになるつもりもないから」

墓穴だ。
僕の仮説は、全て、根底から間違っていたようだ。とりあえず最終兵器的仮説はナシらしい。
しかしそんな不愉快そうにされては、(初めから危うかったとはいえ)立場がない。ここで話を終わらせるとただの電波な質問になるので、そこに至るまでの仮説を披露する。
火村は眉間を指で揉み、ひとこと。

「こんな息子をもってご両親も気の毒に」
「せやかて火村があかんのや。言いっぱなしで行ってもうたき、み、が」
「先に行ったのはそっちだ」
「心の扉ばっしり閉めたんはそっちが先や」
「ふん……開けっ放しだと不用心だろ。おまえってさ、頭悪くないし気も遣えるヤツだけど使い方違うよな……おれにも気ぃ遣ってくれ。押し掛け彼女とかさ、いらないから」
「……う」

月岡さんの気持ちを火村は最初っからわかっていた。
そして最初に見せた態度通りまったく彼女に心を動かされていなかった。いくら天の邪鬼な彼でも、さっきの言葉に嘘はないだろう。自分に秋波が来なくなったことにも早くから気付いてたのかもしれない。
火村が思惑に気付いていることを無視して、月岡さんを接近させようとしている僕のやったことってなんだろう。


ただのお節介だ。
なのに月岡さんに惚れられても、何かが違うような気がする。
火村を前に言い逃れは無理だろう。素直に白状した。

「君に隠し事はできんと思うから言うけど、あんな、月岡さんに告白されたんや」
「ふーん、そうか。……、で、付き合うのかよ」

火村は予想していたのだろうか全く驚いた様子がない。小さく嘆息する。知らぬは鈍い僕ばかりなのか。

「ちょお保留にしてる。どうしようかと思って。その、君も気付いてる通り彼女は君に告白するチャンスを伺ってた、はずなんや。最初そんな感じやったから、いまそんなん言われても正直びっくりして冷静に事を見つめられへん」
「まだ恋愛感情がないのにお付き合いできない、ってほど融通きかないわけでもないだろ。正直に言ってみろよ、どう思うか」

あからさまな言い方に顔が火照る。この年頃になれば、融通をきかせた果てに艶かしいものがあることはわりとリアルに想像がつく。
女と違って男はあまりあからさまに言わない部分なのだが、躊躇いもせず踏み込んでくるのが火村らしくて少し笑った。

「どうって……前に言った通り。むちゃ可愛いし、ええ子や。最初、君のことが羨ましかったで、月岡さんに好かれてええなぁ思うた」
「ああ、ヨダレたらしそうな顔してた」
「おまえに言われるとむかつくな。せやから告られて、むっちゃ有頂天なって心臓沸いたわ。まだ顔熱いし、もう頭ん中サンバカーニバルやねん」
「あー、よかったな」

火村はフィルタだけになった煙草を灰皿に押し付け、その手で二本目に火をつけている。頬がへこむほどキツい煙草をおもいきり吸い込んで、涼しい顔だ。
彼にとっては面白くもない恋愛話かもしれないが、ここまで話したら最後まで通してやろうと思った。

「でもな、付き合って、ええんかな。こんな自分でええんかって思う。最初はええねんけど、こう、創作のニュアンスをわかってくれへん子とおると、段々我慢できなくなるんや。小説より私でしょとか言われると、無性に鬱陶しくなる瞬間があって、それでまた自己嫌悪して」
「おまえのそのネガ思考が鬱陶しいよ」

火村の言う通り。僕は恋愛沙汰には慎重で鬱陶しいのだ。
聞いてらんないね、と煙草をくわえたままゴロリと長身が横になった。そんなの無視して続行する。

「わかっとるよ……でも、むちゃ嬉しいのに、同じくらい不安なんや。好きなだけに、こんなネガ知られて嫌われたくないし」
「あーそうかよ……」
「それに、月岡さんと仲よくできたのは、火村が居ったからやってわかるし」
「あーそう………………はい?」
「月岡さんと火村が友達になればええな、と思って月岡さんに接してたから。君が間に居らんかったらあんなに短い間で月岡さんと馬鹿話でけへんかったと思う。彼女とは趣味全然違うし」

横臥し手枕をしている火村の目が再び固まった。何を言い出したのか、と、眼球が小刻みに揺れている。

「何言ってんだ、間にいたのはおまえだろ」
「おれからすれば間にいるのは火村なんや」
「何だよそれ。本当に意味不明だぜ……、じゃあどうすんだよ、結局のところ」

それは質問の形をとっていたが、確認なのだろう。火村は僕の答えを見抜いている。
有頂天の先に見えた自分の本心は、あんまりにもあんまりだった。

「結局のところ、月岡さんとは付き合えへん、ってことになりそう」
「後悔しないか?」

火村はあくまで無表情で訊ねてきた。憮然でも無愛想でも不機嫌でも興味がないわけでもなく、表情が拭ったように失せている。呆れてるのか。僕もどうかと思う結論だ。

「もったいなかったと思うやろうな」

あんな子、もう巡り会えるかどうかわからないぞ。
と、未来の自分は過去の自分をボコ殴りにしてるかもしれない。
彼女は確かに、僕のある一面に好意をもってくれている。それはそれで嬉しいことだけど、自分の中に恋愛感情があるかというと、まだない。
告白で煽られた淡い興奮、その名残のままに焚き付けたいのか。

「……」

沈黙が痛いほどになるまで僕は黙って考えた。考えるというよりは、探していた。自分の中にいる月岡さんを。
火村はもう何本目になるかわからない煙草に火をつけていた。

「火村、おれ、どうして求められてんやろ」
「知るかよ」

即答した火村は疲れたように一瞬目を閉じて、紫煙を吐き出した。それは長い溜め息に似ていた。僕は誘われるように煙草を横取りして吸い込んだ。
いっぺんに色々考えたせいか、強いそれに頭がクラリとする。
そのまま揉み消したが、火村は新たな1本を出そうとしなかった。

「長居した。ぐだぐだと言うて悪かったな、そろそろ帰るわ」
「ああ、気をつけて帰れ。そうだ、アリス」
「うん?」

腰を上げたところで、火村に軽く引き止められた。
まるで言い忘れていたことを思い出すかのような気楽さだったので、こちらもひょいと中腰になると、手首を掴まれて。
あっという間のことだった。

「おれは、おまえのことが好きなんだ」

息することも忘れた。


外すことを許さない視線に網膜が焼けそうだ。いつまで待っても火村は「冗談だ」と言わない。
僕は視線を引きはがし山盛りの灰皿へと逸らせる。しかし心までは逃れられない。
焦れたのか、火村は手の甲に顔を寄せる。
そして決定づけるように唇を押し付けてきた。
僕は首根っこを押さえられた犬より弱々しく「ひ……」と声を小さく上げただけで、為されるがままだ。

「あ、ひむ……ら」

皮膚の薄いそこを吸い上げるように三回もされた。
紛れもなく感情のこもった、キス、というか雰囲気だけならもっと濃いものだ。


瞬きすらできなかった僕の目が乾く前に、彼はその指を解いた。
女より太く乾いた指先どうしが滑る感触に、産毛が立つような緊張感が一気に肌を駆け抜ける。
気持ち悪さではない、血が逆流するような何かが体を直撃して。

「もうしないから、そんなに怯えんなよ」
「誰が、おまえなんかにビクビクするかいな」
「じゃなんで肩上がってんだ」
「………」

指摘されてはじめて肩に力が入っていたことに気付く。悪態をつくことで保った体面もこれでは意味が無い。
わけもわからず赤面するのを止められない僕は、膠着した空気を払うように毅然と立ち上がった。半分は顔を隠すためだ。


火村はあくまで冷静に、何事もなかったかのように玄関まで送ってくれた。
そして、月岡さんの件の結果教えろよ、と彼はどうでもいいことのように声をかけてきたが、表情まではそうだったかわからない。


もう僕は、火村の顔をまともに見られなかった。
たったあれだけで、腰が砕けそうだったのだ。




そのまま頭が真っ白になったらしく、気付いたら大阪行きの電車に乗っていた。自転車は北白川に置き忘れてしまった。
なにをやってるんだ。

1日のうちに2人から告白されるという滅多にない経験をして、僕のCPUの処理速度は著しく落ちていった。










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