5.








狙いは悪くなかった。
だがガブリエルまでの距離は腕一本分届かない。
滞空時間コンマ数秒ののち、私は速やかに落下運動に突入した。
スパイダーマンのような軽業は執念の力をもってしても不可能だ。
虚空で足掻く間もなく、張り出した枝枝を突き抜け地面に叩き付けられる。
私は撃ち落とされた鴨のように痙攣し、内臓に至る衝撃に息もできない。
なにも見えない。耳も聞こえない。
せめて火村に、返事をしたかった。
打ち明けてくれた君に、思いを返したかった。
のぼせていただけで、『好き』のひと言も出なかった。
それだけが悔しくてならない。
それだけが。


















……神はいけにえよりも、あわれみを好む。






















いえ、とても丁寧で分別のある、善い方たちでしたよ。
そりゃ見つけた時からそのような心境には流石になれませんでした。
聖霊がこの土地を守り賜うことに疑う余地はないのですが。わたくしの信仰はまだまだ薄いようです、はは。
しかし水は温み、草木いよいよ生い茂る花咲月といえど、桜の樹の下で眠ってるなんて正気の沙汰じゃございませんから。はい。
どんなふうに? と申しますと……ああ、おふたりは手と手を繋いで、仰向いて倒れている格好で眠っておられました。コートやズボンに朝露が滲みて、見るからに寒そうで。
それが、おふたりとも男性だったのですよ。
ですから初めは酔漢が徒に敷地内を荒らし、映画かテレビの真似事をしたのかと思いました。最近早めの花見に興じる若い方も多いですからね。それなら、それなりに苦情を申し上げるところですが、どうもご様子が違う。
なぜわたくしどもの敷地内にいるのか、おふたりともまるで覚えがない。
これだけなら酔狂の言い訳と大差ありませんが、奇妙なことにお互いのことまであやふやなのです。ひょっとして、失礼ですがこっち……のほうが不自由な方ではないかと思いまして、ひとまず保護し、しかるべきご親族に連絡させていただこうと。とりあえず外にいても埒があきませんから、集会所に入っていただきました。
ですが、暖かいものを取って落ち着かれると、あとはしゃっきりしたものです。お話ししてすぐ、最初に言ったように、とてもまともで礼節を弁えてらっしゃる方だとわかりました。わたくしは要らぬお世話をするところだったようです。


まぁ一風変わった方なのは確かで。
もう一度周辺を見せてくださいとおっしゃるので、また外へと逆戻りました。
正門にも裏口にも錠が下りていましたから、塀を越え桜の樹を伝って入ってこられたことは、その場の誰の目にも明らかでした。
大阪の方は一連のご自分の行いがショックだったのでしょうか……桜を傷つけて申し訳ないと、それはそれは取り乱したご様子で真剣に過ちを悔いておられました。お顔を上げてください、と腰を折ってお願いしたほどです。
確かに彼の過失と言えましょうが、そこはそれ、悔いる者を責めてはいけません。
友が7度罪を犯して、7度その過ちを詫びたなら許すべきだと、神の御言葉にもあります。
お名前だけうかがいました。……いいのですよ、神の思し召しがあれば、お会いすることもございましょう。
そうして彼らを見送った後。
いつも通り敷地の芝生を整え、幾らも枝振りを損なっていない桜を見上げた時………ある考えが、心に浮かびました。
わたくしどもの教会は、もしかしたら、ひとつの奇蹟を授かったのかもしれない、と。
聖霊に守護された桜の樹の下で、穏やかに目を覚まされた。これは本来ありえないことです。
何時から倒れていたかわかりませんが、少なくともわたくしが起床した5時半より前であることは確かです。
枝を折る音にも気付かなかったとなると、熟睡していた時間帯になりますから、おそらく2時か3時か。そんな時間から倒れてらしたとすると、考えただけでも体が冷えてきます。生きた心地がしませんね。ですが、おふたりの顔色は露をふくんだ薔薇のように健やかなものでした。
まるで、聖なる衣に触れた者のように、奇蹟を現された者のように。




おふたりはご存じないでしょうね………今日が復活祭だとは。

























「……ぁちッ」

もう大丈夫だろうと思ってコーヒーに口を付けたが、判断が甘かったようで舌を焼いた。
なぜ何時もうちの職員は熱いコーヒーを出したがるのか……全く、としょうもないことで舌打ちしそうになった。俺が気をつけるべきか、と溜め息をつく。
そして、ふとある既視感に囚われた。
火傷、舌打ち、溜め息。
この三つに根ざす深い感情があった気がしたのだが、思いだせない。
どうせろくでもない状況だろう。きっと今みたいに、イライラして適温も見極められずにいたに違いない。


今は新年度最初の学部会議の最中。
相変わらず儀礼的で、題目に新規なものはなく、かといって踏襲してきたものもベストといいがたく、目下現学部長と対立している教授との鞘当てが裏の演目らしい。さもしい五目並べなぞ下々のものには迷惑なだけだ。
耳で話を聞きながら、指は唇越しに感じる思考をなぞっていた。
10日間、ずっと捕われている謎があった。
なぜ彼はあのような法螺話をしたのか、そればかり考えている。
すり切れるほど再生した会話を、もういちどスタートさせる。

「火村、心を少し柔軟に構えて聞いてくれーーーー先週、俺はある男と賭けをしたんや。そいつは自称天使っちゅうやつで。神のお使いできました、と言うん」
「タイム。お前の正気を疑うのはアリか?」
「ナシや。それで俺は言うた。『本物であるという証明をしてみろ』と。すると男は『ならば、次会う時、誰か連れてこい。目の前で奇蹟を起こそう』と言った。……昨日、俺はお前を連れて、男が待つ河原町の飲み屋に行った」
「俺にそんな覚えはない」
「せやろうな。それこそがあいつの起こした奇蹟やから」
「なるほど。お前は『今晩のことを、彼の記憶から消せ』と言ったんだな」
「そうや。信じるか?」ひやりとする早春の空気が、春のやわらかなものへとゆるゆる傾き始めた日の朝、芝生の上で俺とアリスは目を覚ました。

そこは教会だった。
どうやら3年に一度するかしないかの泥酔をしたようで。
しかも。
酔いに任せて敷地内に不法侵入。
恐ろしい事に車を走らせて来たらしい。門を出てすぐ、路肩に愛車を見つけて仰天した。
前後不覚で飲酒運転していたことに、内心深くショックを受けている俺に向かって、助手席に乗り込んだアリスは「天使の仕業」などと素っ頓狂な事を抜かしたのだ。
言ってすぐ「んなわけあるかい。俺の手を見ろ、明らかに木登りしてるし」とケラケラ笑っていた。
最後の方は洪笑だ。

一瞬、気でも違ったのかと思ったが、そんな心配を余所に、その後のアリスは俺がよく知るアリスだった。
下宿で傷の手当をしたあとは、腹が減ったと言い俺に飯を作らせ。
腹がくちくなって、一寝入りしたら、原稿があるし帰るわとあっさり帰っていった。
ひとり部屋に残され、そこでようやくアリスと顔を合わせるのは3ヶ月ぶりだったのだ、という事に思い至った。前の晩は積もる話もあったし、聞かされただろうに、アルコールのせいか殆ど覚えていない。この日、俺に残されたのは、ふたり分の汚れた食器と、深酒の反省だった。


これら一連の回想に自己嫌悪を催す。
それど同時に、残るのはアリスへの違和感だ。
返される反応がいつもとどこか違った。
硝子を汚す水垢のような、清流を流れる一筋の水銀のようなものだった。
清明で、隠し立てしようのないものの中に混じり、拭ったり掬おうものなら水面の月のように散る。
挙げるとすれば、それは合わせた目をそれとなく逸らしたり、逆に、こちらの心を覗くような視線だったり。
アリスに深い意図はなかったかもしれない。
俺の思い過ごしかもしれない。


だが、この火傷した舌先のようにチリチリと胸を突き、闇に沈んだ記憶を叩くのだ。
ここに、なにかあるぞと。無視しても振り払っても消せない。
叩いたとて開かれはしないが、気になるのは確かだった。



会議の後は雑務を片付け、日が傾いたころ下宿に戻った。
ニュースで情報を拾うためテレビを付けると、事故映像が流れている。ヘリで上空から撮った画だ。
よく聞けば、それは生の現場ではなく、昨年起きた列車事故の裁判に関するニュースに織り込まれたものだった。
子供の手でなぎ倒されたように、列車は鉄路から外れプラレールの様に身を横たえる。
原告団の会見。鉄道会社の役員の謝罪。調査団の報告。

アナウンサーの通りのいい声が、どこか遠くで鳴る太鼓のように響いた。
被害者の名前がテロップで流れた時、心臓が走り出し、厭な汗が噴き出して、バッバッ、と脳裏で閃光が焚かれる。
思わずその場に両膝と右手をつく。
……列車、脱線、事故。列車、脱線、事故。
ひと塊になった単語の群が頭の中で連結される。
回転していたタイヤがゆっくりとその速度を緩め、刻まれた文字を見せる光景にも似ている。
本能は目を逸らしたがったが、辛抱強く像を結ぶまで思考を集中させた。
徐行に入る、そこからゆっくりとスローダウンさせて、止まる。
まばたきも止まった。
なぜこんな事を忘れていたのかと愕然とする。
記憶が確かだとしたら、俺はアリスの話を信じてもいい。

「そうだ……でもまさか」

足に当たった本が崩れるのも構わず、俺は小引き出しに手を伸ばし、スケジュール帳を取り出した。











食事をしていると、日常とは口から入るものなのだなと改めて思う。
ひと仕事終えた私は、夕食とも間食ともつかない時間帯にうどんを食べて、丼も引かずにテレビの前に座った。
6時からのニュースで、昨年起きた列車事故を報じていたからだ。裁判が今春に及んでいるようである。
自分が死にかけた事故のニュースを見た時、今生きている幸福を噛み締めれば良いのか、負傷した人たちに同情すれば良いのか。


その列車に乗った筈だった私は、どこに自分を位置づければ良いか方向を見失う。
「筈」というのは、事故発生の直前までの話だ。直後は天国の一歩手前とやらにいた。
未だに信じられないが、無事に生きているという現実から考えるに「乗っていなかった」事になっているらしい。
こうして硬い体をソファに投げ出し、平板な胸に手を乗せると、残酷な神に女の体をあてがわれていたのが嘘のようである。
体は元通りになっていた。誰も私が女だった事を覚えていなかった。著者近影も男の姿に戻っているのには、奇怪を通り越し爆笑した。一緒にウケてくれる人がいないのが惜しい。

火村と生還した朝からだ。
ヤツはなぜ私たちを地上に戻してくれたのかわからない。
本当の本当は、火村を攫うのはポーズで実は私を試していたのでは、とも考えた。
いずれにせよ、天使の腹を探っても、この世じゃ埒があかない。

もっと埒があかない事がひとつ。
火村はこの3ヶ月のことを、どうやら覚えていないようだ。
この身を女に変えられて。
彼と出会いからやり直して、なぜかまた惹かれて、さだめのように恋をした。
何をしてどこへ行ったか、記憶があやふやだが、染み付いた感情だけ鮮やかに思いだせる。
会えないと切なくて、別れるたび苦しくて。喜びと戸惑いを抱えていた日々の記憶。
花が綻ぶと忘れられる、雪と陽だまりのような結びつきだった。
いつかは消える、けれど、ひらひら落ちてゆくのを止められようか。
春の訪れを前に姿を隠した冬は、あまりに甘やかだった。
だからどうやって、割り切れば良いのかわからない。
男と女として結ばれていたことを。

『惚れている』
一言一句覚えていたい。
どうしようもなく、恋しいと思う気持ちは変わらない。
ゆえに、私は元に戻って不自由になった。


気付けばニュースはいつの間にか終わっていた。
人間は己のことを考えているほかない、という結論に至る。
倦怠感でドロドロになっているところを見計らったように着信音が響いた。
非通知だったが、私は躊躇わず通話ボタンを押した。仕事関係のものかもしれないのだ。

「はい有栖川です」
『久しぶりだね。あんた何やってんの?』

受話器を通って届いた声は、まるで家族か友人のように親しげだった。
軽薄な喋り方にまさか、と立ち上がって辺りを見回す。旧友によく似た影はない。
どこからか、ガブリエルがデバガメしているのだ。

「ちょうどええ、聞きたかった事がある……俺は死んだんやなかったんか? なぜ体に戻れた」
『愚問だね。死んだ、とは一度も言わなかっただろう? 事故にあったのは嘘じゃないけど』
「担ぎやがったな、クソ天使。いままで何処に体を隠してたんだ」
『あんたが知る必要は無い』

熟れた杏のような太陽がビルの谷間に沈んだ。夕闇が迫り掃き出し窓にリビングが映りこむ。ガブリエルが現れると鬱陶しいのでカーテンを引いた。

『この不義の時代、神を信じぬ驕れる者にも、まだいけにえを捧ぐ力があった。
 それを試す事が出来てよかったよ。
「友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」
 ヨハネによる福音書第15章第13節』
「おまえ人の命をなんだと」
『ああ、そうそう。記憶と魂についての話は禁忌だからさ、自分で見つけて? じゃ』

引用好きの天使は、好き放題捲し立てて通話を切った。
フラップを閉じるかどうかのところで、再び手のひらの中の機器が明滅する。
またアイツか、と気構えて開いた。
火村だった。







春宵に染まった梅田は、流れてきた花見客も取り込んで活気があった。
美しくも虚飾に満ちた繁華街にまで、馥郁たる花の香が届いているのか。
軽い浅葱色のコートが孕む風も、どこか芳しい気がしてくる。
賑々しい街に後ろ髪引かれつつ、駅構内から各方面に伸びる連絡通路に進み、指定されたホテルに向かう。

梅田に来いと火村に呼び出されるなんて、珍しいことだった。ましてや、定宿にしている私の部屋に足も向けず宿を取るなど稀である。フィールドワークが長丁場になり、府警に通い詰めているときでさえ、仮眠には天王寺まで車を走らせてくるというのに。
ショッピングモールから掃き出される人ごみを躱しひとつフロアを上がると、そこは美術館のように静かで、品のいいざわめきに満ちたロビーが拓かれていた。
真っすぐ大理石の床を踏みしめて、部屋のあるフロアに上がる。
安らぎに隠された密やかな気配が、濃瑠璃のカーペットのそこかしこに漂う。
扉の数だけ夜があり、火村との間にも色づいた夜があったことを思い逡巡する。
とりあえず扉の前で深呼吸をしてみた。

「よし」
「なにが『よし』だ?」

いつの間にか背後にいた火村の声に飛び上がる。
そっけなく「滅多に来れないからって、あんまりはしゃぐなよ」とコンビニ袋を提げた火村は部屋に滑り込んだ。私もそれに続く。
防音機能はさほどでもないくせに、ホテルのドアはやたら重い。気も重い。
「はしゃぐな」って、失礼なと口を尖らせたが、確かに滅多にとれないクラスの部屋だった。

間取りが一坪分ほど通常のシングルより広い。しかも上層階。
デザイナーズインテリアでまとめられた、ヤンエグ……最近はセレブとでも表現するべきか……仕様の室内はさすがというべきか端正な造りである。窓も、風呂場の換気窓のようなそれではなく、1間以上あった。夜景を縁取る窓枠のスマートさも相まって、まるで1枚の絵のようだ。
すべてにおいて、無駄な驕奢を嫌う火村らしくないクオリティである。
私の不審を余所に、窓際に設えられたささやかなリビングセットの椅子に腰掛けた彼は、コンビニで仕入れた金色の缶をテーブルに置いた。

「座れば?」と手招きされ、彼の向かいに座ったところでコートを脱ぎ忘れていたのに気付く。そのままもぞもぞと袖から腕を抜き、背もたれに掛ける。
軽く缶を合わせて口を付けるエビスも、いつもの味と違う気がする。

「どういう風の吹き回しや、こんな気取った部屋とって」
「部屋もそうだが、この窓が必要だったんだ。アリス、ここの眺めはどう思う?」
「どうって。高そうやな」
「現金に換算するなよ。何か思いださないか? そうだな、ベッドにでも座ってみるか?」

ぐいとビールを呷った火村が、立てた親指で真っ白なシーツを指した。
普段なら広々としたマットレスに飛び込むくらいはするけど、見えない状況で興が乗らない私は首を横に振った。

「火村、何をさせたいんや」

缶を置いて、テーブルに向かって身を乗り出す。私は尻の座りの悪さを感じ始めていた。何かを示唆する発言も落ち着かなくさせる。
そんな私の態度を受けた火村はだらしなく緩めていたネクタイに更に指を掛け、重たげに口を開く。

「パンドラの箱ならぬ、ファイルを開いちまったんだ。
 12月19日午前、俺は東京でフィールドワークをした。
その事件を記録したファイルに、なぜかアリスの名前があったんだ……でも俺はその日、お前と会った覚えなんかない。どういう事だと思う?」

もう少し気味悪がってもいいはずなのに、愛煙する銘柄を取り出し銜える横顔に狼狽えた様子はない。
それは間違いなく女の時の事だ。だが、何から話せばいいのか端緒を見つけられない私は、一瞬口ごもる。

「どうって。その日は確かに、俺も上京しとった」
「ああ、お前の予定だけは知っていた。時間が合えば飲みにも行っただろう。だが、そんな覚えはこれっぽっちもないんだ。聴取した記録はあるにも関わらず、な」
「どうして、そんなこと調べてみようと思ったんや」
「ピンときた切っ掛けは、列車事故だ」
「ひょっとして裁判中の、あれか」

火村はこっくりと頷く。
「お前が乗る予定のものだったと勘違いして、馬鹿みたいに焦ったことを思いだしたんだ。事故があった19日、俺たちが東京にいたことも。
これが現実なら、俺は、お前の主張する天使説を信じるか、病院に行くしか選択肢がない」
私があの時、法螺に仕立て直した真相を問い直したいのか。
淡々と整理された一連の事象は、まるで現実味が無く、他人事のようだ。もともと謎や不可思議なことを延々こねくり回すのが好きな性分は、火村がたぐり寄せたものの精度を計ることに意識が傾いてゆく。

「そんな前まで遡って記憶を消したとしたら、なぜ、ピンポイントで消されていると思う?」
「嘘みたいな話だが、天使説前提で言うと、俺にとってかお前にとってかわからんが、覚えていると不都合な事があるからじゃないかと考えた」
「不都合」
「天使の都合なんか知らねぇけど。なにか辻褄が合わなくなるような……こと。例えば」

なにもない天板を人差し指でトントンと叩いた。
思わず引いていた身を乗り出す。

「驚くなよ? うっすら靄がかった記憶の中に、ひとつ感じるイメージがある」
「今更や」
「こういう眺めの部屋で、キスをした気がするんだ。風景を見てよりリアリティを感じた」
「お、おい……火村? まさか……全部、お見通しなんやないか?」

私は快適な空調の中にいながら、脇が湿ってくるのを感じた。
火村は楽しい事でもなかろうに、にんまりとした笑みを浮かべた。

「語るに落ちたな。そうか、他人じゃなく、お前かもしれないという当て推量は否定できなかったわけか」
「うそ…信じられへんな……」
「空白の3ヶ月は、ぜひお前に埋めてもらいたいね。正直、俺はこの事実をどう受けとめれば良いかわからない」
「それは、ちょっと」
「都合が悪いのか」

ああ、何から話せばいいのかわからない。
神は、記憶操作もままならない存在らしい。
その欠陥が、今は奇蹟のように映る。
黒い箱に閉じ込められた小さな記憶が、狭い穴から火村の指先でギリギリの隙間を抜けて姿を現す。

記憶が長い糸の端に繋がれた飴玉だとすると、感情はもう一端を飾るリボンだ。
火村の飴玉は、糸をなくした状態にある。私のも頼りない糸しかついていないが、まだなんとか引き出せる。
そこで私に出来事を語れというのは、飴玉側からリボンを引きずり出そうと言っているようなもの。
そのリボンを並べれば私たちがいかなる関係にあったか、色を見れば分かるだろう。
印象が強いほど糸は太く、誤摩化しのきかない色をしたリボンがついている。

それをやれというのか。
どれだけ甘く苦しい作業になるか、わかってはいまい。
私が女だったこと、恋の坂を滑り落ちた事を知って、その後どうするつもりなのか。
眠らせておいた方がいい想いもあると私は考える。
あの夜受けた血を吐くような告白と、懊悩ごと抱かれた腕の感触をまだ覚えている。

けれど、今の私たちには不要の重荷である。
全部ひっくるめて惚れていると言ってくれたことを、私は覚えているから。忘れないから。
だから、たったひとつだけを差し出す。

「俺もあんま覚えてへん。せや、君は俺の書きかけの話を読んで、続きかけってせがんどったよ。やることがガキの頃と同じで笑うたで。………火村?」

最後の呼びかけは、話を聞いていないせいではない。
透かすように見つめられていた私は、いたたまれなくなったからだ。
黒曜石の眼が閃く。
夜の気配が迫る。

「あっさりキスの話をスルーしてくれたな、と思って」
「火村、さん?」
「アリス、俺は相手がお前で良かったと思ってる。比較の話じゃなく」

お前がいい、とおもむろに立ち上がり私の後ろに回り込んだ火村が、椅子の背もたれごしにこの身を抱いた。
吐息で耳元をくすぐる過度なじゃれあいの中に、予期せぬ真摯な気配を感じ。
息が苦しいのは回された腕のせいじゃなく、鼓動が高鳴るのは火村の体温のせいじゃない。

「キスしたのは、遊びじゃなかった筈だ。俺のために何かを有耶無耶にしようとしてくれてるみたいだけど、構わないんだぜ。お前と寝たって言われたって、とうとうって思うだけだから」
「と、とうとうて。男やん……俺」
「俺にしてみれば今更、だ。31歳、男、の有栖川有栖に惚れてる。
 お前は、はずみで男と寝れるか?」

こめかみが脈打つのは、絶対、火村の言葉のせいじゃない。
いつの間にか追い込まれ、為されるままに戸惑う、情けない恋心のせいだ。

「おまえ、やっぱり……ッひゃ」
「やっぱりじゃねぇよ。さっさと吐けッつったのに隠してやがったな」
「うそ! なんでそんなこと妄想してん!」
「好きだから」

私を覗き込んだ彼は、見ている私が身を揉むような目をしていて。
滴る蜜を惜しむような余裕のなさで、燃え盛っている。
うかうかしていたらまた出遅れた。
私は愚図だ。

こんなはずじゃない、と頭に血が上った私は火村の腕を払って立ち上がり、項を引き寄せてキスをした。手札を知っているのは私の方なのに、いつも彼に追い越される。
さっさと吐けよと言いたいのはこっちの方だ。
真実を教えたい衝動から目を逸らしていたのだから。

この数日間耐えていた。
君の胸ぐらを掴んで、男でも関係ない、何度でも惚れるって言うたやんかと、メロドラマの主人公さながらに激したいのを抑えた。
抑制が利いたのは、社会的立場とか世間的な目とかこの歳になればついて回るそれらと、ひとかけらの矜持のおかげなのだが、それももう無駄。
怒りに似た喜びがざわっと背筋を這い上がる。
爪先を踏まんばかりに抱き合いキスを交わし、お互いの上着を脱ぎ落としながらベッドに倒れ込んだ。視線ひとつ、手の置き場ひとつを頼りに、友人では括れない領域に踏み込む意思をお互いに認めあう。
衣擦れと、漏れる息づかいにゾクリとした。

「火村」

肌の匂いを貪るように、鼻先を鎖骨といわずそこらに擦り付けながら名を呼ぶ。

「ひむら…おれも、ずっと好きやった」

シャツを引っ掻くように、右手をその肩から下へ這わせ。
スラックスの前立てをきゅっと押さえ、なよやかになぞり上げた。
びくっと腰を揺らした火村は、負けじと言わんばかりに、私のベルトに手をかける。
どこか捌けた手の動きに、泣きたいような笑いたいような情動がわきあがる。
矜持と支配欲と背中を預け合うような信頼が見え隠れする、迷いない指先。
私は、私に還ったことを噛み締めるように火村に触れた。

女を嫌悪し、アンビバレンツな感情を抱え身をよじる苦悩を味わっていた彼は、どこか青臭く色っぽかったけれど、男同士の私たちには不要の興趣だ。
君の傷と表裏一体の官能なら、それは望むべきではない。
かさつく唇を愛撫するようなキス。ぬるりと滑る、ちいさな器官が交わるだけで体のすべてがざわつく。夢中の態で溜め息をこぼすと、「飲ませたいツラだな」と火村はひどく愛しげに呟いた。
百年の恋も醒める変態だな。
その変態に、食べるように挟まれ舐められて、頭の芯が火照るような、舌が痺れそうな心地に酔う。

合間に思いだすのは、今より若い火村の横顔。
ふたりしか知り得ない思い出が、堰を切って溢れ出す。
繭に触れられた5月の階段教室、
下宿で語り明かした夜、
デビューを知らせる電話、
准教授昇格を祝った酒の席。
脆く崩れそうな時は君が居てくれた、
揺るがない壁に疲れた君を笑わせた。

愛撫は、巡る記憶に呼応するように段々深くなってゆく。
いまという刹那に、幾年分の想いの雨が降り注ぐ。
私たちは白々と夜が明けるまで、その水たまりで溺れた。











春特有の霞みがかった空を、21階の窓から望む。
蠱惑的な宵の眺めを夜桜とすると、清冽だがやや乾いた朝の風景はパキラやシュロのようなグリーンといったところか。
ぼんやり螺子の緩んだ頭で、差し出されるままにコップの水を飲み下した。
男女のそれと違うセックスに、三十も過ぎて何もかも物馴れず、無心で貪りあった一夜だった気がする。気怠い充足と最低限の睡眠を得て、ダブルベッドの上、長座になって煙草をふかしているのは火村だった。
私はその横で、痛む腰を庇ってへたり込んでおり、水やアイスを口に運ばれている。

「腹が減ったな」

髪を乱し、無精髭がうっすら浮いた精悍な顔で、子どものようなことをいうので私は思わず吹き出した。あれだけ私を追い立てれば、それは空腹にもなろう。気に入らないのか、ちらりと乾いた視線を寄越した。

「若い子はアイスをそことかに落として、遊ぶらしいけど」
「勿体ない。食べ物は口に入れてこそ用を為す」
「俺はどっちでもいい。美味しく食べられるなら」
また色づいた気配が濃厚になるのを感じ、慌ててベッドから降り立った。














「ダブルで……しかもベトベトやろ。もうしばらく来られへんな、ここには」
「これからはお前の家に行くから」

この言葉は、これから私の独り寝仕様のベッドを、ベトベトにしにくるという宣言とも受け取れた。
いや、予告そのものか。

チェックアウトを済ませた火村と並んで、エントランスから外へと抜けた。
平日にも関わらず、梅田の新しいランドマーク周辺は人で賑わっていた。
見通しのいい広場を歩けば、私の浅葱色のスプリングコートと、彼の銀灰色のジャケットが春風にひるがえる。

革靴が鳴らす一歩一歩が、ひどく愛おしいのは何かの魔法に掛けられているせいだろうか。
向かい風に顔を伏せないで、私たちのテンポで前に進む。
そんな何気ないアクションが、今までとこれからの軌跡に重なってゆく。
何かとてつもない想像もつかないような日々を送れると確信して、
この脚は、永遠から遠く離れたどこかに向かっている。

社会的な共同体形成には興味がありません。
生物学的循環にも参加しません。
親や上司が喜ぶ公約はできません。
神の前で愛を誓いません。

一瞬でいい。
その積み重ねをいとおしみ続けるであろう私たち。
明日を約束せず、今だけを確かに見つめて、共感も孤独をも受け入れて。
この脚が一歩でも前に進めばいいと思う。



「アリス」
「なんや」
「口にアイスがついてるぜ」
「やから、そゆことは早う言えってゆうたろ!」

拭うためのハンカチが出てこない私の唇を、甘やかな笑みを浮かべた火村が無造作に指でこすった。


広場に敷き詰められた石畳はトランプのよう。

まだ伏せられたカードが往く先へと続く。

否応無く、光に満ちた明日を期待してしまう。

彼と歩きながら、どんな朝も受け入れられますようにと、そんな願いに震えた。

 











いろいろ御都合主義です、もう押し切ります。長い間おつき合いくださってありがとうございました!もも様に捧げます。

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